1880–1900年代
岡倉天心とフェノロサ
「日本美術」をつくる
「日本美術」は、昔から一つのまとまりだったのか
現在は、法隆寺の仏像、雪舟の水墨画、琳派、浮世絵、陶磁器、蒔絵までを同じ「日本美術史」の中で見る。しかし、これらはもともと一つの制度の中で作られたわけではない。寺院の礼拝像、武家の障壁画、町人向けの版画、大名家の婚礼調度では、注文主も用途も制作者の社会的位置も違っていた。
明治時代になると、西洋の「美術」という概念と博物館・美術学校の制度を参照しながら、過去の多様な造形を「日本美術」としてまとめ直す作業が始まる。その中心人物として大きな役割を果たしたのが、岡倉覚三、のちに天心と呼ばれる人物と、アメリカ人教師アーネスト・フェノロサだった。
二人は古美術を調査し、学校を作り、画家を指導し、美術史を教え、文化財保護を進めた。しかし、彼らの仕事を単純に「忘れられていた日本美術を救った」と語るだけでは不十分である。保存することは同時に選ぶことであり、何を高く評価するかを決めることでもあった。「日本美術」は発見されたというより、調査と制度によって近代的に組み立て直された。
1878年、フェノロサは美術教師として来日したのではない
アーネスト・フェノロサは1853年、アメリカ・マサチューセッツ州に生まれた。ハーヴァード大学で哲学を学び、1878年に来日して東京大学で教える。国立国会図書館の研究資料によれば、当初の担当は哲学、政治学、理財学などであり、日本美術研究の専門家として招聘されたわけではなかった。
来日後、フェノロサは日本と中国の絵画に強い関心を持つようになり、作品を収集し、鑑定法を学び、寺院や旧家の作品を調べ始める。東京藝術大学の資料によれば、狩野派の狩野永悳から日本・中国絵画の鑑定について学んだ。
後世の知名度から見ると最初から「日本美術研究者」だったように感じられるが、実際には日本滞在中に専門性を形成していった人物である。彼自身の研究対象も、日本社会との接触によって変化した。
岡倉覚三は、開港都市・横浜で育った
岡倉覚三は1863年、横浜本町に生まれたとされる。日本美術院の年譜によれば、父は福井藩の命で開港間もない横浜に商館を営んでいた。覚三は幼少期から英語と漢籍に触れ、のち東京大学へ進む。
横浜は外国人居留地、商館、写真館、輸入品が集まる開港都市だった。岡倉は古い寺町だけで育った人物ではなく、日本が西洋と急速に接触する場所で青年期を過ごした。
この背景は後の活動を考えるうえで重要である。天心は西洋文化を知らないまま日本伝統へ閉じこもった人物ではない。高い英語力を持ち、西洋制度を理解したうえで、「日本美術をどう組み立て直すか」という問題へ向かった。
東京大学でフェノロサと岡倉が出会う
岡倉は1877年に新設された東京大学へ入学し、在学中に来日したフェノロサと出会う。国立国会図書館は、岡倉がフェノロサの日本美術研究に協力し、その後の美術行政へ進んだことを伝えている。
岡倉は英語を使えるだけでなく、日本側の知識人、画家、寺院、官僚の世界とフェノロサをつなぐことができた。フェノロサは西洋哲学・美学の知識を持ち、岡倉はその考えを日本語の制度へ変換する役割を担っていく。
二人の関係を「外国人の師と日本人の弟子」とだけ見ると狭い。西洋の概念を日本の行政・教育へ移し替え、日本の古美術を海外へ説明するための協働関係だった。
古美術を「見に行く」ことが政策になる
明治初期には廃仏毀釈や旧大名家の解体によって、寺社や旧家に伝わった物が散逸する危機が生じていた。政府は1871年の《古器旧物保存方》以後、全国の古器旧物を調査・記録する方向へ進んでいた。
岡倉とフェノロサはこの流れの中で、奈良・京都を中心とする古社寺調査へ参加する。日本美術院の年譜では、1884年に京阪地方の古社寺調査を行い、法隆寺夢殿を開扉して秘仏救世観音を拝したことが記されている。
ここで注意したいのは、「誰にも知られていなかった仏像を二人が発見した」と単純化しないことである。寺院側には信仰と伝承があり、作品は以前から存在していた。変わったのは、それを宗教的な秘仏としてだけでなく、古代日本の美術史を証明する作品として調査し直す視線だった。
「発見」ではなく、価値の再分類
近代的な古美術調査では、作品の寸法、材質、制作時代、様式、状態、所在地を記録する。必要に応じて写真を撮り、模写し、類似作品と比較する。これは寺院が宝物を守る方法とは異なる。
仏像は礼拝対象であり続けながら、同時に「何世紀の彫刻か」「日本彫刻史のどこに位置するか」という研究対象になる。宗教的価値の上に、美術史的価値が加えられる。
岡倉とフェノロサの功績を理解するには、「守った」という結果だけでなく、この新しい分類方法を広げたことを見る必要がある。
1882年《美術真説》— フェノロサが「日本の絵画」を論じる
1882年、フェノロサは龍池会で講演し、その内容が大森惟中の筆記によって《美術真説》として刊行された。国立国会図書館には龍池会刊、明治15年11月の原本がデジタル化されて残る。
東京藝術大学美学研究室も1882年の《美術真説》を、日本における近代美学教育史の重要事項として年譜に記している。この講演は、日本の伝統絵画を西洋の美学概念と比較し、その価値を理論的に説明しようとした早い例だった。
当時、文明開化の中で油彩や西洋式写実が新しい技術として注目されていた。フェノロサは、それに対して従来の日本絵画にも独自の価値があると主張した。重要なのは、日本絵画を「昔からあるから守る」のではなく、理論的な美術概念を用いて近代社会へ再提示しようとしたことである。
「日本画」という大きな括りが必要になる
江戸時代には狩野派、土佐派、円山四条派、文人画、琳派、浮世絵など、それぞれ異なる制作伝統があった。それらすべてを一つの「日本画」と呼ぶ必要はなかった。
しかし油彩を中心とする西洋画が制度として入ると、その対照項として「日本側の絵画」を一つの大きなカテゴリーへまとめる必要が生じる。東京藝術大学のフェノロサ紹介でも、1882年の《美術真説》で「Japanese painting」を油絵と比較して論じたことが紹介されている。
ここで「日本画」は古い伝統の名称というより、近代化の中で作られた分類として理解できる。西洋画が入ったからこそ、日本側の異なる画派が「日本の絵画」としてまとめ直された。
二人は、すべての日本美術を平等に評価したわけではない
近代的な「日本美術」を作るためには、何を中心に置くかを決めなければならない。フェノロサと岡倉は、日本に存在したすべての画派や作品を同じ比重で保存・振興したわけではなかった。
彼らは特に古代仏教美術や伝統的な絵画を高く評価し、同時代の画家では狩野芳崖、橋本雅邦らと協力して新しい絵画を作ろうとした。後に東京美術学校も開校当初、日本固有美術の振興を掲げて日本画、木彫、美術工芸を中心に据える。
この選択には明確な美術観がある。「日本美術の発見」は中立的な目録作りではなく、優れていると考える系譜を作ることでもあった。
1884年、鑑画会 — 古画の鑑定から新しい絵画制作へ
1884年、フェノロサ、岡倉、町田平吉らは鑑画会を組織した。日本美術院の年譜でも、同年の重要事項として記録されている。
東京藝術大学の資料によれば、初期の鑑画会は古画の鑑定や収集作品の展示などを行っていたが、やがてフェノロサが中心になると、新時代の日本絵画を育てる制作・発表の場としての性格を強めた。狩野芳崖や橋本雅邦が重要な役割を担う。
ここが保存だけでは説明できない点である。彼らは古い作品を博物館へ保管するだけでなく、そこから次の時代の絵画を作ろうとした。
狩野芳崖 — 狩野派をそのまま保存しない
狩野芳崖は1828年、長府藩御用絵師の家に生まれ、木挽町狩野家で学んだ。明治維新によって旧来の御用絵師制度が崩れると経済的に苦しい時期を経験する。
国立国会図書館は、芳崖がフェノロサと出会い、その勧めも受けながら西洋絵画の空間表現や色彩を取り入れ、日本画の革新に取り組んだと説明している。東京藝術大学も芳崖を、フェノロサ、岡倉らとともに西洋画法を取り入れた日本画の改革・実験を進めた画家と位置づける。
つまり「伝統を守る」とは、狩野派の既存様式を固定して保存することではなかった。線、墨、絹などの伝統的技法を残しながら、西洋の陰影や空間表現を取り込み、新しい近代絵画へ変えることが目指された。
《悲母観音》— 寺院の礼拝像ではなく、展覧会の絵画へ
芳崖晩年の代表作《悲母観音》は1888年に完成し、現在は東京藝術大学が所蔵する重要文化財である。観音が雲上に現れ、下方の幼児へ水を注ぐような独特の図像を持つ。
芳崖の制作には、仏教図像の伝統だけでなく、人体の立体感や空間表現をめぐる新しい研究が重ねられた。フェノロサは芳崖を強く支援し、作品制作へ関与した重要な後援者でもあった。
ここで仏教主題の意味も変化する。寺院の本尊や礼拝用仏画を作るのではなく、近代的な展覧会や美術教育の文脈で評価される「絵画」として仏教図像が再構成される。
芳崖作品の海外移動が示すもの
スミソニアン国立アジア美術館には、芳崖が1883年に制作した別の《悲母観音》が所蔵される。同館によれば、この作品は最初から寺院礼拝用ではなく展覧会展示を意識して制作され、パリのサロンにも出品された。
フェノロサは1886年にパリの美術商ジークフリート・ビングからこの作品を購入し、のち1902年にチャールズ・ラング・フリーアへ売却した。
一枚の日本画が、日本で制作され、パリで展示され、フェノロサに収集され、アメリカの美術館へ入る。この移動は、近代日本美術が国内制度だけでなく、国際的な美術市場と収集活動の中で成立したことを示す。
橋本雅邦 — 「伝統」と「新しさ」の別の接続
橋本雅邦も狩野芳崖と同じ木挽町狩野家で学んだ画家だった。維新後は海軍兵学校で製図に関わるなど、旧来の御用絵師とは異なる職を経験する。
国立国会図書館によれば、1882年の第1回内国絵画共進会で高い評価を受け、1886年には岡倉、フェノロサらの東京美術学校設立に参加した。1889年の開校後は教授となり、横山大観、下村観山ら多くの学生を育てる。
1890年の《白雲紅樹》では、狩野派的な山水表現を基盤としながら、空間の奥行きと色彩を再構成する。伝統絵画の近代化は、古い様式を捨てることでも、そのまま保存することでもない。
1885年、図画取調掛 — 美術学校設立が行政になる
1885年、文部省に図画取調掛が設置され、フェノロサ、岡倉覚三、狩野芳崖、狩野友信らが委員として東京美術学校設立の準備を始めた。東京藝術大学の沿革は、この組織を現在の同大学美術学部につながる直接的な前史としている。
それまでの鑑画会は美術団体だったが、図画取調掛では学校の制度、教材、教員、教育目的を政府組織の中で設計する。日本美術再興が個人の主張から行政政策へ変わる。
「何を日本美術として教えるか」という判断が、次世代の作家がどんな絵を学ぶかを直接決めるようになる。
1886–1887年、二人は西洋の美術制度を見に行く
1886年から翌年にかけて、フェノロサと岡倉は浜尾新らとともに欧米へ派遣され、美術と美術教育を視察した。東京藝術大学の沿革も、官立美術学校を作る準備としてこの海外視察を位置づけている。
興味深いのは、日本固有美術を振興する学校を作るために、西洋の美術学校と博物館制度を調査したことである。伝統を守る方法自体を、西洋の近代制度から学んでいる。
ここに明治美術の逆説がある。日本の独自性を守ろうとする運動が、学校、博物館、学科、美術史、保存制度という西洋近代の形式を使って進められた。
1888年、全国宝物調査が始まる
1888年、宮内省に臨時全国宝物取調局が設置され、岡倉も調査へ参加した。文化庁によれば、その後約10年間で全国の社寺などにある絵画、彫刻、工芸、書跡、古文書など約21万5000点が調査された。
フェノロサと岡倉は、1880年代前半から古社寺調査へ関わっていたが、ここではさらに制度が拡大する。個別の旅行ではなく、国家規模で作品を登録し、価値を判断する仕組みになる。
この調査は後の国宝指定、美術史編纂、博物館展示の基礎となる。「日本美術」という全体像を作るには、まず全国の作品がどこにあるかを知らなければならなかった。
古美術調査は、序列を作る
調査ではすべての物を同じ重要度で扱うわけではない。年代、保存状態、技法、歴史的意義、美術的価値などを判断し、より重要と考えられる作品を選ぶ。
その結果、「日本を代表する名品」というリストが少しずつ形成される。後の国宝制度や美術館展示は、その蓄積を引き継ぐ。
現在、教科書で必ず見る仏像や絵画が「代表作」に見えるのは、作品自体の質だけではなく、明治以降の調査・指定・展示・出版によって何度も中心に置かれてきたからでもある。
1887年、東京美術学校という器ができる
1887年、図画取調掛は東京美術学校と改称された。授業開始は1889年である。東京藝術大学によれば、学校は「わが国固有美術の振作発揚」を掲げ、普通科と専修科を置く5年制の学校として出発した。
前の記事で扱った工部美術学校が西洋画、彫刻、建築の移植から始まったのに対し、東京美術学校は日本の伝統美術を近代学校制度の中で再編する方向へ進んだ。
フェノロサと岡倉は、西洋を拒絶して江戸時代の画塾へ戻ったのではない。西洋式の学校制度を使って日本絵画、木彫、工芸を体系化した。
美術史を「授業」として教える
東京藝術大学美学研究室によれば、東京美術学校では1889年から1890年にフェノロサが「美学及び美術史」を講じ、岡倉が通訳を務めた。その後、1890年から1896年まで岡倉自身が美学・美術史を講じる。
東京藝術大学百年史は、この科目が開校当初のカリキュラムで大きな時間を与えられた重要科目だったことを記録している。制作実技だけでなく、「美とは何か」「過去の美術がどう発展してきたか」を文章と講義で学ぶ。
作家になるために美術史を学ぶという、現在の美術大学にもつながる仕組みがここで始まる。伝統は師匠の型を真似るものから、歴史として分析し、選択して使うものへ変わっていく。
1890年、岡倉が東京美術学校長になる
岡倉は1887年の東京美術学校設置時に幹事となり、1890年には校長に就任した。日本美術院の年譜によれば、同じ時期に帝国博物館の理事・美術部長も務めている。
一人の人物が、美術学校、博物館、美術史教育、古美術調査に同時に関わる。これは現在なら複数の専門機関へ分かれる仕事である。
そのため岡倉は、作品を作る画家というより、美術界そのものの構造を設計する行政家・教育者として大きな力を持った。
1889年『國華』創刊 — 名品を印刷物で共有する
1889年、岡倉は高橋健三らと国華社を設立し、美術研究誌『國華』を創刊した。東京国立博物館の資料によれば、創刊の辞には「美術は國の精華なり」と掲げられ、日本・東洋の美術を研究し、埋もれていた名品を図版と論文で紹介してきた。
古美術を全国から東京へ集めることには限界がある。しかし写真、木版色摺り、後にはコロタイプなどの複製技術を使えば、一つの作品を多くの研究者と読者が見ることができる。
「日本美術」を作ったのは博物館だけではない。研究誌と複製図版によって、どの作品が重要かという知識が全国へ共有された。
帝国博物館で「日本美術史」を編纂する
日本美術院の年譜によれば、岡倉は1891年、帝国博物館で日本美術史の編纂へ着手した。古社寺調査、学校教育、博物館収集で集まった情報を、時間軸のある一つの歴史へまとめる作業である。
この仕事は1900年パリ万国博覧会のためのフランス語版《Histoire de l’art du Japon》へつながり、1901年には日本語版《稿本日本帝国美術略史》として刊行される。
寺院ごと、流派ごとに存在していた作品が、古代から近代へ続く「日本美術の歴史」として並べ直される。作品を守ることから、国家の文化史を文章化する段階へ進んだ。
フェノロサは「日本美術を救った外国人」なのか
フェノロサは古美術保護を訴え、芳崖や雅邦を支援し、美術学校設立に関わった。こうした功績は大きい。一方で、日本美術がフェノロサ一人によって救われたという物語は、当時の日本人の活動を見えなくする。
寺社は近代以前から宝物を守り、町田久成、蜷川式胤、佐野常民、九鬼隆一らはフェノロサ以前・同時期から文化財調査や博物館制度を進めていた。岡倉も単なる通訳ではなく、行政制度と教育へ考えを実装する中心人物になった。
フェノロサの役割は非常に大きいが、日本美術保護は外国人一人の英雄行為ではなく、多数の人間と機関による制度形成だった。
同時に、フェノロサは収集家でもあった
フェノロサは日本美術を調査しただけでなく、多くの作品を収集した。ボストン美術館は、エドワード・モース、フェノロサ、ウィリアム・スタージス・ビゲロー、岡倉覚三らによる収集活動を、同館の巨大な日本美術コレクション形成の基礎としている。
1890年、ボストン美術館はアメリカで初めて日本美術の専門コレクションと専門キュレーターを置いた美術館となった。同館には現在も数万点規模の浮世絵と多数の日本絵画・仏教美術・工芸が残る。
日本美術を「保護すること」と海外へ「移動させること」は同時に起きた。散逸を防ぐための収集が、結果として重要作品を日本国外へ移すことにもなった。この両面を分けずに見る必要がある。
ボストンで「日本美術」が別の制度へ入る
フェノロサ、モース、ビゲロー、後には岡倉が関わったボストン美術館では、日本の作品がアメリカの公共美術館の中へ分類・展示された。MFAによれば、日本美術コレクションは1890年に制度化され、後に世界有数の規模へ成長した。
寺院の仏像や掛軸、浮世絵、刀装具が、アメリカでは「Arts of Japan」の一部として同じ美術館へ入る。日本国内で進んでいた「日本美術」という分類が、海外でも制度になる。
「日本美術」は国内の国民文化であると同時に、海外美術館が収集・展示する国別カテゴリーでもあった。
西洋の美術館へ入ることで、作品の意味がまた変わる
たとえば仏像がアメリカの美術館へ入れば、礼拝の対象から美術史的な彫刻へ重心が移る。浮世絵も江戸の商業出版物ではなく、版画史の名品として展示される。
ボストン美術館は現在、作品の元の宗教的・社会的文脈も伝えながら展示しているが、19世紀末の収集では「最高の日本美術を集める」という価値判断が強く働いた。
収集は文化を残す行為であると同時に、物を新しい制度へ移し、意味を作り替える行為でもある。
岡倉は「反西洋」の思想家だったのか
岡倉天心は日本美術や東洋文化の価値を強く主張したため、単純な反西洋主義者として説明されることがある。しかし彼自身は英語で教育を受け、欧米へ美術教育調査に赴き、西洋の博物館制度を研究し、後にはボストン美術館でも働いた。
彼が目指したのは、西洋との接触を拒否して江戸以前へ戻ることではない。日本・東洋の造形を近代的な制度の中で成立させ、西洋と比較可能な美術として提示することだった。
「伝統」を守るために、西洋近代の制度と国際語である英語を利用する。この矛盾を含む姿勢が天心の特徴だった。
「伝統」そのものを更新する
狩野芳崖と橋本雅邦の制作を見ると、岡倉とフェノロサの運動が単なる復古ではなかったことが分かる。狩野派の筆墨と画題を残しながら、空間、陰影、色彩に西洋画法の知識を取り入れる。
伝統を守るとは、過去の完成形を永久にコピーすることではない。次の時代にも成立するように変形する必要がある、という考えがそこにある。
この姿勢は、後の横山大観、菱田春草、下村観山らの実験へ続いていく。近代日本画は、古い様式を保存箱へ入れるのではなく、変化させながら存続させる試みとして形成された。
ただし、「新しい日本画」の基準も一つの権力になる
何を近代日本にふさわしい絵画とするかを学校や博物館が決めれば、その基準に合わない制作は中心から外れやすくなる。美術学校の教授、博物館の部長、展覧会の審査、美術史の講義を同じ人的ネットワークが担えば、評価基準は大きな影響力を持つ。
岡倉とフェノロサの制度形成は、日本美術を守る力になった一方、新しい正統を作る力でもあった。どの画派を教育の中心にするか、どの古美術を代表作とするかという判断は、後世の美術史へ長く影響した。
したがって彼らの仕事を評価するときは、「正しかったか、間違っていたか」という二択より、どのような価値体系を作ったのかを具体的に見る必要がある。
1896年《古社寺保存法》制定へ関与する
岡倉は古社寺調査だけでなく、文化財を制度的に守る法律の形成にも関わった。文化庁によれば、1896年に古社寺保存会が設けられると岡倉は委員となり、歴史的・芸術的価値を重視する保存制度を主張した。
翌1897年には《古社寺保存法》が成立し、国宝・特別保護建造物を指定して修理費を助成する制度が整う。岡倉が直接すべてを作ったわけではないが、長年の調査と保存活動が法制度へ接続した。
「日本美術」の形成は、作家育成だけでなく、古い作品を将来まで残す行政制度を作ることでもあった。
1898年、東京美術学校を去る
1898年、岡倉をめぐる東京美術学校騒動が起こり、岡倉は校長職を辞する。日本美術院の年譜によれば、橋本雅邦、横山大観、菱田春草、下村観山、六角紫水らも学校を離れ、その年に日本美術院を創設した。
ここで岡倉の活動は官立学校の制度内部から、民間の研究組織へ移る。国家の学校で「日本美術」を作る段階から、学校の外で新しい美術を研究する段階へ進む。
制度を作った人物が、その制度を離れて別の組織を作る。近代美術界が一つの国家機関だけでは動かなくなっていくことを示す出来事でもある。
日本美術院 — 保存と革新を同じ組織で行う
日本美術院は1898年、谷中初音町に研究所を設けた。日本美術院の公式沿革によれば、「新時代における日本美術の維持と開発」を掲げ、展覧会、研究会、雑誌発行、地方展を行った。
さらに日本美術院には古美術品の修理部門も置かれた。文化庁の資料によれば、この部門は後の公益財団法人美術院につながり、古社寺保存法に基づく国宝修理へ関わる。
古い作品を修理することと、新しい絵画を実験することが同じ組織の中にある。天心にとって伝統保護と現代制作は別の問題ではなかった。
「日本美術」という考えは、国内向けだけではなかった
岡倉は後に英語で『The Ideals of the East』『The Awakening of Japan』『The Book of Tea』を執筆する。これらは1903年以降の仕事だが、1880〜90年代に作ってきた「日本・東洋の美術を体系的に説明する」という活動の延長にある。
ボストン美術館でも岡倉は日本美術コレクションの整理・収集へ関わり、日本とアメリカを行き来した。日本美術院の年譜によれば、1904年に同館のエキスパートとなり、1910年には中国日本部長となっている。
近代的な「日本美術」は、日本人だけに向けて作られた自己像ではない。国際社会へ説明することを最初から強く意識したカテゴリーだった。
フェノロサと岡倉は、同じ人物ではない
二人は長く協働したため、同じ思想を持つ一組として語られやすい。しかし立場は異なる。フェノロサはアメリカ人研究者・教師・収集家として日本美術を評価し、後にはアメリカの美術館でその紹介を進めた。
岡倉は日本の文部行政、東京美術学校、帝国博物館、日本美術院を通して制度を内側から動かした。さらに国際社会へ日本美術を説明する言葉を作った。
フェノロサから受けた影響は大きいが、岡倉を単なる弟子として扱うことはできない。フェノロサの美術観を日本の制度へ翻訳しながら、独自の文化論と行政実践へ発展させた人物だった。
「日本美術をつくる」とは、作品を捏造することではない
「日本美術は近代につくられた」と言うと、明治以前の作品価値が偽物だったように聞こえるかもしれない。しかし、法隆寺の仏像や雪舟の絵が明治時代に初めて価値を持ったという意味ではない。
近代につくられたのは、それらを一つの国民的カテゴリーへまとめ、年代順に並べ、美術館で展示し、美術学校で教え、法律で守り、海外へ「Japanese art」として説明する制度である。
作品は以前から存在していた。しかし、それらを同じ歴史の構成員として見る枠組みが新しく作られた。この違いを理解することが、明治美術史を読む上で重要になる。
保存・収集・教育・市場は分離できない
岡倉とフェノロサの活動を追うと、文化財保護、美術学校、作家育成、美術館収集、海外市場が一つのネットワークになっていたことが分かる。
芳崖の絵を評価すれば、学校教育のモデルになる。作品を収集すれば美術館へ入り、図版になれば研究対象となる。海外の収集家が購入すれば日本絵画の国際的価値が高まり、その評価が再び国内へ戻る。
近代美術は、作品のスタイルだけでなく、作品を価値づける複数の制度が連動することで形成された。
「日本美術」をつくることは、近代国家をつくることでもあった
明治政府は、西洋列強と対等な近代国家を目指し、軍事、法律、教育、産業を急速に再編した。その中で美術も、「日本は独自の高度な文化を持つ国である」と示す材料になった。
古い仏像を国宝として守り、美術学校で伝統技法を教え、美術史を編纂し、万博で展示する。これらは文化活動であると同時に、国家の歴史と独自性を可視化する作業でもある。
岡倉とフェノロサの「日本美術」は、純粋な美的価値の研究だけから生まれたのではない。近代国家が自分自身を説明する必要の中で形成された。
1880–1900年代|岡倉天心とフェノロサ
フェノロサは1878年、哲学や政治学を教える外国人教師として日本へ来た。岡倉覚三は東京大学の学生として彼と出会い、二人は日本の古美術調査へ深く関わっていく。1882年の《美術真説》、1884年の鑑画会、1885年の図画取調掛、1886〜87年の欧米美術教育調査、1888年以降の全国宝物調査、1889年の東京美術学校開校と帝国博物館。十数年の間に、日本美術を支える制度が急速に連結された。
二人は古い日本美術をそのまま保存したのではない。狩野芳崖や橋本雅邦を支援し、西洋画法を取り込んだ新しい日本絵画を推進した。過去の作品を調査して美術史へ入れながら、同時代の制作についても「何が新しい日本美術になるべきか」を選択した。
その選択は大きな成果を生んだ一方、すべての表現を平等に扱う中立的なものではなかった。またフェノロサらの収集は、日本美術の保存と研究を進めながら、多くの作品をボストンなど海外へ移動させることにもなった。「保護」と「収集」、「再評価」と「序列化」は同時に起きていた。
だからこそ、岡倉天心とフェノロサの意義は「日本美術を救った」という一言より大きい。彼らは学校、博物館、調査、出版、美術史、展覧会、国際収集をつなぎ、近代社会で「日本美術」が存在できる仕組みそのものを作ることに深く関わった。次の記事では、その制度の中心となった東京美術学校へ焦点を絞り、授業、教授、学生、専門分野がどのように組織され、日本の近代美術家を生み出す装置になっていったのかを見ていく。
参考資料
- 国立国会図書館「岡倉天心|近代日本人の肖像」
- 国立国会図書館「美術真説」
- 東京藝術大学「沿革・歴史」
- 東京藝術大学 GEIDAI ARCHIVES CENTER OF MODERN ART「東京芸術大学百年史」
- 東京藝術大学美学研究室「年譜」
- 藝大アートプラザ「アーネスト・フェノロサの功績や岡倉天心との関係」
- 東京藝術大学大学美術館「狩野芳崖 悲母観音への軌跡」
- 国立国会図書館「狩野芳崖|近代日本人の肖像」
- 国立国会図書館「橋本雅邦|近代日本人の肖像」
- 文化庁 国指定文化財等データベース「絹本著色悲母観音像〈狩野芳崖筆〉」
- 文化庁 国指定文化財等データベース「紙本著色白雲紅樹図〈橋本雅邦筆〉」
- Smithsonian National Museum of Asian Art, Hibo Kannon
- 日本美術院「岡倉天心について」
- 日本美術院「沿革 概要」
- 日本美術院「創立時・再興時の構成」
- 文化庁「文化財保護の歩みと現状」
- 文化庁「古社寺保存法による文化財の保護」
- 東京国立博物館「『國華』創刊120周年記念展」資料
- Museum of Fine Arts Boston, Art of Japan Collection and History of Cultural Exchange
- Museum of Fine Arts Boston, Arts of Japan Galleries
資料確認日:2026年10月2日