14–15世紀
水墨画の成立
墨だけで世界を描く
「墨だけで世界を描く」とはどういうことか
14世紀から15世紀にかけて、日本の絵画には大きな変化が起こった。墨を中心に、人物、動物、竹、樹木、山、水、霧、空気、遠近まで表す水墨画が本格的に発達したのである。東京国立博物館は、鎌倉時代から始まる禅宗の本格的な導入にともない、中国の宋・元絵画の影響を受けて日本で水墨画が成立したと説明している。
ただし、「水墨画=黒い墨だけで描いた絵」と考えると少し正確さを欠く。実際の文化財名称には「紙本墨画」だけでなく「紙本墨画淡彩」と記される作品も多い。如拙《王羲之書扇図》や《瓢鮎図》にも淡い色が用いられている。水墨画の核心は、色を完全に排除することではなく、墨と水の濃淡、筆の速度、にじみ、かすれ、紙の白を主要な造形手段として世界を組み立てることにある。
墨は一色でありながら、濃墨から淡墨まで無数の階調を作ることができる。水を多く含ませれば淡く広がり、乾いた筆を使えばかすれ、重ねれば奥行きが生まれる。東京国立博物館も、中国水墨画について、墨が濃淡のグラデーション、水分量の違い、乾湿の筆遣いを自在に表現できる素材であることを指摘している。
この限られた材料から豊かな世界を生み出す方法は、日本で突然発明されたものではない。中国では唐代から水墨表現が発達し、宋代には山水・花鳥・人物などで高度に成熟していた。日本の水墨画は、その長い中国絵画の蓄積を、禅僧と作品の往来を通して学ぶところから始まる。
水墨画は禅宗とともに「輸入」されたのか
禅宗と水墨画の関係は深い。京都国立博物館は、鎌倉時代に南宋から本格的な禅宗が伝えられたことと同時に、水墨を主体とする絵画が日本へ広まったと説明している。中国へ渡った日本僧は禅院で書画を見、中国僧が来日すれば自らの文化を日本へ持ち込んだ。宋・元の絵画は寺院へ入り、日本の僧や絵師の手本になった。
しかし、水墨画を禅の教義から直接生まれた絵画と考えることはできない。中国の水墨表現には禅僧だけでなく、宮廷画家や文人画家の伝統もある。梁楷のような宮廷画家の減筆的な人物表現も、日本の画僧へ大きな影響を与えた。
禅宗が重要だったのは、特定の画風を宗教思想から生み出したからというより、中国美術を日本へ運び、保存し、鑑賞し、学習する人的・制度的ネットワークを作ったからである。禅寺は中国絵画を収蔵する場所であり、画僧を育てる場所でもあった。
南宋・元の絵を「本物」として見る
中国絵画の影響といっても、書物に書かれた理論だけを学んだわけではない。日本には南宋・元時代の実作品が数多くもたらされた。禅僧や商人、交易船によって海を越えた掛幅や画巻を、日本の画家が実際に見ることができた。
このことは美術教育の仕組みを大きく変える。山をどう描くか、霧をどう作るか、木の枝をどの筆触で表すかを文章だけで説明されるのではなく、中国の画家が残した線と墨面を直接観察し、模倣することができる。
現代では模倣を独創性の反対と考えやすいが、中世の水墨画成立期では、優れた中国絵画を模写し、その筆法を身につけることが新しい表現への最短経路だった。中国画を正確に学ぶことが、やがて日本の水墨画を形成することになる。
牧谿 — 中国より日本で長く愛された画家
日本の水墨画形成に特に大きな影響を与えた中国画家が、南宋末から元初に活動した禅僧・牧谿である。京都国立博物館は、牧谿を「日本で最も愛された中国画家と言って差しつかえない」と紹介し、簡潔でやや粗放な筆致と淡墨の効果を最大限に生かした画風が、日本の水墨画形成に大きな影響を与えたとしている。
牧谿は臨済宗の高僧・無準師範の弟子だった。円爾が無準に学び、日本へ帰国したことを考えれば、禅の法脈と絵画の流通が近い場所で重なっていたことが分かる。牧谿の《観音猿鶴図》は大徳寺に伝わり、山水、動物、花木などを描いた作品も日本で高く評価された。
京都国立博物館の《遠浦帰帆図》は、伝牧谿筆とされる南宋13世紀の水墨画で、もとは瀟湘八景を描いた画巻の一部と考えられている。淡墨を重ね、その階調によって霧に包まれた湿潤な大気と光の変化を表す。山や船を輪郭線でくっきり囲むのではなく、墨の濃度そのものが空気の距離を作っている。
日本の画家にとって、このような表現は強い刺激になった。形を線で説明し尽くさなくても、淡い墨を重ねれば、見えない空気まで描くことができるのである。
余白は「何も描いていない場所」ではない
水墨画では、紙の白い部分が非常に大きな役割を持つ。山と山の間を白く残せば霧になり、画面下部を空ければ水面になり、遠景を描き込まなければ光や空気の広がりを感じさせることができる。
つまり余白は、描かなかった場所ではなく、見る者に補わせるための空間である。すべてを顔料で塗り埋める作り絵とは違い、紙そのものを画面の構成要素として使う。
ただし、この特徴をすぐに「日本的な余白の美」と説明するのは適切ではない。霧や空間を余白として扱う方法は、中国の宋元山水画から学ばれた重要な技法である。その方法が日本で繰り返し研究され、後の絵画へ深く定着した結果、今日「日本的」と感じられるほど重要になったのである。
濃淡が距離を作る
墨一色で山を描く場合、手前と奥をどう区別するのか。水墨画では、墨の濃さと筆触を変えることで距離を表す。近景には濃い墨と明確な線を使い、遠景になるほど淡くぼかす。すると同じ平面の紙の上に、手前から奥へ続く空間が生まれる。
遠くの山が実際に薄く見えるのは、大気の中で光が散乱するためである。中国山水画はその視覚経験を墨の階調へ変換した。日本の画家は作品を見ながら、その方法を学んだ。
ただし、水墨画は自然科学的な遠近法を目的とするわけではない。山を極端に高くし、近景と遠景を一枚の画面へ組み合わせ、現実にはあり得ない視点から風景を見ることもある。距離感は現実をコピーするためではなく、見る者を画面の奥へ導くために使われる。
14世紀、日本の画家が墨を自分の筆にする
東京国立博物館には、南北朝時代14世紀の可翁仁賀《蜆子和尚図》が伝わる。同館によれば、可翁は14世紀前半に活動したと推定されるが詳しい伝記は分からず、元に渡った禅僧・可翁宗然とする説と、宅磨派の画家とする説がある。作品は紙本墨画で、中国の禅余画に倣った人物表現を示す。
蜆子和尚は、川で蜆や海老を捕って暮らしたとされる風変わりな禅者である。豪華な袈裟を着た高僧ではなく、世俗社会の規範から離れた人物を、素早い墨線によって表す。このような題材は、禅宗人物画と水墨表現が強く結びついていたことを示す。
同じ14世紀には、良全《如意輪観音図》、伝黙庵霊淵《白衣観音図》など、禅僧や禅林と関係する水墨画が制作された。東京国立博物館の展示資料では、これらが南北朝時代の水墨画として紹介されている。
この時期にはまだ、日本水墨画の中心が壮大な山水画だけにあったわけではない。観音、文殊、達磨、寒山拾得など、宗教的人物を墨で描く試みが重要だった。
白衣観音 — 白い紙が衣になる
白衣観音は、白い衣をまとう観音を描く禅宗絵画の代表的な主題である。水墨画では、衣服の全体を白い顔料で塗る必要はない。輪郭線を引き、その内部を紙の白のまま残せば、白衣として見える。
この方法は、水墨画における余白の力を端的に示す。描かないことによって色を表すのである。紙の白は背景でもあり、同時に人物の衣にもなる。
さらに周囲に淡墨で岩や霧を描けば、白い身体が空間から浮かび上がる。限られた材料から、光、衣、空気、岩の質感まで作り分ける。水墨画では「何を描くか」と同じくらい、「どこを残すか」が重要になる。
水墨画と仏画の境界は、最初から明確ではない
平安時代の仏画というと、金、群青、緑青、朱などを使った華麗な彩色を想像しやすい。一方、禅林の水墨画では墨を主体に仏教的人物を描く。そこから、水墨画が彩色仏画を否定して生まれたように見えるかもしれない。
しかし14世紀の作品を見ると、二つの世界は完全に分離していない。墨を主体としながら淡彩を加える作品もあり、画僧が水墨と極彩色の双方を使う場合もある。
後に東福寺で活動する明兆は、その代表である。京都国立博物館は、明兆が中国将来の仏画を学びながら、水墨の技と鮮やかな極彩色の双方を駆使し、大伽藍にふさわしい巨幅・連幅を多数制作したと説明している。
水墨画の成立は、色彩絵画が終わったことを意味しない。むしろ同じ画家や寺院が、主題と用途に応じて水墨と彩色を使い分ける、新しい選択肢が加わったと考えた方がよい。
明兆 — 巨大な寺院空間へ水墨を拡張する
吉山明兆は1352年に生まれ、1431年に没した、室町時代前期の重要な画僧である。京都国立博物館によれば、東福寺を拠点に活動し、寺内で仏殿の荘厳などを担う殿司職を務めたため「兆殿司」とも呼ばれた。
明兆の重要性は、禅僧の個人的な鑑賞物にとどまらず、大寺院の空間に対応する巨大な絵画を制作した点にある。東福寺は円爾以来、中国の仏教文物と知識を大量に蓄積した禅寺であり、明兆はそれらを学習資源として利用した。
京都国立博物館は、明兆が水墨表現に熟達して一大流派を築き、後世、日本水墨画を確立させた最重要人物の一人と評価している。一方で代表作には彩色を用いた《五百羅漢図》などもあり、明兆を「墨だけを描いた画家」と理解することはできない。
ここで水墨画は、小さな掛幅の世界から寺院の巨大空間へ広がる。筆墨の技法が、宗教空間を構成する大画面にも適用されるようになった。
水墨画を描いたのは「禅僧」だけではない
成立期の水墨画では画僧の役割が大きいため、「水墨画=禅僧の絵」と理解しやすい。しかし東京国立博物館は、室町時代になると水墨画が禅宗寺院の枠を越えて日本に定着し、画僧だけでなく幕府御用絵師などさまざまな階層の画家が担うようになったと説明している。
15世紀へ進むと、将軍家が中国絵画を収集し、水墨画家を用いるようになる。寺院で育った技法が、政治権力の文化政策や邸宅装飾へ接続する。
この変化は、水墨画が宗教的な主題だけでなく、山水、花鳥、故事人物など広いジャンルを描ける柔軟な絵画になったことを示す。
相国寺 — 水墨画の学校のような場所
14世紀末に足利義満が創建した相国寺は、15世紀日本水墨画の中心的な拠点となった。相国寺承天閣美術館は、相国寺が京都五山第二位に位置し、五山文学の禅僧とともに、如拙、周文、雪舟ら「日本水墨画の規範を築いた画僧」を多く輩出したと説明している。
相国寺には中国絵画を鑑賞できる環境があり、禅僧による漢詩文文化もあった。絵を描く者の近くに、絵へ賛を書く詩僧がいる。作品を所有する足利将軍家とも関係が近い。
この環境では、水墨画は孤独な画家の個人研究ではなく、絵画、詩、書、禅、政治が交差する共同文化として発達する。画僧は筆法を学び、禅僧は画面へ詩を寄せ、将軍は制作を命じる。複数の役割が一枚の作品に集まる。
如拙 — 中国絵画を学びながら、日本の水墨画を組み立てる
15世紀前半の水墨画で重要なのが、相国寺の画僧・如拙である。京都国立博物館は、如拙を室町幕府に重用された画僧とし、《王羲之書扇図》を15世紀前半の幕府と五山禅宗寺院周辺における水墨画の水準を示す重要な基準作と位置づけている。
《王羲之書扇図》は、中国の書聖・王羲之が扇売りの老婆のために扇へ文字を書き、その扇が高く売れたという故事を描く。京都国立博物館は、擦れた筆致に南宋の宮廷画家・梁楷の影響を指摘している。
重要なのは、日本人画僧が日本の風景を描いて独自性を示したのではなく、中国の故事を、中国の画家の表現を参照しながら描いていることである。成立期の日本水墨画では「中国らしく描けること」そのものが高度な能力だった。
外来の表現を正確に理解し、異なる画家の技法を使い分けられることが、新しい日本絵画の基礎になった。
《瓢鮎図》— 絵、禅問答、漢詩を一枚へ集める
如拙の代表作であり、日本水墨画史の転換点となる作品が、妙心寺退蔵院に伝わる国宝《瓢鮎図》である。京都国立博物館によれば、15世紀初頭、室町幕府第4代将軍・足利義持が「瓢箪で鯰を押さえ取ることができるか」という問いを出し、如拙がそれを絵にし、京都の主要禅寺の高僧たちが詩を寄せた。
画面下部には、水辺で瓢箪を持つ男と大きな鯰が描かれる。人物、鯰、竹、水流、岸辺は墨と淡彩で構成され、背景には霧に霞む山がある。中国山水画の空間表現と、滑稽な人物画が一枚の中に組み合わされている。
さらに上部には31人の禅僧による31篇の詩が並ぶ。京都国立博物館は、室町水墨画で絵の上に詩を書くこと自体は珍しくないものの、これほど多数の詩が付された作品は極めて特殊だと指摘している。
《瓢鮎図》では、絵だけを見ても作品は完結しない。将軍が問いを出し、画僧が絵を描き、高僧たちが言葉で応答する。絵画は禅問答、知的遊戯、詩文交流の中心となる。15世紀の五山文化では、水墨画が人と人を結びつける社会的な媒体にもなっていた。
水墨画は「静かな精神世界」だけではない
《瓢鮎図》は、禅画を厳粛で沈黙した精神世界だけとして理解することを難しくする。京都国立博物館は、この作品が足利義持を中心とする自由な集いと、高度な言葉遊びを示すものと説明している。
瓢箪で滑る鯰を捕まえるという問いには、実用的な答えがない。絵と詩は一つの正解を提示するためではなく、答えのない問いを共有するために作られている。
禅林文化には厳しい修行がある一方、詩、機知、ユーモア、遊戯も存在する。水墨画はその複雑な文化の中で作られた。黒い墨と余白から、静寂だけでなく、笑いや知的な遊びも表現できたのである。
山水画 — 実際に見た山を描く必要はない
15世紀になると、水墨山水画は日本絵画の主要なジャンルへ成長する。しかし、その多くは日本の実在風景を写生したものではない。京都国立博物館は、室町時代に制作された多数の水墨山水図について、中国の風景、しかも実際には存在しない空想的な景観を描いたものが大半だったと説明している。
山水画の画面には、高山、渓谷、水辺、楼閣、橋、小舟、旅人などが配置される。画家は中国へ行ったことがなくても、中国絵画を学ぶことで「中国的な山水」の語彙を組み合わせることができた。
つまり山水画は、目の前の自然を記録する風景画とは性格が異なる。過去の優れた絵画から学んだ山、岩、樹木、霧を再構成し、人が精神的に入り込める理想の風景を作る。
日本の水墨山水が成熟する最初の段階では、「どこを描いたか」よりも、「中国山水画の空間をどこまで理解し、再構成できるか」が重要だった。
山、水、建物、人間の縮尺
水墨山水では、人間は非常に小さく描かれることが多い。巨大な山に対して、人は橋の上や小舟の中へ点のように置かれる。
人物を小さくすることで、自然のスケールが大きく感じられる。同時に、人がまったく存在しないわけではないため、鑑賞者はその小さな人物へ自分を重ね、絵の中を歩くことができる。
建物も同じ役割を持つ。山中の楼閣があれば、その場所へ至る道を想像できる。小舟があれば、水面の広さを測る基準になる。人物と建築は風景の付属物ではなく、画面のスケールと鑑賞者の視点を決める装置である。
周文 — 山水画を一つの規範へまとめる
15世紀中頃、日本水墨画で大きな影響力を持ったとされるのが周文である。東京国立博物館は、周文を室町時代の水墨画を代表する画家で、足利将軍家に仕え、相国寺を拠点として15世紀中葉に活躍したと説明している。相国寺も、如拙・周文・雪舟を日本水墨画の規範を築いた画僧として位置づけている。
周文の名前は非常に有名だが、本人の確実な真筆を決めることは難しい。東京国立博物館所蔵《山水図》も「伝周文筆」とされ、同館は周文筆との確証がないことを明記している。
これは重要な問題である。周文の影響が大きかったからこそ、後世多くの水墨山水が「周文筆」と伝えられた可能性がある。現存作品から一人の個性を明確に切り出すことが難しい一方、「周文様」と呼べる山水画の構成が広く共有されたことは、日本水墨画の成熟を示している。
1455年《山水図》— 絵と詩が風景を作る
東京国立博物館の重要文化財《山水図》は、伝周文筆、竺雲等連らの賛を持ち、享徳4年、1455年の年紀を伴う。画面には山、水辺、樹木、建物、人物が細密に描かれ、上部には五山僧の漢詩が記されている。
ここでは絵と詩が二つの独立した情報ではない。絵が視覚的な山水を作り、詩がその風景に時間、季節、感情、文学的な意味を与える。見る者は絵の中を目で歩きながら、詩によってその場所を別の角度から読む。
平安時代の屏風歌では、やまと絵の風景と和歌が結びついた。室町時代の水墨画では、中国風山水と漢詩が結びつく。絵と言葉の関係は続いているが、言語と文化的参照先が変化している。
詩画軸 — 描かれた風景を言葉で旅する
15世紀の禅林では、山水画と漢詩を一枚の掛幅へ組み合わせる詩画軸が盛んになる。複数の禅僧が同じ絵へ詩を寄せる場合もあり、一枚の作品が文学的な共同制作になる。
画面の山水は実在しないことが多い。それでも詩を読むことで、山に登り、川を渡り、庵に暮らすという想像上の経験が生まれる。鑑賞者は物理的に旅をしなくても、絵と詩の中で中国的な理想風景を訪れることができる。
この文化は、五山僧が中国の漢詩文を深く学んでいたからこそ成立した。絵師だけでは作品の意味は完結せず、詩を書く禅僧の存在が不可欠だった。
足利将軍家 — 中国絵画を集め、水墨画を支える
15世紀の水墨画発展には、室町幕府の存在が大きい。如拙《瓢鮎図》は足利義持の命によって制作され、周文は将軍家に仕えた。中国絵画や唐物を収集した足利将軍家の周辺には、作品を鑑定・整理し、制作する専門家が集まるようになる。
京都国立博物館の《遠浦帰帆図》には、足利義満の「道有」鑑蔵印が残る。同館は、もともと牧谿筆とされる瀟湘八景図巻だった作品が景ごとに切断され、義満の所蔵を経たと説明している。
これは、中国絵画が単に輸入されたまま保存されたわけではないことを示す。日本側の所有者が巻物を分割し、掛幅へ改装し、異なる鑑賞形式へ変えることもあった。中国美術の受容は、作品をそのまま保存することではなく、日本の展示・所有文化に合わせて再編することでもあった。
画巻から掛幅へ — 見る時間が変わる
牧谿《瀟湘八景図》がもとの画巻から切断され、各景が掛幅へ改装されたことは、絵画形式の違いを考えるうえでも重要である。
画巻なら、鑑賞者は右から左へ少しずつ開き、時間をかけて風景を見る。掛幅なら、一つの景を正面から一度に見る。作品の内容が同じでも、支持形式が変われば鑑賞の身体動作も変わる。
室町時代には掛幅が禅院や邸宅で重要な鑑賞形式となり、後の床の間文化へもつながる。水墨画の成立とは、筆墨技法だけでなく、絵をどの形式で掲げ、どの空間で見るかという変化とも関係している。
墨は「色の不足」ではない
色彩豊かな平安絵画を基準にすると、水墨画は色を減らした簡素な絵に見える。しかし画家にとって、色を使わないことは情報を失うだけではない。墨へ表現を集中することで、別の情報を強くすることができる。
形を一筆で決める線、濡れた墨のにじみ、乾いた筆のざらつき、淡墨の霧、紙の白。見る者は色の種類ではなく、筆の動きと墨の密度の差へ敏感になる。
さらに墨は、物の固有色から絵を解放する。実際には緑の山も青い水も、すべて墨の階調へ翻訳できる。その結果、現実の色を再現することより、光、空気、距離、質感を筆墨の秩序へ変換することが中心になる。
描かないことが、見る者の仕事を増やす
水墨画では、細部をすべて描かないことが多い。遠景の建物は数本の線になり、人物の顔は点に近くなり、霧の中の山は途中で消える。
情報が少ないと、見る者は不足部分を補う必要がある。霞の中に山が続いていると想像し、白い紙を水面と読み、数本の線から樹木の枝を認識する。
この共同作業によって、水墨画は見る者の想像力を画面の内部へ取り込む。画家が世界をすべて描き切るのではなく、鑑賞者が完成させる余地を残す。
ただし、これは曖昧に描けばよいということではない。何を省略しても対象が認識できるだけの高い筆墨技術が必要になる。省略は観察と訓練の結果である。
水墨画は「日本の自然」を描く絵として始まったわけではない
後世の雪舟《天橋立図》などを見ると、日本の実景を水墨で描くことが重要な到達点の一つになる。しかし成立期の山水画の多くは、日本の実景ではなく、中国絵画から学んだ想像上の山水だった。
京都国立博物館は、室町時代の水墨山水画の多くが中国の風景、それも実在しない空想の景色を描いたものだと説明している。日本の画家は中国風の奇岩、楼閣、水辺、遠山を組み合わせ、自ら見たことのない世界を描いた。
この過程を経たからこそ、後に雪舟が日本の現実の地形へ水墨画の技術を適用したとき、その違いが大きな意味を持つ。まず架空の中国山水を描くための視覚言語を習得し、その言語を別の土地へ使う段階が来るのである。
京都だけの現象ではない
水墨画の中心として京都五山が大きな役割を果たしたが、水墨文化は京都だけに限られなかった。京都国立博物館は、鎌倉が武家の都となって以来、京都と並んで早くから禅宗と水墨画が栄え、関東一帯に独自の水墨画文化が形成されたと説明している。
15世紀後半以降には、建長寺の画僧・祥啓を中心とする関東水墨画が大きく発達する。これは本稿の時期より少し後まで続く展開だが、水墨画が京都の一部禅寺だけに閉じず、禅宗ネットワークを通して各地域へ拡散したことを示している。
新しい画法が全国化するためには、作品が移動するだけでなく、人間が移動する必要がある。僧侶が寺から寺へ移り、弟子を育てることで、筆法も地域を越えて広がる。
水墨画と「日本らしさ」
現在、水墨画は日本美術を代表する表現の一つとして世界的に認識されている。しかしその成立過程を見ると、出発点は非常に国際的だった。南宋・元の絵画を輸入し、中国の禅僧に学び、中国故事と中国山水を描き、中国の筆法を模倣するところから始まっている。
つまり、水墨画が日本美術の伝統になるまでには、外来文化を徹底的に学ぶ期間があった。日本的な独自性を最初から探すのではなく、まず外部の高度な形式を自分たちの文化の中へ移植する。
その後、寺院、幕府、地域社会、異なる画家の身体を通過するうちに、表現は徐々に変化する。如拙、周文、雪舟の作品を並べれば、中国絵画を参照しながらも、それぞれ異なる空間と線が生まれていることが分かる。
14~15世紀、水墨画成立の意味
日本の水墨画は、墨という新しい材料が発見されたことで始まったのではない。墨は書や白描画ですでに長く使われていた。変わったのは、墨だけでどこまで世界を表現できるかという発想と、そのための中国絵画の技術体系が本格的に導入されたことである。
14世紀には、可翁や良全、黙庵らによって禅宗人物画や仏教的主題の水墨表現が発達する。明兆は東福寺という巨大禅院を背景に、水墨と彩色の双方を使いながら大規模な絵画制作を行った。15世紀初頭の如拙《瓢鮎図》では、絵、禅問答、漢詩、将軍文化が一枚の画面へ集まる。そして周文の時代になると、水墨山水が室町絵画の中心的な形式の一つへ成長する。
この流れの中で、墨は単なる黒い絵具ではなくなった。濃淡によって光と距離を作り、にじみによって霧を作り、かすれによって岩や樹皮を作り、余白によって水と空気を作る。紙の上に存在しないものまで、墨と白によって感じさせることができる。
また、水墨画を支えたのは画家だけではない。中国から作品を運んだ僧、寺院でそれを保存した人びと、画面へ詩を書いた五山僧、制作を命じた足利将軍、作品を収集し改装した所有者がいる。水墨画は、絵画技法であると同時に、禅林と幕府を中心とする文化制度の中で成立した。
15世紀後半、その制度の中から雪舟等楊が現れる。雪舟は相国寺で周文の系譜を学びながら京都を離れ、さらに明へ渡り、中国そのものを経験した上で、日本各地の風景と自らの筆墨を結びつけていく。次の記事では、成立した日本水墨画を一段階先へ進めた雪舟を取り上げ、「中国画を学ぶこと」と「自分の絵を作ること」がどのように両立したのかを詳しく見ていく。
参考資料
- 東京国立博物館「禅と水墨画―鎌倉~室町」
- 東京国立博物館「重要文化財 蜆子和尚図」
- 東京国立博物館「禅と水墨画―鎌倉~室町:周文周辺」
- 東京国立博物館「山水図 伝周文筆・竺雲等連賛」
- 京都国立博物館「特別展 宋元仏画―蒼海を越えたほとけたち」
- 京都国立博物館「重要文化財 遠浦帰帆図」
- 京都国立博物館「不思議な絵―如拙筆『瓢鮎図』―」
- 京都国立博物館「重要文化財 王羲之書扇図」
- 京都国立博物館「幽玄の美―山水画の世界―」
- 京都国立博物館「特別展 東福寺」
- 京都国立博物館「明兆と室町水墨画Ⅰ」
- 相国寺承天閣美術館「承天閣美術館について」
資料確認日:2026年10月1日