1970年代
戦後日本の映像・メディアアート
1970年代、映像は「映画」だけではなくなった
1970年代の日本美術では、映像をめぐる状況が大きく変わった。映画館で上映するフィルムだけでなく、テレビ受像機、ポータブル・ビデオ、電子的な画像処理、通信回線、複数モニターなどが、作家の表現手段として使われ始めた。
重要なのは、新しい機械が登場したから新しい芸術ジャンルが自動的に生まれたということではない。作家たちは、映画では難しかった即時再生、同時性、フィードバック、送受信、観客参加といった特性を使い、「映像とは何か」「テレビは誰のものか」「見る側と見られる側の関係を変えられるか」を実験した。
後世からはこの時期を「ビデオアート」や「メディアアート」の形成期として整理できる。ただし、当時の作家全員が現在と同じ意味で「メディアアーティスト」を名乗っていたわけではない。映画、美術、音楽、デザイン、テレビ、地域活動の境界がまだ固定されていなかったからこそ、多様な試みが生まれた。
前史には1950年代の実験工房がある
日本で芸術と技術を横断する実践は1970年代に突然始まったのではない。1951年に結成された実験工房では、山口勝弘、北代省三、武満徹、大辻清司らが、美術、音楽、写真、舞台、スライドを組み合わせた作品を制作していた。
1953年には自動スライド装置を用いた発表が行われ、映像と音楽を時間の中で同期させる試みが進められた。山口勝弘の《ヴィトリーヌ》も、固定された絵画面を見るだけではなく、見る位置によって像が変化する視覚装置として制作されている。
実験工房で重要だったのは、特定の新技術を使うことより、既存の美術ジャンルを越えて複数の媒体を組み合わせる姿勢だった。その考えは1960年代以後の環境芸術やビデオ実践へつながっていく。
1960年代、実験映画が美術と映画の境界を揺らす
1960年代には8ミリ、16ミリフィルムを用いる実験映画が急速に広がった。イメージフォーラムの記録によれば、1964–65年頃にはシングル8、スーパー8など簡便な小型映画の普及も進み、美術家、学生、グラフィックデザイナーなどが個人映画を制作するようになった。
飯村隆彦、松本俊夫、かわなかのぶひろらは、商業映画の物語、俳優、スタジオ制作から離れ、フィルムそのもの、身体、知覚、日常、個人の視線を作品化した。
ビデオが登場したから映画が終わったのではない。1970年代には実験映画とビデオが並行し、互いの性質の違いを意識しながら発展していった。
草月アートセンターが映像実験の場になる
1960年代の東京では、草月アートセンターが実験映画、現代音楽、アニメーション、舞台芸術を横断する重要な発表拠点となった。松本俊夫や飯村隆彦らの作品も、こうした既存の映画館とは異なる場所で上映された。
映像を映画産業の内部だけで考えず、美術家、作曲家、ダンサー、詩人が同じ場で使える媒体として扱う環境が形成される。
1970年代のビデオアートを理解するには、ビデオカメラの普及だけでなく、その前に「映像を美術の問題として考える観客と発表場所」がすでに存在していたことが重要である。
1970年大阪万博は、映像・音響技術を巨大化した
前の記事で見た大阪万博では、鉄鋼館の多元音響、みどり館の全天全周映像、松本俊夫のせんい館、E.A.T.のペプシ館など、映像・音響・電子技術が巨大な環境として使われた。
大阪万博は日本のメディアアートの「始まり」ではないが、それまで小規模な実験空間で行われてきた芸術と技術の協働を、企業と国家の巨大資本によって数千万人が体験する規模へ拡張した。
そして万博が終わると、一部の作家は逆に、大規模な企業技術ではなく、小型のビデオ機器を個人や市民が使う方向へ進んだ。巨大技術から手元のメディアへ。この反転が1970年代初頭の大きな特徴である。
フィルムとビデオは何が違ったのか
フィルム撮影では、撮影した像をすぐその場で見ることはできない。現像し、映写機へかけ、スクリーンへ投影する工程が必要になる。一方、ビデオは撮影した映像をテレビモニターへ送り、その場で確認したり、録画直後に再生したりできる。
この時間差の短さが美術家にとって決定的だった。撮影者と被写体が、その場で自分たちの映像を見て次の行動を変えることができる。
映像が「後で上映する記録」だけではなく、「現在起きている状況へ介入する道具」になった。
「録画する」より「返す」ことが重要になる
ビデオの即時再生では、カメラで捉えた像を本人へすぐ返せる。撮られる側は、映像の完成後に初めて自分を見るのではない。
自分の発言や行動をモニターで見て、もう一度話す。別の人がその映像へ反応する。録画、再生、反応、再録画という循環が起きる。
この循環は「フィードバック」と呼ばれ、1970年代の日本のビデオ実践で重要な考えになった。作品は一方向に情報を伝えるだけでなく、人と人の関係を変える装置になる。
テレビは巨大な一方向メディアだった
1970年代初頭、テレビは日本社会へすでに広く普及していた。放送局が制作した映像を、多数の家庭が同じ時間に受信する。送る側は少数で、見る側は圧倒的多数という構造である。
ポータブル・ビデオは、この一方向性への対抗手段として期待された。放送局に勤めていなくても、自分で映像を撮り、自分たちの集まりで上映できる。
「テレビを見る人」が「映像を作る人」へ変わる。その可能性は芸術だけでなく、市民運動、地域活動、教育、コミュニケーションの問題と結びついた。
1971年「ユートピアQ&A 1981」
1972年のビデオひろばに先立つ重要な実験として、1971年のE.A.T.プロジェクト「ユートピアQ&A 1981」がある。ICCの記録によれば、中谷芙二子、小林はくどう、森岡侑士らが日本側で参加し、東京、ストックホルム、ニューヨーク、アーメダバードの四都市をテレックスで結んだ。
参加者は「1981年の社会」を想定した質問と回答を都市間で交換した。作品を一つの会場に置くのではなく、遠く離れた人々が通信回線を通じて同じプロジェクトへ参加する。
現在のネットワーク社会から見れば原始的な通信速度でも、芸術を「物の移動」から「情報の交換」へ変える重要な実験だった。
1972年「ビデオ・コミュニケーション/DO IT YOURSELF kit」
1972年2月24日から3月5日、東京・銀座のソニービルで「ビデオ・コミュニケーション/DO IT YOURSELF kit」が開催された。ICCは、これを日本の初期ビデオアートを考える上で重要な展覧会として記録している。
カナダのビデオ作家マイケル・ゴールドバーグの来日を契機に、山口勝弘、中谷芙二子、小林はくどう、松本俊夫、かわなかのぶひろらが交流し、日本、カナダ、アメリカのビデオ作品が紹介された。
展覧会名にある「DO IT YOURSELF」は、単に自分で撮影機材を操作するという意味ではない。放送局に依存せず、自分たちのメディアを自分たちで作るという態度を示していた。
〈ビデオひろば〉の結成
同じ1972年、〈ビデオひろば〉が結成された。ICCは、マイケル・ゴールドバーグの来日を契機に、山口勝弘、中谷芙二子、小林はくどう、かわなかのぶひろ、宮井陸郎、萩原朔美らが参加した活動として紹介している。
名称どおり「ひろば」であり、統一された作風を持つ美術団体ではなかった。映像作家、美術家、デザイナー、音楽家、批評家らがビデオを使い、芸術から地域社会まで複数の目的を試した。
ビデオひろばを「日本最初のビデオアート集団」とだけ呼ぶと、市民的コミュニケーションへの関心が抜け落ちる。作品制作と社会的なメディア実験が同じ場所で行われたことが重要である。
ビデオひろばは「新しい絵画様式」ではなかった
具体美術協会なら、物質と身体をめぐる共通した問題が作品群に見えやすい。ビデオひろばでは、一人は社会運動を記録し、一人は映像の時間差を実験し、一人は地域住民へカメラを渡す。
共通していたのは画面の見た目ではなく、ビデオという新しい通信媒体をどう使えるかを試す態度だった。
したがって「ビデオひろば様式」という映像表現は存在しない。むしろ、ビデオに一つの芸術様式を押し付けなかったことが活動の特徴だった。
中谷芙二子《水俣病を告発する会―テント村ビデオ日記》
1972年、中谷芙二子は小林はくどうとともに《水俣病を告発する会―テント村ビデオ日記》を制作した。MoMAとICCはいずれも、日本初期ビデオの代表的実践としてこの作品を紹介している。
東京のチッソ本社前で水俣病被害者を支援する人々が座り込みを行う中、中谷たちはポータブル・ビデオで現場を撮影した。
ここで重要なのは抗議活動を後世へ記録したことだけではない。撮影した映像を、その場の人々へすぐ見せることが作品の構造に含まれていた。
モニターを抗議の現場へ持ち込む
MoMAによれば、中谷はバッテリー式テレビモニターを現場へ設置し、参加者が自分たちの行動を録画直後に見ることができるようにした。
テレビで抗議運動が報道される場合、放送局が何を撮り、何を編集するかを決める。しかし自分たちで撮影し、その場で再生すれば、当事者自身が映像を確認できる。
カメラは外部から社会問題を観察する道具から、運動内部の人々が自分たちを見直すコミュニケーション装置へ変わった。
記録と活動を分けない
ドキュメンタリーでは、出来事が先にあり、カメラはそれを記録すると考えられやすい。《テント村ビデオ日記》では、撮影と再生そのものが現場へ入り込み、活動参加者の認識へ影響する。
映像は出来事の「後の証拠」ではなく、その場の出来事を変える要素になる。
ビデオによる社会記録は、中立的な記録か政治的な宣伝かという二択ではなく、撮る人と撮られる人がどのような関係を作るかという倫理的・社会的問題へ広がった。
中谷芙二子 — 霧からビデオへ
中谷芙二子は1970年大阪万博のペプシ館で人工霧の環境作品を制作し、E.A.T.を通じて芸術家とエンジニアの国際的協働を経験していた。その直後にビデオへ進んだことは象徴的である。
万博では巨大企業館を覆う霧を作り、1972年には手持ちカメラとテレビを社会運動の現場へ持ち込む。同じ作家の活動が、巨大技術と草の根メディアの両極をつないでいる。
中谷にとってテクノロジーは未来的な形を作るためだけのものではなく、人間と環境、人間と社会の関係を変える媒体だった。
1973年《老人の知恵―文化のDNA》
中谷は1973年、《老人の知恵―文化のDNA》を制作した。ICCは、ビデオによるコミュニケーションの新しい可能性を探った作品群の一つとして紹介している。
テレビが「新しい情報」を一方向に大量放送する媒体だとすれば、ポータブル・ビデオは、地域の個人が持つ小さな記憶や知識を記録し、共有するためにも使える。
ビデオは未来技術であると同時に、失われそうな経験を保存する記憶装置にもなった。
小林はくどう — ビデオを市民の道具へ
小林はくどうは多摩美術大学で学び、1960年代末から機械、パフォーマンス、コミュニケーションを扱っていた。1972年のビデオひろば結成に参加し、その後も映像を市民活動へ開く仕事を続けた。
ICCによれば、1978年から1993年まで東京都国立市で〈くにたちビデオひろば〉の活動に関わった。市民が自ら映像を制作し、それを行政への意見や地域情報としてフィードバックする仕組みだった。
ここでは「芸術家が作品を作り市民が見る」という関係さえ変わる。専門家は撮影者ではなく、市民が自分でメディアを使うための環境を作る支援者になる。
ビデオは市民参加のインフラになり得るか
〈くにたちビデオひろば〉では行政が機材を提供しながら内容には介入せず、市民が自主的に映像を作る構想が試みられた。ICCはこれを、ビデオとCATV、市民表現を結びつける試みとして位置づけている。
作品を美術館へ展示するだけではなく、地域課題を記録し、行政との対話へ使う。ビデオの価値を芸術作品の独創性だけで測らない活動だった。
1970年代の日本のビデオ史には、「ビデオアート」と「市民メディア」がまだ完全には分離していなかった時期がある。
山口勝弘 — 実験工房からビデオへ
山口勝弘は1951年の実験工房から活動し、《ヴィトリーヌ》、光の彫刻、環境作品を経て1970年代のビデオへ進んだ。ICCは山口を、日本のメディアアートを長期的に横断した重要作家として位置づけている。
山口にとってビデオは、映画の代替品というより、観客と環境を接続する新しい装置だった。映像、光、建築、通信、デザインを一つの領域として考える姿勢は、1950年代の実験工房から連続している。
この連続性を見ると、日本のメディアアートを「1970年代にテレビ機器が普及して突然始まった芸術」とは考えにくい。
美術家が「メディア環境」を設計する
山口の活動では、作品一個の形より、人間が映像・音・情報へどう接触するかという環境全体が重要になった。
テレビモニターを一台置く場合でも、映像内容だけでなく、どこに置くか、観客が映るか、別の場所へ情報が送られるかによって作品は変わる。
メディアアートは「電子機器を使う美術」ではなく、媒体が人間の知覚や社会関係をどう組み替えるかを設計する美術へ広がった。
かわなかのぶひろ — 制作だけでなく流通を作る
かわなかのぶひろは1960年代から実験映画を制作すると同時に、上映、配給、教育の仕組みを作った重要なオーガナイザーだった。イメージフォーラムによれば、1971年にアンダーグラウンド・センターを設立し、1977年にはイメージフォーラムへ発展させた。
実験映像は、作品を作るだけでは広がらない。商業映画館で上映されなければ、観客が見る場所を自分たちで作る必要がある。
かわなかの活動は、映像作家であることと、上映制度・配給制度を作ることが切り離せなかったことを示す。
1977年、イメージフォーラムの設立
イメージフォーラムは1977年に設立され、作品保管と貸し出し、定期上映、新人作家育成、国内外作品の紹介を行った。現在の公式沿革にも、その設立年と活動内容が記録されている。
これは1970年代の実験映像が、一時的なアンダーグラウンド文化から、継続的な上映・教育インフラへ移ったことを意味する。
美術館やテレビ局だけに依存しない映像文化の回路が作られたことで、1980年代以後の映像作家が活動を継続できる基盤になった。
飯村隆彦 — フィルムからビデオへ
飯村隆彦は1960年代初頭から実験映画を制作し、《くず》《視姦について》《AI(Love)》などによって映像、身体、見る行為そのものを問い直した。
ICCの所蔵記録では、1971年《シャッター》、1972年《タイミング1,2,3》など、映画とビデオの境界をまたぐ実験が確認できる。1973年以後はベルリン、パリ、ニューヨークなどでも作品を発表し、1974年にはMoMAで個展上映を行った。
飯村は映像を物語を運ぶ透明な媒体とせず、カメラ、モニター、時間差、見る主体そのものを作品化した。
「見る人」と「見られる人」を同じ回路へ入れる
ビデオカメラとモニターを接続すれば、観客自身をリアルタイムで映すことができる。人は画面を見ると同時に、画面から見返される。
鏡と違い、ビデオには録画、再生、時間差、別の場所への伝送がある。現在の自分と数秒前の自分を同時に見ることもできる。
1970年代のビデオ作品では、この時間的なずれが「誰が誰を見ているのか」という知覚の問題を生んだ。映像内容より、見る仕組みそのものが作品になる。
山本圭吾 — 観客参加型のビデオ
山本圭吾は福井を拠点に、1968年頃からビデオを使う作品を制作した。ICCによれば、1971年頃から観客参加型のビデオ・インスタレーションを発表し、1973年には《ビデオゲーム・五目並べ》を制作している。
テレビ画面は完成映像を上映するだけではなく、観客が行為を返すインターフェースになる。
山本の活動は東京だけでなく福井から発信され、後には国際ビデオ展の組織にも関わった。日本のビデオアート史を東京だけの物語にしないためにも重要な作家である。
松本俊夫 — 映像そのものを電子的に変形する
松本俊夫はドキュメンタリー、実験映画、長編映画、映像理論を横断して活動した。1970年代には電子的な画像処理を積極的に導入し、映像の形そのものを変形させる作品へ進む。
ICCには《メタスタシス 新陳代謝》(1971)、《エクスパンション 拡張》(1972)、《モナ・リザ》(1973)、《Andy Warhol (Re-Reproduction)》(1974)、《ATOMAN》(1975)などが記録されている。
松本にとって電子技術は現実をきれいに再現するための道具ではない。像を分解・着色・重層化し、「映像を見る」という習慣そのものを変えるための装置だった。
カラービデオが十分でなくても、電子像を作る
ICCは、松本の1970年代前半作品について、現在のように映像効果を簡単に作れない時代に、医学・工学用の電子的測定装置を用いて白黒の階調へ着色し、RGBモニター上の画像をフィルムへ記録したと説明している。
ここでは映画とビデオを「古い媒体対新しい媒体」と分けられない。電子回路で変形したテレビ画像を、フィルムという物質媒体へ戻して保存する。
1970年代のメディア実験は、複数の技術を混ぜ合わせるところから生まれた。
《モナ・リザ》 — 名画も電子信号になる
1973年の《モナ・リザ》では、世界的に知られたレオナルド・ダ・ヴィンチの像が電子処理によって変形・反復される。
美術史上の「唯一の名画」が、テレビ信号として加工可能な画像へ変わる。オリジナルと複製、名作とメディア画像の境界が揺れる。
複製画像が日常へあふれるテレビ時代に、過去の美術作品も電子メディアの中で別の存在になることを示した。
フィルムとビデオは競争相手ではなかった
1970年代の映像史を「映画からビデオへ技術が交代した」と一直線に説明すると、多くの作家の実践が見えなくなる。松本俊夫は電子処理した像をフィルムへ戻し、飯村隆彦は映画とビデオを往復し、出光真子も16ミリとビデオを併用した。
作家は最新技術だからビデオを選んだのではなく、作品ごとに必要な時間構造、再生方法、画質、流通方法を選んだ。
映像芸術の1970年代は、媒体交代ではなく媒体の混成化が進んだ時代でもあった。
出光真子 — 家庭とテレビを見る
出光真子は1970年代初頭から、女性の生活、家族、家庭内の役割を映像で扱った。MoMAには《Inner Man》(1972)、《Woman’s House》(1972)、《What a Woman Made》(1973)、《Make Up》(1974)、《Another Day of a Housewife》(1977–78)などが収蔵されている。
高度経済成長期のテレビは、家庭生活の中心へ入り込んだ家電でもあった。出光はそのテレビ画面を、家庭を外から眺める窓ではなく、家庭内の女性を監視する「目」に変える。
ビデオアートは電子技術への興奮だけでなく、ジェンダーと日常生活を批判的に見る媒体にもなった。
《Another Day of a Housewife》
1977–78年の《Another Day of a Housewife》では、主婦が洗顔、料理、洗濯など日常の家事を繰り返す。その場にはテレビモニターがあり、画面には大きな「目」が映し出され、女性の行動を見続ける。
MoMAはこの作品を、家庭を私的な安息空間であると同時に、監視と労働の場として捉えた映像として紹介している。
テレビを見るはずの人間が、逆にテレビから見られる。家庭用メディアの権力関係を簡潔な映像構造へ変換した。
誰がカメラを持つかという問題
写真や映画の歴史では、女性は長く「撮られる対象」として表象されることが多かった。小型映像機器は、女性自身が日常生活を撮影し、自分たちの経験から映像を作る機会を広げた。
もちろん機材が使えるだけで社会的権力が自動的に平等になるわけではない。しかし、誰が映像を制作し、誰の生活が記録されるかという条件を変える可能性は生まれた。
出光の仕事は、ビデオ技術史を機械の進歩だけでなく、表象する主体の変化として見る必要を示している。
ビデオアートと「ゲリラ・テレビ」
1970年代初頭の欧米では、ポータブル・ビデオを企業テレビへの対抗メディアとして使う「ゲリラ・テレビ」の思想が広がった。中谷芙二子はマイケル・シャンバーグらの『Guerrilla Television』を翻訳し、1974年に日本で出版している。
ICCは、日本のビデオひろばが欧米の反体制的なビデオ文化から影響を受けながら、より日常的なコミュニケーションや市民参加の可能性へ発展させたと説明する。
テレビ局を倒すことだけが目的ではなく、「小さな集団が自分の映像を自分で作る」仕組みを社会に増やそうとした。
1973年、海外へ日本のビデオを持ち出す
MoMAの1979年展資料によれば、1973年に中谷芙二子はカナダ・バンクーバーの国際ビデオ会議でビデオひろばメンバーの作品を紹介した。
ビデオは作品本体が磁気テープで比較的軽く、海外へ複製を送ることができる。巨大な彫刻を輸送する国際美術とは違う流通経路が生まれた。
通信を重視したビデオひろばの思想は、作品流通そのものの軽量化とも結びついていた。
1974年「トーキョー・ニューヨーク・ビデオ・エキスプレス」
1974年、東京の天井桟敷館で「トーキョー・ニューヨーク・ビデオ・エキスプレス」が開催された。ICCの年表によれば、アンダーグラウンド・センターとビデオひろばが主催し、日本の作品と、ニューヨークから久保田成子が送った作品が上映された。
東京とニューヨークを同じ映像ネットワークへ接続することで、ビデオは国際的な前衛芸術の共通媒体になっていく。
久保田成子やナムジュン・パイクのように海外で活動する作家と、日本国内のビデオ作家がテープの交換によって直接つながった。
1974年、日本国際美術展にビデオ部門が加わる
ICCの年表によれば、1974年の第11回日本国際美術展ではビデオアート部門が設けられ、小林はくどう、久保田成子、中谷芙二子、山口勝弘、山本圭吾らの作品が出品された。
わずか二年前にはソニービルで新しい媒体を試していた作家たちが、大規模な国際美術展へ入る。
ビデオは実験的な周辺媒体から、美術制度が展示対象として認識する媒体へ急速に移行した。
制度へ入ると、ビデオは新しい問題を抱える
ビデオ作品を美術館へ展示するには、テレビモニター、再生機、テープ、ケーブル、電源が必要になる。機器が故障したり規格が変われば、作品を同じ状態で再生できなくなる。
絵画の保存とは異なり、作品の像だけでなく再生システム全体をどう維持するかが問題になる。
1970年代に新しかった機器が急速に旧式化したことで、メディアアートの保存は美術館に新しい専門知識を要求した。
リアルタイム性が「現在」を作品にする
映画では、撮影された過去の時間が上映される。ビデオカメラをモニターへ直結すれば、観客の現在の動きがほぼ同時に画面へ現れる。
すると作品はあらかじめ録画された内容だけでは完結しない。観客が来るたびに映像が変わり、会場の「今」が作品になる。
このリアルタイム性は、後のインタラクティブ・アートへつながる重要な基盤となった。
「参加型」と「監視」は表裏一体だった
観客がカメラに映り、自分の姿を見る作品は「参加型」で自由な表現に見える。しかし同じ技術は監視カメラにも使える。
カメラに参加することと、カメラに監視されることは技術的には非常に近い。出光真子の作品がテレビの「目」を家庭へ置いたように、ビデオはコミュニケーションの解放と監視の不安を同時に持つ。
メディアアートが扱うのは新技術の面白さだけではなく、その技術が作る権力関係でもある。
「作品を作る人」から「回路を作る人」へ
ビデオひろば、E.A.T.、市民ビデオ、上映組織の活動を見ると、美術家の役割が変化している。作家が映像作品を一本完成させるだけではなく、人と人が映像を交換できる仕組みを設計する。
送信者、受信者、カメラ、モニター、会場、通信回線を結ぶ「回路」そのものが作品になる場合もある。
1970年代の映像・メディアアートでは、作者はイメージの制作者であると同時に、情報の流れを設計する人になった。
1978年「国際ビデオ・アート展 TOKYO ’78」
1978年5月、「国際ビデオ・アート展 TOKYO ’78」が朝日講堂、草月会館で開催された。ICCの戦後アート&テクノロジー年表は、これを日本における最初の本格的かつ国際的なビデオアート展と位置づけている。
1972年の「DO IT YOURSELF kit」から六年の間に、ビデオは小さな実験グループの媒体から、国内外の作家を比較する国際展の媒体へ成長した。
同時に、ビデオを芸術として展示する制度も整い始める。新媒体の実験期から、歴史化と制度化の段階へ移る節目だった。
1979年、MoMA「Video from Tokyo to Fukui and Kyoto」
1979年4月19日から6月19日、ニューヨーク近代美術館は「Video from Tokyo to Fukui and Kyoto」を開催した。企画はMoMAの映像部門で活動していたバーバラ・ロンドンで、日本各地のビデオ実践をアメリカへ紹介する重要な展覧会となった。
参加者には中谷芙二子、出光真子、小林はくどう、かわなかのぶひろ、山本圭吾らが含まれた。展覧会名が「東京のビデオ」ではなく「東京から福井と京都まで」とされていることも重要である。
日本のビデオアートが一つの首都文化ではなく、複数地域に展開していることを海外へ示した。
社会記録、女性の日常、知覚実験が同じ「ビデオ」に入る
MoMAの展覧会では、中谷の水俣病をめぐる社会的記録、出光の家庭とジェンダー、小林や山本の知覚・参加実験など、目的の異なる作品が同じ媒体の歴史として提示された。
ここから分かるのは、ビデオアートが一つのテーマや様式ではなかったことである。ビデオは社会運動にも、個人的日記にも、抽象的な電子映像にも、観客参加にも使える。
共通するのは「テレビ映像を作家が自分で操作できるようになった」という技術条件であり、その使い方は作家ごとに大きく異なった。
「メディアアート」という呼び方は後から広がった
現在では山口勝弘、中谷芙二子、松本俊夫らを日本のメディアアート史へ位置づけることができる。しかし1970年代当時、「メディアアート」というカテゴリーが現在のように制度化されていたわけではない。
ヴィデオ・アート、実験映画、環境芸術、電子芸術、コミュニケーション・アートなど複数の呼び方が並存していた。
後世の便利な分類を使いつつ、当時の作家たちがジャンルの境界を横断していたことを忘れない必要がある。
1970年代のビデオは、現在よりはるかに不便だった
現在ならスマートフォン一台で高画質撮影、編集、配信ができる。しかし1970年代のビデオ機器は重く、編集装置も高価で、画質も不安定だった。磁気テープの複製にも劣化が伴う。
だからこそ当時の作家が注目したのは、映画より画質が優れていることではなかった。即時再生、電子処理、モニター接続、通信という別の性質だった。
現在の技術基準で「粗い映像」と評価するより、その粗さと不便さの中で何が新しく可能になったかを見る必要がある。
保存すると「機械」が変わってしまう
1970年代の磁気テープは劣化し、当時の再生機も故障する。美術館は作品をデジタル変換して保存する必要がある場合が多い。
しかしブラウン管テレビで見る映像を大型液晶へ変えれば、作品の物理的経験は変わる。映像データだけを同じにすれば「同じ作品」なのかという問題が生じる。
メディアアートの保存では、情報と機器、画面サイズ、空間、再生方法のどこまでを作品として守るかを毎回判断しなければならない。
日本の映像・メディアアートは「技術好き」の歴史だけではない
大阪万博、電子映像、ビデオ、通信技術を見ると、日本のメディアアートを「新しい機械を好む文化」と説明したくなる。しかし1970年代の重要作には、技術そのものへの批判が多く含まれている。
中谷はビデオを水俣病の運動へ持ち込み、出光は家庭の監視とジェンダーを扱い、小林は市民が自分でメディアを使う仕組みを作った。
技術を賛美するのではなく、「誰が技術を所有し、誰が発信し、誰が見られるのか」を問い直すことが、この時代の重要な特徴だった。
1970年代|戦後日本の映像・メディアアート
1970年代の日本では、映像が映画館のフィルムから、テレビモニター、ポータブル・ビデオ、電子画像処理、通信回線へ急速に広がった。その前史には実験工房、1960年代の実験映画、草月アートセンター、1970年大阪万博があり、芸術と技術を横断する環境はすでに形成されていた。転換点となったのは、ビデオが撮影映像をその場ですぐ再生でき、撮る人と撮られる人の間にフィードバックを作れることだった。
1971年のE.A.T.「ユートピアQ&A 1981」は東京を含む四都市をテレックスで結び、作品を物体から情報交換へ変えた。翌1972年、銀座ソニービルの「ビデオ・コミュニケーション/DO IT YOURSELF kit」を契機に〈ビデオひろば〉が形成される。山口勝弘、中谷芙二子、小林はくどう、かわなかのぶひろらは、ビデオを新しい美術様式として固定せず、社会記録、市民参加、知覚実験、通信の道具として使った。中谷と小林の《水俣病を告発する会―テント村ビデオ日記》では、抗議の現場を撮るだけでなく、参加者へその映像を即座に返すことで、記録自体を運動内部のコミュニケーションへ変えた。
同時に、飯村隆彦は見る主体と映像の時間を問い、山本圭吾は観客参加型のビデオ・インスタレーションを展開し、松本俊夫は電子装置で画像そのものを変形した。出光真子は《What a Woman Made》《Make Up》《Another Day of a Housewife》などで家庭、女性、監視の問題をビデオへ持ち込んだ。1977年にはイメージフォーラムが上映・配給・教育の基盤を整え、1978年「国際ビデオ・アート展 TOKYO ’78」によってビデオは本格的な国際展の媒体として可視化される。
1979年、MoMAの「Video from Tokyo to Fukui and Kyoto」は、中谷、出光、小林、かわなか、山本ら日本の多様なビデオ実践をニューヨークへ紹介した。わずか十年ほどの間に、ビデオは新奇な電子機器から、美術、社会運動、女性の生活、地域コミュニケーション、国際交流を横断する媒体へ変わった。後に「メディアアート」と呼ばれる領域の重要な基盤は、この時期に作られている。しかし、その核心は最新機器を使うことではない。新しい媒体によって、誰が見るのか、誰が発信するのか、映像がいつ返ってくるのか、社会の中でどのような関係を作れるのかを問い直したことにあった。次の記事では1980年代のニューウェーブへ進み、もの派や概念芸術の後に登場した世代が、絵画、彫刻、インスタレーション、大衆文化をどのように再び混ぜ合わせたのかを見る。
参考資料
- NTTインターコミュニケーション・センター「アート&テクノロジーの過去と未来 1951–1995 年表」
- NTTインターコミュニケーション・センター「HIVEで掘り下げる『メディア論の地層』」
- NTTインターコミュニケーション・センター「中谷芙二子」
- NTTインターコミュニケーション・センター「小林はくどう」
- NTTインターコミュニケーション・センター「山口勝弘」
- NTTインターコミュニケーション・センター「飯村隆彦」
- NTTインターコミュニケーション・センター「山本圭吾」
- NTTインターコミュニケーション・センター「松本俊夫」
- NTTインターコミュニケーション・センター「松本俊夫 展示作品」
- The Museum of Modern Art「Fujiko Nakaya, Friends of Minamata Victims – Video Diary, 1972」
- The Museum of Modern Art「Mako Idemitsu, Another Day of a Housewife, 1977–78」
- The Museum of Modern Art「Video from Tokyo to Fukui and Kyoto」
- イメージフォーラム映像研究所「ABOUT」
- イメージフォーラム「会社概要/沿革」
- イメージフォーラム映像研究所「かわなかのぶひろ」
資料確認日:2026年10月2日