17世紀
俵屋宗達
装飾と平面
宗達は、どこから現れた画家なのか
俵屋宗達は、17世紀初頭の日本絵画を大きく変えたにもかかわらず、生年も没年も確定していない。京都国立博物館は活動期をおおむね1602年から1635年頃とし、静嘉堂文庫美術館は「?―1642以前」としている。狩野永徳や長谷川等伯のように家系や経歴が比較的たどれる画家と比べると、宗達の人生には空白が多い。
一方、作品と周辺資料から見える活動範囲は広い。扇、色紙、料紙、巻物、掛幅、襖、杉戸、屏風を手がけ、本阿弥光悦と共同制作し、寺院や朝廷からも注文を受けた。晩年には「法橋」の位を持つ画家として署名する作品が残る。
現在は尾形光琳、酒井抱一らとともに「琳派」の源流として位置づけられるが、宗達自身が「琳派」という流派を創設したわけではない。むしろ最初に見るべきなのは、京都の町衆が営む「絵屋」の世界から出発し、既存のやまと絵、工芸、書、仏教絵画を組み替えながら、独特の平面感覚を作り出した一人の画家とその工房である。
「俵屋」は、画家の名字というより工房の名前でもあった
京都国立博物館は、宗達を京都の町衆の一人で、「俵屋」という屋号を持つ絵屋の経営者だったと説明している。絵屋は、桃山時代から江戸初期に現れた都市の制作業者で、色紙や短冊の下絵、扇絵、灯籠の絵、染織の下絵などを制作し、店頭販売と受注制作の双方を行った。
ここでは、狩野派のような武家の御用絵師組織とは違う制作環境が重要になる。俵屋では、日常的に使われる扇や料紙のような比較的小さな商品を多数作る一方、評判が高まれば寺院や宮廷から大型の注文も受けることができた。
スミソニアン国立アジア美術館も、宗達を京都で「Tawaraya」と呼ばれる絵画工房を率いた人物とし、初期には扇や装飾料紙などを制作しながら、やがて宮廷からも注文を受けるようになったと説明している。
宗達の造形は、巨大障壁画だけから始まったのではない。手に取る商品を数多く作る工房の経験が、その後の大胆な構図の基礎になった可能性がある。
扇という、最初から歪んだ画面
京都国立博物館は、宗達が扇という変則的な画面を数多く扱ったことによって、周到な構図やモチーフの意外な切り取りを身につけた可能性を指摘している。
扇面は長方形ではない。下が狭く上が広がり、放射状に骨が走る。その中へ人物や花、山、川を置くには、普通の紙と同じ構図は使えない。画面端で対象を切り、中心をずらし、扇の広がりに合わせて形を変える必要がある。
宗達の屏風では、風神や雷神が画面端へ大胆に寄り、松島の波や岩が途中で切れ、草花が地平線なしに金地へ浮かぶ。こうした構図は大画面になって突然現れたのではなく、小さく変形した支持体を扱い続けた経験とつながって考えることができる。
1602年、《平家納経》修理 — 年代の分かる最初期の宗達
宗達の活動を年代的に確認できる最初期の重要な仕事が、広島・厳島神社に伝わる国宝《平家納経》の修理である。東京国立博物館によれば、慶長7年、1602年に修理された《平家納経》のうち「願文」「化城喩品」「嘱累品」の表紙・見返しは、その作風から宗達の制作と考えられている。
《平家納経》は平安時代末期、平清盛一門が厳島神社へ奉納した装飾経であり、金銀、色彩、絵画、書が一体となった日本美術史上の重要作品である。宗達は新しい作品を一から描く前に、過去の装飾芸術の最高峰に直接触れる機会を得たことになる。
古い作品を修理するには、元の料紙、金銀、絵具、図様を観察しなければならない。平安の装飾経に触れた経験が宗達の古典趣味へどこまで影響したかは断定できないが、その後の宗達が金銀泥、装飾料紙、やまと絵の古典主題を高度に扱ったことを考えると、1602年の仕事は非常に重要な出発点である。
古典を保存する仕事から、古典を再構成する仕事へ
宗達がその後扱った主題には、『源氏物語』『伊勢物語』『西行物語』、三十六歌仙、花鳥など、古くから日本絵画で描かれてきたものが多い。新しい時代だから新しい主題だけを選んだのではない。
しかし、宗達は古い絵巻ややまと絵をそのまま複製するのではなく、人物や建築を整理し、金地を大きく残し、必要な要素だけを抽出する。古典の物語を説明する情報量を減らしながら、一目で記憶される形へ変えていく。
ここに宗達の重要な特徴がある。主題は古いが、画面は新しい。古典を否定して独自性を作るのではなく、古典から形を取り出し、17世紀の空間感覚へ変換する。
本阿弥光悦との共同制作 — 書と絵を分けない
宗達の初期から中期にかけて重要なのが、本阿弥光悦との共同制作である。京都国立博物館所蔵の重要文化財《鶴下絵三十六歌仙和歌巻》は、宗達が金銀泥で鶴を描き、光悦がその上へ三十六歌仙の和歌を書いた、全長13.56メートルの長大な巻物である。
宗達は鶴を写実的に一羽ずつ描き分けるのではない。長い首、広げた翼、曲げた脚を単純な形へ整理し、群れとして反復する。巻物を開くにつれて、鶴は飛翔し、降下し、集まり、休む。
京都国立博物館が指摘するように、単純な筆使いでありながらシルエットの美しさが強い。そこへ光悦の文字が重なることで、鳥の動きと書の線が同じ画面上で競合する。
宗達にとって、絵は独立した長方形の中に閉じる必要がなかった。文字のための料紙を作ることも絵画であり、文字が加わって完成することを前提に画面を設計できた。
反復 — 同じ形を繰り返すことで動きを作る
《鶴下絵三十六歌仙和歌巻》では、多数の鶴が現れる。すべてを完全に異なる個体として描くのではなく、似た姿勢を繰り返しながら微妙に角度や間隔を変える。
この反復は後の琳派で非常に重要になる。燕子花、梅、波、草花など、同じモチーフを複数並べることで画面にリズムを作る方法である。
反復には工房制作との相性もよい側面がある。同じ形を型、下絵、共通図様によって共有すれば、複数の職人が一つの装飾を作りやすくなる。宗達の装飾性は個人の筆技だけではなく、工房で形を反復できるデザイン感覚とも結びついていた。
「伊年」印 — 個人署名ではなくブランドマーク
宗達周辺の作品には「伊年」という印がしばしば捺されている。京都国立博物館は、この「伊年」印を宗達個人だけの署名ではなく、俵屋工房の商品に用いられた商標的なブランドマークと説明している。
実際、《草花図》などには「伊年」印があっても、宗達本人ではなく周辺画家の制作と考えられる作品がある。宗達没後も工房の画家たちは「伊年」印を使った。
この仕組みは、近代的な「作者本人のサイン」と異なる。重要なのは誰の筆が一筆ごとに入ったかだけではなく、俵屋という工房の商品として一定の様式と品質が保証されることである。
狩野派が家系と粉本によってブランドを維持したのに対し、俵屋では屋号と印が商品ブランドとして機能した。宗達の画風は、個人作品と工房製品の間を行き来しながら広がった。
草花を、地面なしで立たせる
京都国立博物館所蔵の「伊年」印《草花図》では、竹、蔦、薔薇、薊、秋海棠、芥子、山帰来、葵、鶏頭、黍などが、金地の上へ一群ずつ置かれている。地平線も奥行きを示す地面も描かれない。
普通なら植物は土から生えている。しかし金地の画面では、根元と茎の向きだけから地面の存在を推測する。植物は現実の野原に立つと同時に、金色の平面上の模様としても見える。
ここで「平面性」が重要になる。奥行きを描けないから平面的なのではない。むしろ立体的な自然を知った上で、背景情報を削り、植物の輪郭と配置を強調する。自然と文様の中間に画面を置くのである。
平面とは、奥行きがないことではない
宗達の絵を「平面的」と呼ぶと、遠近法や立体表現が未発達だったように聞こえる。しかし《風神雷神図屏風》を見れば、雲や身体には墨の濃淡や陰影があり、人物を立体として描く能力がないわけではない。
宗達の平面性は、奥行きを完全に消すことではなく、画面の物質的な表面を強く意識させることにある。金箔は空の色へ完全に変身せず、金箔として光る。絵具は対象を描きながら色面として残る。輪郭は形を説明しながら装飾線になる。
見る者は「風神が空中にいる」と感じると同時に、「金箔の二曲屏風の上に形が置かれている」と感じる。この二重性が宗達の画面を強くする。
たらし込み — 制御と偶然の間
宗達の名と結びつく技法として「たらし込み」がある。スミソニアン国立アジア美術館は、まだ湿っている墨や絵具の層へ別の墨・絵具を落とし込み、半透明で不規則なにじみや斑紋を生じさせる技法と説明している。
乾いた輪郭の内部を均一に塗るのとは違い、濡れた層同士が接触するため、画家は最終的な模様を完全には支配できない。墨が広がる速度、紙の吸水、濃度の差によって形が変わる。
しかし完全な偶然でもない。どの領域を先に濡らすか、どの濃さの墨をどこへ落とすかは画家が決める。偶然が起こる条件を先に設計しているのである。
桃山陶芸で釉薬と窯の火が制御と偶然の間にあったように、宗達のたらし込みも、人間の筆と素材の自律的な動きが共同で像を作る。
《蓮池水禽図》— 墨だけで装飾する
京都国立博物館所蔵の国宝《蓮池水禽図》は、紙本墨画一幅、縦116.0センチメートル、横50.0センチメートル。二茎の蓮と二羽のかいつぶりだけを水墨で描いた作品である。
一方の蓮は花を咲かせ、もう一方は花弁を失って実になっている。一羽の鳥は水面を進み、もう一羽は静かに休む。京都国立博物館は、この対照を柔らかな筆づかいときらめくような墨色によって表した宗達水墨画の極と評価している。
金地も鮮やかな顔料もない。それでも宗達らしい装飾性が失われない。蓮の茎の曲線、葉の面、水禽の丸い身体が、白い紙の上で非常に明確な配置を作る。
装飾とは色数を増やすことではない。形と余白の関係を強く設計することでも成立する。《蓮池水禽図》は、そのことをよく示している。
白い紙も、金地と同じように「面」になる
《蓮池水禽図》では背景をほとんど描かない。水面の全体も岸辺もない。それでも二羽の水禽が水に浮かんでいることが分かる。
見る者は、わずかな波紋と鳥の姿から、紙の白い領域を水へ読み替える。同時に、紙は白紙のままでもある。
《風神雷神図屏風》の金地と同じく、宗達は背景を写実的な環境に変換しきらず、素材の表面として残す。白紙なら白紙、金なら金。その上に最小限の手掛かりを置き、見る側に空間を補わせる。
宗達の平面性は、背景を描かないことで空間を失うのではなく、背景素材そのものを空間として働かせる方法だった。
1621年、養源院 — 小さな絵屋から建築空間へ
京都の養源院は1594年に淀殿が創建し、火災後の1621年に徳川秀忠夫人・崇源院によって再興された。京都市と文化庁によれば、現在の客殿には宗達筆と伝えられる金地著色松図の襖、白象、唐獅子、波に麒麟を描く杉戸絵が残り、重要文化財に指定されている。
宗達は扇や料紙のような小画面だけの画家ではなく、17世紀初頭には建築を覆う障壁画を手がけるまでになった。俵屋という町の絵屋が、徳川家と関係する寺院の大規模装飾へ進出したのである。
これは社会的な地位の変化でもある。商品としての扇や色紙で評判を得た工房が、寺院と宮廷の大仕事へつながっていく。
白象を、ほとんど記号のように描く
養源院の杉戸絵では、白象や唐獅子が巨大な輪郭で描かれる。京都市は白象図について、大きな刷毛へ多量の絵具を含ませた曲線表現を宗達の代表的特徴として紹介している。
象の皮膚を細かな陰影で写実的に描くのではない。耳、鼻、脚、胴体を大きな曲線と色面へ整理する。遠くからでも一瞬で「象」と分かる。
杉戸という硬く大きな支持体では、細密描写より強い輪郭が有効である。宗達は画面の用途に応じて、対象を単純なシルエットへ変える。
この単純化は《風神雷神図屏風》にもつながる。細部を減らすほど、形の輪郭と動きが強くなる。
1631年《源氏物語関屋澪標図屏風》 — 古典を大きな図形へ変える
静嘉堂文庫美術館所蔵の国宝《源氏物語関屋澪標図屏風》は、寛永8年、1631年の作である。「法橋宗達」の落款があり、宗達の活動年代を考える上でも重要な基準作となっている。
主題は『源氏物語』第14帖「澪標」と第16帖「関屋」。しかし宗達は物語を細かく説明する多数の場面を描くのではなく、車、人物、松、建築、船などを整理し、広い金地の中へ配置する。
静嘉堂文庫美術館は、この作品の魅力として直線と曲線を用いた大胆な構図、緑や白などの巧みな色彩、古画から借用した図様を挙げている。古典文学の場面を、17世紀の巨大な平面デザインへ変換した宗達の代表作である。
物語を「読む」ための絵から、一目で見る絵へ
絵巻では、文章と絵を巻き進めながら時間の流れを追う。《源氏物語関屋澪標図屏風》では、一つの場面が屏風の大画面へ固定される。
人物の表情や細かな会話を追うより、牛車の大きな形、道路の方向、松の配置、金地の面積が先に目へ入る。文学の物語が、強い構図へ圧縮されている。
これは古典文学を簡略化したというだけではない。屏風という室内調度に合わせ、遠くからでも主題を認識できるよう、物語の視覚的骨格を抽出したのである。
「法橋宗達」— 町の絵屋が公的な位を得る
《源氏物語関屋澪標図屏風》には「法橋宗達」の落款がある。スミソニアン国立アジア美術館は、宗達が1620年代末には宮廷の仕事を行い、その芸術的功績によって仏教僧位の名誉称号である法橋を得たと説明している。
法橋は画家にも与えられた社会的な称号であり、宗達が単なる町の商品の絵師から、朝廷・寺社の正式な注文に応える人物へ地位を上げていたことを示す。
ここでも、近世初頭の文化主体が武家や伝統的な御用絵師だけではなかったことが分かる。京都の町衆工房から出た人物が、古典文化の担い手として宮廷にまで接続した。
《松島図屏風》— 波を風景からパターンへ変える
スミソニアン国立アジア美術館所蔵《松島図屏風》は、宗達の代表的屏風の一つである。六曲一双、各隻約166×370センチメートル。紙の上に墨、彩色、金、銀を用い、岩と松、激しくうねる波を描く。
波は自然現象として描かれているが、一本一本の白い線と渦が反復し、装飾パターンにも見える。岩は金地の中へ大きな塊として置かれ、波との境界が強い曲線を作る。
スミソニアンは、この屏風を宗達の工房「俵屋」を率いた成熟期の代表作とし、金銀を大胆に使う構成と後世への影響を評価している。
ここでは、風景を遠くへ見通す遠近感より、画面表面を横切る波のリズムが優先される。海は奥へ引っ込まず、鑑賞者の前へ迫る装飾面になる。
波は、写生と抽象の間にある
宗達の波には、自然観察がある。岩へ当たり、巻き上がり、引き返す水の動きが感じられる。しかし、写真の一瞬のように特定の波を再現したものではない。
白い波頭、銀泥、青や緑の水、金地が反復されることで、波は記号化される。一つの曲線が水であると同時に、画面を動かす線になる。
宗達の装飾性は、自然を模様へ完全に変えることではない。自然として読める最低限の特徴を残したまま、線と面のリズムを前面へ出す。そのため具象と抽象の間を行き来する。
《風神雷神図屏風》— 署名がない代表作
京都・建仁寺所蔵の国宝《風神雷神図屏風》は、二曲一双、各隻154.5×169.8センチメートル、紙本金地著色の作品である。京都国立博物館によれば、款記も印章もないにもかかわらず、宗達筆であることに疑いのない代表作として評価されている。
右隻には雷神、左隻には風神が描かれ、二神の間には大きな金地が残る。通常、画面中央へ主役を置けば安定する。しかし宗達は二神を左右端へ押しやり、中央を空ける。
この空白によって、風神と雷神は互いに離れながら同じ空間に存在する。中央へ何も描かないことが、二神の距離と緊張を作る。
金地は「空」ではなく、濃密な空間である
《風神雷神図屏風》の背景には、山も地面も雲海の全体もない。ほとんど全面が金箔である。
京都国立博物館は、この金地を単なる装飾ではなく、物象の形を際立たせると同時に「無限の奥行をもつ濃密な空間」へ変質したものと説明している。つまり金は背景を省略した結果ではなく、二神が出現するための空間そのものとして機能する。
金箔は室内光を反射するため、見る位置によって輝きが変わる。平らな金の面でありながら、固定した空の色より不安定で、奥行きを測れない。
宗達の「平面」は、奥行きを拒否した平板さではない。平面素材をそのまま見せながら、そこへ測定できない空間感覚を重ねる。
風神と雷神は、宗達の発明した神ではない
風神・雷神という図像は宗達以前から存在した。東京国立博物館は、雷神について菅原道真の怨霊をめぐる古い絵巻表現などの影響を挙げ、風神と雷神の組み合わせには観音の護法神としての信仰があると説明している。
京都・三十三間堂にも鎌倉時代の国宝《風神像》《雷神像》があり、同寺はこれらの像が後世の二神のイメージを決定づけた重要作と説明している。
宗達が革新的なのは、二神そのものを新しく考案したからではない。既存の宗教図像を、広い金地、極端な左右配置、単純な色面、二曲屏風という構造へ置き換えた点にある。
古い図像が、宗達の画面ではほとんど現代的なキャラクターのように強いシルエットを獲得する。
画面の端が、動きを作る
風神は左上から画面内へ入り、雷神は右上から降りてくるように見える。二神の身体の一部と雲が画面端へ近く、中央へ向かって動きが生まれる。
もし二神を屏風中央へ均等に置けば、安定した神像になる。しかし端へ寄せることで、「いま画面へ入ってきた」「次の瞬間に動く」という時間感覚が生まれる。
扇面で培った切り取りの感覚が、ここでは二曲一双の大画面へ拡張されている。フレームの端は制約ではなく、動きを発生させる装置になる。
屏風の蝶番も構図の一部になる
屏風は平らな壁ではない。二曲なら中央に折れがあり、左右の面がわずかな角度を持って立つ。宗達の二神は、その折れを含む立体的な支持体の上に描かれている。
屏風を開く角度が変われば、風神と雷神の見え方も変わる。金地は面ごとに異なる方向へ光を反射し、人物がわずかにこちらへ迫るようにも見える。
作品写真では完全に平らな長方形として見ることが多いが、本来の屏風は自立する家具である。宗達の構図は、その折れと反射を含む室内の物体として経験された。
雷神の視線は、風神だけを見ていない
宗達の雷神は、向かいの風神へ正面から視線を合わせているわけではなく、やや下方を見ている。後に尾形光琳が宗達本を写した《風神雷神図屏風》では、雷神の視線が風神の側へ調整され、二神の関係がより強く見える。
文化遺産オンラインも、宗達本と光琳本の違いとして、宗達の雷神が下界を見下ろすのに対し、光琳本では風神を見るように変化した点を指摘している。
つまり光琳は宗達を忠実に写しながら、構図を完全には固定しなかった。宗達作品は後世の画家にとってコピーすべき完成形であると同時に、変奏できる原型になった。
宗達の絵には、なぜ影が少ないのか
宗達の人物や植物には、立体を説明する陰影が全くないわけではない。しかし画面全体を統一する光源を設定し、物体が地面へ落とす影を描くことはほとんどない。
そのため風神、雷神、草花、岩は、金地の上へ直接貼り付いたようにも見える。奥行きを示す影を減らすほど、輪郭と色面が強調される。
これは西洋式遠近法を知らないという問題ではない。同時代の南蛮美術では西洋的な陰影や遠近表現も日本へ入っていた。宗達は別の方向、つまり平面自体の力を高める方向へ進んだ。
平面化は、対象を弱くしない
通常、立体感を減らすと対象が薄く見えるように思える。しかし宗達の風神雷神や白象は逆である。輪郭が単純になるほど、画面の中で巨大な記号として強く残る。
複雑な陰影や背景情報が少ないため、鑑賞者は形そのものを一瞬で把握できる。金地の大きな空白も、輪郭をさらに強くする。
宗達の平面性は、情報を減らして対象の存在感を下げる方法ではなく、不要な情報を削ることで形の記憶性を上げる方法だった。
「装飾的」は、内容が浅いという意味ではない
美術史で「装飾的」という言葉は、ときに思想や物語より表面的な美しさを優先するという低い評価として使われてきた。しかし宗達の場合、装飾は作品の構造そのものである。
《風神雷神図屏風》では金地の装飾性が二神の空間を作り、《鶴下絵三十六歌仙和歌巻》では反復文様が巻物の時間を作る。《松島図屏風》では波のパターンが海の運動を作る。
装飾は主題へ後から加えられた飾りではない。反復、色面、素材、余白、曲線を通して、見る時間と空間を組み立てる方法なのである。
宗達は水墨画も変えた
宗達を金地の装飾画家とだけ考えると、《蓮池水禽図》や《雲龍図屏風》の重要性を見落とす。スミソニアン国立アジア美術館所蔵《雲龍図屏風》では、龍と雲を水墨で描き、たらし込みによる墨のにじみを生かしている。
室町水墨画では、中国の山水や禅的画題を、筆法と空間表現の規範に沿って学ぶことが重要だった。宗達は水墨そのものを捨てず、より柔らかく、偶然性のある墨面へ変える。
《蓮池水禽図》では、宋元画に類例のある画題を用いながら、輪郭を硬く固定せず、墨の広がりと白紙を活用する。中国由来の水墨技法を、俵屋の装飾感覚と結びつけたのである。
自然を再現するより、自然の動きを抽出する
宗達の花、鳥、波、風、雲には共通点がある。対象の細部をすべて説明するのではなく、そのものを特徴づける動きを取り出す。
鶴なら長い首と羽ばたき、波なら反復する渦、風神なら風袋と身体の傾き、雷神なら太鼓の輪と跳躍する四肢。特徴を少数に絞ることで、対象は強い図形になる。
この方法は後の琳派でさらに発展する。尾形光琳の《燕子花図屏風》では花の群れが反復パターンに近づき、酒井抱一や鈴木其一では植物がさらに明快な形へ整理される。
宗達が後世へ残したのは特定の画題以上に、「自然からどの形を抽出すれば画面が成立するか」という方法だった。
工房だからこそ、様式が増殖する
宗達の画風は「伊年」印を持つ工房作品によって大量に広がった。草花図では、同じ花が別作品にも現れ、構図や色を変えながら再利用される。
現代的な価値観では、同じモチーフの反復をオリジナリティの欠如と見ることがある。しかし工房では、優れた図様を共有し、商品へ応用することが品質維持につながる。
さらに反復の中で、新しい組み合わせが生まれる。同じ芥子や朝顔でも、金地の面積、他の植物、屏風の曲数が変われば画面は別物になる。
宗達の創造性は「誰も見たことのないモチーフを毎回発明する」ことではなく、共有された形を大胆に再配置する能力にあった。
作者が不明でも「宗達らしい」作品が存在する
宗達工房作品には、宗達本人、工房の有力画家、後継者の宗雪など複数の手が含まれる。そのため、研究では一作品ずつ筆者を検討する必要がある。
一方、作者が確定しなくても、金地、草花の配置、たらし込み、伊年印などから、宗達周辺の視覚言語を確認できる。
これは個人の作者名と様式の歴史が必ずしも一致しないことを示す。宗達という人物の影響力は、宗達本人の真筆だけを数えても測れない。工房が形を共有し、それが後の光琳や抱一に再利用されたことで、視覚言語が数世紀続いたからである。
宗達の《風神雷神図》は、最初から建仁寺にあったわけではない
現在《風神雷神図屏風》は建仁寺蔵として知られる。しかし東京国立博物館によれば、もとは京都・宇多野の妙光寺に伝来し、幕末に妙光寺の住持が建仁寺住持となる際、建仁寺へ移ったとされる。
現在の所蔵寺院と制作当初の場所を同一視してはいけない。作品は数百年の間に移動し、所有者と鑑賞空間を変える。
宗達作品には、襖から屏風へ改装されたもの、工房から寺院へ納められたもの、近代に海外へ渡ったものもある。作品の歴史は、制作時点で終わらない。
尾形光琳は宗達を「写した」
宗達の死後数十年を経て、尾形光琳は《風神雷神図屏風》をほぼ同じ図様で模写した。東京国立博物館所蔵の光琳本は、宗達作品を直接参照したと考えられている。
近代的な価値観では、先人の作品を写すことは独創性の反対に見える。しかし琳派の歴史では、模写が創造の重要な方法になった。図様を受け継ぎながら、色、人物間の距離、視線、雲の形を変える。
さらに19世紀には酒井抱一が光琳本の裏面へ《夏秋草図屏風》を描き、20世紀に保存上の理由から表裏が分離された。宗達の一つの構図が、光琳、抱一へと物理的にも重なりながら継承された。
師弟関係のない「継承」
宗達と光琳に直接の師弟関係はない。宗達の没後に生まれた光琳は、残された作品を見ることで宗達を学んだ。さらに抱一は光琳を顕彰し、その作品を研究・出版して江戸琳派を形成した。
つまり宗達の画風は、工房の直接継承だけでなく、後世の作家が過去の作品を選び直すことで何度も復活した。
この点で琳派は狩野派と異なる。狩野派では家系と工房教育によって技術を継承する。琳派では、時間的に離れた作家が作品を見て私淑し、図様を再制作することでつながる。
次の記事で扱う「琳派」は、この特殊な継承方法を中心に考える必要がある。
近代になって「宗達」が再発見される
スミソニアン国立アジア美術館によれば、宗達は没後しばらくすると、光悦や尾形光琳の名声の陰で比較的目立たない存在になった。19世紀末から20世紀初頭、海外を含む収集家や研究者によって宗達作品が再評価される。
アメリカの実業家・収集家チャールズ・ラング・フリーアは1905年に《雲龍図屏風》、1906年に《松島図屏風》を購入し、宗達研究の国際的な基盤の一つを作った。スミソニアンは、1913年の東京での近代的な宗達展覧会などを通じて、20世紀に宗達の評価が大きく高まったとしている。
現在「宗達は日本美術を代表する巨匠」という認識も、17世紀以来まったく変わらず続いてきたわけではない。作品の評価には再発見の歴史がある。
宗達の「現代性」は、どこから見えるのか
宗達の絵が現代的に見える理由として、広い無地の面、シルエット、反復、左右非対称、極端な切り取り、単純化された形が挙げられる。これらは20世紀以降のグラフィックデザインや抽象絵画にも似て見える。
ただし宗達が「抽象美術」や「グラフィックデザイン」を先取りしたと考える必要はない。彼は扇、屏風、巻物、杉戸という当時の媒体へ最適化した結果、形を強く整理した。
後世の視覚文化と似るのは、問題解決の方法に共通性があるからである。限られた面積で形を強く見せるには、情報を減らし、輪郭と配置を明確にする。この原理は時代を越えて有効である。
装飾と平面
宗達の革新を「金色をたくさん使った」「たらし込みを使った」という技法の一覧だけで説明することはできない。重要なのは、それらが画面の平面構造へ統合されたことである。
金地は背景を埋めるだけでなく、対象を浮かび上がらせる。余白は何もない場所ではなく、二つの形の距離を作る。反復は装飾文様であると同時に時間を作る。たらし込みは物体の内部へ偶然性を入れ、均一な色面を崩す。画面端は対象を切ることで動きを生む。
《風神雷神図屏風》では、二神が金の無限空間へ現れながら、同時に屏風の左右端へ貼り付く強い図形として見える。《蓮池水禽図》では、紙の白が水と余白の両方になる。《松島図屏風》では、波が海であると同時に反復する曲線模様になる。
宗達は奥行きを捨てたのではない。奥行きと平面を同時に見せた。対象を写実的に再現することと、画面を装飾することを対立させず、一つの像の中へ重ねたのである。
俵屋宗達が変えたもの
宗達以前にも、やまと絵、金地屏風、装飾料紙、水墨画、扇絵は存在した。宗達が金箔や和歌や風神雷神を発明したわけではない。
それでも宗達の作品が転換点になるのは、それら既存の資源を「平面をどう使うか」という問題へ集約したからである。古典の人物を単純化し、扇で培った切り取りを屏風へ拡大し、金地を空間へ変え、墨の偶然をたらし込みとして利用し、工房の反復図様を大画面のリズムへ変えた。
さらに、その造形は一人の画家の個性で終わらなかった。「伊年」印の俵屋工房によって増殖し、光悦との共同制作で書と結びつき、尾形光琳による模写を通じて再発見され、酒井抱一、鈴木其一へと再び変奏された。
宗達が残した最大のものは、特定の技法でも特定のモチーフでもない。過去の図像を取り出し、輪郭、色面、余白、反復へ変換して、新しい平面を作る方法だった。
次の記事では、その方法が宗達から尾形光琳へどのように受け継がれ、さらに「琳派」という美術史上の系譜として後世に構築されたのかを見る。師弟関係を持たない作家たちが、なぜ同じ流派として語られるようになったのかを、作品の「継承と変奏」から詳しくたどっていく。
参考資料
- 京都国立博物館「国宝 風神雷神図屏風」
- 京都国立博物館「国宝 蓮池水禽図」
- 京都国立博物館「重要文化財 鶴下絵三十六歌仙和歌巻」
- 京都国立博物館「草花図襖『伊年』印」
- 京都国立博物館 館蔵品データベース「蓮池水禽図」
- 京都国立博物館 館蔵品データベース「草花図」
- 東京国立博物館「大琳派展―継承と変奏― 作品リスト」
- 東京国立博物館「特別展 栄西と建仁寺」
- 東京国立博物館「大琳派展―継承と変奏―」報道資料
- 静嘉堂文庫美術館「国宝 源氏物語関屋澪標図屏風」
- 静嘉堂文庫美術館「平安文学、いとをかし」
- 京都市公式 京都観光Navi「養源院」
- 文化庁 国指定文化財等データベース「養源院 客殿」
- 蓮華王院 三十三間堂「国宝 風神雷神像」
- Smithsonian National Museum of Asian Art「Waves at Matsushima」
- Smithsonian National Museum of Asian Art「Sōtatsu: Making Waves」
- Smithsonian National Museum of Asian Art「Sōtatsu’s Methods: The Visibility of Craft」
- Smithsonian National Museum of Asian Art「The I’nen Garden」
資料確認日:2026年10月2日