1970
東京ビエンナーレ「人間と物質」— 日本美術と国際現代美術
1970年、日本の国際展の仕組みそのものが変わった
1970年5月、東京・上野の東京都美術館で第10回日本国際美術展が開かれた。現在では「東京ビエンナーレ’70」あるいは副題の「人間と物質」で知られるこの展覧会は、日本の戦後美術史において単に有名作家が集まった大型展という以上の意味を持つ。
重要なのは、何を展示したかだけではない。誰が作家を選び、どのように作品を準備し、どの単位で国際美術を考えるかという展覧会制度そのものが大きく組み替えられたことである。従来の国別参加を中心とする国際展から、批評家が一つの問題意識のもとで作家を横断的に選ぶ企画展へ近づいた。
この変化によって、日本の作家は「日本代表」として海外作家と対置されるのではなく、同じ時代の同じ問題を扱う作家として一つの空間へ並べられることになった。
正式名称は「第10回日本国際美術展」
この展覧会の正式名称は第10回日本国際美術展であり、主催には毎日新聞社などが関わった。東京での開催後、京都市美術館、愛知県美術館、福岡県文化会館へ巡回した。アートプラットフォームジャパンの作家記録でも、高松次郎、榎倉康二、河原温らの1970年主要展として、四都市の会場が確認できる。
「東京ビエンナーレ」という名称が現在強く定着しているが、制度としてはそれ以前から続いていた日本国際美術展の第10回にあたる。したがって、1970年に突然まったく新しい国際展が生まれたのではない。
大きく変わったのは、既存の国際展の枠組みを内部から作り替えたことである。
なぜ1970年だけ特別なのか
第9回までの日本国際美術展では、国別参加という国際展に典型的な仕組みが大きな役割を持っていた。各国から作品を集め、「フランス」「アメリカ」「日本」といった国家単位で国際性を構成する方法である。
しかし1960年代後半、美術の現場では国家単位より、ミニマル・アート、アルテ・ポーヴェラ、コンセプチュアル・アート、ランド・アート、プロセス・アートなど、国境をまたいだ問題意識が急速に重要になっていた。
1970年展は、この変化を展覧会制度へ反映した。国籍を並べるより、「人間と物質」という共通の問題から作家を選ぶ。ここに大きな転換があった。
1968年のヴェネツィア・ビエンナーレが背景にある
美術手帖の展覧会史解説によれば、第10回展は本来それ以前の周期で開催される予定だったが、1968年ヴェネツィア・ビエンナーレをめぐる学生運動など国際展制度への批判を背景に、開催が一年延期された。
1968年前後、世界各地で大学、美術館、文化制度の権威が問い直されていた。国家の威信を競う国際展も例外ではない。賞、国別展示、審査、国家代表という19世紀以来の国際展の構造が、若い作家の実践と合わなくなり始めていた。
東京の第10回展も、この国際的な制度危機の外側にはなかった。延期された時間の中で、展覧会はより根本的な再設計へ向かった。
中原佑介が総コミッショナーになる
第10回展で中心的な役割を担ったのが、美術評論家・中原佑介である。中原は総コミッショナーとして、作家選定と展覧会の問題設定を主導した。
ここで重要なのは、「審査員」が完成作品を見て賞を与えるのではなく、「コミッショナー」が展覧会全体の考えを構成する仕組みへ移ったことである。作家は国の代表ではなく、企画の問題意識に必要な存在として選ばれる。
現在の国際展ではキュレーターや芸術監督がテーマを設定することは珍しくないが、1970年の日本ではこの転換自体が大きな実験だった。
英語題は《Between Man and Matter》
展覧会の英語題は《Between Man and Matter》だった。直訳すれば「人間と物質のあいだ」である。美術手帖によれば、中原が意図したのは人間と物質という二つの項目を並べることより、その「あいだ」に生じる関係だった。
日本語題では「あいだ」が省かれ「人間と物質」となったため、物質そのものを主役にした展覧会のようにも見える。しかし中原の問題設定では、人間と物質がどのように接触し、作用し合い、関係を作るかが核心だった。
前の記事で扱ったもの派の「物と物」「物と場所」という考えと、この「between」は強く響き合う。
完成作品を輸送する展覧会から離れる
従来の国際美術展では、作家が自国のアトリエで完成させた作品を梱包し、会場へ輸送して展示する方法が基本だった。絵画や彫刻なら、その形式で問題なく成立する。
しかし1960年代末の作家には、展示場所で直接制作する者、床や壁を利用する者、重力や環境条件を作品へ入れる者、行為そのものを作品にする者が増えていた。
東京ビエンナーレ’70では、作家が来日し、会場や都市を見ながら制作・設置することが重要になる。作品は輸送箱の中から出てくる完成物ではなく、東京で起こるプロセスへ近づいた。
安齊重男の写真が「制作現場」を残した
この展覧会を現在理解するうえで重要なのが、安齊重男と大辻清司らによる記録写真である。国立新美術館のANZAÏフォトアーカイブには、小清水漸、高松次郎、成田克彦、カール・アンドレ、ダニエル・ビュレン、クリスト、ハンス・ハーケ、ヤニス・クネリス、マリオ・メルツ、リチャード・セラらの設置や活動が大量に残されている。
アートプラットフォームジャパンは、安齊がこの展覧会で作家の助手や記録者として近くに入り込み、ダニエル・ビュレン、リチャード・セラ、クリストらの制作・設置プロセスを撮影したことを、彼の「伴走者」としての立場を決定づけた出来事として紹介している。
完成後の展示だけではなく、作る途中を写真に残す必要があったこと自体が、この展覧会の性格を示している。
写真に残るのは「作品」より「作業」でもある
大辻清司の写真には、カール・アンドレのインスタレーション、ソル・ルウィットの設置作業、ヤニス・クネリスの展示作業、クリストのインスタレーションなどが記録されている。
美術史上の写真は、通常完成作品を正面から撮影した図版になりやすい。しかし「人間と物質」展の記録では、人が材料を運び、床へ配置し、場所を測り、作品が途中状態にある場面が重要になる。
作品が「完成した形」ではなく「成立していく過程」を含むようになると、記録写真の役割も変わる。
カール・アンドレ — 床を彫刻へ変える
アメリカのカール・アンドレは、木材、レンガ、金属板など規格化された素材を使い、床面へ水平に広がる彫刻を展開していた。伝統的な彫刻のように台座の上へ垂直に立つ物体ではなく、観客がその周囲や上を歩くことのできる作品である。
国立新美術館と東京国立近代美術館に残る記録からも、アンドレが1970年5月に東京都美術館で設置を行ったことが確認できる。
床は作品を支える背景ではなくなる。観客の歩行、材料の重さ、建築の水平面までが彫刻の経験へ入る。
アンドレともの派は「同じ」ではない
カール・アンドレと小清水漸、成田克彦らを同じ会場で見ると、材料の直接性や簡潔な配置という類似が目につく。そのためもの派をアメリカのミニマル・アートの影響として説明したくなる。
しかしアンドレでは工業的に規格化された単位と配置の論理が重要であり、日本の作家たちは自然物の個体差、焼け、重力、場所との一回的な関係など別の問題を扱っていた。
1970年展の価値は、どちらが先かを決めることではなく、似て見える作品が実は異なる思想から生まれていることを同じ空間で比較できた点にある。
リチャード・セラ — 重力と設置
リチャード・セラは鉛や鋼板など重量のある工業材料を用い、重力、支え、圧力によって彫刻を成立させていた。国立新美術館の写真記録には、東京都美術館だけでなく上野公園での作業も残る。
セラの作品では、巨大な鋼板が単に形として美しいのではなく、倒れそうで倒れない緊張や、身体がその横を通過する感覚が重要になる。
物質は作者のイメージを表す素材ではなく、重量と重力を持つ現実的な存在として扱われる。この点は吉田克朗や李禹煥の同時代的な関心とも比較可能だった。
場所が違えば同じ作品にならない
セラのような作家の作品は、場所の寸法、床、壁、周囲の動線によって成立の仕方が変わる。完成した彫刻をどこへでも同じように置けるという考えから離れている。
東京で設置するということは、東京の会場を単なる受け入れ先として使うのではなく、その場で作品を決めることを意味した。
国際展は「海外作品を日本へ紹介する」場から、「日本という場所で国際作家が新しい作品を成立させる」場へ変わった。
ダニエル・ビュレン — 美術館の外へ帯を伸ばす
フランスのダニエル・ビュレンは、一定幅の縦縞を用い、作品と展示制度の関係を問い続けていた。国立新美術館のANZAÏフォトアーカイブには、東京都美術館だけでなく銀座駅など東京の都市空間におけるビュレンの活動も記録されている。
縞模様そのものを絵画として鑑賞するのではなく、「どこに置かれているか」を意識させる装置として使う。美術館の壁、地下鉄、街路に同じ視覚単位が現れれば、作品の意味は設置場所によって変わる。
展覧会の境界が建物の内部だけではなく、都市へ滲み出していく。
クリスト — 包むことは物を隠すことではない
クリストも東京ビエンナーレに参加し、安齊重男と大辻清司による制作記録が残る。既存の物を布や包装素材で覆う行為によって、普段見慣れた物の形と存在を逆に強く意識させる作家だった。
包めば内部は見えなくなる。しかし輪郭は強調され、「そこに何かがある」という事実が前面へ出る。
赤瀬川原平の梱包作品とは別の文脈を持つが、日本の観客は1960年代にすでに梱包や隠蔽を扱う国内前衛を経験していた。国際展の会場では、異なる起源を持つ似た問題が接触した。
ヤニス・クネリス — アルテ・ポーヴェラとの接触
ギリシャ生まれでイタリアを拠点としたヤニス・クネリスは、鉄、石炭、麻袋、火、生きた動物など、伝統的な美術材料に限定されない物質を使った。アルテ・ポーヴェラの主要作家として知られる。
大辻清司の記録には、クネリスが「人間と物質」展の作品を設置する場面が残る。完成した絵画を輸送するのではなく、その場で物質を扱う制作プロセス自体が展覧会の一部だった。
日本のもの派とイタリアのアルテ・ポーヴェラは同一ではないが、物質を象徴のために加工し過ぎず、現実の性質を前面へ出す点で、観客は直接比較できた。
マリオ・メルツとジュゼッペ・ペノーネ
同じくイタリアからマリオ・メルツ、ジュゼッペ・ペノーネらが参加したことも、展覧会の国際的な同時代性を示す。国立新美術館の記録写真には、両者の東京での展示が残されている。
アルテ・ポーヴェラは「貧しい芸術」と直訳されることがあるが、単に安い材料を使う運動ではない。産業社会の価値体系から距離を取り、素材、エネルギー、自然と文化の関係を再考する動向だった。
もの派と同じ部屋で見ることで、「日本特有」と思われた物質志向が、世界的な構造変化の一部としても見えるようになった。
ソル・ルウィット — 物より指示とシステム
ソル・ルウィットはコンセプチュアル・アートの中心人物の一人で、作品の物理的制作より、あらかじめ設定された規則やシステムを重視した。大辻清司の写真には、1970年展でのルウィット作品の設置作業が記録されている。
作品は作者の手で一度だけ作らなければならないとは限らない。指示があれば、別の人が現地で制作できる。この考えは、オノ・ヨーコの指示作品とも異なる形で響き合う。
「物質」をテーマにした展覧会に、物よりアイデアを重視する作家が含まれていたことは重要である。展覧会は物質主義だけを掲げたのではない。
ハンス・ハーケ — 環境をシステムとして見る
ハンス・ハーケは1960年代に、水、空気、温度、生物などによって変化する作品を制作し、環境を固定物ではなく相互作用するシステムとして捉えていた。国立新美術館の写真には、カール・アンドレや高松次郎と同じ会場にいるハーケの姿も残る。
人間と物質の「あいだ」を考えるとき、物を孤立した塊として扱うだけでは足りない。気温や時間によって変化する現象まで含め、作品は開かれた系として存在する。
この視点は、後にハーケが美術館や企業、政治制度そのものをシステムとして扱う制度批判へ進む前段階でもある。
日本側も一つの「日本様式」で選ばれたわけではない
日本側には高松次郎、小清水漸、榎倉康二、成田克彦、野村仁、河口龍夫、堀川紀夫、松澤宥、原口典之など、異なる方法を持つ作家が参加した。
もの派だけを日本代表として並べた展覧会ではない。概念、時間、行為、物質、場所、重力など複数の問題が横断している。
「日本の現代美術とはこの様式である」と一つの民族的特徴を提示するのではなく、個々の作家を国際的な問題系へ直接接続したことが重要だった。
高松次郎 — 反芸術から概念へ
高松次郎はハイレッド・センターを経て、1960年代後半には「影」「紐」「単体」など、実体と知覚のずれを扱う作品へ進んでいた。東京ビエンナーレへの参加は、彼がすでに国内前衛の枠を越えて国際的な現代美術の文脈へ位置づけられていたことを示す。
大辻清司の写真には、高松と野村仁のインスタレーションが同じ空間で記録されている。
高松の作品は物質そのものへ集中するもの派とは少し異なり、「これは何であるか」「見るとは何か」という認識の問題を強く含む。展覧会が複数の方向を許容していたことが分かる。
小清水漸 — もの派と国際展の接点
小清水漸は関根伸夫《位相―大地》の制作に深く関わり、もの派形成の中心近くにいた。国立新美術館のアーカイブには1970年5月の東京都美術館で小清水の展示が撮影されている。
小清水は紙、石、木材など異なる物質を組み合わせ、素材表面と内部、重さと支持の関係を扱った。海外作家のミニマル、プロセス、アルテ・ポーヴェラと形式的な類似を持ちながら、独自の素材感覚を展開した。
東京ビエンナーレは、日本の若手が海外美術を「輸入」して学ぶ場所というより、すでに並行して進んでいた実践を同じ時点で比較する場所になった。
榎倉康二《場》
榎倉康二はこの展覧会に《場》を出品した。アートプラットフォームジャパンの作家解説によれば、藁半紙へ油を浸透させ、それを床一面へ敷き詰めるインスタレーションだった。作品は現存していない。
油が紙へ浸み込み、床に広がる。観客は描かれたイメージを見るのではなく、素材の状態と空間の変化を身体的に感じる。
「場」という題名どおり、作品の中心は個別物体より、その場所全体に成立する状況だった。
野村仁 — 時間と物質
野村仁は1960年代末から、物体が重力によって変化する過程や、時間の経過を写真で記録する作品を制作していた。物が壊れたり変形したりする過程を、作者の意図的造形より重要なものとして扱う。
「人間と物質」という主題において、野村の作品は物質が時間の中で自律的に変化することを示した。
展示された瞬間だけを作品と考えず、前後の時間まで含める視点は、国際的なプロセス・アートとも同時代だった。
河口龍夫と堀川紀夫
大辻清司の記録には、河口龍夫と堀川紀夫の作品も残されている。河口は「関係」を重要な概念として、物質、情報、時間、不可視なものへ関心を広げていく。堀川は新潟を拠点に活動し、地方からコンセプチュアルな実践を展開した。
ここでも東京中心の作家だけが日本側を構成していたわけではない。国際展は国内の異なる地域・世代の活動を接続する機会にもなった。
日本美術の国際化は、「東京の作家が海外へ出る」という一方向だけでなく、国内の複数地点を東京の国際展へ結びつける構造も持った。
松澤宥 — 物質を消す方向も含まれていた
大辻清司による「松澤宥のパフォーマンス」の写真が残るように、長野県下諏訪を拠点とした松澤宥も展覧会へ参加した。松澤は1960年代から「物質を消滅させる」ことを志向し、言語や観念を中心とする独自の概念芸術を展開していた。
「人間と物質」という題名の展覧会に、物質の消滅を主張する作家が含まれる。この矛盾が面白い。
展覧会は物質を賛美したのではなく、人間が物質とどう関わり、場合によっては物質を超えようとするかまで含む広い問題設定だった。
河原温 — 東京にいなくても国際的な日本作家だった
アートプラットフォームジャパンは、河原温も1970年の第10回日本国際美術展への参加歴を記録している。同年、河原はニューヨークの「Conceptual Art and Conceptual Aspects」など国際的な概念芸術展にも参加していた。
河原はすでに日本国内を拠点とする作家というより、海外を移動しながら《Today》シリーズなどを制作する国際的な作家になっていた。
「日本作家」と「海外作家」という区分自体が、1960年代末には次第に不十分になっていることが分かる。
「日本と海外」を二つに分けない展示
従来型の国際展では、日本室、フランス室、アメリカ室というように国家ごとに作品をまとめれば比較しやすい。しかし、それでは同じ問題を持つ作家が国籍によって分断される。
中原の企画は、カール・アンドレと日本の物質的実践、アルテ・ポーヴェラともの派、ソル・ルウィットと日本の概念的実践を、国籍を越えて同じ地平で見る可能性を開いた。
国際性が「何か国参加したか」ではなく、「異なる場所の実践を同じ問いで考えられるか」へ変わる。
これは「日本が西洋に追いついた展覧会」ではない
戦後日本美術史は、しばしばアメリカやヨーロッパの最新動向をどれだけ早く受容したかという追跡型の物語で語られる。しかし1970年展をその枠だけで理解すると、もの派や日本の概念的実践が持つ独自性を失う。
関根《位相―大地》は1968年に生まれ、李禹煥らの理論化も進んでいた。日本側は1970年に海外作家を見て初めて物質へ関心を持ったわけではない。
むしろ、複数地域で独立に進んでいた変化が東京で直接出会い、互いを比較可能にした展覧会と考える方が適切である。
同時代性を体験する
情報として海外美術を知ることと、作家本人が東京へ来て、同じ床で作品を設置することは違う。写真や雑誌では分からない材料の重さ、空間の大きさ、制作方法を直接見ることができる。
日本の若い作家にとって、海外作家は遠い「先進国の美術」ではなく、隣で制作する同時代の人物になる。
国際化とは海外情報が増えるだけでなく、時間差の感覚が縮まることでもある。1970年展はその経験を強く作った。
美術館は完成品を並べる倉庫ではなくなる
作家が会場で制作し、素材を調達し、床や壁へ介入するようになると、美術館側の仕事も変わる。搬入された作品を壁へ掛けるだけでは足りない。
制作場所の提供、材料調達、施工、作家との調整、安全管理、記録撮影など、展覧会制作そのものが複雑になる。
現在の現代美術館では一般的な「インスタレーションを作家と現地制作する」という仕事が、日本で大規模に可視化された重要な例だった。
巡回すると作品は同じなのか
展覧会は東京の後、京都、愛知、福岡へ巡回した。しかし場所に依存する作品を別の美術館へ移す場合、東京での配置をそのままコピーすることはできない。
床、壁、天井、都市環境が異なれば、作品は再設置されるたびに変化する。完成作品を運ぶ巡回展とは別の問題が生じる。
「同じ展覧会を巡回する」とは何を同じにすることなのか。1970年の国際展は、現代美術特有の再制作・再設置の問題も早くから含んでいた。
記録写真が「巡回しない作品」を残す
榎倉《場》のように現存しない作品、都市へ出たビュレンの介入、上野公園でのセラの活動など、その場に依存した作品は後に物体として集めにくい。
安齊重男、大辻清司らの写真が、制作工程、作家の身体、空間全体を記録しているため、現在も当時の展示を研究できる。
美術館が一時的な作品を扱うほど、写真、映像、図面、指示書などのアーカイブが美術史の基盤になる。
1970年は大阪万博の年でもある
同じ1970年、日本では大阪万博が開催され、国家、企業、建築家、デザイナー、芸術家が巨大な未来像を作った。テクノロジーと高度経済成長を祝う大規模イベントである。
東京ビエンナーレ「人間と物質」は、同じ年に別の方向から現代性を提示した。巨大な未来都市を設計するより、石、鉄、紙、油、空間、身体、重力という根本的な関係へ戻る。
次々回の記事で大阪万博を扱うが、この二つを同じ1970年に置くと、日本の現代美術が技術礼賛だけではなかったことが見える。
「物質」は反テクノロジーだったのか
石や木、鉄板を扱う作品は、万博の電子技術と反対に見える。しかし「人間と物質」展を単純な反テクノロジー運動とすることはできない。
人工素材や工業材料を使う作家も多く、問題は自然物か人工物かではなかった。人間が物質を完全に支配し、目的のために加工できるという近代的態度そのものが再検討された。
技術を否定するより、物質と人間の関係をいったん基礎から見直すことが重要だった。
1970年の東京は「受け手」だけではなかった
戦前・戦後を通じ、日本の国際美術史には海外美術を紹介する展覧会が重要な役割を持っていた。しかし東京ビエンナーレ’70では、日本が海外の完成作品を受け取るだけではない。
作家が東京で制作し、日本の作家と交流し、東京という場所自体が作品成立へ関与する。
国際美術の流れが「欧米から日本へ」という一方向から、複数の作家が移動し現地で関係を作るネットワークへ変わり始めた。
中原佑介のキュレーションが作品同士の意味を変える
同じ作品でも、何と並べるかによって意味は変わる。日本のもの派作品だけを集めれば「日本の新傾向」と見える。海外のミニマル、アルテ・ポーヴェラ、コンセプチュアルな実践と並べれば、国際的な構造変化の一部に見える。
中原の仕事は、個別作品を選ぶことだけではなく、作品同士の関係を作ることだった。
もの派が作者を「関係を媒介する存在」と考えたのと同じ時代に、展覧会を作る側でもキュレーターが「作品同士を関係づける存在」として前面に出てくる。
国際展における「キュレーター」の力が強くなる
国家が作家を選ぶ方式では、展示は各国の文化外交に近い。コミッショナーがテーマから作家を選ぶ方式では、展覧会全体が一つの批評になる。
その代わり、キュレーター個人の判断が強い権限を持つようになる。何を「現在の重要問題」として選ぶかによって、美術史の見え方が変わる。
1970年展は自由な国際性を開いたと同時に、現代美術におけるキュレーターの権力が大きくなる時代の先駆でもあった。
参加しなかった作家もいる
どれほど歴史的重要性の高い展覧会でも、その時代のすべてを代表することはできない。東京ビエンナーレに選ばれなかった重要作家や、別の問題へ向かっていた作家も多数存在した。
そのため1970年以後の日本美術をすべて「人間と物質」から説明するのは危険である。絵画、写真、映像、デザイン、社会運動、身体表現など別の流れも並行していた。
この展覧会は時代全体そのものではなく、時代の一つの強力な切断面だった。
「伝説的展覧会」は後から作られる
国立新美術館の研究資料でも、東京ビエンナーレ’70は現在まで「伝説的」と語られる展覧会として位置づけられている。しかし開催当時から全員がその歴史的意味を共有していたわけではない。
作品の多くは仮設的で、展覧会後に消えた。観客にとって理解しにくい作品も多かった。批評上の評価も一様ではない。
後に参加作家が国際美術史の中心人物となり、もの派研究が進み、記録写真が整理されたことで、1970年展の意味が繰り返し再構成されていった。
安齊重男のアーカイブが展覧会史を作る
国立新美術館が公開するANZAÏフォトアーカイブを見ると、作家ごとの完成作品だけでなく、会場内の会話、設置、パーティー、都市での活動までが記録されている。
カール・アンドレ、ダニエル・ビュレン、ハンス・ハーケ、高松次郎が同じ空間にいる写真や、小清水漸、河口龍夫、成田克彦、中原佑介らが集まる写真は、作品図版では見えない人的ネットワークを示す。
国際展は作品の集合だけではない。作家同士、批評家、記録者、運営者が直接出会う場所でもあった。その関係が次の制作や展覧会へつながる。
日本人作家の海外進出にもつながる
東京ビエンナーレだけが原因ではないが、1970年前後から日本の若手作家がパリ青年ビエンナーレ、ヴェネツィア・ビエンナーレ、欧米の画廊・美術館へ参加する機会は増えていく。
榎倉康二は1971年パリ青年ビエンナーレへ参加し、李禹煥、吉田克朗らもヨーロッパで紹介されるようになる。国際的な作家・批評家が東京で彼らの実践を直接見る機会を持ったことは、海外理解の条件を変えた。
作品写真だけを海外へ送るより、同じ展覧会で比較されることの方が、同時代性を伝えやすかった。
「日本美術」という枠が薄くなる
明治期の万国博覧会では、日本は「日本美術」を国家単位で展示し、工芸、絵画、建築を文化的特徴として示した。戦後の国際展にもその発想は長く残った。
1970年展では、関根、榎倉、小清水、高松らを「日本らしい作品」として展示することが中心ではない。各作家が物質、場所、時間、知覚という国際的問題へどう応答しているかが見られる。
日本美術史はここで、国家文化の表象から、個々の作家が世界の同時代的議論へ参加する歴史へ大きく近づく。
それでも地域差は消えない
国籍を越えて同じ問題を考えることは、全世界の作家が同じ条件で制作しているという意味ではない。材料の入手、教育制度、都市環境、美術市場、政治状況は地域ごとに異なる。
アンドレと小清水が同じ会場にいても、その作品が生まれた制度と経験は違う。クネリスと榎倉も同じ「物質志向」として統合できるわけではない。
国際化とは差異を消すことではなく、差異を持ったまま比較できる場所を作ることでもある。
日本語題から消えた「あいだ」を取り戻す
この展覧会を理解するうえで、英語題《Between Man and Matter》の「between」はやはり重要である。人間対物質、人間か物質か、という二項対立ではない。
人が石を動かす。鉄板が重力でたわむ。油が紙へ浸透する。観客が床を歩く。作家が美術館の壁へ介入する。それらの間で起きる出来事が作品になる。
1970年展の革新は、「物質」を新しい主題にしたこと以上に、「関係」を展覧会の構造そのものへした点にある。
東京ビエンナーレは、もの派の展覧会ではない
前の記事から続けて読むと、「人間と物質」をもの派の国際デビュー展として理解したくなる。実際、小清水、榎倉、成田などもの派周辺の作家は重要な位置を占めた。
しかし、参加者には高松次郎、松澤宥、河原温、野村仁、河口龍夫、海外のソル・ルウィット、ハンス・ハーケ、ビュレンなど、もの派とは別の論理を持つ作家が多数いる。
この展覧会をもの派へ還元せず、物質、概念、制度、場所、時間が交差する国際的な転換として見ることが必要である。
一方で、もの派の意味を国際的に見直す場でもあった
もの派が「日本独自の自然観」の表現だけなら、海外作家との比較は補助的なものになる。しかしアンドレ、セラ、クネリス、ペノーネらと同じ会場で見ると、もの派が世界的な「自律的な美術作品」への疑問と同時代だったことが分かる。
その上で、同じではない差が見えてくる。日本側の作家は、素材の個体性、場、存在、関係を独自の言語で考えていた。
国際展は影響関係を証明する場ではなく、共通点と差異を同時に発見する場になった。
1970年以後の日本現代美術に残したもの
東京ビエンナーレ’70以後、日本ではインスタレーション、サイトに依存する制作、概念的作品、記録写真、プロジェクト型作品がさらに広がる。もちろんすべてがこの展覧会から生まれたわけではない。
しかし、大規模な国際展が完成品中心から制作プロセス中心へ変化し、作家とキュレーターが現地で共同して展覧会を作る姿を可視化した影響は大きい。
作品だけでなく展覧会そのものを一つの実験と考える姿勢は、後の国際展、トリエンナーレ、地域芸術祭まで続く重要な系譜になる。
1970|東京ビエンナーレ「人間と物質」
1970年5月、東京都美術館で開幕した第10回日本国際美術展、通称「東京ビエンナーレ’70」は、中原佑介を総コミッショナーに迎え、《Between Man and Matter/人間と物質》をテーマに開催された。従来の国別参加制を廃し、国家ごとではなく一つの問題意識から作家を選ぶ方式へ転換したことが、展覧会史上の大きな変化だった。東京の後、京都市美術館、愛知県美術館、福岡県文化会館へ巡回し、日本各地で同時代の国際美術を提示した。
参加者にはカール・アンドレ、ダニエル・ビュレン、クリスト、ヤン・ディベッツ、ルチアーノ・ファブロ、バリー・フラナガン、ハンス・ハーケ、ヤニス・クネリス、ソル・ルウィット、マリオ・メルツ、ジュゼッペ・ペノーネ、リチャード・セラらが含まれ、日本側には高松次郎、小清水漸、榎倉康二、成田克彦、野村仁、河口龍夫、堀川紀夫、松澤宥、原口典之ら多様な作家が参加した。国立新美術館のANZAÏフォトアーカイブや大辻清司の記録には、彼らが東京で設置・制作する過程が大量に残されている。
この展覧会では、完成作品を海外から輸送して並べるだけではなく、作家が東京へ来て素材を調達し、床、壁、上野公園、地下鉄など現地の空間と関係を作ることが重要になった。榎倉康二《場》のように現存しない作品もあり、作品は保存可能な物体から、一時的な状況やプロセスへ変化していく。安齊重男や大辻清司の記録写真が現在不可欠なのは、そのためである。
東京ビエンナーレ’70の歴史的意義は、日本が海外の新しい美術を「輸入」したことだけにはない。1968年以後すでに独自に展開していたもの派や日本の概念的実践が、海外のミニマル、アルテ・ポーヴェラ、コンセプチュアル・アート、プロセス・アートと同じ時間・同じ場所で直接比較された。日本の作家は「日本代表」としてではなく、国際的な同時代を構成する個々の作家として見られるようになる。国際美術展の軸は国家からキュレーションへ、完成物からプロセスへ、作品単体から作品同士と場所の「あいだ」へ移った。次の記事では同じ1970年の大阪万博へ進み、こちらでは芸術・建築・企業・国家・テクノロジーが巨大な未来像を作ったもう一つの「1970年」を見る。
参考資料
- 国立新美術館「ANZAÏフォトアーカイブ」
- 国立新美術館「日本の美術展覧会記録1945–2005」
- Art Platform Japan「安齊重男」
- Art Platform Japan「高松次郎」
- Art Platform Japan「榎倉康二」
- Art Platform Japan「河原温」
- Art Platform Japan「大辻清司《カール・アンドレのインスタレーション(『人間と物質』展)》」
- Art Platform Japan「大辻清司《ソル・ルウィット作品の展示作業(『人間と物質』展)》」
- Art Platform Japan「大辻清司《ヤニス・クネリス作品の展示作業(『人間と物質』展)》」
- Art Platform Japan「大辻清司《高松次郎、野村仁のインスタレーション(『人間と物質』展)》」
- Art Platform Japan「大辻清司《河口龍夫、堀川紀夫の作品(『人間と物質』展)》」
- Art Platform Japan「大辻清司《松澤宥のパフォーマンス(『人間と物質』展)》」
- 美術手帖「人間と物質展」
- 国立新美術館「国立新美術館所蔵資料に見る1970年代の美術」
- 国立新美術館「ANZAÏフォトアーカイブ関連資料」
資料確認日:2026年10月2日