1968–1970年代
もの派
関係、物質、場所
「もの派」は、正式に結成されたグループではない
1968年頃から1970年代前半にかけて、日本の若い美術家たちの間で、石、木、鉄板、ガラス、紙、綿、土、パラフィンなどを大きく加工せず、単独あるいは複数の物の関係として提示する作品が相次いで現れた。後に彼らは「もの派」と呼ばれるようになる。
しかし国立国際美術館が明確に説明しているように、もの派は一つの教義や組織に基づいて集まった正式なグループではない。全員が同じ宣言へ署名したわけでも、会員制度や代表者を持っていたわけでもなかった。関根伸夫、李禹煥、菅木志雄、小清水漸、吉田克朗、成田克彦、高山登、榎倉康二らが、近い時期に異なる場所で似た問題へ接近し、批評と展覧会によって後から一つの動向として認識された。
そのため「もの派様式」を探すより、なぜ1960年代末に複数の作家が「何かを作り上げる」ことから距離を取り、すでに存在する物と場所の関係へ注目したのかを見る必要がある。
「もの」という名前だけでは分かりにくい
もの派という名称から、石や木などの「物そのもの」を尊重した運動だと理解しやすい。確かに物質性は重要だが、それだけでは足りない。
李禹煥は石、鉄板、ガラスを組み合わせ、菅木志雄は木片を窓や床や空間へ介在させ、小清水漸は紙や石、木材の状態を変え、吉田克朗は鉄板のたわみや重力を見せた。作品の意味は、個々の材料の美しさより、それらがどこに置かれ、何と接触し、どの力を受けているかによって生じる。
もの派で重要なのは「物」だけではなく、「物と物」「物と場所」「物と人」のあいだで生じる関係である。
名称は当初から作家自身が掲げたものではない
グッゲンハイム美術館は、「もの派」という名称が1970年代初頭、必ずしも好意的ではない呼び方として生まれたと説明している。「物を置いただけではないか」という批判的な視線が、皮肉を込めて「もの派」と一群を呼ぶ背景にあった。
つまりこの名称は、未来派や具体美術協会のように作家が自分たちで運動名を宣言したものではない。後から付けられた呼称が定着し、美術史上の名称になった。
現在では便利な分類語だが、名称が後付けであることを忘れると、作家たちが最初から一つの運動を共同で計画していたように見えてしまう。
1968年という転換点
1968年は、世界各地で学生運動と反体制運動が広がった年だった。日本でも大学紛争が激化し、政治、教育、社会制度への批判が高まっていた。
国立国際美術館は、1968年を日本美術においても新しいパラダイムが生まれた重要な年と位置づけ、その象徴的な出来事として関根伸夫《位相―大地》を挙げている。
もちろん、社会運動がそのままもの派作品になったわけではない。しかし、既存の制度や価値体系を前提とせず、根本から問い直そうとする時代感覚は、美術の「作品とは何か」という問題とも重なっていた。
反芸術の後に、なぜ「静かな物」が現れたのか
1960年代前半の読売アンデパンダンやネオ・ダダでは、廃材、騒音、破壊、身体行為など強い視覚的衝撃が前面に出た。ハイレッド・センターは街路やホテルへ介入し、反芸術は美術館制度そのものを揺さぶった。
その後、1960年代末のもの派作品を見ると、石が床に置かれ、木が壁へ立て掛けられ、鉄板がたわみ、紙が置かれる。非常に静かに見える。
しかしこれは前衛性が弱くなったのではない。奇抜な形を新しく発明する競争そのものから離れ、「作家が作る」という近代美術の根本を問い直す、別の方向への radical な転換だった。
「新しい形を作る」こと自体への疑問
近代美術では、作家は世界に存在しなかった新しい形を生み出す創造者として評価される。彫刻なら石を削り、木を彫り、金属を加工して作者固有の形を作る。
もの派は、その創造者像へ疑問を持った。石はすでに存在し、木も存在し、重力も存在する。作者がそれらを自分のイメージへ従わせなくても、置き方や接触の仕方を変えるだけで、普段は見えない関係が現れるのではないか。
「作品を作る」から「世界が現れる条件を作る」へ。作者の役割そのものが変わっていく。
関根伸夫《位相―大地》
もの派の大きな起点とされるのが、関根伸夫が1968年10月、神戸の須磨離宮公園で開催された現代彫刻展に制作した《位相―大地》である。
関根は大地を巨大な円筒形に掘り下げ、掘り出した土をそのすぐ横へ、ほぼ同じ円筒形の土塊として積み上げた。穴と土柱は、地面から物質を取り除いた「負」の形と、同じ物質を積み上げた「正」の形として対置された。
彫刻を別の場所から運んできて公園へ置いたのではない。その場所にすでにあった大地そのものを掘り、移動させ、元から存在した地面の状態を変化させた。
「位相」という言葉
関根は《位相―大地》以前から、トポロジーや視覚的な転換を意識した「位相」シリーズを制作していた。1968年前半には、石子順造と中原佑介が企画した「トリックス・アンド・ヴィジョン」など、視覚と実体のずれを扱う美術が注目されていた。
《位相―大地》にも、穴と土柱が同一物質の変換として現れる論理がある。しかし巨大な土を実際に掘り動かしたことで、視覚的なトリックだけでは済まない物質の重さと現実性が生まれた。
「目をだます作品」から、「目の前にある物質そのものへ驚く作品」へ移ったことが、同時代の作家へ大きな衝撃を与えた。
作品は保存できなかった
《位相―大地》は展覧会終了後、恒久的な彫刻としてそのまま残されたわけではない。穴は埋め戻され、土柱も消えた。現在知られるのは主に記録写真と後年の再制作・再構成である。
石やブロンズの彫刻なら物体を美術館へ運び保存できる。しかし大地そのものを掘った作品は、その場所と時間から切り離せない。
もの派は彫刻の材料だけでなく、「作品を保存するとは何か」という問題まで美術館へ突きつけることになった。
李禹煥が《位相―大地》を見る
李禹煥は1936年、現在の韓国・慶尚南道に生まれ、1956年に来日した。日本大学で哲学を学び、1960年代には絵画や批評活動を行っていた。
国立国際美術館によれば、李は1968年10月、《位相―大地》と出会ったことで大きな転換を経験した。それまで視覚と実体のずれを扱う作品へ関心を持っていたが、関根の作品を、トリックであると同時に現実そのものを露出させる出来事として捉えた。
この経験から李は、近代美術の「作者が概念を形へする」という制作観を批判し、物そのものと世界の関係を開く美術を理論化していく。
李禹煥は「もの派のリーダー」だけではない
李は後にもの派の理論的中心人物として国際的に知られる。しかし、もの派を李が最初から組織したという意味ではない。
関根の《位相―大地》や、多摩美術大学の斎藤義重教室周辺で活動していた若い作家たちの実践が先行し、李がそれらの作品に共通する可能性を言葉で整理していった。
作家の実践と批評家・思想家としての李の言語化が相互に作用することで、「もの派」という歴史的なまとまりが形成された。
韓国出身の李を「日本固有の思想」へ回収しない
もの派は戦後日本美術の重要動向として語られるが、理論形成の中心人物である李禹煥は韓国生まれで、日本と韓国を往来する越境的な作家だった。
グッゲンハイム美術館は、李の思想がヨーロッパの現象学・構造主義と東アジアの思想を横断しながら形成されたことを指摘している。
石や余白を使うから「禅的で日本的」と説明するだけでは、もの派が持っていた国際的・思想的な複雑さを失う。もの派は日本の伝統へ単純に戻る運動ではなかった。
1969年「事物から存在へ」
李は1968年に執筆した評論「事物から存在へ」によって、美術出版社の芸術評論募集で評価を受け、1969年に批評家としても注目を集める。
題名が示す通り、焦点は「この物は何を表現しているか」から、「物がここに存在するとはどういうことか」へ移る。
彫刻を意味のある形へ加工するより、石、鉄、ガラスがそれぞれ異なる性質を持ち、同じ場所で出会う状態そのものを見る。作品は意味を運ぶ記号より、存在を経験する場所になる。
1969年《知覚と現象B》から《関係項》へ
1969年8月、京都国立近代美術館の「現代美術の動向1969」で、李はガラス板と石を用いた《知覚と現象B》を発表した。この作品は後に《関係項》として展開される。
石をガラスへ落とすと、ガラスは石の衝撃によって割れる。自然物である石、工業製品であるガラス、重力、落下、亀裂。それぞれが一つの出来事の中で関係する。
作家がガラスへ亀裂模様をデザインするのではない。素材同士を接触させ、物理法則が形を作る条件を整える。
偶然ではなく「制御された出来事」
ガラスがどう割れるかを作者が完全に予測することはできない。しかし石を選び、位置を決め、落下させるという設定は作者が行う。
したがって、もの派は偶然へすべてを任せる芸術でもない。作者は結果の形を直接作らず、結果が生じる関係を設定する。
作者の仕事は「形を作る手」から、「出来事の条件を組む人」へ移る。
「関係項」という考え
李は後に多くの立体作品を《関係項》と総称する。石だけが作品なのでも、鉄板だけが作品なのでもない。両者が同じ場所に置かれ、鑑賞者がそのあいだを見ることで関係が生まれる。
さらに床、壁、光、歩く鑑賞者も関係へ入る。作品の境界は物体の輪郭だけで決められない。
この考えによって彫刻は「一つの塊」から「複数の存在が出会う場」へ変化する。
菅木志雄 — 「場」を作品にする
菅木志雄は1944年岩手県生まれ。1964年に多摩美術大学絵画科へ入り、斎藤義重の教室で学んだ。国立国際美術館は、斎藤の教室から関根、菅、小清水、吉田ら後のもの派に関わる複数の作家が現れたことを指摘している。
菅は李の理論へ完全に従ったわけではなく、自分の側から「もの」と「場」の関係を考え続けた。
もの派を李の理論の実践部隊として理解できない理由がここにある。菅には菅独自の世界観があり、李との距離も存在した。
1969年《並列層》
国立国際美術館によれば、菅木志雄は1969年《並列層》で、パラフィンを積み上げて一つの領域を作った。
パラフィンを彫刻的な人物や形へ造形するのではなく、物質そのものを一定の状態で提示する。鑑賞者は「何に見えるか」より、「この物質がここでどう存在しているか」へ注意を向ける。
菅にとって、物は作品の材料である前に、その場所へ介在し、空間全体の関係を変える存在だった。
1970年《無限状況》
菅の《無限状況》では、美術館の既存の落とし窓へ木片を介在させ、室内と外部の境界を変化させた。国立国際美術館は、この作品を「場」に物を介在させることで、外世界と内世界をつなぐ初期の重要作として説明している。
新しい彫刻を床へ置くのではなく、すでに存在する建築の窓を作品の一部にする。
同じ木片でも、別の部屋へ移せば同じ作品にはならない。物体以上に場所との関係が作品を決める。
小清水漸 — 紙と石
小清水漸も多摩美術大学で斎藤義重に学び、関根《位相―大地》の制作へ深く関わった。1969年の「現代美術の動向」展では、巨大な紙袋と石を使う作品などを発表している。
紙は軽く、石は重い。柔らかく破れやすい素材と、硬く重い物質を同じ状態へ置くことで、それぞれの性質が互いを通して強く意識される。
石を石らしく彫刻するのではなく、異質な物質と接触させることで「重い」「硬い」といった性質そのものを感じさせる。
物質の「名前」ではなく性質を見る
日常生活では、紙は書くもの、鉄板は建材、石は自然物というように、物を用途や名前によって理解する。
もの派の配置は、そうした日常的意味を一度切り離す。巨大な紙、たわむ鉄、焦げた木、割れたガラスを前にすると、「何に使う物か」より重さ、温度、質感、硬さ、脆さへ注意が向く。
既成概念を剥がし、物を「初めて見るように見る」状態を作ることが重要だった。
吉田克朗 — 重力を見せる
吉田克朗も多摩美術大学の斎藤義重教室で学び、1968年には関根《位相―大地》の制作へ参加した。国立国際美術館によれば、この経験以後、吉田の作品は大きく変化する。
1969年の《Cut-off No.2》では、巨大な角柱と厚さの異なる鉄板を組み合わせる。鉄板は自重によって異なる角度にたわむ。
作者が曲線をデザインしているのではない。重力という普段は見えない力が、鉄板の変形として現れる。
「見えない力」が形を作る
重力は常に作用しているが、それ自体を見ることはできない。物が落ちる、板がたわむ、石が重いという結果を通して初めて認識できる。
もの派作品では、作者の表現力より、重力、圧力、張力、摩擦といった物理的な力が形を決める場面が増える。
作品を見ることは、物体だけを見ることではなく、その物体に働く見えない環境まで見ることになる。
成田克彦《SUMI》
成田克彦は木を焼き、炭化した木材を用いる《SUMI》シリーズを制作した。国立国際美術館には1968年の《SUMI》が所蔵されている。
木材は加工して彫刻を作るための材料である。しかし焼けば、表面は黒くなり、脆くなり、木が別の物質状態へ変わる。
形を彫刻刀で作り込むのではなく、火による物質変化を作品へする。物質が持つ時間と変化が前面へ出る。
高山登《地下動物園》
高山登も、もの派を考える上で欠かせない作家の一人である。国立国際美術館の「もの派―再考」では、1969年の《地下動物園》が代表的な初期作品として紹介された。
高山は鉄道の枕木など、すでに社会で使用された物を用い、土や場所との関係を作る作品を発展させる。新品の素材から美しい形を作るより、物が背負った時間や社会的使用の痕跡を含めて扱った。
自然物だけでなく、工業化社会の廃材も「もの」として同じ世界に存在する。もの派を自然回帰の運動だけにすることはできない。
榎倉康二 — 身体と場所の境界
榎倉康二は1969年に個展「歩行儀式」を開き、1970年には「人間と物質」展や「Space Totsuka 70」などへ参加した。後には油や水を床・壁へ浸透させる作品や、身体と壁・地面の接触を写真で記録する仕事へ進む。
榎倉の作品では、物体を置くだけでなく、身体がどこまで空間へ入り、どこで遮られるかという境界が問題になる。
もの派の「関係」は、石と鉄の関係だけではない。人間の身体も空間を構成する一要素になる。
自然物対人工物という単純な二項対立ではない
李の石と鉄、石とガラスは、自然と人工を対比する作品として説明されることが多い。確かにその差は重要である。
しかし鉄も元をたどれば鉱石から作られ、ガラスも鉱物を加工した物質である。人間が作ったものも自然世界の外に存在するわけではない。
李が後に《関係項》で示すのは、自然/人工を完全に分離するより、異なる歴史と性質を持つ物が同じ場所で出会う関係である。
「そのまま置く」ことにも操作がある
もの派は「素材をそのまま使う」と説明される。しかし実際には、関根は大地を掘り、成田は木を焼き、李は石を落としてガラスを割り、吉田は鉄板を配置して重力でたわませる。
何もしていないのではない。過剰な造形を避けながら、素材の性質が最も強く現れる条件を設定している。
「手を加えないこと」より、「どこまで手を加えるかを制限すること」が重要だった。
作品は毎回まったく同じにはならない
石は一つ一つ形が違い、木材にも個体差がある。設置場所の広さや床、壁も変わる。過去のもの派作品を再制作すると、1969年の材料と完全に同じ物を揃えることは難しい。
そのため、何を同じにすれば「同じ作品」なのかという問題が生じる。物体そのものなのか、材料の種類なのか、配置関係なのか。
もの派の再展示では、完成物の保存以上に、作品を成立させる関係と考え方をどう再現するかが重要になる。
1969年「現代美術の動向」展
1969年8月19日から9月23日まで、京都国立近代美術館で「現代美術の動向1969」が開催された。アートプラットフォームジャパンの記録では、小清水漸、成田克彦、吉田克朗、李禹煥ら、後にもの派と呼ばれる作家が参加している。
李は石とガラスを使った《知覚と現象B》を発表し、小清水は紙と石、吉田は木材と鉄板など、異なる物質を直接的に組み合わせる作品を示した。
個々の実験が同じ美術館展へ集まることで、作家同士と批評家はそれらが一つの大きな変化を共有していることを認識し始める。
1970年2月『美術手帖』「〈もの〉がひらく新しい世界」
1970年2月号の『美術手帖』では、李禹煥、小清水漸、関根伸夫、菅木志雄、成田克彦、吉田克朗による座談会「〈もの〉がひらく新しい世界」が掲載された。
同号には李の「出会いを求めて」も掲載され、散在していた作品と議論が言語的に整理される重要な機会になった。
後から「もの派」と呼ばれる動向は、作品だけで自然に成立したのではない。雑誌、批評、座談会によって自分たちの違いと共通点を言葉にする過程も、その形成の一部だった。
李禹煥「出会いを求めて」
李は「出会いを求めて」で、作者が内面的なイメージを外部の物質へ押し付ける近代的創造観を批判し、物と世界が出会う状態を開くことを重視した。
作家は世界を支配して新しい物を作る中心ではなく、すでに存在する物同士が出会う状況を媒介する存在になる。
グッゲンハイム美術館がもの派を説明する際に「作者の役割を創造から媒介へ移した」と表現するのは、この理論的転換を示している。
人間中心主義への疑問
作者が世界を自由に加工し、自分の表現へ従わせるという美術観の背景には、人間が自然と物質を支配できるという近代的な考えがある。
もの派では、石の重さ、鉄の硬さ、ガラスの脆さ、重力といった作者の意思では変えられない条件が作品を決める。
作家の意志を弱めることで、逆に人間以外の存在が持つ力を見えるようにする。この点で、もの派は美術上の問題だけでなく、人間と世界の関係そのものへ問いを広げた。
ただし「自然に任せる」思想へ単純化しない
人間中心主義への批判を強調すると、もの派を「自然にすべてを任せる東洋思想」として理解したくなる。しかし実際の作品には鉄板、ガラス、パラフィン、綿、建築部材など人工物が多数使われている。
さらに作品の配置は非常に慎重に計画される。石をどこへ置くか、鉄板を何度傾けるか、窓へどの木片を介在させるかは偶然ではない。
人間の手を完全に消すのではなく、人間の行為を最小化・限定し、物と場所の働きが前へ出るよう調整する態度と考える方が正確である。
多摩美術大学・斎藤義重教室
もの派の形成には、多摩美術大学の斎藤義重教室が重要な人的基盤となった。関根伸夫、菅木志雄、小清水漸、吉田克朗らが斎藤の周辺で学び、互いの制作を見ていた。
国立国際美術館の菅・吉田の解説は、斎藤の教室で同時代のアメリカ現代美術や作品成立の論理を考える訓練が行われていたことを記している。
もの派が一つの大学運動だったわけではないが、同世代の作家が作品を見せ合い議論できる教育環境が、後のネットワーク形成に大きく作用した。
1970年「1970年8月 現代美術の一断面」
1970年8月4日から30日まで、東京国立近代美術館で「1970年8月 現代美術の一断面」が開催された。出品者には小清水漸、菅木志雄、成田克彦、吉田克朗、李禹煥らが含まれた。
アートプラットフォームジャパンとグッゲンハイム美術館は、この展覧会をもの派の作品が美術館空間で集中的に示された重要な出来事として位置づけている。
数年前まで個展や若手展でばらばらに現れていた実験が、国立美術館で「新しい日本美術の一断面」として可視化された。
美術館に入ると「場所」の問題はさらに明確になる
屋外なら地面や風景が自然に作品へ入る。美術館では白い壁、床、柱、窓、照明があらかじめ存在する。
もの派の作家はこの建築を中立な背景として扱わなかった。木材を柱へ寄せ、石を床へ置き、空間を分断し、窓を介在させることで、普段は意識しない美術館の構造を作品の一部へする。
ホワイトキューブが「作品だけを見せる透明な空間」ではなく、それ自体が物質的な場所であることが見えてくる。
1970年東京ビエンナーレとの交差
同じ1970年には、中原佑介がコミッショナーを務めた第10回日本国際美術展、通称東京ビエンナーレ「人間と物質」が開催された。榎倉康二、小清水漸らもの派周辺の作家も参加した。
カール・アンドレ、ダニエル・ビュレン、リチャード・セラ、ヤニス・クネリスなど海外の同時代作家と日本の若い作家が同じ展覧会空間へ置かれ、物質、場所、プロセスを重視する国際的な動向との接点が可視化された。
ただし、この展覧会の詳細は次の記事で扱う。重要なのは、もの派が国内だけで孤立して生まれた現象ではなく、同時代の世界各地で進んでいた「完成した自律的作品」への疑問と並行していたことである。
ミニマル・アートとは同じなのか
もの派の簡潔な配置は、1960年代アメリカのミニマル・アートと似て見える。大型の素材、反復、単純な構造、作者の感情表現を抑える態度には共通点がある。
しかしミニマル・アートでは、工業製品の精密な形、規格、反復が重要になる場合が多い。もの派では、自然石や木の個体差、重力、割れ、たわみ、展示場所との一回的な関係がより強く前面に出る。
似た外観だけで「日本版ミニマリズム」と呼ぶと、作品の成立原理の違いが消えてしまう。
アルテ・ポーヴェラとも比較される
同時期のイタリアでは、石、木、布、土など身近な材料を使うアルテ・ポーヴェラが展開していた。アメリカではプロセス・アートやアースワークが現れ、ドイツではヨーゼフ・ボイス周辺の実践があった。
グッゲンハイム美術館は、もの派がこれらの国際的な動向と重要な共通点を持ちながら、独自に成立したと説明している。
1960年代末は、複数地域の作家が同時に「作品を形の完成度だけで考えない」方向へ進んだ時代だった。影響関係だけでなく、同時代的な問題意識を見る必要がある。
「日本は昔から自然を尊重した」という説明の危険
石、木、紙を使う作品を見ると、日本庭園、禅、自然観などへ結びつけたくなる。海外展でも、もの派はしばしば東洋的・日本的な自然観の表現として理解されてきた。
しかし作家たちは工業化、高度経済成長、学生運動、国際現代美術、現象学や構造主義と同時代に制作していた。作品の背景を古代から続く「日本人の自然観」だけにするのは歴史を単純化する。
伝統文化との比較は可能でも、もの派は1960年代末という具体的な現代社会から生まれた前衛だった。
物質と知覚は切り離せない
1995年に開催された大規模な回顧展は「1970年――物質と知覚〈もの派と根源を問う作家たち〉」と題された。この名称はもの派理解に重要である。
問題は物質だけではない。石があるから作品になるのではなく、石と床、石と鉄、石と身体の関係を人がどのように知覚するかが作品を成立させる。
「もの派」は物の運動であると同時に、見る人の知覚を作り変える運動でもあった。
「余白」ではなく、空間そのものが作品になる
石と石の間に何も置かれていなくても、その空間は単なる余白ではない。距離が近ければ緊張が生まれ、離れれば別々の物として見える。
李の作品で鉄板と石の間、小清水の作品で紙と石の間、菅の作品で木と建築の間にある「何もない場所」が関係を成立させる。
作品を構成するのは物だけではなく、物と物のあいだの空間である。
物は「意味」を説明しない
反戦絵画なら戦争を描き、肖像なら人物を表す。もの派の石や鉄板には、具体的な物語が描かれていない。
そのため「何を意味しているのか分からない」と感じることもある。しかし、もの派は意味を記号として伝えるより、目の前の状態を経験させることを優先した。
作品の前で意味を解読するだけでなく、重さ、距離、緊張、反射、接触を身体で認識する。見ることの質そのものが問題になる。
保存と再制作の難しさ
初期もの派の作品は、展覧会終了後に解体されたものが多い。紙は劣化し、木材は別用途へ戻り、石は元の場所へ返される。大地を掘った作品はそもそも収蔵庫へ入らない。
現在の回顧展では、当時の記録写真と作家の指示をもとに作品を再制作する例がある。しかし同じ石、同じ床、同じ光を完全に再現することはできない。
もの派の保存は「原物を守る」だけではなく、「どの関係を守れば作品が再び成立するか」を考える作業になる。
美術市場と相性が悪いようで、完全に外でもない
巨大な石と鉄板、土を掘った作品、窓へ木を挟む作品は、絵画のように簡単に売買・輸送できない。もの派は一点物の商品という美術市場の基本形式を揺さぶる。
一方、作家たちは画廊で個展を開き、後には作品が再制作され、美術館やコレクターへ収蔵される。市場と完全に断絶した運動ではない。
作品が「関係」であるほど、その関係をどのように契約し、所有し、再展示するかという新しい制度が必要になる。
1971年、パリ青年ビエンナーレ
1971年の第7回パリ青年ビエンナーレには李禹煥、吉田克朗、榎倉康二らが参加し、もの派の実践がヨーロッパで見られる機会が増える。
グッゲンハイム美術館は、李のこの時期の欧州進出を、もの派が国際的に認識され始める重要な契機としている。
ただし海外では長く十分に理解されず、「日本的自然観」「禅」など単純な説明へ回収される場合もあった。国際化は理解が自動的に深まることを意味しない。
1970年代前半、動向として拡散する
もの派は具体美術協会のように1972年に解散宣言をしたわけではない。1970年代前半、各作家が個人制作を深化させることで、共通した動向としてのまとまりは次第に弱くなる。
李は《関係項》と絵画を並行して展開し、菅は「場」と「状況」を長期的に追究し、小清水は木材の表面や構造へ、高山と榎倉は場所・身体・時間へそれぞれ進む。
もの派が一つのスタイルを確立して長期継続しなかったことは、その後の作家の多様さからも分かる。
1987年、初の大規模な歴史化
1987年、西武美術館で「もの派とポストもの派の展開〈1969年以降の日本の美術〉」が開催された。アートプラットフォームジャパンによれば、関根伸夫、李禹煥、菅木志雄、小清水漸、吉田克朗、成田克彦らが出品した。
活動当時に正式なグループではなかった作家たちが、約20年後に「もの派」という美術史的カテゴリーでまとめられる。
この回顧展以後、もの派は戦後日本美術の主要動向として国内外で継続的に研究されるようになる。
1995年「物質と知覚」展
1995年には岐阜県美術館を皮切りに、「1970年――物質と知覚〈もの派と根源を問う作家たち〉」が国内各地とフランスへ巡回した。
この展覧会には関根、李、榎倉、吉田、菅、高山、成田、小清水に加え、高松次郎、野村仁、原口典之らも含まれた。
「もの派」の境界を固定するより、1968–70年前後に物質と知覚を根本から問い直した広い作家群として再検討する視点が示された。
2005年「もの派―再考」
国立国際美術館は2005年、「もの派―再考」を開催し、関根《位相―大地》、小清水《かみ》、吉田《Cut-off No.2》、高山《地下動物園》、成田《SUMI》、李《関係項》、菅《臨界状況》などを通して動向を再検証した。
同館は、もの派を「ものを素材そのままに単体あるいは組み合わせて提示し、既成概念をはぎとって新しい世界の開示を見いだした」動向として説明する。
初期作品の多くが現存しないからこそ、回顧展は記録、再制作、資料を組み合わせながら、何が当時の作品の本質だったのかを問い直す場になる。
もの派は「作らない芸術」なのか
もの派を一言で説明する時、「作らない芸術」という表現が使われることがある。確かに、作者が石を人物像へ彫刻するような制作とは大きく異なる。
しかし《位相―大地》は巨大な土木作業であり、《関係項》は素材を選択・配置し、《無限状況》は建築へ介入する。「作らない」のではなく、「何を制作と呼ぶか」が変わった。
物体の形を一から作る代わりに、既に存在する世界の中へ最小限の操作を行い、新しい関係を成立させる。その関係を作ることが制作になった。
もの派が変えた「彫刻」の概念
彫刻は長い間、物質を彫る・刻む・塑造することで一つの形を作る芸術と考えられてきた。もの派では、石を彫らなくても石を作品にできる。
しかし「石だから作品」なのではない。石がどこにあり、何と接触し、どのような力と空間を作るかが作品になる。
彫刻は「形の芸術」から「関係と場所の芸術」へ大きく拡張された。
もの派が変えた「作者」の概念
近代美術の作者は、内面のイメージを作品へ表現する主体として理解されてきた。もの派では、作者が前面へ出過ぎると物そのものが見えなくなると考えられた。
李は作者を創造者から媒介者へ移し、菅は既存の場へ物を介在させる。作者が何も考えないのではなく、「自分がどこまで関与しないか」を厳密に考える。
個性を強く刻印することだけが作者性ではない。世界が現れる条件を選び取ることも作者の仕事になる。
もの派が変えた「展示」の概念
従来、展示は完成した作品を見やすく並べる最終工程だった。もの派では展示場所が作品成立以前から制作へ入る。
同じ材料でも床、壁、窓、屋外では関係が変わるため、設置は作品を置く作業ではなく作品を作る行為そのものになる。
この転換は、後のインスタレーション、サイト・スペシフィック・アート、環境芸術などへつながる重要な前提になった。
1968–1970年代|もの派
もの派は1968年頃から1970年代前半に現れた、正式な団体でも統一様式でもない緩やかな美術動向だった。大きな起点となったのは、関根伸夫が1968年10月、神戸・須磨離宮公園で制作した《位相―大地》である。地面を巨大な円筒形に掘り、その土を同じ形へ積み上げることで、新しい物質を加えず、同じ大地の位置と状態だけを変えた。この作品は、彫刻を「形を作ること」から「物質と場所の関係を変えること」へ大きく転換させた。
《位相―大地》を見た李禹煥はその可能性を理論化し、1969年の「事物から存在へ」、1970年の「出会いを求めて」などを通して、作者が世界へ形を押し付ける近代的な創造観を批判した。李の《知覚と現象B/関係項》では石がガラスを割り、吉田克朗《Cut-off No.2》では鉄板が重力でたわみ、成田克彦《SUMI》では火が木を炭化させる。作者の手技より、物質の性質と物理的な力が作品の形を決める。
一方、菅木志雄は李とは異なる立場から「場」を追究し、1969年《並列層》、1970年《無限状況》などで、物を既存の建築や空間へ介在させることで世界全体の関係を変えた。小清水漸、吉田克朗、成田克彦らとともに、1969年「現代美術の動向」、1970年2月『美術手帖』の座談会「〈もの〉がひらく新しい世界」、同年8月の東京国立近代美術館「1970年8月 現代美術の一断面」などを通して、ばらばらだった実践が一つの時代的転換として認識されていく。
もの派の核心は、石や木を使うこと自体ではない。自然物と人工物、物と空間、作者と素材、鑑賞者と場所の関係を、最小限の操作によって露出させたことである。「作品を作る」ことは、一つの完成物体を生産することから、すでに存在する世界に新しい出会いを成立させることへ変わった。次の記事では1970年の東京ビエンナーレ「人間と物質」へ進み、もの派と同時代の海外作家が同じ展示空間に置かれたことで、日本の現代美術と国際美術界の関係がどのように変化したのかを見る。
参考資料
- 国立国際美術館「もの派―再考」
- 国立国際美術館「小清水漸・1968年を語る」
- 国立国際美術館「李禹煥 作家解説」
- 国立国際美術館「菅木志雄 作家解説」
- 国立国際美術館「吉田克朗 作家解説」
- 国立国際美術館「成田克彦《SUMI》」
- Art Platform Japan「李禹煥」
- Art Platform Japan「吉田克朗」
- Art Platform Japan「関根伸夫《位相―大地》」
- Art Platform Japan「現代美術の動向1969」
- Art Platform Japan「1970年8月 現代美術の一断面」
- Art Platform Japan「もの派とポストもの派の展開」
- Art Platform Japan「1970年――物質と知覚〈もの派と根源を問う作家たち〉」
- Solomon R. Guggenheim Museum「Lee Ufan: Marking Infinity」
- Solomon R. Guggenheim Museum「Lee Ufan: Series / About Mono-ha」
- The Museum of Modern Art「Lee Ufan, From Line, 1974」
資料確認日:2026年10月2日