Art Library

1794–1795

東洲斎写楽

役者の顔を描く

1794年5月、無名の絵師が28図を一度に出す

東洲斎写楽ほど、活動期間と現在の知名度が釣り合わない浮世絵師は珍しい。東京国立博物館によれば、写楽は寛政6年、1794年5月、江戸の都座・桐座・河原崎座に出演した役者を描く大判の大首絵28図を一挙に出版して登場した。そして翌1795年正月まで、途中に閏11月を含む約10か月のあいだに140点を超える版画を制作し、その後は確認できる作品を残さなくなる。

2011年の東京国立博物館「写楽」展では、この短期間に残した作品を146図と数え、上演時期によって4期に分けている。大英博物館は現存・確認されるデザインを144点としており、作品数の数え方には研究上わずかな差がある。しかし、いずれにしても活動が非常に短く、しかもその短期間に大量の作品を発表したことは共通している。

さらに異例なのはデビューの規模である。最初から小さな版本挿絵や数枚の試作を出したのではない。大判、雲母摺り、当代の主要役者、28図というまとまった企画だった。写楽の登場は、未知の画家が偶然一枚の傑作を出したというより、出版者を含む明確な企画のもとで市場へ投入された出来事だった。

すべての写楽作品を出した版元、蔦屋重三郎

写楽の作品を出版したのは蔦屋重三郎である。東京国立博物館は、蔦重を喜多川歌麿や写楽を世に出した江戸後期の傑出した出版業者として位置づけている。大英博物館も、現在知られる写楽のデザインがすべて蔦屋重三郎から刊行されたとしている。

前の記事で見たように、蔦重は歌麿の美人大首絵で、人物へ接近し、雲母地を使い、顔と上半身を商品として強く見せる方法をすでに展開していた。写楽の第一期も、大判画面に役者の上半身を大きく置き、背景を雲母摺りにする。

ただし、歌麿の美人画を役者へそのまま移しただけではない。歌麿が髪、肌、手、布の繊細な差を見せるのに対し、写楽は役者の目、口、鼻、頬、手、衣装を強く単純化し、ときに誇張する。蔦重は同じ「顔へ近づく」出版形式から、まったく違う視覚商品を作った。

蔦重は、なぜ無名の写楽へ28図を任せたのか

確実な史料から、蔦重が何を考えて写楽を起用したのかを完全には知ることができない。ただし、無名に近い絵師へ大判雲母摺り28図を一度に任せたこと自体、通常の小規模な試験出版とは異なる。

2025年の東京国立博物館「蔦屋重三郎 コンテンツビジネスの風雲児」展は、蔦重が歌舞伎・吉原・狂歌・戯作・浮世絵の人的ネットワークを結びながら、新しい出版企画を打ち出した人物であることを強調した。写楽のデビューも、その出版戦略の一部として考える必要がある。

ただし「蔦重が写楽を天才と見抜いた」「歌麿に続くスターを計画した」といった具体的な心理まで史料から断定することはできない。分かるのは、写楽の全作品が蔦重から出され、最初の刊行が非常に大きな規模だったという事実である。

写楽以前にも、役者の大首絵は存在した

写楽を革新的な画家として語るとき、「役者の顔を大きく描く大首絵を写楽が発明した」と説明したくなる。しかし、それは正確ではない。

大英博物館は、勝川春好や勝川春英が写楽以前の数年間に役者の半身像・大首絵を継続して制作しており、春英は写楽登場直前の1794年正月に雲母地の役者肖像まで出していたことを指摘している。勝川春章も、18世紀後半の役者似顔絵を大きく発展させていた。

したがって、写楽の革新は「顔を拡大したこと」や「雲母を使ったこと」そのものではない。すでに存在していた役者似顔絵、大首絵、雲母摺りを、一度に28図という規模で集中させ、役者の身体的特徴と舞台上の役柄を極端なまでに強調したところにある。

役者絵は、歌舞伎の広告であり、記憶でもある

江戸の役者絵は、現代の舞台写真と完全に同じではないが、特定の役者が特定の芝居で演じた役を画像として流通させる点で、上演と密接なメディアだった。

東京国立博物館は写楽作品を、1794年5月の都座・桐座・河原崎座、7月・8月、11月・閏11月、1795年正月という上演時期に対応させて4期に分類している。つまり作品の日付は、画家の抽象的な画風変化だけでなく、実際の劇場番組の更新と結びつく。

観客は役者絵を見て、観劇した場面を思い出すことができる。劇場へ行かなかった人も、どの役者がどの役を演じたかを画像で知ることができる。役者絵は歌舞伎スターのイメージを都市へ配布する出版物だった。

第一期 — 雲母地の大首絵28図

写楽の第一期、1794年5月に刊行された28図は、すべて大判の役者大首絵で、背景には豪華な雲母摺りが使われた。東京国立博物館は、この時期を写楽の個性が最もよく発揮された時期とし、現代人が「写楽」と聞いて思い浮かべるイメージの多くがここから来ると説明している。

役者は画面いっぱいへ拡大され、背景には舞台装置がほとんどない。見る者は、どの劇場にいるのかを建築から判断するのではなく、役者の顔、衣装、家紋、ポーズ、役名から芝居を読む。

雲母の暗い反射面は、現実の舞台背景を再現しない。その代わり、顔と手を前へ押し出す。役者は舞台の一場面から切り離され、印刷された「顔」として都市の中を移動する。

《三代目大谷鬼次の江戸兵衛》— 手が顔と同じくらい大きな意味を持つ

写楽の代表作として最も知られる作品の一つが、《三代目大谷鬼次の江戸兵衛》である。1794年5月、河原崎座で上演された『恋女房染分手綱』に取材した大判錦絵で、東京国立博物館所蔵品は重要文化財に指定されている。

江戸兵衛は、四条河原で一平を襲い、金を奪おうとする人物である。大英博物館は、指を大きく開いて前へ出すポーズが、対決の緊張を表すと説明している。メトロポリタン美術館も、にやりとした顔、逆立つ髪、前へ伸びる手が悪役としての性格を強く示すとする。

この作品で重要なのは顔だけではない。手が異常なほど強い。指先を広げた両手が顔の下へ浮き、次の動作を予感させる。大首絵で身体を切り取った結果、残された手が「演技する身体」を代表する。

「奴江戸兵衛」という題名には注意が必要である

長く《三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛》という名称で呼ばれてきた作品だが、東京国立博物館の2011年写楽展では、上演資料を再検証し、「奴」を付けるのは誤りと指摘している。辻番付、役割番付、絵本番付では役名が「江戸兵衛」とされ、江戸兵衛は八平次の家来ではなく、依頼を受けて一平を襲う盗賊側の人物だからである。

一方、文化財の指定名称やe国宝では、従来の《三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛》という名称が現在も使われている。この差は、美術作品の題名が最初から固定されたものではなく、後世の研究によって修正される場合があることを示す。

写楽研究では、版画だけを見るのではなく、歌舞伎の番付、台本、役割表と照合することで、「何の瞬間を描いたのか」そのものが更新される。

《市川鰕蔵の竹村定之進》— 顔より、目と手の緊張を見る

同じ『恋女房染分手綱』を題材とする重要文化財《市川鰕蔵の竹村定之進》では、鰕蔵が武士・竹村定之進を演じる。e国宝は裃姿であることから、定之進が責任を感じて切腹する場面と考えられるとしている。

メトロポリタン美術館は、この作品で握りしめられた手と目に強い緊張が集中し、衣装の折れが二つの焦点を結ぶと解説している。表情だけを誇張して感情を説明するのではなく、手、肩、衣装の線まで使って追い詰められた演技の瞬間を構成する。

写楽の「顔」は、顔面だけでは成立しない。首、肩、手、衣装の方向を含めた身体全体が、役者の表情を強化する。

「似顔絵」なのか、「役の絵」なのか

役者絵には二人の人物が重なっている。舞台上の登場人物と、その登場人物を演じる俳優である。

《市川鰕蔵の竹村定之進》を見ているとき、鑑賞者は「竹村定之進」という劇中人物を見ると同時に、「市川鰕蔵が定之進をどう演じたか」を見る。大英博物館は写楽第一期について、役柄の性格だけでなく、それを演じる俳優自身の特徴まで強く捉え、表現上誇張したと説明している。

ただし「写楽が俳優の本当の内面を暴いた」とまで言う必要はない。版画は舞台上の演技をもとに構成された商品であり、顔も身体も写楽の線へ整理されている。重要なのは、役と俳優を完全に一つへ溶かさず、そのずれを見える状態にしたことである。

「素顔を暴いた画家」という説明を慎重に考える

写楽については、役者を美化せず、その醜さや個性まで「真実」として描いたため人気が出なかった、という物語がよく語られる。確かに東京国立博物館は、同時代に近い『浮世絵類考』系統の記述として、写楽が「真」を描こうとして通常とは違う姿に描き、長く流行しなかったという評価を紹介している。

しかし、これをそのまま「写楽はリアリストだったため観客に嫌われ、10か月で消えた」と因果関係にすることはできない。第一期作品には異版があり、東京国立博物館も当時の人気を示す可能性を指摘している。また活動停止の理由を直接記す一次資料は確認されていない。

写楽が誇張したこと、同時代に強すぎる表現と受け取られた可能性があることと、活動停止の理由は分けて考える必要がある。

誇張は「似ていない」ことではない

似顔絵では、すべての特徴を均等に写す必要はない。むしろ鼻の角度、目の間隔、顎、口、姿勢など、その人物を識別する差を強調した方が似て見える場合がある。

写楽の役者像では、顔の左右差、皺、口の形、目の向き、頬の張りが極端に強くなる。一見すると戯画的でも、観客が知る役者の特徴が残っているから、誰を描いたか分かる。

大英博物館が第一期を「俳優本人と役柄の両方を捉え、それを表現上誇張する」と説明するのは、この構造をよく示している。誇張と類似は反対ではない。誇張によって類似を強めることができる。

写楽は、女形をどう描いたのか

江戸歌舞伎では女性役も男性俳優である女形が演じる。写楽第一期には、中山富三郎の宮城野、松本米三郎のしのぶ、岩井半四郎の重の井、佐野川市松の祇園町の白人おなよなど、女役を演じる俳優たちが登場する。

大英博物館は、三代目佐野川市松が女性役を演じる作品について、写楽が「役の下にいる俳優の個性」を捉える能力を、とくに男性が演じる女性役で発揮したと評している。

ここで重要なのは、写楽が女形を「本物の女性」に見せることだけを目的としなかった点である。女性役としての衣装、所作、表情を示しながら、俳優固有の顔立ちや身体性も消さない。画面には、男性俳優が女性役へ変身する歌舞伎という芸能の仕組みそのものが残る。

舞台写真ではない — 一瞬を再構成する

写楽の版画を、現在の公演写真の代用品と考えると誤解が生じる。木版画は舞台の一瞬を機械的に記録しているわけではない。

《三代目大谷鬼次の江戸兵衛》では、手を前へ伸ばした瞬間が選ばれ、背景が消され、身体は画面サイズに合わせて切られる。衣装の形や顔は版画として読みやすく整理される。

実際の舞台の時間から、役者らしさと役らしさが最も強く出る瞬間を抽出し、別の平面へ再構成する。役者絵は演劇の複製ではなく、演劇を版画へ翻訳する媒体である。

「見得」の身体を、紙へ止める

大英博物館は《三代目大谷鬼次の江戸兵衛》について、対決の瞬間に両手を広げる身体が、歌舞伎の見得の緊張を強調すると説明している。

歌舞伎の見得は、演技の流れの中で身体を一瞬強く停止させ、観客へ印象づける方法である。木版画も動かない画像であるため、この一瞬の停止と相性がよい。

しかし版画では、舞台上では数秒しかない姿を永久に固定できる。見る者は手や目を好きなだけ観察できる。歌舞伎の瞬間的な身体が、版画によって反復可能なアイコンへ変わる。

第一期の背景は、なぜ暗いのか

第一期の大首絵では、背景に雲母が使われ、黒や銀灰色に近い深い反射を持つ面が役者を囲む。写実的な舞台背景は描かれない。

背景情報を削るほど、顔の輪郭と衣装の色が前へ出る。さらに雲母は見る角度と光で反射が変わるため、平らな印刷面でありながら固定した色面ではない。

歌麿の美人大首絵でも雲母地は人物を浮かび上がらせた。写楽はその仕組みを役者絵へ使い、舞台上の人物を巨大な「顔の商品」へ変えた。

第一期が完全な「新発明」ではないことが、かえって重要である

大首絵も雲母地も先例があった。勝川春英は写楽登場前の1794年正月に雲母地の半身役者絵を制作している。では写楽は先行作の模倣者なのか。

むしろ、美術史では既存の技法をどう集中させるかが重要になる場合がある。大首絵、雲母、似顔、歌舞伎、誇張、蔦重の出版力。それぞれは既存でも、28図を一斉に刊行し、役者の個体差を極端に押し出す組み合わせは異例だった。

独自性は「誰も使ったことのない技法を一つ発明する」ことだけから生まれるのではない。既存要素の比率を変え、別の強度へ持っていくことでも生まれる。

第二期 — いきなり大首絵をやめる

1794年7月・8月に取材した第二期では、第一期の大首絵が姿を消す。東京国立博物館によれば、38図はすべて全身像で、大判作品では二人の役者を組み合わせる作品が多く、細判では一人ずつ描かれた。

これは、写楽の本質を「顔のアップの画家」とだけ理解できないことを示す。デビュー作として大首絵を強烈に出した後、すぐに身体全体と役者同士の関係へ画面を広げた。

二人を同じ画面に入れれば、顔だけでなく身長差、姿勢、距離、衣装の方向によってドラマを作れる。写楽は一つの成功形式を固定せず、数か月で別の構成を試した。

《初代篠塚浦右衛門の口上》— 役者絵が自分自身を宣伝する

メトロポリタン美術館所蔵《初代篠塚浦右衛門の口上》は、1794年7月の第二期に属する興味深い作品である。都座の座頭格で口上役でもあった篠塚浦右衛門が、巻物を持って舞台上の口上を読む姿を描く。

ところがメトロポリタン美術館によれば、巻物に見える文字列は、その日の芝居案内ではなく、写楽第二期の役者絵シリーズのリストになっている。

つまり役者絵の中で、役者が写楽の役者絵を宣伝している。歌舞伎、公演情報、版画出版、広告が一枚の中で循環する。写楽作品が単なる肖像ではなく、都市のメディア産業の一部だったことがよく分かる。

第二期では、役者同士の関係が画面に戻る

大英博物館所蔵の沢村宗十郎と瀬川菊之丞を描く作品など、第二期では二人の俳優が同じ場面へ置かれる。単独大首絵では一人の顔へ集中した視線が、二人の距離、方向、役柄の関係へ広がる。

歌舞伎は本来、俳優一人だけで成立する芸能ではない。相手役との応答、舞台空間、物語の関係がある。第二期は第一期で切り捨てた演劇的関係を、別の形で取り戻したと見ることもできる。

写楽の短い活動は、一つの完成様式を繰り返すのではなく、役者をどこまで切り取るかを次々に変える実験のようにも見える。

第三期 — 役者絵だけではなく、相撲と時事へ

1794年11月・閏11月の第三期では、役者絵のほか、役者の追善絵、相撲絵が加わる。東京国立博物館は、この時期を時事的話題を意識した制作が目立つ段階としている。

背景も変化する。細判役者絵にはそれまで少なかった背景が描かれ、間判大首絵では第一期の雲母地ではなく黄地が使われる。

出版物として見れば、形式変更は市場への対応でもある。サイズ、背景、画題を変えることで、同じ「写楽」という名前から複数の商品を出すことができる。

七歳の人気力士・大童山も描く

第三期の代表的作品の一つに《大童山文五郎の土俵入り》がある。東京国立博物館は、大童山を当時評判となった七歳の「アイドル」と表現している。

ここで写楽の対象は歌舞伎俳優から相撲の人気者へ広がる。重要なのは、写楽が「歌舞伎役者の心理を描くことだけ」を使命にした孤高の肖像画家ではなかった点である。

蔦重の出版市場では、その時に話題となる人物が商品になる。写楽は役者似顔絵で強い個性を発揮しながら、同じ技法を別のスター文化へも応用した。

第四期 — 1795年正月、そして途切れる

第四期は1795年正月。東京国立博物館によれば、役者絵は連続する背景を持つ細判が中心となり、形式化が進む。作品数も12図と少なく、その後、写楽の新作は確認できなくなる。

同館は、現存作品が少ないことから人気が薄れた可能性を想像しているが、それを活動停止の確定理由とはしていない。大英博物館も後期作品の評価低下を記す一方、写楽がなぜ突然制作をやめたのかについて決定的な説明は提示していない。

「売れなかったから」「役者から嫌われたから」「本職へ戻ったから」など多数の説があるが、活動終了の理由を直接示す史料はない。短さそのものを謎として残すのが最も正確である。

なぜ第一期だけが、これほど強く記憶されるのか

写楽の全活動を4期で見ると、現在の「写楽像」が第一期へ極端に偏っていることが分かる。第一期は28図、第二期は38図、第三期は64図、第四期は12図とされるため、むしろ後半にも多数の作品がある。

それでも美術史、教科書、ポスターで繰り返されるのは、《三代目大谷鬼次の江戸兵衛》《市川鰕蔵の竹村定之進》など第一期の大首絵である。

理由の一つは、形式が非常に明快だからである。一人の役者、顔と手、暗い雲母地、大判。情報が少ないため、画像を縮小しても強い。写楽自身が短期間でやめた形式が、後世には写楽全体を代表する「ブランドイメージ」になった。

写楽の正体 — 斎藤十郎兵衛説をどう扱うか

写楽は短期間しか活動せず、それ以前・以後の経歴が確実に追えないため、「正体」をめぐる多数の説が生まれた。別の浮世絵師、戯作者、版元自身などを写楽とする説まで提案されてきた。

東京国立博物館の2006年展示は、阿波藩お抱えの能役者・斎藤十郎兵衛を写楽とする説が長年有力で、当時は「ほぼ落ち着いている」と説明していた。国立国会図書館の典拠情報でも「斎藤十郎兵衛」が写楽の別名として登録されている。

ただし、この問題は完全に確定したと扱わない方がよい。国立国会図書館には2019年の「東洲斎写楽・斎藤十郎兵衛同人説への疑義」という研究論文も収録されており、大英博物館の現在の作家解説も、写楽の真の身元について一般的合意に達した単一説はないとしている。

したがって本記事では、「斎藤十郎兵衛説が非常に有力とされてきたが、決定的に証明済みとはしない」という位置づけを取る。

もし能役者だったとしても、それだけで作品は説明できない

斎藤十郎兵衛説が正しいなら、写楽自身が演劇に関わる人物だったことになり、役者の身体、演技、型を見る目と結びつけたくなる。実際、そうした解釈は魅力的である。

しかし作者同定が確定していない以上、「能役者だったから歌舞伎の本質を見抜けた」と作品解釈を決めてしまうのは循環論法になる。

作品から確実に言えるのは、写楽が歌舞伎役者の顔、手、姿勢、役柄の差を高度に把握し、それを版画へ変換したということである。その観察能力をどこで得たのかは、作者問題とは分けて考える必要がある。

「世界的な肖像画家」という評価も、後世の歴史である

現在、写楽は日本国内だけでなく世界の主要美術館に所蔵され、役者大首絵は日本美術を代表する画像の一つとして扱われる。大英博物館は第一期の肖像を、役者本人と役柄の双方を捉えた極めて高い肖像表現として評価している。

しかし、現在の高評価を1794年当時へそのまま戻すことはできない。同時代には、強い誇張を好まない評価もあったと伝えられる一方、異版が残るほど摺られた作品もある。

「当時は理解されなかった天才が、後世に発見された」という一方向の神話より、1794年の市場評価と近代以降の美術史的評価が異なる可能性を見る方がよい。

写楽の版画は、何色だったのか

現在見る写楽版画の色を、そのまま1794年の色と考えることにも注意が必要である。東京国立博物館は2011年展で、当時の浮世絵には植物性色料が多く使われ、退色しやすいため、摺りたての色がそのまま残る例はほとんどないと説明した。

同じ《三代目瀬川菊之丞の田辺文蔵女房おしづ》でも、保存状態によって衣装の紫が薄茶色に変化して見える例がある。

写楽の「黒い背景と渋い色」という現在の印象には、200年以上の物質変化が含まれる。浮世絵は印刷された時点で完成するが、その色は時間とともに変わり続ける。

同じ作品にも異版がある

木版画は複製媒体だが、同じ版が永久に固定されるわけではない。東京国立博物館は《初代尾上松助の松下造酒之進》について、衣装紋の一部に色を入れた版と、後にその部分を修正した版の二種類を紹介している。

摺ってみた結果、模様が見えにくければ版を削る。色指定を変更する。版木が摩耗すれば線も変わる。初摺と後摺では品質や色が異なる。

写楽の一図は、単一の固定画像ではなく、出版過程の中で微調整される商品でもある。美術館で一枚を見るとき、その一枚が多数の摺りのうちの一状態であることを忘れてはいけない。

「顔」は役者個人のものか、舞台のものか

歌麿の美人画では、難波屋おきたのような実在女性でも、顔立ちは歌麿型に整理されることが多かった。写楽は逆に、役者ごとの差を強く押し出す。

それでも、写楽の顔が「舞台を降りた素顔」そのものというわけではない。化粧をし、役衣装を着て、役を演じる瞬間である。

つまり写楽が描く顔は、俳優の個人性と舞台上の人工性が混ざった顔である。そこに写楽作品の奇妙な緊張がある。リアルな人物を見る感覚と、極端に様式化された歌舞伎を見る感覚が同時に働く。

歌舞伎の顔は、最初から人工的に作られている

歌舞伎では、化粧、鬘、衣装、役柄ごとの型によって俳優の身体が変形される。役者絵はその変形された身体をさらに紙の上の線と色へ変換する。

したがって写楽の「リアリズム」を、現代写真のような自然な顔の再現と考えるのは適切ではない。彼が強く見せたのは、人工的な舞台表現の中に現れる役者固有の差だった。

舞台の人工性を取り除いて真実を暴いたのではなく、舞台の人工性と俳優の個体差を同時に見せた、と考える方が作品に近い。

役者を美化しなかった、というより「差」を消さなかった

写楽以前の役者絵でも似顔は発達していた。しかし人気役者を商品として売るなら、ある程度魅力的に見せることは自然である。

写楽は、目が細い役者は細く、鼻が目立つなら目立たせ、年齢や顔の癖を均質な美貌へ修正しない。そのため「美化しない」という印象が生まれる。

ただし、この方法は俳優を侮辱するためとは限らない。観客が「この人だ」と認識する差を強くすることは、スターのブランドを強めることにもなる。写楽の似顔は、魅力と戯画の境界にある。

写楽は、役者の「演技」を肖像にした

肖像画は通常、人物の外見を記録するものと考えられる。しかし役者は、演じているときこそ観客が最も見たい人物である。

写楽は日常の市川鰕蔵を描かず、竹村定之進を演じる鰕蔵を描く。大谷鬼次の日常の顔ではなく、江戸兵衛として手を広げる鬼次を描く。

そのため写楽の役者絵は、個人の肖像と演技記録の中間にある。「俳優とは、役を演じているときにどのような人物なのか」という問いへの画像的な答えとも言える。

蔦重と写楽が作ったのは、顔のメディアだった

1790年代初頭、蔦重は歌麿の美人大首絵によって、都市で評判の女性や遊女の顔と上半身を大きく商品化した。そして1794年、写楽の28図によって、歌舞伎役者の顔を同じ大判の強度で市場へ投げ込む。

両者の画風は大きく違うが、「都市の人気人物を、背景から切り離し、顔と身体の一部へ接近して売る」という出版戦略には共通性がある。

歌麿では美人の視線、髪、手、布。写楽では役者の目、鼻、口、手、見得。18世紀末の浮世絵は、人の顔そのものを巨大なコンテンツへ変えた。

十か月という短さが、写楽を特別に見せる

もし写楽がその後30年間、同じ役者絵を描き続けていたら、現在の評価は違っていたかもしれない。実際には、1794年5月から1795年正月までという極端に短い期間しか確認できない。

そのため私たちは、成功、変化、形式化、停止が圧縮された状態で見ることになる。デビューの第一期から第二期、第三期、第四期までが、通常なら数年かけて起こるような速度で進む。

写楽の謎は「正体不明」だけではない。なぜこれほど速く形式を変え、なぜこれほど速く制作が途切れたのかという、作品そのものの速度にもある。

写楽が変えた「役者の顔」

写楽以前にも役者絵があり、大首絵があり、雲母摺りがあった。したがって写楽を「何もないところから新しい形式を発明した天才」とする必要はない。

写楽が行ったのは、既存の役者似顔絵を極端な近距離へ持っていき、俳優の身体的な差、役柄、演技の型を一つの大きな顔と手へ圧縮することだった。

《三代目大谷鬼次の江戸兵衛》では、指を広げた手が悪役の行為を予告し、《市川鰕蔵の竹村定之進》では目と握った手が切腹前の緊張を作る。女形では女性役の型の中に俳優固有の顔が残る。そこでは「俳優」と「役」を分離できない。

写楽は役者の素顔を暴いたのではなく、役を演じることでしか現れない俳優の顔を描いたのである。

1794–1795|役者の顔を描く

写楽の第一期28図は、舞台背景を消し、役者へ異常なほど接近した。第二期では全身へ引き、役者同士の関係を描く。第三期では相撲や追善など時事へ広がり、第四期では細判の連続背景へ変化した。

わずか10か月の中で、同じ作家がこれほど大きく形式を変えている。この変化を見ると、写楽を一つの有名な「顔」の様式だけで記憶することの危うさも分かる。

それでも第一期の顔が現在まで残るのは、そこに18世紀末の都市文化が極端に凝縮されているからだろう。歌舞伎というライブの人気、役者というスター、蔦屋重三郎という版元、彫師と摺師の技術、雲母という物質、そして観客が「この役者らしさ」を知っているという共有知識。それらすべてが一枚の顔へ集まる。

写楽の顔は一人の人物の顔ではない。俳優、役、舞台、出版、市場、鑑賞者の記憶が重なった顔である。

次の記事では、舞台のスターから動植物へ視線を移す。18世紀の伊藤若冲を取り上げ、《動植綵絵》を中心に、鶏、魚、虫、植物を異常な密度で描きながら、写生と装飾、現実と人工性を同じ画面へ共存させた絵画が、京都の寺院・市場・収集文化の中からどのように生まれたのかを見ていく。

参考資料

資料確認日:2026年10月2日