Art Library

1960–70年代

日本の写真と『PROVOKE』— 森山大道、中平卓馬

『PROVOKE』は、わずか3号しか出ていない

日本の戦後写真史を語るとき、『PROVOKE(プロヴォーク)』は巨大な存在として扱われる。しかし雑誌そのものは長く続いたわけではない。1968年11月に創刊され、1969年までに3号を刊行し、1970年の総括的な出版『まずたしからしさの世界をすてろ―写真と言語の思想』をもって活動を終えた。長期雑誌でも大部数の商業誌でもない。

それにもかかわらず、東京都写真美術館は『PROVOKE』を「近代的写真表現が構築した『写真』の枠組みを根源的に問いかけた」雑誌として位置づけ、SFMOMAも戦後日本写真の進路を変えた重要な集団として扱っている。歴史的な影響力は刊行年数や号数と比例しない。

『PROVOKE』が残したものは、一つの完成した写真様式だけではない。写真は現実を正確に写すものなのか、写真家は世界をどこまで理解して撮ることができるのか、写真と言葉はどのような関係を持つのか。そうした問いそのものが、その後の写真家へ長く残った。

「アレ・ブレ・ボケ」という見た目から入る

『PROVOKE』の写真は、一般に「アレ・ブレ・ボケ」と呼ばれる。粒子が荒れ、カメラが動き、ピントが外れ、黒と白のコントラストが強く、水平線が傾く。従来の写真教育なら失敗とみなされかねない要素が、画面の中心へ出ている。

東京都写真美術館は、この表現を、それまで写真に要求されていた「正確なピント」「細部の明瞭な描写」といった近代写真の枠組みを破壊する試みとして説明している。写真の技術的完成度を上げる方向ではなく、「良い写真」とされる技術基準を一度疑う方向へ進んだのである。

ただし『PROVOKE』を「わざとピンボケに撮るスタイル」とだけ理解すると、その問題意識は急速に薄くなる。なぜ写真を不鮮明にしなければならなかったのか。そこから考える必要がある。

そもそも写真は、世界を正確に記録できるのか

カメラは機械なので、人間の手描きより客観的に現実を記録できるように思える。報道写真や記録写真では、その性質が写真の信頼性を支えてきた。

しかしカメラを向ける人は、どこに立つか、いつシャッターを切るか、何を画面の外へ出すかを選ぶ。現像、トリミング、印刷、掲載する雑誌によっても意味は変わる。写真は現実の痕跡を持つが、現実そのものではない。

『PROVOKE』の写真家と批評家は、この不安定さを隠して「客観的な記録」のように見せるより、写真が世界をうまく捉えきれない状態そのものを露出させようとした。

前史は1950年代のVIVOにある

『PROVOKE』以前の戦後写真では、東松照明、奈良原一高、細江英公、川田喜久治、佐藤明、丹野章らが1959年にセルフエージェンシーVIVOを結成した。東京都写真美術館とSFMOMAは、VIVOを既存の報道・記録写真とは異なる、個人的で批評的な写真表現を切り開いた重要な集団として位置づけている。

東松はアメリカ軍基地、長崎、急速に変わる都市を撮り、細江は土方巽との共同によって演劇的で身体的な写真を作り、奈良原は個人の内面と社会空間を組み合わせた。写真は「社会を外側から客観的に観察する」だけではなく、写真家自身の感覚を通して現実を変形して見せるようになった。

『PROVOKE』はこの戦後写真の刷新をさらに押し進める。VIVOが写真家の主観を強くしたとすれば、『PROVOKE』では写真家自身の視覚さえ信頼できるのかが問われていく。

東松照明は『PROVOKE』のメンバーではない

『PROVOKE』と東松照明は非常に近い写真史上の流れにあるが、東松を『PROVOKE』同人とするのは誤りである。彼は直接のメンバーではない。

一方、中平卓馬は後年、東松の写真を見て写真家になることを決めたと語っている。森山大道も細江英公の助手を経験しており、『PROVOKE』世代は戦後第一世代の写真家との実際の人間関係を持っていた。

世代交代は、旧世代を完全に否定してゼロから始めたのではない。東松や細江が開いた主観的・批評的な写真を見た次の世代が、その方法さえさらに疑うという連続性があった。

1968年、日本全体が揺れていた

『PROVOKE』創刊の1968年は、写真史だけで特別だったわけではない。学生運動、ベトナム戦争への反対、成田空港建設をめぐる闘争、1970年の日米安全保障条約更新を前にした政治的緊張など、社会運動が激しく展開した時期だった。

同時に、日本は高度経済成長の最中にあり、高速道路、鉄道、ビル、広告、テレビ、商品が都市を急速に変えていた。1964年東京オリンピック後の都市開発は続き、1970年には大阪万博が予定されている。

「社会が急速に変わっているのに、静止した一枚の明晰な写真で世界を説明できるのか」。『PROVOKE』の写真表現は、こうした時代の速度と不確実性を背景にしている。

1968年「写真100年―日本人による写真表現の歴史展」

『PROVOKE』を理解するうえで決定的に重要なのが、同じ1968年に開催された「写真100年―日本人による写真表現の歴史展」である。日本写真家協会が主催し、6月1日から12日まで東京・池袋西武百貨店で開催された。

SFMOMAの研究によれば、この展覧会は日本の写真家が自国の写真史を大規模に収集・検証した最初期の重要な試みで、東松照明を中心に、中平卓馬、多木浩二、内藤正敏らが調査・編集へ参加した。幕末から1945年までの写真を全国から集め、写真が近代日本社会でどのような役割を果たしたかを再検討した。

重要なのは、若い写真家たちが未来だけを見ていたのではなく、新しい写真を始める直前に過去の写真史を徹底的に調べたことである。

戦争中、写真は何をしていたのか

「写真100年」展では、芸術写真や商業写真だけでなく、植民地、満州、戦争、国家宣伝に関わる写真も歴史の中へ入れられた。SFMOMAは、この展覧会が日本の写真と戦時体制の関係を公に検証する重要な機会だったと評価している。

写真は現実を正確に記録する道具であるという信頼が、国家宣伝にも利用され得る。写真が「事実の証拠」に見えるからこそ、政治的な力を持つ。

中平と多木にとって過去の写真史を調べることは、新しい美学の参考資料を探すだけではなかった。「写真の客観性」という価値そのものを疑う契機になった。

写真史を学んだ直後に、写真の言語を壊す

SFMOMAは、「写真100年」展の調査を通して中平卓馬と多木浩二が日本写真の過去の言語を理解し、その直後に『PROVOKE』でその言語を拒否したと整理している。

つまり『PROVOKE』は、写真史を知らない若者が無秩序に写真を壊した運動ではない。何が日本の写真を作ってきたかを膨大な資料から確認したうえで、その枠組みでは現在を捉えられないと判断した。

歴史を学ぶことと歴史を壊すことは矛盾しない。むしろ何を壊すべきかを知るために、歴史研究が必要だった。

創刊メンバーは写真家だけではない

『PROVOKE』第1号は1968年11月、中平卓馬、多木浩二、高梨豊、岡田隆彦を同人として刊行された。森山大道は第2号から加わった。

中平と高梨は写真家、多木は批評・思想・建築論など複数領域を横断した書き手であり写真も撮り、岡田隆彦は詩人・美術評論家だった。写真家だけを集めた同人誌ではない。

題名の下には「思想のための挑発的資料」という言葉が付けられた。写真を完成した芸術作品として鑑賞するだけでなく、思考を刺激する「資料」として使おうとする立場が最初から示されている。

「思想のための挑発的資料」

この副題は、『PROVOKE』の目的を考える上で非常に重要である。写真そのものが完成した思想を説明するのではない。見る人の思考を挑発する材料になる。

新聞写真のように「この出来事はこういう意味です」と明瞭に情報を渡す写真ではなく、何が写っているかさえ不安定な写真を置く。読者は自分で画面へ入り込み、考えなければならない。

写真を「答え」から「問い」へ変える。そのために、明瞭さを失わせることが意味を持った。

写真と言葉は、互いを説明しない

写真雑誌では通常、写真へキャプションや記事を付け、画像の意味を言葉で補足する。写真が曖昧でも、文章を読めば何が起きたか分かる。

『PROVOKE』では、写真と言葉をそのような説明関係へ固定しなかった。多木や中平の批評文、岡田の詩と写真が並ぶが、文章が個々の写真の正解を教えるわけではない。

写真と言語が互いを完全に翻訳できない状態を保つ。雑誌という形式そのものが、写真と言葉の緊張を実験する場所だった。

中平卓馬 — 批評家から写真家へ

中平卓馬は1938年東京生まれ。雑誌『現代の眼』の編集者として活動した後、1965年頃から本格的に写真を撮り始めた。最初から「純粋な写真家」としてキャリアを始めた人物ではない。

批評と言語への強い意識を持ったままカメラを使うため、中平の写真実践では「写真と言葉は何が違うのか」という問いが常に残る。

『PROVOKE』でも写真と理論の両方を担い、雑誌終了後も自分の写真方法を文章で繰り返し批判・修正した。この自己批判性が中平の大きな特徴である。

中平の写真は「見る前に撮る」方向へ進む

ブレ、傾き、ピンボケが生じる写真では、カメラを完全に固定し、構図を慎重に決めてから撮る必要がない。歩きながら、夜の街で、瞬間的にシャッターを切れば、身体の揺れや機械の限界がそのまま像へ残る。

撮影者が世界を理解し、適切な構図へ整理してから写真にするのではなく、理解より早く反応する。カメラは「すでに知っているものを記録する道具」から、「まだ言葉にならないものへ触れる装置」へ変わる。

中平にとって、写真の不鮮明さは雰囲気作りではなく、世界を意味へ整理してしまう前の接触を求める方法だった。

多木浩二 — 写真を理論の問題へする

多木浩二は『PROVOKE』の写真と言語を支えた中心人物の一人である。建築、デザイン、写真、身体、都市などを横断して批評し、写真を単なる撮影技法の問題へ閉じ込めなかった。

『PROVOKE』の特徴は、写真家が新しい画像を作り、批評家が後から説明したのではないことである。制作と理論が同じ雑誌の編集会議でぶつかり、何を写真と呼ぶかを共同で考えた。

戦後日本写真では、写真家と批評家の共同作業が新しい表現を生む重要な条件になった。

高梨豊 — 『PROVOKE』を一種類の写真へまとめない

高梨豊も創刊メンバーであり、都市を主要な対象として撮影した。後に1974年に出版される写真集『都市へ』には、『PROVOKE』期に撮影・発表された写真が多く含まれていることをSFMOMAが指摘している。

高梨の写真まで森山や中平と全く同じ「ブレ・ボケ」として一括すると、雑誌内部の差異が見えなくなる。撮影距離、都市への視線、印刷上の構成にはそれぞれ違いがあった。

『PROVOKE』は統一された撮影マニュアルを共有したグループではない。写真と言語の既存制度へ疑問を持つ複数の実践が、一冊の雑誌で衝突した場所だった。

岡田隆彦 — 写真誌へ詩人がいる意味

岡田隆彦は詩人・美術評論家として参加した。写真を専門技術の内部だけで論じるのではなく、詩、言語、美術批評を同じ誌面へ入れる役割を担った。

写真が言葉では捉えきれない現実を扱うとしても、そのことを考えるためには言葉が必要になる。『PROVOKE』は「写真か言葉か」という二択ではなく、互いに不足する二つをあえて同じ場所へ置いた。

写真家だけの雑誌にしなかったことが、単なる新写真スタイルではなく「思想のための資料」という性格を強くした。

森山大道は第1号にはいない

森山大道は現在、『PROVOKE』を代表する写真家として最も広く知られている。しかし創刊メンバーではなく、第2号から中平卓馬の誘いで参加した。

この順序は重要である。森山の写真が『PROVOKE』によって初めて生まれたわけではない。彼はそれ以前から写真家として活動し、1968年春には最初の写真集『にっぽん劇場写真帖』を出版していた。

森山と『PROVOKE』は互いに影響し合ったが、「雑誌が森山のスタイルを作った」と単純化することはできない。

森山大道《にっぽん劇場写真帖》

1968年に出版された『にっぽん劇場写真帖』には、旅回りの芸人、ストリップ劇場、路地、都市の夜など、戦後日本の周縁的な風景が収められた。

SFMOMAは、森山の写真が1960年代日本の不安、社会的緊張、都市生活の暗部を、明瞭な報道写真とは異なる方法で表したと説明している。

森山にとって都市は、全体を俯瞰して説明する対象ではない。歩いている身体が断片的に遭遇する光景であり、写真もその断片性を保ったまま提示される。

森山は『PROVOKE』内部でも政治的立場が同じではない

『PROVOKE』は1968年の政治的緊張の中で生まれ、中平は政治思想と強く関わっていた。一方、SFMOMAは森山がこの政治的なグループの中で比較的非政治的な立場を保っていたと整理している。

森山自身も、政治綱領より日常の中に漂う反抗や批判の感覚に刺激されたと振り返っている。

同じ雑誌へ参加したからといって、全員が同じ政治思想を共有していたわけではない。『PROVOKE』のまとまりは思想的一枚岩ではなく、写真への不満と批判性にあった。

ノーファインダーと身体

森山はしばしばカメラを厳密に目へ構えず、歩きながら素早く撮影した。SFMOMAの対話資料でも、身体の移動そのものが像へ入るような撮影方法が指摘されている。

ファインダーで世界を整然と切り取る前にシャッターを切ると、構図は傾き、被写体が途中で切れ、ピントも外れる。しかしその「失敗」が、歩いている身体の速度を写真へ残す。

カメラが「目の延長」だけでなく「身体の延長」になる。『PROVOKE』の写真は、視覚の正確さより、都市を通過する身体の不安定さを写したとも考えられる。

粒子の荒れは、ただのレトロな質感ではない

高感度フィルム、強い増感、粗い印刷などによって粒子が目立つと、被写体の細部は失われる。情報としては減っている。

しかし像が崩れることで、写真紙や印刷物が「透明な窓」ではなく、粒子からできた物質であることが見える。写真が現実そのものではなく、機械・フィルム・現像・印刷を通過した像だという事実が前面へ出る。

アレは雰囲気を付けるフィルターではなく、写真という媒体の物質性を露出させる働きを持った。

ブレは「世界が動いている」ことを残す

カメラが動けば被写体の輪郭は流れる。通常はシャッタースピードを上げ、手ブレを防いで正確な像を作る。

しかし人間が都市を歩いて見る時、視界は常に固定されているわけではない。振り返り、走り、光へ反応し、瞬間的に何かを見る。

ブレは対象そのものの形を明確にするより、「見ている身体が安定していない」という事実を記録する。客観的なカメラという神話へ、撮影者の身体を戻す方法だった。

ボケは情報を失わせ、意味を増やす

ピントが外れれば、何が写っているか分かりにくくなる。報道写真なら情報伝達に不利である。

一方、対象を完全に特定できない写真では、観客は自分で像を読み取ろうとする。意味が一つに固定されず、記憶や感覚が入り込む余地が増える。

写真の情報量を増やすのではなく、あえて欠損させることで観客の解釈を活性化する。この方法は、前の記事で扱ったオノ・ヨーコの「作品を減らして観客の想像を増やす」指示作品とも、異なる媒体ながら同時代的に響き合う。

「アレ・ブレ・ボケ」は後から模倣できる

問題は、荒れた粒子、傾いた構図、ピンボケという見た目だけなら簡単に真似できることである。撮影技法として定型化した瞬間、それは新しい美学になる。

SFMOMAによれば、中平卓馬は『PROVOKE』終了後、アレ・ブレ・ボケが受け入れられ始めたことで、もともとの批判的な力を失いつつあると考えた。

近代写真の美学を壊すための方法が、「前衛らしい写真」の美学になってしまう。この自己矛盾が、『PROVOKE』を短期間で終わらせ、その後の中平を別の方向へ押し出した。

雑誌という媒体だから成立した

『PROVOKE』は美術館の壁へ一点ずつ写真を掛ける展覧会ではない。ページをめくり、写真の大きさが変わり、見開きがあり、文章が入り、次の写真へ移る雑誌である。

写真の意味は一枚単独だけでなく、前後の写真、余白、印刷濃度、ページ順によって作られる。読者は決められた順序で雑誌を身体的にめくる。

1960–70年代の日本写真で写真集や同人誌が特別に重要になる理由の一つは、写真家が展示壁だけでなく「編集」を作品化できたからである。

1969年、第2号から森山が参加する

第2号から森山大道が参加し、『PROVOKE』の写真表現はさらに強い印象を持つようになる。森山の都市写真、エロス、道路、夜の像は、中平の不安定な写真と並び、後世に「PROVOKE的」と呼ばれる視覚を決定づけた。

しかし、二人の写真が完全に同じではないことは重要である。森山は路上を移動する身体と複製イメージへの関心を強め、中平は写真と言語、政治、風景という理論的問題へさらに深く入る。

同じ雑誌が、同じスタイルの写真家を作ったのではなく、互いに別方向へ進む写真家を短期間だけ強く交差させた。

1969年、森山《Accident》

森山は1969年、雑誌や印刷物にすでに存在する写真をさらに撮影し直す《Accident》などのシリーズを展開した。SFMOMAは、交通安全ポスターなど既存画像を再撮影する方法にウォーホル的な複製への関心を見ている。

写真は現実を直接撮るものだという前提がここで崩れる。すでに写真になったイメージをもう一度カメラで撮れば、「原物」はどこにあるのか分からなくなる。

広告と新聞画像に囲まれた都市社会では、人間が見る現実の多くがすでに写真を経由している。森山は「世界を撮る写真」から「写真に覆われた世界を撮る写真」へ進んだ。

3号で終わる

『PROVOKE』は1969年までの3号で雑誌としての刊行を終える。SFMOMAも、わずか3号の短命な雑誌であったことを強調している。

終了を「人気がなかったから失敗した」と見るべきではない。メンバーの問題意識が急速に動き、同じ方法を継続することそのものが矛盾になっていた。

新しいスタイルを確立して長く守ることではなく、そのスタイルさえ疑う。短命であることが、『PROVOKE』の批判性と無関係ではなかった。

1970年『まずたしからしさの世界をすてろ』

1970年、多木浩二と中平卓馬を中心に、写真と言語をめぐる総括的な書籍『まずたしからしさの世界をすてろ―写真と言語の思想』が刊行された。森山大道の公式年譜も、『PROVOKE』後の重要な出版として同書を記録している。

題名にある「たしからしさ」は、『PROVOKE』が疑ってきたものを象徴する。写真は見たものを確かに伝え、言葉は世界を確かに説明できる。その安心できる関係を一度捨てなければ、新しい表現へ進めない。

雑誌の終了は活動の消滅ではなく、写真と言語の問題をそれぞれの個人制作へ持ち帰る分岐点だった。

1970年、中平卓馬《来たるべき言葉のために》

中平卓馬は1970年、最初の写真集『来たるべき言葉のために』を刊行した。メトロポリタン美術館によれば、192点の粒子の荒い主観的な写真を収録し、その多くは夜の東京を撮ったものだった。

暗い街路、車、建物、人物、光が、はっきりとした物語へ整理されず連続する。写真集全体が、まだ到来していない「言葉」の前段階として像を提示する。

題名そのものが写真と言語の緊張を示している。写真は言葉の代わりではないが、新しい言葉が生まれる前に現実へ触れる手段になり得るのか。その問いが写真集になった。

中平は自分自身のアレ・ブレ・ボケを批判する

中平の重要性は、『PROVOKE』的なスタイルを完成させたことだけではない。それを自分で否定し始めたことである。

SFMOMAは、中平がアレ・ブレ・ボケが受け入れられ、前衛的な効果が通俗的な様式へ変わり始めると、その方法を批判するようになったと説明している。

昨日まで写真の常識を壊した方法でも、明日には新しい常識になる。中平は「自分のスタイルを確立する」という作家像より、写真が何であるべきかを問い続けることを優先した。

「風景論」へ

1970年前後、中平は足立正生、松田政男らが展開した「風景論」と接触する。都市のありふれた道路、住宅、工場、看板などの「風景」そのものに、国家や資本の権力構造が現れていると考える議論である。

ここではドラマチックな政治デモだけを撮れば政治写真になるわけではない。何も起きていない普通の風景にも、社会を組織する力が埋め込まれている。

写真家の仕事は事件を探すことから、日常空間の均質さをどう見るかへ変わっていく。

反抗的な写真にも「スタイル」ができてしまう

アレ・ブレ・ボケは、明晰な写真への反抗として始まった。しかし人気が出れば、粒子を荒くし、カメラを傾ければ「PROVOKE風」の写真を作れる。

その瞬間、反抗は様式になる。美術史で何度も起きてきた問題である。印象派も抽象表現主義も、最初は制度を破壊したが、後には学習可能な表現様式になる。

中平が自己否定へ進んだのは、「新しい写真スタイル」を守るより、この制度化を拒むためだった。

1972年、森山大道『写真よさようなら』

森山大道は1972年、写真集『写真よさようなら』を刊行した。森山自身はSFMOMAのインタビューで、『PROVOKE』終了後、写真そのものを徹底的に解体したいという欲求の中で制作したと振り返っている。

被写体がほとんど判別できない写真、暗室で傷ついた像、偶発的な画面などを積極的に含み、従来の意味で「写真として成立する最低条件」まで疑った。

題名は写真家をやめる宣言のように見えるが、実際には写真を限界まで追い込み、「どこまで壊しても写真なのか」を試す本だった。

森山は写真を壊そうとして、自分が壊れたと振り返る

SFMOMAのインタビューで森山は、『写真よさようなら』によって写真を解体しようとしたが、結果的には写真ではなく自分の方が解体され、その後しばらく普通に写真を撮れなくなったという趣旨の回想をしている。

これは前衛の極端な地点をよく示す。既存のルールを壊せば自由になるとは限らない。写真の基準をすべて疑えば、自分が何を撮ればよいのかという足場もなくなる。

前衛は成功するほど次の問題を作る。『PROVOKE』後の1970年代は、その反動と再構築の時代でもあった。

同じ1972年、森山は『記録』を自費出版する

森山は1972年、写真集『写真よさようなら』『狩人』などを刊行すると同時に、小さな個人写真誌『記録』を自費出版し始めた。公式年譜によれば、最初のシリーズは1973年まで第5号を刊行している。

巨大な写真雑誌や美術館展示ではなく、自分で撮った写真を自分で小さく印刷し、身近な範囲へ配る。『PROVOKE』で経験した雑誌という媒体を、より個人的な流通へ変えたとも考えられる。

写真を撮ることと出版することを切り離さず、自分で媒体を持つ。この方法は後の自主ギャラリーや写真同人誌へ大きな影響を与える。

中平は1973年に「植物図鑑」を求める

1973年、中平卓馬は批評集『なぜ、植物図鑑か』で、それまでの自分の写真を強く批判し、より直接的に対象を記述する写真を求めた。SFMOMAは、この時期に中平がアレ・ブレ・ボケを拒否し、科学的な図鑑の挿図に近い方法を志向したと整理している。

主観を強く押し出した写真が制度化したなら、今度は主観を減らす。これは最初のリアリズム写真へ単純に戻ることではない。

一度「客観性は幻想かもしれない」と疑った後で、それでも世界を対象として見直す方法を探す。中平の1970年代は、自己否定から新しいリアリズムへ向かう試行錯誤だった。

森山と中平は、同じところから別方向へ進んだ

『PROVOKE』時代には森山と中平の写真は共にアレ・ブレ・ボケの代表として語られる。しかし1970年代初頭、二人の方向は分かれる。

森山は『写真よさようなら』で写真の解体をさらに極端に進める。一方、中平は自分のアレ・ブレ・ボケを批判し、対象をより明瞭に記述する方向へ向かう。

同じ運動から出発した二人が、反対方向へ行く。この分岐こそ、『PROVOKE』が統一スタイルの集団ではなかったことを最もよく示している。

1974年、高梨豊『都市へ』

高梨豊は1974年に写真集『都市へ』を刊行した。SFMOMAによれば、収録作の多くは『PROVOKE』期に撮影・発表されたもので、1974年刊行でありながら雑誌時代の実践をまとめた仕事として理解できる。

都市を歩きながら得た断片的な視覚が、雑誌から一冊の写真集へ再編集される。撮影年と出版年がずれることで、写真はその瞬間の記録だけでなく、後から組み直せるアーカイブになる。

『PROVOKE』終了後も、個々のメンバーは雑誌で試した問題を写真集という形式で発展させた。

1974年「15人の写真家」展

1974年、東京国立近代美術館は「15人の写真家」展を開催した。SFMOMAの研究によれば、中平卓馬、森山大道、高梨豊が作家として出品し、多木浩二と岡田隆彦は選考側へ加わった。

わずか数年前まで小さな同人誌で近代写真の制度を批判していた人物たちが、国立美術館の写真展の中心へ入る。

前衛が制度へ「回収された」と見ることもできるが、逆に写真美術館制度の側が『PROVOKE』以後の写真を無視できなくなったとも言える。

「コンポラ写真」も同時に存在した

東京都写真美術館の「日本写真の1968」展は、『PROVOKE』だけでなく、同時期の「コンポラ写真」など異なる写真動向も並べている。

1968年の日本写真全体がアレ・ブレ・ボケになったわけではない。日常の何気ない風景を淡々と撮る写真、社会的記録、広告写真、実験写真が同時に存在した。

『PROVOKE』が重要だからといって、それを1960年代末の日本写真そのものと同一視してはいけない。むしろ複数の写真観が衝突した時代だった。

写真集文化の強さ

森山『にっぽん劇場写真帖』『写真よさようなら』、中平『来たるべき言葉のために』、高梨『都市へ』。この時代を代表する仕事には写真集が多い。

日本の写真家は、展覧会だけでなく本のページ順、印刷、装丁を使って作品世界を作った。海外で後に「Japanese photobook」が独自の研究対象になるほど、写真集は重要な表現媒体となる。

写真が複製可能なメディアである性質を、作品流通の弱点ではなく強みに変えた。

後世に「格好いいスタイル」として消費される危険

現在、アレ・ブレ・ボケは非常に識別しやすい。粒子を粗くし、高コントラストにして、斜めに撮れば、それらしいイメージを作れる。

しかし、スタイルだけを引用すると、本来の「既存の写真制度を壊す」という目的が逆転する。前衛の方法が、写真を格好よく見せるためのプリセットになる。

中平が自分の方法を早くから批判したのは、この問題を本人が同時代に感じていたからでもある。『PROVOKE』を学ぶことは、表面を真似ることではなく、なぜその表面が必要だったかを考えることだ。

1980年代以後の再評価

森山大道自身はSFMOMAのインタビューで、『PROVOKE』は当時すぐ広く支持されたというより、政治的な若者には知られつつ、嫌われたり無視されたりし、1980年代になって若い写真家が再発見したと振り返っている。

歴史的運動は、活動当時から「伝説」だったわけではない。後の世代が古い雑誌や写真集を探し、そこに自分たちの問題と接続するものを見つけることで評価が作られる。

現在の巨大な評価を当時へ投影せず、少部数の実験出版から影響が徐々に広がった経路を見る必要がある。

後続世代への影響

SFMOMAは、北島敬三など1970年代以後の若い写真家が『PROVOKE』の主観性、アレ・ブレ・ボケ、反商業的な姿勢から影響を受けたと指摘している。北島は1975年に森山大道が教えたワークショップ写真学校へ参加し、後に自主ギャラリー「イメージショップCAMP」の活動へつながった。

ここでは『PROVOKE』の影響が、単なる画面スタイルではなく、自分たちで雑誌・学校・ギャラリーを運営する方法へも広がっている。

作品を作るだけでなく、発表場所と流通経路を自分で作る。この自主性も1960–70年代写真から後世へ受け継がれた。

「見ること」は安定しているのか

カメラが正確に写せるという前提の奥には、「人間も世界を安定して見ている」という前提がある。しかし都市を歩く視線は断片的で、記憶も不確かである。

『PROVOKE』の写真は、カメラの失敗だけでなく人間の知覚の不安定さを可視化する。写真が揺れるのは、世界そのものが揺れているからなのか、撮影者が揺れているからなのか。その境界を決めない。

写真を「現実のコピー」ではなく、世界と身体が接触した痕跡として考える可能性がここにある。

1960–70年代|日本の写真と『PROVOKE』

『PROVOKE』は1968年11月、中平卓馬、多木浩二、高梨豊、岡田隆彦によって「思想のための挑発的資料」を掲げて創刊され、第2号から森山大道が加わった。雑誌は1969年までに3号を刊行し、1970年の『まずたしからしさの世界をすてろ―写真と言語の思想』を経て活動を終える。短命だったが、写真が世界を明瞭かつ客観的に記録できるという近代写真の前提を根本から疑ったことで、戦後日本写真の大きな転換点となった。

その前史には、1959年のVIVOと、1968年の「写真100年―日本人による写真表現の歴史展」がある。東松照明を中心に中平と多木らが日本写真史を調査し、戦争・植民地・国家宣伝を含む写真の歴史を検証した。その経験から、過去の写真言語を理解したうえで、それを現在へそのまま継承できないという問題意識が生まれる。『PROVOKE』は歴史を知らずに写真を壊したのではなく、写真史を調べた直後に写真史の前提を壊そうとした。

粒子の荒れ、ブレ、ボケ、傾いた構図は後に「アレ・ブレ・ボケ」と総称される。しかしそれは一つの撮影スタイルを確立するための目的ではなく、撮影者が世界を理解し整理してから写すという構造を崩す方法だった。森山大道は都市を歩く身体と複製イメージへ、中平卓馬は写真と言語、政治、風景へ、高梨豊は都市の断片的な知覚へと、それぞれ異なる方向へ進んだ。

そして『PROVOKE』の最大の特徴は、自分たちの方法を長く守らなかったことにある。1970年の中平『来たるべき言葉のために』、1972年の森山『写真よさようなら』は、アレ・ブレ・ボケをさらに極端へ押し進める一方、中平は1973年にはその方法を自己批判して「植物図鑑」のような別の記述性を求めた。1974年には高梨『都市へ』と東京国立近代美術館「15人の写真家」展によって、『PROVOKE』世代は写真制度の中心へも入っていく。『PROVOKE』が残したものは「荒れた格好いい写真」ではない。写真を一度疑い、成功した自分の方法さえ再び疑うという、写真そのものへの批判的な態度だったのである。次の記事では1968年以降の「もの派」へ進み、写真とは異なる場所で、物質・場所・関係そのものが作品になる転換を見ていく。

参考資料

資料確認日:2026年10月2日