1945–1950年代
敗戦後の日本美術
焼け跡からの再出発
敗戦は、美術を「ゼロ」にしたのではない
1945年8月15日の敗戦は、日本社会の政治・経済・価値体系を大きく変えた。美術界も例外ではない。戦時中に作られた報国団体や統制組織は解体され、戦争記録画の意味は反転し、作家たちは「これから何を描くのか」という問題に直面した。
しかし、1945年を境にすべての制度と作家が消え、何もないところから「戦後美術」が始まったわけではない。東京美術学校、日展、二科会、独立美術協会、新制作派協会など戦前からの制度・団体・人脈は形を変えながら残った。戦前の前衛を経験した作家たちも生き残り、若い世代へ影響を与えた。
戦後日本美術は、断絶と継続の両方から始まった。古い制度を解体する力と、古い制度を再開する力が同時に働いたのである。
1945年春、美術活動そのものがほとんど停止する
東京文化財研究所の1945年の美術界年史は、空襲の激化、勤労動員、罹災、疎開、資材不足によって、美術活動がほとんど停止状態になったと記している。展覧会は大幅に減り、まとまった制作を行うこと自体が困難だった。
絵画制作には、絵具、カンヴァス、紙、木材、アトリエ、照明、輸送が必要である。戦争末期にはそれらが不足し、作家本人も空襲や疎開へ対応しなければならなかった。
美術史では思想や様式の変化が注目されやすい。しかし1945年の再出発は、まず物理的に「制作できる状態を取り戻す」ことから始まった。
焼け跡は、比喩ではなく実際の風景だった
東京、大阪、神戸などの都市では空襲によって広い地域が焼失した。敗戦後の画家が見る都市は、戦前の街路や建物が残る場所と、瓦礫や空き地へ変わった場所が隣り合う風景だった。
「焼け跡からの再出発」という言葉は、精神的な比喩だけではない。画家のアトリエ、展覧会場、画材店、住宅そのものが失われ、街の地形が変わっていた。
その破壊された都市を実際に描いた代表的な画家の一人が松本竣介である。
松本竣介《郊外(焼跡風景)》
松本竣介は1945年3月の東京大空襲後、家族を疎開させながら自分は東京に残った。アートプラットフォームジャパンによれば、1946年頃から《焼跡風景》《神田風景》など、廃墟となった東京を描いている。
1946年の《郊外(焼跡風景)》には、戦闘の劇的な瞬間も英雄も登場しない。建物の残骸、空き地、都市の輪郭が静かに置かれる。戦争の結果が、日常の風景として描かれる。
戦争記録画が「戦場の出来事」を巨大な物語へ変えたのに対し、松本の焼け跡は、戦争が終わった後に残った空間そのものを見つめる。戦後美術の出発には、この視線の変化がある。
戦争を描くことから、戦争後を描くことへ
1945年8月以後、日本の画家はもう「勝利の戦争」を描くことはできない。しかし、戦争が消えたわけでもない。死者、負傷者、焼失した街、家族の喪失、復員兵、植民地からの引揚げ、食糧不足は日常の中に残る。
したがって戦後美術は、戦争を題材にしなくても戦争の影響を受けている。空白の街、痩せた身体、壊れた建物、新しい政治運動。作品の背景に敗戦が入り込む。
「戦争画の時代」と「戦後美術」を完全に別の箱へ分けるより、同じ作家と社会が連続していたことを見る必要がある。
1945年10月、美術報国会が解散する
東京文化財研究所によれば、1943年から美術界を戦時動員していた大日本美術報国会は1945年10月4日に解散を決定した。戦時下の官製的な組織を解き、自主的な活動へ移ることが表明された。
これは戦時統制からの大きな転換だった。しかし、組織が解散しただけで美術界の価値観が直ちに変わるわけではない。そこに参加していた作家、官展の制度、審査員、教育機関は残っている。
制度を解体することと、制度を支えてきた人間関係を変えることは別の問題だった。
同じ1945年、二科会が再出発する
戦時中に活動を停止していた二科会は、1945年10月に東郷青児ら旧会員を中心として再結成された。参与・評議員などの段階制を見直し、審査に会員全員が関わる方向へ改組を進める。
「再出発」といっても、戦前から続く在野団体が単に元に戻ったわけではない。敗戦後の社会状況に合わせ、団体内部の運営方法も作り直そうとした。
戦後美術界では、「何を描くか」と同時に「団体をどう民主的に運営するか」が議論になる。組織の仕組みそのものが時代の変化を反映した。
1945年11月、行動美術協会
旧二科系の向井潤吉、小出卓二、伊谷賢蔵らは1945年11月に行動美術協会を結成した。アートプラットフォームジャパンも同会の結成時期を1945年11月としている。
東京文化財研究所の同時代記録では、農山村や工場での活動を目指すことが掲げられていた。単に新しい公募団体を作るだけでなく、美術家が都市の展覧会場以外へ出ることも意識されていた。
戦後直後の美術団体には、「美術を社会へどう開くか」という問題が強く現れる。
1946年、日展が始まる
1946年3月、従来の文展に代わって、文部省主催の第1回日本美術展覧会、日展が東京都美術館で開催された。戦後最も早く大規模に再開された公的展覧会の一つである。
一方で、材料不足や準備期間の短さから出品できない作家もいた。京都側の日本画家が参加しなかったことも東京文化財研究所に記録されている。
巨大な官展制度は戦争とともに消えず、新しい名前と改革案の下で再び動き始めた。戦後の「新しさ」は、旧制度を完全に捨てる方向だけではなかった。
「民主化された官展」は可能なのか
1946年の第2回日展を前に、文部省は無鑑査制度の廃止、審査員の公選、審査公開などの改革案を示した。旧来の官展が持っていた権威的な運営を改めようとする動きだった。
しかし、青龍社、行動美術協会、新制作派協会、独立美術協会などは日展不参加を決めた。改革されたとしても、国家主催の巨大展覧会へ参加するべきではないと考える在野団体が存在した。
戦後美術界の争点は「日展か反日展か」という単純な美学対立ではない。評価を誰が決めるのか、国家は展覧会へどこまで関与するべきかという制度の問題だった。
1946年、日本美術会
アートプラットフォームジャパンによれば、日本美術会は1946年4月に東京で結成された。戦前のプロレタリア美術運動に関わった作家を含み、自由で民主的な美術活動を掲げた団体である。
敗戦直後には「民主」という言葉が政治だけでなく、美術団体の運営や展覧会制度でも重要になる。審査員と権威ある作家だけが発表機会を決める制度をどう変えるのか。
日本美術会は、その答えの一つとして後に無審査の日本アンデパンダン展を開催する。
戦後の「民主主義」は、作品の様式名ではない
民主的な美術団体を作ることは、全員が同じ写実画や同じ前衛画を描くことを意味しない。運営の平等、発表機会の開放、社会との関係が問題だった。
この点を区別しないと、「民主主義美術」という一つの画風が存在したように見えてしまう。
戦後美術の民主化は、作品内容より先に、団体と展覧会の仕組みをどう作るかという制度問題として現れた。
美術雑誌も戻ってくる
1946年には戦時中に中断していた『アトリヱ』が復刊し、『芸術』『三彩』などの雑誌も刊行される。作品を作るだけでなく、批評し、海外情報を読み、論争する場所が再び必要になった。
前衛美術の歴史でも、雑誌は常に重要だった。戦後も同じである。新しい美術は展覧会場だけでなく、紙面上の議論によって形を得る。
「何が戦後的なのか」という問いは、作品より先に批評の言葉の中で立ち上がることもあった。
1947年、前衛美術会
1947年4月、美術文化協会を離れた丸木位里、赤松俊子、山下菊二、井手則雄らは前衛美術会を結成した。東京文化財研究所によれば、「勤労大衆の文化的意欲を基調とする新美術の創造」を目指し、翌5月に第1回展を東京都美術館で開催した。
ここでは戦前のシュルレアリスムや前衛の経験が、敗戦後の社会状況へ接続される。単に形式を実験するだけでなく、社会と政治をどう描くかが再び大きな問題になる。
戦前前衛が1945年に消滅したのではなく、人と思想が別の名称と条件で再編された例である。
丸木位里と赤松俊子
丸木位里は水墨を基盤とする日本画家であり、赤松俊子、後の丸木俊は油彩・洋画を学んだ画家だった。異なる制作背景を持つ二人は戦後、共同制作へ進む。
二人は1945年8月の原爆投下後、広島へ入り、被爆直後の状況に接した。原爆の図丸木美術館によれば、そこから約5年を経た1950年に《原爆の図 第1部 幽霊》が発表された。
戦争が終わったからこそ、戦時中には公的に描かれなかった被害の側を大画面へ描く試みが始まる。
1950年《原爆の図 第1部 幽霊》
《原爆の図 第1部 幽霊》は1950年制作、縦1.8メートル、横7.2メートルに及ぶ大画面である。水墨に木炭・コンテなどを加え、焼けただれた身体が連続する。
油彩の戦争記録画の巨大さを思わせる一方、英雄的な戦闘はない。描かれるのは、武器を持たない被爆者の身体である。
「大画面で戦争を記録する」という形式が、国家の戦功記録から民間人の被害の記憶へ反転する。戦前と戦後の美術をつなぐ重要な転換である。
日本画と洋画の境界を越える共同制作
《原爆の図》は丸木位里と俊の共同制作であり、墨、紙、木炭など複数の技法が使われる。日本画/洋画という制度的な区分にきれいには収まらない。
戦争を描くために、どちらの伝統が正しいかを選ぶのではなく、必要な材料を混ぜる。戦後美術では、このようなジャンル横断が次第に増えていく。
敗戦は日本画と洋画の制度をすぐ消したわけではないが、その境界の絶対性を弱める契機にはなった。
1947年、女流画家協会
アートプラットフォームジャパンによれば、女流画家協会は1947年2月に発足した。三岸節子、桂ゆき、藤川栄子ら女性画家が中心となり、女性作家の発表機会と新人育成の場を作った。
戦前にも女性画家は存在したが、美術学校、団体、審査、批評の中心は男性が占めることが多かった。戦後の「民主化」は、ジェンダーの不均衡が自動的に解決することを意味しなかった。
女性作家が自分たちの展覧会組織を作らなければならなかったこと自体が、既存美術界の構造を示している。
「女性だけの団体」は、隔離か機会か
女性作家だけの展覧会を作れば、一般美術界から分離される危険もある。一方、既存の公募展で十分な発表機会を得にくい状況では、独自団体が作品を見せる重要な回路になる。
女流画家協会は、この両面を持ちながら長く活動を続けた。女性が「女性作家」というカテゴリーを必要としなくなることと、現実の不平等を無視することは同じではない。
戦後美術の再出発には、誰が作品を発表できるのかという問いも含まれていた。
1947年、国立博物館が発足する
1947年5月、旧帝室博物館は国有化され、文部省管轄の国立博物館として発足した。皇室の施設から、新しい国家制度の博物館へ位置づけが変わる。
古美術を保存・展示する制度も、敗戦後の政治体制に合わせて再編された。
戦後の美術史は前衛作家だけの物語ではない。博物館、文化財保護、教育行政といった制度全体の再構築も同時に進んでいた。
1947年、現代美術綜合展
同年5月、東京都と朝日新聞社は第1回現代美術綜合展覧会を東京都美術館で開催した。日本画、油絵、彫塑、工芸の各分野から広く作品を集める招待展だった。
「現代美術」という言葉が、戦後の現在をまとめるために使われ始める。しかし、その中身は後世の「コンテンポラリー・アート」と同じではない。
当時の「現代美術」は、日本画、洋画、彫刻、工芸を含む「現在活動している美術」を広く指すことができた。言葉の意味も時代によって変化する。
1947年、日本アンデパンダン展
1947年12月、日本美術会主催の第1回日本アンデパンダン展が東京都美術館で開催された。東京文化財研究所は、自由出品制を採用した初めての試みとして記録している。
「アンデパンダン」は審査員による選別から独立するという考えに由来する。作品を出す前に権威ある審査員から許可を得る必要がない。
戦前の官展では入選・落選が作家のキャリアを大きく左右した。アンデパンダン展は、その構造を根本から変える発表方式だった。
無審査なら、本当に自由なのか
審査がなければ、新しい作品や無名作家も参加できる。一方、作品数が増えれば展示場所、搬入条件、参加費など別の制約が生まれる。
また無審査であること自体が作品の質を保証するわけではない。自由と評価をどう両立させるかという問題は残る。
それでも「まず見せる権利を開く」という発想は、戦後美術の重要な制度的革新だった。
1949年、もう一つの日本アンデパンダン展
1949年2月、読売新聞社は東京都美術館で第1回日本アンデパンダン展を開催した。この展覧会は後に「読売アンデパンダン展」と呼ばれるようになる。
1947年からの日本美術会主催展とは別の展覧会である。名称が同じため混同されやすいが、主催組織もその後の歴史も異なる。
戦後日本の前衛美術を考える上で、新聞社が無審査展を運営したことは非常に重要である。後の1950年代末から60年代初頭、読売アンデパンダンは既成ジャンルを越える実験の大きな舞台になる。
新聞社が美術制度を作る
戦後日本では、朝日新聞社、毎日新聞社、読売新聞社などの事業部が美術展覧会を頻繁に主催した。これは美術館だけが国際展や現代美術展を企画する欧米の制度とは異なる特徴を持つ。
新聞社には宣伝力、会場調達力、海外ネットワーク、大量の読者がある。展覧会を文化事業として開催すれば、美術情報を短期間に社会へ広げることができる。
日本の戦後美術史では、作品と作家だけでなく、新聞社の展覧会事業が新しい美術を見る機会を作ったことを無視できない。
焼け跡から「団体の時代」が再び始まる
1945年から数年の間に、二科会、行動美術協会、日本美術会、第二紀会、前衛美術会、女流画家協会など多数の団体が活動を始める、あるいは再開する。
敗戦によって一つの統一された「戦後美術」が生まれたのではない。むしろ、戦時中に抑えられていた複数の方向が一気に外へ出た。
写実、前衛、社会運動、日本画、洋画、女性作家の組織、無審査展。それぞれが「戦後」を別の意味で捉えていた。
北脇昇《クォ・ヴァディス》
戦前にシュルレアリスムと科学的図式を結びつけた北脇昇は、敗戦後、日本美術会や前衛美術の活動へ参加した。1949年の《クォ・ヴァディス》は、戦後の進路そのものを問う作品として知られる。
アートプラットフォームジャパンの解説によれば、画面の男は道の分岐点に立ち、一方には嵐に見舞われる街、もう一方には赤旗を掲げる人々が描かれている。
ラテン語の題名「どこへ行くのか」が示すように、これは一人の人物の迷いであると同時に、敗戦後の社会がどこへ向かうのかという問いを視覚化している。
戦後の前衛は、抽象だけではなかった
「前衛美術」と聞くと、抽象的な形や新素材を思い浮かべるかもしれない。しかし1940年代後半の日本では、社会問題を具体的な人物や場面で描くことも前衛的な実践になり得た。
戦争、労働、貧困、政治運動、原爆。戦前には公的な場で扱いにくかった主題を描くこと自体に新しさがあった。
戦後前衛は、形式実験と社会的リアリズムがまだ明確に分離する前の状態を持っていた。
「社会を描く」ことへの強い欲求
敗戦直後の作家にとって、現実社会は無視できないほど激しく変化していた。食糧不足、闇市、労働争議、政治集会、占領、帰還者、孤児、戦災者。
これらを写実的・象徴的に描く作家が現れ、1950年代には「ルポルタージュ絵画」と呼ばれる方向へ発展する。
その出発点は、絵画を個人の美的世界だけに閉じず、社会の現場を記録・批評する媒体として使うことだった。
戦前の「芸術家の個性」と戦後の「社会的責任」
大正期には「個性」や作家の内面が近代美術の重要な価値になった。敗戦後、その個人主義だけでは不十分ではないかという問いが強まる。
戦争中、美術家が国家に協力した経験があったからこそ、社会に対して芸術家がどのような責任を持つのかが問題になる。
しかし「社会的であること」を新しい義務にしてしまえば、再び作家の自由を狭める。戦後美術は自由と社会性の間で揺れ続ける。
戦争責任を誰が負うのか
敗戦後、美術界では戦争画を制作した作家や美術団体の戦争責任が議論された。特に藤田嗣治は象徴的な存在として強く批判される。
しかし前の記事で見たように、戦時美術は藤田一人が作った制度ではない。軍、官庁、美術団体、新聞社、多数の画家が関与していた。
個人の行為を検証することは必要だが、一人へ責任を集中させれば、美術界全体が戦時体制へ接続した構造を見失う。戦後の再出発には、この問題を十分に整理できないまま進んだ部分も残った。
「昨日の権威」が戦後も残る
戦前・戦中に高い地位を持った作家の多くは、敗戦後も制作と教育を続けた。美術学校や芸術院、公募団体も全面的に入れ替わったわけではない。
政治体制は大きく変化しても、技術、教育、人脈、作品市場を一日で置き換えることはできない。
戦後美術は「新世代が旧世代を追放した」単純な革命ではなく、旧世代と新世代が同じ制度空間で競争する長い再編だった。
女流画家、前衛、在野団体が並行して存在する
1940年代後半の美術界を見ると、中心が一つに定まっていないことが分かる。日展という巨大な公的制度があり、その外に二科、独立、新制作などの在野団体があり、さらに日本美術会、前衛美術会、女流画家協会、アンデパンダン展がある。
一人の若い作家は、どの団体へ入るか、どの公募展へ出すか、無所属で行くかを選ばなければならない。
戦後の自由とは、選択肢が増えることであり、同時に自分で位置を決めなければならない不安でもあった。
1951年、デモクラート美術家協会
1951年、大阪を中心にデモクラート美術家協会が結成された。アートプラットフォームジャパンによれば、1951年から1957年まで活動し、絵画、版画、写真、デザイン、舞台芸術など複数分野を横断した。
中心人物の瑛九は、既存公募展への出品を条件的に拒むような自由な組織を構想した。「デモクラート」はエスペラント語で「民主主義者」を意味する。
東京だけでなく、大阪・宮崎など複数地域を結んだことも重要である。戦後前衛は東京一極だけで形成されたわけではない。
瑛九 — 戦前前衛と戦後世代をつなぐ
瑛九は戦前からフォトデッサン、版画、油彩など複数媒体で活動していた。戦後には若い作家を組織し、デモクラートを通して次世代へ大きな影響を与えた。
アートプラットフォームジャパンは、デモクラートから靉嘔、河原温、池田満寿夫、細江英公、磯辺行久、泉茂など、後に国際的に活動する多くの作家が育ったことを指摘している。
戦後の新しさは、若者が戦前を完全に捨てたことではなく、戦前前衛の経験を持つ人物が新しい制度へ橋渡ししたことからも生まれた。
1951年、神奈川県立近代美術館が開館する
1951年11月17日、鎌倉の鶴岡八幡宮境内に神奈川県立近代美術館が開館した。神奈川県立近代美術館は、日本で最初の公立近代美術館として自らを位置づけている。
建設運動は1949年、県内の美術家、研究者、評論家らが戦後の混乱の中で文化芸術の指針を示す必要を感じ、神奈川県美術家懇談会を設立したことから始まった。
戦後美術が「展覧会団体」だけでなく、専門的に近代美術を調査・展示する恒久的な美術館を必要とする段階へ進んだことを象徴する。
坂倉準三の建築も「戦後美術」の一部だった
神奈川県立近代美術館の建築は坂倉準三が設計した。ル・コルビュジエのもとで学んだ坂倉による軽やかなモダニズム建築は、古都鎌倉の鶴岡八幡宮境内に置かれた。
美術館は作品を入れる中立的な箱ではない。どのような空間で作品を見るのかが鑑賞体験を作る。
戦後日本では、作品だけでなく「近代美術を見せる建築」自体も新しく設計され始めた。
開館記念は「セザンヌ、ルノワール展」
神奈川県立近代美術館の開館記念展は「セザンヌ、ルノワール展」だった。戦前から日本の画家へ大きな影響を与えた西洋近代美術を、敗戦後の新しい公立美術館の出発点で紹介する。
これは象徴的である。戦前日本がすでに学び続けてきた西洋近代美術を、占領下の戦後社会で改めて位置づけ直す。
戦後美術は西洋美術の学習をゼロから始めたわけではなく、既存の受容史を新しい国際環境の中で再編した。
1951年、サロン・ド・メ日本展
1951年には、フランスのサロン・ド・メ作品を紹介する日本展が開催され、東京文化財研究所は戦後の日本画壇に新風を送った展覧会として後年記録している。
戦争中、海外の同時代美術との交流は大きく制限されていた。敗戦後、作品と情報が再び入ることで、日本の作家は「世界では今何が行われているか」を直接比較できるようになる。
国際交流の再開は、国内の美術団体だけを基準にしていた評価を揺さぶる。
1951年、第1回サンパウロ・ビエンナーレへ
1951年、日本はブラジルのサンパウロで開催された第1回国際美術展、後のサンパウロ・ビエンナーレへ作品を送った。東京文化財研究所によれば、日本画、洋画、彫刻、版画から多数の作家が選ばれている。
敗戦からわずか6年で、日本の美術が再び国際展へ参加し始めた。
これは「日本美術を世界へ見せる」という明治以来の課題が、戦後の新しい国際秩序の中で再開されたことを意味する。
国際展への復帰は、国内評価の基準も変える
海外でどの作家が評価されるかは、国内の官展順位とは必ずしも一致しない。版画、抽象、前衛的表現など、国内では周縁に置かれていた分野が国際展で注目される可能性もある。
1950年代以降、日本の作家は日展や二科会だけでなく、サンパウロ、ヴェネチアなど国際ビエンナーレを意識するようになる。
作家のキャリアが国内団体だけで完結しなくなることが、戦後美術の大きな構造変化になる。
1952年、ブリヂストン美術館
1952年1月、石橋正二郎のコレクションを公開するブリヂストン美術館が東京・京橋に開館した。現在のアーティゾン美術館の前身である。
西洋近代絵画と日本近代洋画を一つのコレクションとして常設的に見る場所が生まれる。公立美術館とは別に、民間コレクターが近代美術館を作る。
戦後初期には、公立・国立・私立という異なる運営形態の美術館がほぼ同時期に整い始めた。
1952年、東京国立近代美術館
1952年12月1日、東京・京橋の旧日活本社ビルを改装した国立近代美術館が開館した。現在の東京国立近代美術館である。開館第1回展は「日本近代美術展―日本近代絵画の回顧と展望」だった。
日本で最初の国立美術館として、近代日本美術を歴史として収集・研究・展示する恒久機関が生まれた。
戦前まで「現在の作品」を主に評価していた展覧会制度とは別に、近代そのものを歴史化する制度が本格的に整う。
「近代日本美術」という歴史が作られ始める
美術館が開館すると、作品を年代順に並べ、どの作品を転換点として扱うかを決める必要がある。黒田清輝、岸田劉生、萬鉄五郎、戦前前衛、戦争画、戦後作品を一つの近代史の中へ位置づけなければならない。
作品を作ることと、美術史を作ることは別ではない。美術館の収蔵と展示によって「日本近代美術の代表作」が選ばれていく。
敗戦後は、作品制作だけでなく、日本の近代をどう振り返るかという歴史編集の時代でもあった。
1952年、第1回日本国際美術展
1952年5月、毎日新聞社主催の第1回日本国際美術展が東京都美術館で開催された。フランス、アメリカ、イギリス、イタリア、ベルギー、ブラジルなどの現代作家と日本の代表作家を合わせ、約450点を展示する大規模展だった。
国内作家だけを競わせる公募展とは異なり、日本の作品を海外同時代美術と同じ会場へ置く。
戦後日本美術は「日本の中で誰が上手いか」から、「世界の同時代美術の中で日本の作品をどう見るか」という比較へ進む。
1952年、ヴェネチア・ビエンナーレへ参加
同年、日本は第26回ヴェネチア・ビエンナーレへ参加した。横山大観、安井曾太郎、梅原龍三郎らの作品が送られている。
選ばれた顔ぶれを見ると、戦後の若い前衛だけが日本代表になったわけではない。戦前から高く評価されてきた巨匠が多い。
国際復帰と世代交代は同じ速度では進まなかった。新しい戦後美術が生まれる一方、国家を代表する「日本美術」の像には旧世代が依然として大きな力を持っていた。
占領期の終わりと美術制度
1952年、日本はサンフランシスコ平和条約の発効によって連合国による占領を終える。同じ年に国立近代美術館、日本国際美術展、ヴェネチア・ビエンナーレ参加など、美術制度の国際化が大きく進む。
政治的主権の回復と美術の国際復帰を単純に同一視することはできないが、1952年前後が一つの制度的転換点であることは確かである。
1945年の「再開」から、1950年代の「国際的な現代美術へ参加する」段階へ、日本美術界の課題が変わっていく。
戦後美術は、「欧米化」の再開だけではない
国際展が戻り、フランスやアメリカの現代美術が紹介されると、西洋美術の影響は再び強まる。しかし、それを明治期と同じ「西洋へ追いつく」物語として見るだけでは不十分である。
日本にはすでに戦前前衛、創作版画、民藝、シュルレアリスム、写真など多様な経験が蓄積されていた。さらに敗戦、原爆、占領、焼け跡という欧米とは異なる現実がある。
海外美術は新しい答えとして輸入される一方、日本側にはそれを受け取る独自の歴史と問題があった。
「焼け跡」から「実験」へ
1940年代後半の作品には、焼け跡、社会問題、戦争の記憶が強く現れる。一方、1950年代に入ると、音、光、写真、舞台、抽象、版画、新素材など、別の方向の実験が急速に増える。
これは社会問題への関心が消えたという意味ではない。敗戦直後に「生き直すこと」が最優先だった時期から、制作方法そのものを再設計できる条件が少しずつ整ってきた。
その象徴の一つが1951年に活動を始める実験工房である。次の記事で詳しく扱う。
「戦後」という言葉は、いつまでを指すのか
1945年直後を戦後と呼ぶことに違和感はない。しかし1950年代、60年代になっても「戦後美術」という言葉は使われ続ける。
それは単に戦争から何年経ったかを示す年代区分ではない。戦前の制度と何が変わったのか、敗戦による価値転換をどう受け止めたかという問題を含む。
戦後は一つの年で終わらず、美術の制度と思想が再編され続ける長い時代になった。
1945–1950年代|敗戦後の日本美術
1945年の敗戦によって、日本の美術界は戦時統制から解放された。しかし同時に、都市の破壊、物資不足、戦争責任、旧制度の存続という重い問題を抱えた。松本竣介が焼け跡の東京を描く一方、美術報国会は解散し、二科会と行動美術協会が再出発する。1946年には日展が始まり、同時にその官展的制度へ距離を取る団体も現れた。
1947年には前衛美術会、女流画家協会、現代美術綜合展、日本美術会による日本アンデパンダン展が動き始める。戦後美術は一つの統一様式ではなく、「誰が評価するのか」「誰が出品できるのか」「美術は社会へどう関わるか」という複数の制度問題を同時に抱えていた。1949年には読売新聞社主催の別の日本アンデパンダン展も始まり、新聞社が美術制度を作る日本独特の構造が強まる。
1950年、丸木位里・俊は《原爆の図 第1部 幽霊》を発表した。国家の戦争記録画とは逆に、民間人の被害を巨大画面へ残す。1951年にはデモクラート美術家協会が大阪で生まれ、同年に日本最初の公立近代美術館である神奈川県立近代美術館が開館する。さらに第1回サンパウロ国際美術展への参加によって、戦後日本美術は再び国際的な比較の場へ戻り始める。
1952年にはブリヂストン美術館、国立近代美術館が開館し、日本国際美術展、ヴェネチア・ビエンナーレ参加が続く。わずか7年間で、美術界は「展覧会すら開きにくい焼け跡」から、「近代美術館と国際展を持つ制度」へ急速に変化した。その過程で戦前の団体と新しい前衛、国家制度と無審査展、社会的リアリズムと抽象実験が同時に存在した。戦後日本美術とは、一つの答えではなく、多数の再出発が重なった状態だったのである。次の記事では1951年に活動を始めた実験工房へ焦点を絞り、美術、音楽、写真、舞台、光、テクノロジーを横断する戦後前衛の新しい共同制作を見ていく。
参考資料
- 東京文化財研究所「1945年 美術界年史」
- 東京文化財研究所「1946年 美術界年史」
- 東京文化財研究所「1947年 美術界年史」
- 東京文化財研究所「1949年 美術界年史」
- Art Platform Japan「松本竣介」
- Art Platform Japan「松本竣介《郊外(焼跡風景)》」
- Art Platform Japan「行動美術協会」
- Art Platform Japan「日本美術会」
- Art Platform Japan「女流画家協会」
- Art Platform Japan「北脇昇」
- Art Platform Japan「デモクラート美術家協会」
- Art Platform Japan「瑛九」
- 原爆の図丸木美術館「原爆の図」
- Art Platform Japan「丸木位里・丸木俊《第1部 幽霊》」
- 神奈川県立近代美術館「歴史」
- 神奈川県立近代美術館「沿革」
- アーティゾン美術館「沿革」
- 東京国立近代美術館「MOMATコレクション」
- 東京文化財研究所「第1回サンパウロ国際美術展出品作」
- 東京文化財研究所「1952年 美術界年史」
資料確認日:2026年10月2日