Art Library

1910–40年代

創作版画と新版画

近代日本の版画

近代日本の版画には、二つの「新しさ」があった

大正から昭和初期の日本版画を語るとき、しばしば「創作版画」と「新版画」という二つの運動が並べられる。創作版画は、画家自身が下絵を作り、版を彫り、自分で摺ることを重視した。一方、新版画は江戸時代の浮世絵に見られた版元・絵師・彫師・摺師の分業を近代に再編し、高度な木版技術を使って新しい風景や美人、役者を制作した。

表面的には正反対に見える。一人で全工程を行う創作版画は個人主義的で、分業する新版画は伝統的・商業的である、と整理したくなる。しかし実際の歴史はもっと複雑である。創作版画の作家が専門の摺師を使うこともあり、新版画系の作家が自費出版したり、制作全体を自分で統率することもあった。

重要なのは、どちらが「本当の芸術」だったかを決めることではない。版画という複製メディアにおいて、作者性、職人技術、市場、出版、国際流通をどう組み合わせるかという二つの異なる近代化が並行していたことである。

江戸の浮世絵は、一人の作家だけでは作れなかった

浮世絵版画では、絵師が下絵を描き、彫師が版木を彫り、摺師が紙へ摺り、版元が企画・資金・販売を担った。葛飾北斎や歌川広重の名が大きく記憶されているが、完成した一枚には複数の専門家の仕事が重なっている。

多色木版は工程が複雑である。輪郭を彫る主版、色ごとの版、見当による位置合わせ、水分量、顔料、ばれんの力加減。高度な作品ほど一人ですべてを習得するのは難しい。

この分業体制は、版画を大量に生産・販売する都市メディアとして成立させた。一方、明治以降に「美術家とは自分自身で作品を作る個人である」という近代的な作家観が強まると、分業版画の作者は誰なのかという問題が浮上する。

版画は「美術」なのか「商品」なのか

浮世絵は江戸時代には大量に流通する商品だった。役者絵、美人画、名所絵は、現在のポスターや雑誌に近い大衆的機能も持っていた。しかし明治以降、「美術」という制度が整備され、絵画・彫刻が作家個人の作品として美術館や展覧会で評価されるようになる。

版画は複数部存在し、職人分業で作られるため、一点物の絵画とは異なる。誰を作者と呼ぶのか。複製できる作品を美術としてどう位置づけるのか。近代版画は、この制度的な問題に向き合わなければならなかった。

創作版画と新版画は、同じ問題へ別の答えを出した運動だった。

1904年、山本鼎《漁夫》

山本鼎の《漁夫》は1904年に制作された小さな木版画で、現在しばしば日本創作版画の象徴的な出発点として位置づけられる。アートプラットフォームジャパンにも、1904年制作の木版として記録されている。

山本は東京美術学校西洋画科に在学していた。つまり、江戸の木版工房で職人として修業した人物ではなく、近代的な洋画教育を受ける若い美術家が、木版という媒体を自分の表現のために使ったのである。

《漁夫》の歴史的意味は、技巧の華麗さだけにはない。「版画家は自分の絵を他人に彫らせるのではなく、自分で版木へ向かえる」という作者像を示した点にある。

「自画・自刻・自摺」という考え

創作版画は一般に「自画・自刻・自摺」、つまり自分で描き、自分で彫り、自分で摺る理念によって説明される。スミソニアン国立アジア美術館も、創作版画を一人の芸術家がデザインから最終印刷までを行う運動として定義している。

この考えは、版画を絵画と同じ意味で「作家個人の表現」にするために強い力を持った。彫りや摺りを他人へ任せれば、作家の意志が薄まると考えることができる。逆に、彫刻刀の跡や摺りのむらまで自分の手で決めれば、それらすべてが作者の表現になる。

しかし、これは歴史上すべての創作版画作品が厳密に一人だけで制作されたという意味ではない。理念と実際の制作は区別して見る必要がある。

木版を彫る「不器用さ」も表現になる

浮世絵の彫師は、絵師の線を極めて正確に版木へ移す高度な専門家だった。髪の毛のような細線を何本も彫り分ける。その完成度から見れば、美術家自身が彫った初期創作版画は粗く見える場合がある。

しかし創作版画では、その粗さ自体が価値へ変わる。彫刻刀が木へ食い込む跡、不均一な線、版木の抵抗。職人が消していた「制作の痕跡」が、作者の身体性として見える。

版画の上手さを「元絵をどれほど精密に再現したか」から、「彫る行為そのものがどれほど画面へ残っているか」へ変えたことが、創作版画の重要な転換だった。

1907年、雑誌『方寸』

1907年には、山本鼎や石井柏亭らによる美術文芸誌『方寸』が創刊された。アートプラットフォームジャパンには、山本《芝公園》《朝寒》《製版所》、石井柏亭《小閑》など、同誌に掲載された版画作品が多数記録されている。

『方寸』では木版だけでなく石版やジンク版など複数の版技法が試されている。版画は完成作品を展覧会で売るだけでなく、雑誌のページと一体になって流通した。

一点物の油彩画と違い、版画は雑誌へ実物を綴じ込んだり、別刷りとして配布することができる。創作版画の思想が広がる上で、複製可能な印刷メディアは大きな役割を持った。

版画と雑誌は、最初から近い

創作版画の発展には同人誌文化が欠かせない。小さな木版なら、作家自身が複数部を摺って雑誌へ挟み、全国の読者へ送ることができる。

美術館や大規模展覧会へ出品できない若い作家でも、同人誌なら発表場所を作れる。版画は画廊や官展の制度から相対的に自由な媒体になった。

その後の恩地孝四郎や棟方志功の活動でも、版画誌や限定出版が重要になる。近代版画は「一枚の作品」の歴史であると同時に、出版文化の歴史でもある。

1918年、日本創作版画協会

1918年、日本創作版画協会が結成された。アートプラットフォームジャパンは同会の活動期間を1918年から1931年までと記録している。

個々の作家が自分で木版を彫るだけでは、一つの美術分野として社会的地位を得ることは難しい。協会を作り、展覧会を継続し、「創作版画」という名称を反復することで、版画家という専門的な立場を社会へ示すことができる。

創作版画は個人制作を重視した運動だが、その個人性を支えるために団体、雑誌、展覧会という共同制度が必要だった。

恩地孝四郎 — 版画を「心象」へ広げる

恩地孝四郎は1891年生まれで、日本創作版画の中心的人物の一人となった。アートプラットフォームジャパンによれば、1910年代の作品にはムンク、ルドン、カンディンスキー、ドイツ表現主義などからの影響が見られる。

恩地にとって版画は、風景や人物を再現するだけの媒体ではなかった。形、色、線によって感情や詩的な感覚を表すことができる。

これは創作版画を「自分で彫る」という制作倫理だけでなく、「何を表現できるか」という造形上の問題へ進めた。日本版画は浮世絵的な具象主題から抽象へも向かい始める。

版画と抽象は相性がよかった

木版では、版木へ形を彫り、残った部分へ色を付けて摺る。その工程は、自然の連続的な明暗を、線と面へ分解することを要求する。

そのため、版画は最初からある程度「形を単純化する」媒体である。恩地はこの特性をさらに進め、具体的対象から離れて色面や形そのものを作品へした。

写真のように対象を正確に再現する必要がないなら、版木の平面性そのものを造形へ使える。創作版画は、日本における抽象表現の重要な場にもなった。

「自摺」の理念にも例外がある

創作版画の理念を説明するとき、「一人の作家が全部行う」と断言すると実態を単純化しすぎる。たとえば東京国立近代美術館の恩地孝四郎展資料には、1943年刊行の《蟲・魚・介》について「木版(中村二次郎摺)」と記録された作品がある。

恩地ほど創作版画の中心にいた作家でも、出版や制作条件によって専門の摺師へ依頼することがあった。作者性は「本人の手だけが物理的に触れたか」という一点では決まらない。

創作版画の本質は、作家自身が版を表現媒体として主体的に設計することにあり、実際の工程には柔軟性があったと考える方が正確である。

1931年、日本版画協会へ

日本創作版画協会は1931年に洋風版画会と合同し、日本版画協会となった。アートプラットフォームジャパンの団体記録にも、この統合が明記されている。

創作版画が小さな実験運動から、より広い版画界の組織へ成長したことを示す出来事である。

版画家は油彩画家の副業としてではなく、「版画を主な表現とする作家」として集まり、展覧会を行う基盤を持つようになった。

1927年、帝展が創作版画を受け入れる

恩地孝四郎のアートプラットフォームジャパン略歴によれば、帝国美術院展覧会、いわゆる帝展は1927年から創作版画を受理するようになった。

これは制度的に大きい。かつて大衆商品と見られやすかった版画が、国家的な美術展の審査対象として扱われる。

「一人の美術家が自ら制作する版画」という創作版画の理念は、版画を絵画・彫刻と並ぶ近代美術へ押し上げるための運動でもあった。

1935年、東京美術学校に版画研究室

東京藝術大学の沿革資料では、1935年に東京美術学校へ臨時版画研究室が設置されたことが確認できる。版画が官立美術教育の内部へ入ったことを示す。

明治期の東京美術学校には絵画、彫刻、美術工芸があったが、版画の専門教育は長く中心ではなかった。創作版画運動が約30年続いた後に、ようやく教育制度が追いつく。

美術ジャンルは、作家が作品を作っただけでは制度化されない。団体、展覧会、批評、教育が揃って、初めて次世代へ継続的に伝えられる。

平塚運一 — 木そのものを生かす

平塚運一は創作版画の主要作家の一人で、木版の彫りと黒白の強い対比を生かした作品を多数制作した。木目や刀跡を消さず、版木の物質感を画面へ残す。

浮世絵では彫師の技術によって絵師の線を再現することが重要だった。平塚のような創作版画では、彫刻刀の痕跡自体が画家の線になる。

木版は絵を複製するための透明な技術ではなく、木という抵抗を持つ物質との共同制作へ変わった。

棟方志功 — 油画家を目指して版画へ

棟方志功は1903年青森生まれ。東京国立近代美術館の略歴によれば、1924年に油画家を志して上京し、帝展入選を目指した。1926年、川上澄生《初夏の風》を見て版画に目覚めたとされる。

1928年には油画で帝展へ初入選するが、1932年に国画会奨学賞を受けた頃から版画へ道を定めていく。創作版画は、最初から版画専門家だった人だけの運動ではなかった。

洋画を目指した若者が、木版に自分の可能性を見つける。これは20世紀の版画が、絵画より下位の複製技術ではなく独立した美術になりつつあったことを示す。

版画誌が棟方を育てる

アートプラットフォームジャパンには、1932年の創作版画誌『白と黒』に棟方の《童児》《貴女行路》《蝶々と女》《花籠》などが掲載された記録が残る。また『版芸術』でも棟方作品が特集された。

大規模展覧会へ一点出すだけでなく、小さな版画を雑誌へ継続的に発表する。読者は複数作品を手元で見ることができる。

版画誌は若い作家にとって発表場所であり、同時に作品を所有してもらう販売・流通装置でもあった。

1936年、棟方と民藝の出会い

東京国立近代美術館によれば、1936年、棟方が国画会展へ出品した《瓔珞譜・大和し美し版画巻》を契機に、柳宗悦ら民藝運動の人々と知り合う。

創作版画は近代的な個人作家の自己表現を強調する運動だった。一方、民藝は無名の工人による共同的・伝統的な手仕事へ価値を見いだす。理念だけ見れば緊張関係がある。

棟方はその両方と接続した。自分で彫る強烈な個人表現を持ちながら、木版という伝統技術、仏教、民藝的な美意識を取り込む。創作版画の内部も一つの個人主義だけでは説明できない。

一木会 — 戦時下でも続く版画家の共同体

恩地孝四郎は1941年から、自宅で版画研究会「一木会」を開いたことがアートプラットフォームジャパンに記録されている。第一木曜日に集まる版画家の私的な研究会だった。

ここには若い版画家が集まり、作品と技術について交流した。戦後に国際的に知られる斎藤清、関野準一郎らも、この周辺から成長する。

創作版画が「一人で作る」ことを重視しても、作家が孤立していたわけではない。個人制作を支えるための共同体が継続して必要だった。

もう一つの近代化、新版画

創作版画が作家自身による制作を重視したのに対し、新版画は別の方法を取った。江戸時代以来の彫師と摺師の高度な技術を捨てず、近代的な画家と版元によって新しい版画を作ろうとした。

中心人物が版元・渡邊庄三郎である。スミソニアン国立アジア美術館は、渡邊が海外向け日本美術を扱う小林文七のもとで経験を積み、西洋市場の重要性を理解した上で、画家を木版制作へ参加させたことが新版画の成立へつながったと説明している。

伝統技法を守ることと、古い浮世絵をそのまま繰り返すことは違う。新版画は分業制度を残しながら、近代の写実、光、個人性、海外市場を取り込んだ。

版元は「売る人」だけではない

新版画における版元は、完成した作品を店頭で売るだけの商人ではない。どの画家に依頼し、どの主題を作品化し、どの彫師・摺師を組み合わせ、何部制作し、どこで販売するかを調整する。

つまり現代の出版編集者やプロデューサーに近い役割を持つ。渡邊庄三郎の美意識と市場判断は、新版画の作風そのものへ影響した。

分業であるから作者がいないのではない。複数の専門家の創造性を版元が一つの作品へ組織する、別の作者性が成立していた。

橋口五葉 — 新版画の最初期

江戸東京博物館は、橋口五葉を新版画運動で最初に作品を打ち出した重要作家として紹介している。五葉は東京美術学校で西洋美術教育を受け、浮世絵研究にも深く関わった。

新版画において重要なのは、江戸の絵師をそのまま復活させたわけではないことである。西洋画を学んだ近代画家が、浮世絵の木版技法を再検討した。

西洋的な立体感と、浮世絵の平面・線・雲母摺などが同じ画面へ入る。伝統の復活ではなく、伝統技術を使った近代美術だった。

橋口五葉《化粧の女》

メトロポリタン美術館所蔵の《化粧の女》は1918年制作である。若い女性の顔と身体には柔らかな立体感があり、髪、絞りの布、鏡などには極めて細密な木版技術が使われる。

メトロポリタン美術館は、五葉が鈴木春信、鳥居清長、喜多川歌麿など浮世絵師を研究しつつ、欧州絵画から得た写実感を取り入れたと説明している。

さらに五葉は制作を自ら出版し、彫師・高野七之助、摺師・染川勘三ら専門職人を用いた。これは「分業=版元に支配される」という単純な図式が成立しない例である。作家が分業を自分の管理下へ置くこともできた。

伊東深水《対鏡》— 1916年の転換

伊東深水の《対鏡》は1916年制作で、メトロポリタン美術館はこれを深水と渡邊庄三郎の最初の共同制作と位置づけている。赤い着物の女性が鏡を見ながら髪を整える姿を描く。

主題だけ見れば歌麿以来の美人画を思わせる。しかし女性の首や顔には柔らかな立体感があり、室内の人物を近代的な写実感覚で見ている。

過去の浮世絵図像を復元するのではなく、1910年代の女性を、浮世絵系木版の技術で描く。新版画の「新しさ」は、この現在性にあった。

美人画は「伝統女性像」だけではない

新版画の美人画には着物の女性が多く、海外から見ると伝統的な日本のイメージに見えやすい。しかしモデルは同時代の芸者、給仕、都市女性だった。

髪型、化粧、室内、衣服は時代とともに変化している。1930年代になると、小早川清の《近代時世粧ノ内 ほろ酔い》のように、モダンガール的な都市女性を直接扱う作品も現れる。

新版画は過去を保存するだけではなく、「現代の日本らしさ」を木版でどう見せるかというメディアでもあった。

川瀬巴水 — 風景版画を近代都市へ

川瀬巴水は新版画を代表する風景版画家である。江戸東京博物館所蔵の《塩原おかね路》は1918年制作で、巴水が新版画へ本格的に取り組み始めた初期作品の一つである。

巴水は日本各地を旅行し、寺社、海岸、雪景色、雨、夕暮れなどをスケッチし、それを渡邊のもとで木版化した。版画は写生の直接的な複製ではなく、彫りと摺りによって光と天候が再構成される。

広重の名所絵を思わせる一方、巴水が描く駅、電線、復興後の橋、都市郊外には20世紀の日本が入り込んでいる。

《芝増上寺》— 雪の白を「摺らない」ことで作る

メトロポリタン美術館所蔵の川瀬巴水《芝増上寺》は1925年、《東京二十景》の一作である。大きな寺門の前を、傘を差した女性が雪の中を歩く。

木版画では、白い雪を白絵具で塗る必要はない。紙の白を残せばよい。一方、空、門、傘、衣服は複数の版を重ね、雪の中の色彩を調整する。

版画では「何を印刷しないか」も造形になる。巴水の雪景色は、紙という物質そのものを光として使っている。

同じ版木から、時間を変えられる

木版では色版を変えることで、同じ構図を異なる時間帯や天候へ変化させることができる。明るい空を夜へ変え、青を強めて霧や雨を作る。

新版画の摺師は、単に指定色を機械的に置く人ではない。水分量、ぼかし、ばれんの力、顔料濃度によって光と空気を作る。

絵師の原画が同じでも、摺りの判断が完成像を大きく左右する。この点からも、新版画は複数作者による共同制作と考える必要がある。

新版画は海外市場を強く意識した

渡邊庄三郎は海外日本美術市場の経験を持ち、新版画は早い時期から欧米の収集家を重要な顧客としていた。伊東深水《対鏡》も、メトロポリタン美術館によれば当初外国市場を意識して英語題まで与えられた。

スミソニアン国立アジア美術館も、新版画を渡邊の国際市場感覚から生まれた運動として説明している。海外の顧客は、近代日本人が作る伝統木版の高度な技術へ強い関心を示した。

そのため新版画は、日本国内の画壇評価だけでなく、外国の収集家や美術商の嗜好によっても方向づけられた。

「外国人が好む日本」を作ったのか

新版画の美人、寺社、雪景色、富士、農村を見ると、外国人が期待する日本像を商品化したと批判することもできる。実際、海外市場の存在は主題選択へ影響した。

しかし、それだけで新版画を説明すると、同時代の都市、鉄道、橋、夜の銀座などを描いた作品や、作家個人の風景感覚が見えなくなる。

市場に合わせることと、作家が自分の視覚を持つことは両立し得る。新版画は商業性を持つから芸術性が低いのではなく、商業制度の中でどこまで表現を作れるかという別の問題を持っていた。

外国人作家も新版画へ参加する

江戸東京博物館は、関東大震災以前の新版画には日本画家・洋画家だけでなく外国人作家も参加したことを指摘している。渡邊庄三郎は、外国人作家のデザインも日本の彫師・摺師によって木版化した。

ここでは「日本人が日本の伝統を守る」という民族的な枠組みだけでは説明できない。日本の木版技術そのものが国際的な制作システムとして機能する。

新版画の近代性は、伝統技術を国境を越えて利用できる制作プラットフォームへ変えたことにもある。

1923年、関東大震災

関東大震災は新版画にも大きな打撃を与えた。江戸東京博物館は、新版画が震災によって壊滅的な被害を受けながら、その後制作を再開したと説明している。

版画制作では版木と在庫が失われれば、同じ版を再び摺ることができない。橋口五葉の版木や残存作品も震災で多く失われたことがメトロポリタン美術館に記録されている。

版画は複製芸術だから何度でも作れるように見える。しかし、その複製可能性は物理的な版木が残っていることを前提とする。震災は版画の「原版」の脆弱さを示した。

震災後の東京を新版画が描く

震災から復興する東京では、橋、道路、商店街、銀座など都市景観が変化した。江戸東京博物館は、新版画が震災後のモダニズムの空気を作品へ取り込んだことを展覧会で大きく扱っている。

笠松紫浪《春の夜 銀座》のような作品では、木版という江戸以来の技法で、電灯と近代都市の夜を描く。

「伝統木版=古い日本」という図式はここで崩れる。古い技術は、最も新しい都市景観を表現することもできた。

吉田博 — 二つの運動の間に立つ

吉田博は、創作版画と新版画を二分する分類の難しさを示す作家である。もともと洋画家として国際的に活動し、1920年代半ばから木版制作へ本格的に取り組んだ。

吉田作品には「自摺」と記された印があるものが多く、スミソニアンやボストン美術館も作品情報で「jizuri」「printed by the artist」と記録している。一方、吉田は自らの工房で彫師・摺師と協働して高度な多色木版を制作したことでも知られる。

つまり「自分で制作を統率する作家」でありながら、専門職人との分業技術も積極的に使う。創作版画/新版画という二項対立の中間領域が存在した。

吉田博の「自摺」は、作者性の印でもある

吉田の《ナイアガラ瀑布》《露営 北岳間ノ岳》などには「自摺」の表示があり、ボストン美術館はその印刷を吉田自身によるものとして記録している。

同時に、吉田の制作全体を見ると、木版の高度な分業技能を否定したわけではない。重要なのは、自分が原画だけを渡して終わるのではなく、最終的な摺りの質まで作家が強く管理することだった。

作者性は「誰の手が版木を彫ったか」だけではなく、「誰が作品全体の決定権を持ったか」という問題でもある。

世界の風景を、日本の木版で作る

吉田博は1925年に《米国之部》《欧州之部》などの木版シリーズを制作した。アートプラットフォームジャパンには《エル キャプタン》《グランドキャニオン》《ナイアガラ瀑布》《ユングフラウ山》《アゼンスの古跡(夜)》などが記録されている。

江戸時代の木版技術で、アメリカの国立公園やヨーロッパの都市を描く。これは「日本の木版=日本的主題」という組み合わせを完全に外している。

技法の伝統と主題の国籍は一致しなくてよい。近代版画では、木版が国際的な風景表現の媒体へ変わった。

同じ版を色違いで摺る

吉田博は同じ版木を用いて、朝、昼、夕、夜など異なる光の状態を表す試みを行った。水性木版は色とぼかしを変えることで、同じ構図から複数の時間を作ることができる。

これは版画が「同じものを大量複製する」だけの媒体ではないことを示す。同じ版木を共有しながら、一枚ごとに異なる色彩設計を作れる。

複製性と差異が同時に存在することが、版画特有の面白さである。

創作版画と新版画は、本当に対立していたのか

思想上、両者には明確な違いがあった。創作版画は作家自身が制作工程を担うことを重視し、新版画は専門職人による分業の高度さを生かした。

しかしスミソニアン国立アジア美術館は、両者が完全な対極ではなかったと明確に指摘している。どちらも日本画や西洋絵画の近代的な視覚から刺激を受け、版画を「美術」の地位へ引き上げようとした。

違いは美術か商業かではなく、美術家の意志を版画へ実現するために、どの制作システムを選ぶかにあった。

「一人で作ること」が絶対に優れているわけではない

近代美術では個人作家の独創性が重視される。そのため、全工程を一人で行う創作版画の方が、現代的な芸術観には分かりやすい。

しかし分業によって初めて実現できる精密な彫り、繊細なぼかし、多色摺もある。橋口五葉や川瀬巴水の作品は、専門職人がいたからこそ到達できた質を持つ。

共同制作を作者性の欠如と考えるより、複数の専門技術を統合する別の創造モデルと考えた方が、版画史を豊かに理解できる。

「自分で作ること」にも限界がある

逆に、すべての工程を一人で行えば必ず自由になるわけでもない。彫りと摺りの技能をすべて習得するには長い時間が必要で、複雑な多色木版では技術的限界も生まれる。

創作版画の作家は、その制約を表現へ変えた。少ない版、強い刀跡、単純な色面を生かす。不得手な技術を職人技へ近づけるのではなく、自分の手の痕跡を作品へする。

二つの運動は、技術的条件の違いをそれぞれ異なる美学へ転換した。

海外では新版画が先に高く評価される

江戸東京博物館によれば、新版画は欧米の新聞や雑誌でも紹介され、1920年代末から30年代にかけて海外で評価が急速に高まり、「現代日本美術」の代表の一つとして受け入れられた。

ロバート・O・ムラーは1931年、ニューヨークの日本美術店で新版画と出会い、その後大規模なコレクションを形成した。現在そのコレクションはスミソニアン国立アジア美術館に重要な形で残る。

日本国内の美術史上の評価と、海外市場での人気は必ずしも一致しない。新版画は国際収集市場によって保存された側面が大きい。

海外コレクションが日本の版画史を保存する

版画は紙作品であり、光や湿気に弱く、国内では消耗品として扱われたものも多い。一方、外国の収集家が早くから保存したため、良好な状態で残った作品も多い。

これは浮世絵と似た構造である。海外での高評価が、後に日本国内で再発見するための資料を残した。

「海外へ流出した」という一方向の損失だけではなく、国際的な収集が保存・研究基盤になった側面も見る必要がある。

創作版画は、戦後に国際評価を大きく伸ばす

戦前の段階では、新版画の方が海外市場へ直接的に強く接続していた。一方、創作版画の国際的評価は戦後に大きく伸びる。

棟方志功は1955年のサンパウロ・ビエンナーレで版画部門最高賞、1956年のヴェネチア・ビエンナーレで国際版画大賞を受賞する。恩地の周辺からも、戦後の国際版画界へ進む作家が育つ。

この記事の時期を越えるが、この戦後評価を見ることで、1910〜40年代に作られた創作版画の教育・団体・出版基盤が後に大きな意味を持ったことが分かる。

版画は「複数ある原作」である

絵画では通常、一枚のカンヴァスが原作で、複製図版は二次的なコピーと考えられる。版画では同じ版から摺られた複数枚が、それぞれ原作品になり得る。

この性質は近代美術の「唯一のオリジナル」という価値観を揺らす。同じ作品を東京、ニューヨーク、ボストンの収集家が同時に所有できる。

版画の近代性は、制作技法だけでなく、作品が複数存在するという流通構造そのものにあった。

しかし、すべての一枚が完全に同じではない

手摺木版では、顔料の濃さ、水分量、ばれんの圧力、ぼかしによって一枚ごとの差が生まれる。版木が摩耗すれば後摺の線も変化する。

版画は機械的な完全複製ではない。同じ版を共有しながら個体差が存在する。新版画のコレクターが初摺や特定の摺り状態を重視するのもこのためである。

「複製」と「一点性」は対立しない。版画はその中間に位置する。

市場は版数と希少性を作る

版画は多く摺れるから価格を下げ、多くの人へ届けられる。一方、限定部数を設定すれば希少性を作ることもできる。

近代版画では作家署名、番号、限定部数、版元印などが作品価値へ関わるようになる。版画の複製性は、大量普及だけでなく、近代的な限定版市場にも使われた。

「複製だから大衆的」「一点物だから高級美術」という単純な区分は、20世紀版画では成立しにくい。

1910–40年代|創作版画と新版画

20世紀前半の日本版画には、二つの異なる近代化が並行していた。山本鼎《漁夫》を象徴的な出発点とする創作版画は、「自画・自刻・自摺」の理念によって、版画を作家個人の直接的な表現へ変えた。1907年の『方寸』、1918年の日本創作版画協会、1927年の帝展受理、1935年の東京美術学校版画研究室へと進み、版画は独立した近代美術分野として制度化されていく。

その一方、渡邊庄三郎を中心とする新版画は、江戸時代の版元・絵師・彫師・摺師という分業を捨てなかった。橋口五葉、伊東深水、川瀬巴水らの近代的な視覚を、熟練職人の彫りと摺りによって木版化し、国内だけでなく海外市場へ届けた。関東大震災で大きな被害を受けても復興し、昭和初期には日本の近代都市と風景を伝える国際的な版画となった。

しかし両者を「個人芸術対商業分業」と固定することはできない。恩地孝四郎が専門摺師を使うことがあり、橋口五葉は自ら出版して職人を統率し、吉田博は「自摺」を掲げながら高度な分業技能を自分の制作体系へ組み込んだ。実際の制作は、理念より柔軟だった。

創作版画と新版画が共有した最大の課題は、「版画を近代の美術としてどう成立させるか」だった。一方は作者の手を前面に出し、もう一方は共同制作の技術を近代化した。どちらも浮世絵をそのまま保存したわけではなく、版画の作者、技術、市場、複製という条件を20世紀に合わせて作り直したのである。次の記事では同じ1920〜30年代に、柳宗悦らが名のある美術家ではなく無名の工人が作った日用品へ価値を見いだした民藝運動へ進み、「作者の個性」を重視した近代美術とは別の美の考え方を見ていく。

参考資料

資料確認日:2026年10月2日