Art Library

1868–1900

明治維新と「美術」の誕生

美術という概念はどう作られたか

「美術」は、昔から同じ意味で存在した言葉ではない

私たちは現在、絵画、彫刻、版画、工芸、写真などをまとめて「美術」と呼ぶ。そのため、雪舟も尾形光琳も葛飾北斎も、当然のように「日本美術史」の中へ位置づけられる。しかし彼ら自身が、現代と同じ意味の「美術」という制度の中で作品を作っていたわけではない。

江戸時代までには、画、書、仏像、蒔絵、陶磁器、染織などそれぞれの制作と鑑賞の文化が存在した。絵師、仏師、蒔絵師、陶工といった職能があり、寺院、城郭、茶の湯、出版市場、大名の婚礼、町人の生活など、物が置かれる社会的な場所も異なっていた。それらを一つの上位概念で括り、「美術」と呼ぶ近代的な枠組みは、明治維新後に形成されていく。

したがって、明治美術史の最初の問題は「誰が新しい絵を描いたか」だけではない。何を美術と呼ぶのか、どこで展示するのか、誰が教えるのか、古い寺院の仏像をなぜ保存するのか、日本の美術史を誰が編纂するのか。そうした制度そのものを作ることが、近代日本の巨大な課題だった。

1868年、明治維新は物の価値体系も揺さぶった

明治維新によって幕藩体制が解体されると、政治制度だけでなく、作品を支えていた注文主と組織も大きく変わった。幕府や大名家に仕えていた絵師・職人は従来の仕事を失い、寺社も経済基盤を揺さぶられた。

さらに神仏分離政策と廃仏毀釈の動きの中で、仏像、仏画、経典、寺院建築などが破壊・散逸する事態が起きた。文化庁は、明治維新後の欧化主義や廃仏毀釈などによって古来の文化財が危機に直面したことを、近代文化財保護制度の出発点としている。

皮肉なのは、古い宗教的・社会的価値体系が崩れたからこそ、「これは失ってはならない歴史的な物である」という別の価値づけが必要になったことである。近代の美術制度は、新しいものを輸入する動きと、古いものを保存する動きが同時に始まるところから生まれた。

1871年《古器旧物保存方》— 「古い物」を国家が調べ始める

1871年5月23日、太政官は《古器旧物保存方》を布告した。文化庁によれば、大学から太政官へ「集古館」建設と古器旧物の保護を求める献言が出され、それを受けて各地方に古器旧物の保存と目録提出を命じたものである。

対象は後世の「美術品」だけではない。神代から近世まで、和製・舶載を問わず、制度や風俗の沿革を考証するために重要な物を幅広く収集・把握しようとした。文化庁はこれを、日本で最初の文化財保護に関する国家的措置と位置づけている。

ここで重要なのは、保存の理由が宗教的崇拝だけではなく、歴史を研究する資料として説明された点である。寺院で礼拝されていた仏像や、家に伝来していた器物が、国家によって「歴史を証明する物」として見直され始める。

「保存する」という行為が、物の意味を変える

仏像を寺で拝むことと、古い彫刻として調査・保存することは同じではない。宗教的な効力を持つ対象が、年代、作者、様式、材料を調べる対象へ変わる。もちろん信仰はその後も続くが、そこへ近代的な「文化財」という別の視点が加わる。

屏風や掛軸も同様である。大名家や寺院の空間から離れ、収集品として博物館へ移されれば、元の用途や人間関係とは異なる文脈で鑑賞される。

近代美術制度の成立とは、作品が新しく作られたことだけではない。すでに存在する古い物を別の名前で呼び、別の場所へ置き、別の方法で見るようになることでもあった。

1872年、壬申検査で全国の宝物を実地調査する

1872年、明治政府は《古器旧物保存方》を踏まえ、社寺などの宝物を調査する「壬申検査」を実施した。文化庁の国指定文化財等データベースによれば、町田久成、蜷川式胤、内田正雄らが愛知、三重、奈良、京都などへ派遣され、柏木政矩や写真家・横山松三郎らも同行した。

対象となった物は目録化され、写し取られ、写真でも記録された。ここでは古美術を「見る」ことが行政実務になる。名称、所蔵者、所在地を記録し、比較し、価値を判断する。

江戸時代にも宝物の鑑定や古物研究はあったが、全国規模で政府が調査し、記録を集積する仕組みは近代国家的である。後の博物館、美術史、文化財指定を支える基礎資料が作られていった。

1872年、湯島聖堂に物を並べて一般公開する

同じ1872年、文部省博物局は東京・湯島聖堂大成殿で博覧会を開催した。東京国立博物館はこの博覧会を自館の創立・開館の時としている。

会場には絵画、書跡、珊瑚、金工、染織、漆器、楽器、陶器、動植物標本、骨格見本、さらに名古屋城の金鯱まで、600件余りの多様な物が陳列された。現在の美術館、歴史博物館、自然史博物館を一つへ混ぜたような構成である。

ここに近代初期の重要な特徴がある。最初から「美術だけ」を純粋に切り分けた美術館が成立したのではない。自然物、産業物、古器旧物、芸術的な物を一つの「博物館」構想の中で分類しながら、徐々に分野が整理されていった。

展示ケースに入れることで、物は別の関係を持つ

湯島聖堂博覧会では、物は元の寺院、城、家庭、工房を離れ、陳列棚やガラスケースの中へ並べられた。東京国立博物館の記録では、入場者が非常に多く、会期を延長するほどの人気だったという。

博覧会では、異なる由来の物が隣り合う。仏教美術と自然標本、漆器と骨格標本が、同じ「見る対象」として整理される。鑑賞者は所有者や信仰共同体ではなく、入場者として物を見る。

この展示形式は、物に新しい比較の視線を与える。どちらが古いか、どちらが珍しいか、どちらが技術的に優れているか。近代の博物館は、保存施設であると同時に、物の価値を比較可能にする装置だった。

「美術」という語は、ウィーン万博準備の中で公に現れる

「美術」という日本語が現在の制度的意味に近い形で使われ始める重要な契機が、1873年ウィーン万国博覧会への参加準備だった。一般には、1872年に出されたウィーン万博の出品分類を翻訳する際、「美術」という新しい語が公的に用いられたことが、その成立の出発点として知られている。

ただし当初の意味は、現在の「視覚芸術」と完全には一致しない。国立国会図書館の戦前期美術展覧会資料研究やデザイン史研究が示すように、当時の「美術」は音楽、画学、彫刻、詩など、現在なら「芸術」と呼ぶ範囲まで含み得る広い翻訳語だった。

つまり1872年に一語が作られ、その瞬間に現代の「美術」の定義が完成したわけではない。新語だけが先に置かれ、その中身を何にするかが、その後数十年かけて制度的に決められていった。

翻訳語は、単なる言い換えではない

西洋語の概念を日本語へ翻訳するとき、すでに日本に存在する物をどこへ入れるかという問題が生まれる。西洋のpaintingに相当するものとして狩野派や文人画を考えるのか、sculptureに仏像を含めるのか、craftとfine artをどう分けるのか。書はどこへ置くのか。

江戸時代にはそれぞれ別の制度へ属していたものを、西洋由来の分類体系へ入れ直す必要があった。翻訳とは言葉だけを置き換える作業ではなく、物のカテゴリーを組み替える作業である。

近代日本の「美術」は、この分類交渉の中で形成された。だからこそ、美術と工芸、美術と産業、東洋画と西洋画、日本画と洋画の境界が、明治期を通して何度も揺れる。

1873年ウィーン万博 — 美術と産業がまだ近い

1873年ウィーン万国博覧会は、明治政府が初めて正式に参加した万国博覧会だった。国立国会図書館によれば、日本は陶磁器、漆器などの工芸品を大量に出品し、その技術と装飾性が高く評価された。

ここで「美術」は現在の純粋美術だけを指していない。工芸、産業、デザイン、製造技術と密接に結びつく。万博は芸術作品を静かに鑑賞する美術館ではなく、各国が製品、機械、農産物、工芸、美術を競わせる巨大な国際展示場だった。

明治政府にとって、美しい工芸品は文化的威信を示すと同時に、輸出商品でもある。美術振興と殖産興業は最初から別々の政策ではなかった。

「美術品」が輸出産業として考えられる

ウィーン万博後、起立工商会社が設立され、日本の工芸品を海外へ販売する仕組みが整えられた。国立国会図書館は、佐野常民らが外国市場の需要と価格を調査し、日本の技術水準向上と輸出拡大を重要な目的としていたことを紹介している。

この時期の美術行政では、優れた工芸品を保存することと、海外へ売る商品を改良することが近接している。「美術」という価値は、市場から離れた純粋な精神活動としてだけ形成されたわけではない。

後に「芸術」と「産業」を分ける制度が明確になるほど、明治初期のこの混合状態は見えにくくなる。しかし日本の近代美術制度は、博覧会と輸出政策の中からも生まれていた。

1876年、工部美術学校が開校する

1876年、工部省は工部大学校の附属機関として工部美術学校を開設した。東京国立博物館は、日本で最初の官設による本格的な西欧美術教育機関と位置づけている。

教師としてイタリアから画家アントニオ・フォンタネージ、彫刻家ヴィンチェンツォ・ラグーザ、建築家ジョヴァンニ・ヴィンチェンツォ・カペレッティが招かれた。画学科と彫刻科を中心に、鉛筆デッサン、遠近法、油彩、人体表現、西洋彫刻などが体系的に教えられた。

ここで重要なのは、学校を管轄したのが文部省ではなく、産業・技術を担う工部省だったことである。政府は西洋絵画と彫刻を、近代産業や建築に必要な技術としても期待していた。

「美術学校」なのに、目的は純粋芸術だけではない

東京国立博物館の解説は、工部美術学校について、政府が求めたのは欧風建築に必要な技術としての西洋絵画・彫刻だったと説明している。画家を自由な芸術家として養成することだけが目的ではなかった。

遠近法や素描は、建築、設計、工業製品、科学的記録にも応用できる。ラグーザの彫刻教育も、西洋的な立体造形技術を日本へ移植する役割を担った。

「美術」と「技術」の境界はまだ狭くない。むしろ近代国家が必要とする技術体系の一部として美術教育が置かれていた。

西洋画を学ぶことが、そのまま近代化ではなかった

フォンタネージのもとからは浅井忠、小山正太郎、松岡寿、山本芳翠ら、後の日本洋画を支える画家たちが育った。しかし工部美術学校は1883年に廃校となる。

東京国立博物館は、その背景として政府財政の悪化と国粋主義の高まりを挙げている。つまり、明治政府が一貫して「西洋化すればよい」と考えていたわけではない。

何を近代国家の美術とするかについて、西洋技法を直接移植する方向と、日本の古美術を再評価して更新する方向が競合していく。近代美術制度は、最初から一本の方針で作られたものではない。

1877年、内国勧業博覧会に「美術部」が置かれる

1877年の第1回内国勧業博覧会では、「美術部」として官設の美術展覧会が行われた。文化庁は、これを政府による美術展覧会の出発点の一つとしている。

ただし、その目的は現在の公募美術展とは異なり、殖産興業と輸出振興の色彩が強かった。全国から優れた作品や工芸品を集め、比較し、褒賞し、品質向上を促す。

ここで展覧会は、鑑賞の場であると同時に審査の場になる。何が優秀かを国家や専門家が判断し、賞を与える。作品の価値を公的制度が可視化する仕組みが形成されていく。

展覧会は「作品を比較する」制度を作る

江戸時代にも書画会や寺社の開帳など、多数の作品を人々が見る機会はあった。しかし近代の博覧会・共進会では、作品を部門へ分類し、番号を付け、審査し、賞を決める。

この制度では、異なる作品が同じ会場で比較される。作者は自分の師や注文主だけでなく、全国の出品者との競争の中に置かれる。

「美術界」という全国的な競争空間は、展覧会制度によって少しずつ形成された。作品は特定の寺院や大名家のためだけでなく、不特定多数の観客と審査員へ向けて作られるようになる。

1879年、龍池会 — 古美術と工芸を守り、育てる

1879年には龍池会が結成された。現在の日本美術協会の前身である。同会の歴史資料によれば、佐野常民を会頭とし、日本古来の美術・工芸を振興する目的で活動した。

龍池会は会員が所蔵品を持ち寄り、意匠、産地、年代などを研究し、1880年以後は観古美術会を継続して開催した。古い作品を研究・展示しながら、現代の美術家・工芸家を奨励する。

ここでは「古美術を保存すること」と「新しい作品を作ること」が別々ではない。過去の優品を見て学び、それを現代制作の基準にするという考え方が生まれる。

古美術が「手本」になる

近代以前にも過去の名品を模写し学ぶ文化はあった。しかし明治期には、博物館や展覧会に古美術を集め、全国的な「日本の優れた作品」として体系的に見せるようになる。

それまで特定寺院の秘仏や大名家の蔵にあった作品も、調査と展示によって美術家の参照対象となる。古美術は信仰・家宝であると同時に、近代の制作教育に利用できるモデルへ変わる。

後に東京美術学校が古典の模写・模造を教育へ取り入れるのも、この流れに連続する。

1882年、フェノロサ《美術真説》

アーネスト・フェノロサは1878年に来日し、東京大学で哲学や政治経済学を教える一方、日本の古美術研究へ深く関わった。1882年、龍池会で行った講演は大森惟中によって記録され、《美術真説》として出版された。

国立国会図書館には1882年11月刊の《美術真説》が残り、東京藝術大学の美学研究室も同年を日本における近代美学教育史の重要事項としている。

フェノロサの議論をそのまま現在の正解として受け取る必要はない。彼は当時の日本絵画を選別し、特定の伝統を高く評価し、文人画や西洋写実に批判的な判断も示した。重要なのは、「日本の絵画の何を美術として価値づけるか」という議論が、理論的・公的に行われ始めたことである。

外国人が「日本美術」を発見した、では足りない

フェノロサは日本美術史に大きな影響を与えたため、「外国人が忘れられていた日本美術を発見した」という物語が作られやすい。しかし実際には、日本側にも町田久成、蜷川式胤、佐野常民、九鬼隆一、岡倉覚三ら多くの官僚・研究者・文化人が存在し、保存・調査・教育制度を作っていた。

また、寺社や旧家は近代以前から宝物を守り伝えてきた。フェノロサ一人が価値を発明したわけではない。

近代の「日本美術」は、日本人と外国人、政府と民間、寺社と博物館、作家と研究者の複数の関係から形成された。その過程で、ある伝統は高く評価され、別の伝統は周縁化された。

1884年、鑑画会 — 古画を守るだけでなく、新しい絵を作る

1884年、フェノロサ、岡倉覚三らは鑑画会を組織した。日本美術院の岡倉天心年譜にも、フェノロサらと鑑画会を組織し、同年に京阪地方の古社寺調査を行ったことが記録されている。

鑑画会が目指したのは、江戸時代の画派をそのまま保存することだけではない。狩野芳崖、橋本雅邦らとともに、伝統的な筆墨や線を基盤にしながら、新しい時代の絵画を作ろうとした。

ここから後に「日本画」と呼ばれる近代絵画の問題が立ち上がる。日本画は、江戸以前からその名称と制度が完成していた伝統ではない。西洋画という対照項が現れ、近代学校や展覧会の中で再構成されたカテゴリーでもある。

「日本画」は、古い絵をそのまま指す言葉ではない

狩野派、土佐派、琳派、文人画は、それぞれ異なる制作制度と歴史を持つ。明治期にそれらを「日本の伝統絵画」とまとめ、洋画と対置するとき、それまで存在しなかった大きな分類が作られる。

その分類によって、日本側の画家は自分たちの伝統を選び直す必要が生じた。何を残し、何を変え、何を西洋画から学ぶのか。

「日本画」は伝統の反対語ではない。近代化の中で伝統を再編成するために作られた、新しい制度的ジャンルだった。

1885年、図画取調掛 — 美術学校を作る準備

1885年、文部省内に図画取調掛が設置され、岡倉覚三、フェノロサ、狩野友信らが美術教育制度の準備を進めた。東京藝術大学の沿革によれば、翌1886年には岡倉とフェノロサらが欧米の美術と美術教育を視察した。

ここでは、単に西洋の学校を輸入するのではなく、「日本で何を教えるべきか」を調査する。工部美術学校が西洋技術の直接移植を重視したのに対し、次の官立美術学校は日本の古美術を基礎にする方向へ転換した。

同じ明治政府でも、わずか十年ほどで美術教育政策の重点が大きく動いている。近代化は一方向の西洋化ではなく、試行錯誤の連続だった。

1887年、東京美術学校が設置される

1887年、図画取調掛は東京美術学校へ改称された。実際の授業開始は1889年である。東京藝術大学によれば、学校は「わが国固有美術の振作発揚」を掲げ、当初は伝統絵画と伝統木彫を中心に教育を始めた。

ここが工部美術学校との大きな違いである。最初の官立美術学校は西洋美術教育を中心とし、次の東京美術学校は日本の伝統美術を中心とした。

どちらも「近代美術学校」であるにもかかわらず、教える内容は逆方向に見える。この矛盾こそ明治美術の特徴である。近代国家は西洋技術を必要としながら、国際社会の中で独自の「日本美術」も必要とした。

1889年、東京美術学校が開校する

1889年2月、東京美術学校は65名の新入生で授業を開始した。東京藝術大学のアーカイブによれば、その中には後に近代日本画を担う横山大観、下村観山、漆芸家・六角紫水らがいた。

学校は普通科と専修科を備え、絵画や彫刻を師匠の私塾だけで学ぶのではなく、国家の学校制度の中で教える仕組みを作った。

作品を作る技術だけでなく、美学、美術史、古典研究も教育に入る。フェノロサ、岡倉らが美学・美術史を講じることで、「制作すること」と「美術とは何かを学問として考えること」が同じ学校に置かれるようになった。

1889年、帝国博物館と東京美術学校が近接する

1889年、博物館は宮内省所管の帝国博物館となり、岡倉天心は同年に帝国博物館の美術部長へ就任するとともに、東京美術学校にも深く関わった。

東京国立博物館によれば、岡倉は1890年以降、東京美術学校へ古代仏像の模造制作を委嘱し、それを博物館の展示と美術教育に活用した。

ここでは博物館と学校が一つの循環を作る。古美術を調査・収集し、学校で模写・模造して技法を学び、その成果を新しい制作へつなげる。「過去を保存する制度」と「未来の作家を育てる制度」が結びついた。

模写・模造は、コピーではなく近代美術教育だった

近代以降、「創造性」は新しいものを作ることと結びつきやすい。しかし東京美術学校では古画や仏像の模写・模造が重要な教育方法となった。

東京国立博物館は、東大寺や興福寺の仏像模造が博物館展示と教育に利用され、近代日本美術の創造を支えたと説明している。原作を精密に写すことで、古い造形の構造、材料、技法を身体的に学ぶ。

近代日本美術は「伝統から離れて近代化した」のではなく、伝統を調査し、分類し、コピーし直すという近代的な方法によって伝統を再構成した。

1888年、全国宝物調査が制度化される

1888年、宮内省に臨時全国宝物取調局が設置された。文化庁によれば、その後約10年間に、全国の社寺などにある絵画、彫刻、工芸品、書跡、古文書など約21万5000点が調査された。

岡倉天心らもこの調査に深く関わった。全国の物を同じ調査制度で記録することで、地域ごとに別々に守られていた宝物が、「日本全体の文化遺産」として比較される。

どの作品が重要かを判断し、登録し、記録する。後の国宝制度と美術史研究の基礎がここで整えられる。

国家が「名品」を選ぶ

宝物調査は、存在を記録するだけではない。優品に鑑査状を発行するなど、価値の序列化も行われた。国家と専門家が「これは重要である」と判断する制度が作られる。

それ以前にも寺社や大名家、茶人、古筆鑑定家などが名品を選んできた。しかし近代国家の選定には、全国統一的な権威が加わる。

現在私たちが「日本美術の代表作」と考える作品群の一部は、この明治期の調査と制度を通して可視化された。美術史の名作リストは自然に存在するものではなく、調査・展示・出版・指定によって形成される。

1890年、帝室技芸員制度が始まる

1890年には帝室技芸員制度が設けられ、優れた美術家・工芸家が宮内省によって選ばれた。橋本雅邦は同年に帝室技芸員となった画家の一人である。

これは旧幕府や大名の御用絵師制度とは異なるが、皇室が近代国家の美術家を顕彰・保護する仕組みでもあった。絵画だけでなく工芸分野の技術者も対象となり、近代における「伝統技術の最高峰」が制度的に認定される。

市場だけでは維持しにくい高度な技術を保護する一方、国家的威信を示す作品制作にもつながる。美術家の評価に、学校、展覧会、博物館、皇室という複数の制度が加わっていった。

1896年、東京美術学校に西洋画科ができる

東京美術学校は開校時に伝統美術を中心としていたが、その方針も固定されなかった。文化庁と東京藝術大学によれば、1896年には西洋画科が設置され、官立学校による本格的な洋画教育が再び始まった。

工部美術学校が1883年に閉鎖されてから十数年、西洋画を学ぶ場は民間の画塾や海外留学などに支えられていた。西洋画科の設置によって、日本画と洋画が同じ近代学校の異なる部門として並ぶ。

ここで「日本画/西洋画」という二分が制度上さらにはっきりする。分類は単なる呼び名ではなく、教師、学生、教材、展覧会、進路を分ける現実の仕組みになった。

1897年《古社寺保存法》— 美術的価値を法律が守る

1897年、《古社寺保存法》が制定された。文化庁は、この法律によって社寺の建造物や宝物のうち、特に歴史の証徴または美術の模範となるものを「特別保護建造物」や「国宝」の資格があるものとして定める制度が作られたと説明している。

1871年の《古器旧物保存方》が調査と保全を呼びかける段階だったのに対し、1897年法では指定、管理、公開、修理への助成など、現在の文化財保護制度につながる枠組みが整う。

ここで「美術的価値」が法律と行政の判断対象になる。何を守るべきかという美的判断が、国家制度の一部となった。

宗教的な宝物が「国宝」になる

寺院の仏像は本来、信仰の対象である。しかし古社寺保存法の下では、同じ仏像が「国宝」として国家的に保護される。宗教的価値と美術的・歴史的価値が重なる。

この二重性は現在まで続いている。法隆寺や東大寺を訪れる人は、寺院として参拝すると同時に、国宝の仏像や建築を「日本美術」として鑑賞する。

近代の美術制度は、宗教から物を完全に切り離したわけではない。信仰の対象へ、文化財、美術史、観光という新しい意味を追加した。

「日本美術」は、近代に過去まで遡って作られる

明治以前に制作された作品が、明治以後に突然生まれたわけではない。しかし「縄文から現代までを一つの日本美術史として並べる」という枠組みは近代的である。

飛鳥の仏像、平安の絵巻、室町の水墨、桃山の屏風、江戸の浮世絵や工芸を、一つの国民的美術史の中へ並べるためには、調査、年代判定、分類、写真、出版、展示が必要になる。

「日本美術」は日本列島に昔からある物の単純な総称ではなく、近代国家が過去を調査し、選択し、時間軸へ並べ直すことで成立した歴史概念でもある。

1900年パリ万博に向けて、日本美術史を書く

1900年のパリ万国博覧会では、日本は自国の美術を体系的に海外へ紹介するため、公式の日本美術史を編纂した。東京国立博物館によれば、1897年頃から帝国博物館で岡倉天心を中心に編纂が本格化し、1900年にフランス語版《Histoire de l’art du Japon》が刊行された。

その翌1901年には日本語版《稿本日本帝国美術略史》が刊行される。東京国立博物館はこれを日本で初めて編纂された公式の美術史と位置づけている。

ここで「日本美術」は展覧会の出品物の集まりではなく、古代から近代へ連続する歴史として文章化された。国家が自分自身の美術の歴史を海外へ説明する段階に到達したのである。

美術史を書くことは、含めるものと除くものを決めること

美術史は過去に存在したすべての物を均等に記載することはできない。どの時代を重視し、どの作家を代表とし、絵画、彫刻、工芸、書、建築をどう配置するかを決める必要がある。

その選択によって、一部の作品は「日本美術の正統」となり、別の制作は周縁へ置かれる。たとえば浮世絵の評価、文人画の位置、工芸と絵画の関係などは、その後の美術史研究によって何度も書き換えられる。

最初の公式美術史ができたことは歴史の完成ではない。むしろ「日本美術とは何か」を文章で定義し直し続ける近代的な営みの出発点だった。

美術館は、見る順番を作る

博物館で作品を見るとき、鑑賞者は展示室の順番に沿って歩く。古代、仏教美術、中世、近世、近代という配列は、単なる収納方法ではない。歴史がこの順に発展したという物語を身体的に経験させる。

1872年の湯島聖堂では自然標本と古器旧物が混在していたが、制度が発達するにつれて、美術、歴史、自然史、産業といった部門が分かれていく。

分類が進むほど、私たちは作品を理解しやすくなる。同時に、元は同じ生活空間にあった絵画、器、衣服、宗教、自然物の関係が切り離される。近代美術館は知識を作る装置であると同時に、世界を分ける装置でもある。

美術学校は、作家になるための経路を変える

江戸時代には、狩野派の画塾、浮世絵の師弟関係、仏師工房、陶器窯など、職能ごとに教育が行われていた。東京美術学校の成立によって、異なる分野が一つの高等教育機関へ集められる。

入学し、課程を修め、卒業制作を作る。教授がいて、同級生がいて、学校展や博覧会へ出品する。近代的な「美術家になる経路」が生まれる。

横山大観のような次世代の作家は、家業の絵師組織ではなく、美術学校の卒業生として美術界へ入る。この制度変化は、作品様式だけでなく作家の社会的身分を変えた。

「美術」と「工芸」の境界は最後まで揺れる

明治期に美術制度が整うにつれて、絵画・彫刻を中心とする純粋美術と、陶磁、漆、金工、染織などの工芸を区別する考え方も強くなる。しかし日本では工芸が輸出産業と国家的威信の両面で極めて重要だったため、単純に下位へ置くことはできなかった。

1873年ウィーン万博では「美術」と工業・工芸の境界がまだ曖昧であり、内国勧業博覧会でも美術工芸が重要な位置を占める。龍池会、日本美術協会も絵画だけでなく工芸を振興した。

現在でも「工芸は美術か」という問いが繰り返される背景には、明治期に導入された分類と、日本に既存した制作文化とのずれがある。

書はどこへ行くのか

書も同じ問題を抱える。近代以前、書は知識人や僧侶、武士にとって極めて重要な造形文化だった。しかし西洋のfine artの分類を基準にすると、絵画・彫刻ほど直接対応するカテゴリーがない。

近代の美術制度では、書の位置づけも揺れた。国立国会図書館の戦前期美術展覧会研究が示すように、後の官展制度でも書が正式部門へ入るのはさらに遅い。

美術という概念は、作品そのものから自然発生しない

一枚の屏風だけを見ても、それが「美術」という制度に属する理由は分からない。博物館が収集し、美術学校で教え、美術史が説明し、文化財法が保護し、展覧会が評価することで、その作品は近代社会の中で美術として位置づけられる。

もちろん作品自体に造形的価値がないという意味ではない。重要なのは、価値を社会的に共有する仕組みが制度によって作られるということである。

明治時代は、その仕組みを日本で初めて全国規模に整備した時代だった。

「西洋化」と「伝統保護」は、同じ近代化の二つの側面だった

工部美術学校でイタリア人教師から油彩と彫刻を学ぶ動きと、古社寺を調査して仏像を国宝として守る動きは、反対方向に見える。しかし両方とも近代国家による制度化である。

西洋美術は学校のカリキュラムへ変換され、古美術は調査票、写真、目録、博物館展示へ変換される。どちらも、従来の師弟関係や信仰だけに任せず、国家が教育・保存・評価を組織する。

伝統を守ること自体が近代的な方法で行われた。明治美術の核心は、西洋と日本の二択ではなく、両方を近代制度へ組み直したことにある。

1868–1900|明治維新と「美術」の誕生

明治維新後、日本には突然「美術」が存在するようになったのではない。1871年に古器旧物を守る制度が作られ、1872年に博覧会と博物館が始まり、ウィーン万博準備の翻訳過程で「美術」という語が公に使われる。1876年には西洋式の美術学校が作られ、1879年には龍池会が古美術と工芸を振興し、1880年代にはフェノロサと岡倉らが日本の絵画を新しく評価し直した。

1889年に東京美術学校が授業を始め、博物館と美術教育が結びつく。全国宝物調査が古い作品を記録し、1897年の古社寺保存法が「国宝」を制度化する。そして1900年、日本はパリ万博のために自国の美術史を外国語で編纂するまでになる。

この約30年間に作られたのは、新しい作品だけではない。「美術」という言葉、美術館、美術学校、美術団体、展覧会、文化財保護、美術史という、作品を見るための巨大な制度である。

現在私たちが雪舟、光琳、北斎、仏像、蒔絵を同じ「日本美術」の歴史として見られるのは、この明治期の再分類を通過しているからでもある。次の記事では、その制度形成に決定的だったもう一つの舞台、万国博覧会へ焦点を移す。1870年代から1900年代にかけて、日本が海外へ何を「日本美術」として出品し、海外の視線によって何が価値づけられたのかを見ていく。

参考資料

資料確認日:2026年10月2日