1923–1925
MAVO
村山知義と芸術/生活の破壊
MAVOは「日本版ダダ」だけでは説明できない
1923年に東京で結成されたMAVOは、日本近代美術史の中でも特に短く、激しく、分類しにくい運動である。活動期間はおよそ1923年から1925年。絵画や構成物を展覧会へ出すだけでなく、雑誌を作り、街頭で行動し、建築を装飾し、舞台へ進み、詩や版画やタイポグラフィまで横断した。
後世には「日本のダダ」「日本の構成主義」と説明されることが多い。しかし東京藝術大学大学美術館は、中心人物・村山知義の「構成派」を、ダダイスムと構成主義を取り入れた独自のヴィジョンとして説明している。つまり、ヨーロッパの一つの運動をそのまま日本へ移したわけではない。
MAVOの重要性は、どの外国様式に最も近かったかではなく、「美術は額縁の中に収まる必要があるのか」という問いを、日本の都市と生活の中で実際に試したことにある。作品を作る場所、見せる場所、材料、作家の身体、雑誌のページ、建築の壁。そのすべてを美術の領域へ引き込もうとした。
1923年、村山知義がベルリンから戻る
村山知義は1901年東京生まれ。1921年に東京帝国大学へ入り、翌1922年にベルリンへ渡った。神奈川県立近代美術館や京都国立近代美術館によれば、村山は現地でダダ、構成主義、表現主義、舞台、舞踊など同時代の前衛文化から強い刺激を受けた。
滞在は長くない。約一年ほどで日本へ帰国する。しかし当時のベルリンでは、第一次世界大戦後の政治的混乱の中で、美術、演劇、出版、建築、写真が急速に変化していた。村山は一つの画派だけでなく、その文化環境全体を経験した。
1923年に帰国すると、「意識的構成主義」を掲げて作品と文章を発表し始める。日本の美術界に新しい様式を紹介するだけでなく、自分自身を前衛芸術家として作り直して帰ってきたのである。
「意識的構成主義」からMAVOへ
村山は帰国直後から、自分の造形を「意識的構成主義」と呼んだ。これはロシア構成主義の教科書的な翻訳ではない。ダダ、構成主義、表現主義などを村山なりにまとめた考えだった。
「描写する」のではなく、色、形、素材、空間を意識的に配置する。絵画を感情の自然な噴出として考えるより、複数の要素を組み合わせて一つの人工的な構造を作る。そこでは木片や紙、布、金属なども、絵具と同じ造形要素になり得る。
この発想を個人制作だけで終わらせず、複数の若い作家による運動へ拡張したものがMAVOだった。
1923年6月、MAVO結成
アートプラットフォームジャパンは、MAVOの結成年月を1923年6月としている。村山知義のほか、未来派美術協会に関係した柳瀬正夢、尾形亀之助、大浦周蔵、門脇晋郎らが初期の活動へ関わった。
村山はベルリンから戻ったばかりであり、柳瀬らはすでに日本の未来派・新興美術運動を経験していた。したがってMAVOは、外国から帰国した村山が一方的に作った「輸入前衛」ではない。日本国内ですでに進んでいた未来派や反画壇運動と、村山がベルリンから持ち帰った前衛情報が接続して生まれた。
それぞれの作家の考えは完全には一致していない。この不統一さは後に内部対立も生むが、同時にMAVOの活動を一つの様式へ固定しなかった。
「MAVO」という名称の意味は、はっきりしない
MAVOという奇妙な名称そのものも、このグループの印象を強くしている。後世にはさまざまな語源説が語られてきたが、確定した意味として説明することは難しい。
重要なのは、既存の日本語の美術団体名とは明らかに違う響きを持つことである。「白馬会」「日本美術院」「二科会」のように内容を説明する名前ではなく、意味がすぐには分からない音の組み合わせとして現れる。
名称そのものが既成制度から距離を取り、未知の運動であることを示す記号として機能した。
1923年7月、第1回MAVO展
第1回MAVO展は1923年7月末、浅草の伝法院で開催されたことが当時の年譜資料に記録されている。浅草は劇場、映画館、見世物、飲食店が集まる大衆娯楽の中心だった。
東京美術学校や美術館のような権威ある美術空間ではなく、大衆文化の密集する浅草で最初の展覧会を開く。その立地自体がMAVOらしい。
前衛美術を一部の専門家だけに見せるのではなく、都市の雑多な文化の中へ置く。展覧会場の選択も、美術制度に対する態度の一部だった。
村山《花と靴の使ってある作品》
アートプラットフォームジャパンの村山知義解説によれば、第1回MAVO展には《花と靴の使ってある作品》が出品された。現存は確認されていないが、箱のような構造の中にガラス容器の花と女性用のハイヒールを配置した作品だったとされる。
重要なのは、花や靴を「描いた」のではなく、本物の物体を作品へ取り込んだことである。絵画なら靴は靴の像になる。しかしここでは日常に存在する靴そのものが、美術作品の要素として展覧会場へ移動する。
美術作品と日用品の境界を揺らすこの発想は、ダダやシュヴィッタースのメルツにも近いが、日本の生活物を使うことで別の文脈を持つ。
作品は「絵」から「物」へ
MAVOでは紙、布、木、鉄板、ガラスなど、従来なら画材と考えられない物が作品へ入った。三重県立美術館の1920年代研究でも、第1回展には日常的素材によるコラージュやオブジェ的な作品が並んだと説明されている。
物を描写するのではなく、物を直接置く。そうすると作品は平らな画面から前へ飛び出し、彫刻とも絵画とも言い切れないものになる。
「これは絵画か彫刻か」という問いに答えるより、その問い自体を無効にすることがMAVOにとって重要だった。
尾形亀之助は50点を出品した
アートプラットフォームジャパンの尾形亀之助略歴によれば、尾形は1923年の第1回MAVO展へ50点を出品した。非常に大量の出品であり、初期MAVOにおける存在感の大きさが分かる。
しかし尾形は、MAVOがよりアナーキーな方向へ進むにつれ距離を取り、1924年には絵筆を捨てて詩作へ専念したとされる。
MAVOを一枚岩の集団と見ることができない理由の一つである。前衛性を共有していても、政治、生活、制作に対する考え方は異なり、参加者は短期間で出入りした。
柳瀬正夢 — 絵画から社会的グラフィックへ
柳瀬正夢は1900年生まれ。若い頃から日本画・洋画の展覧会へ出品し、未来派美術協会を経てMAVOへ参加した。神奈川県立近代美術館は、柳瀬が絵画だけでなく漫画、装丁、舞台美術、写真、俳句など幅広い活動を行ったことを紹介している。
MAVO期の柳瀬には、表面を引っ掻いたり、複数の材料を用いた実験的な作品が見られる。しかし関東大震災後、次第に絵画から距離を取り、漫画やポスターなど社会へ直接届くグラフィックへ活動の重心を移した。
この変化は、MAVOの「美術を生活へ出す」という問題が、政治的・社会的な視覚媒体へ発展した一例でもある。
展覧会を見ること自体を「事件」にする
MAVOの活動では、作品だけが注目されればよいとは考えられていなかった。服装、身振り、会場での振る舞い、宣言文、新聞での論争などを含め、展覧会全体を一つの事件へ変える。
美術作品が静かに壁に掛かり、鑑賞者が礼儀正しく見るという美術館的な行動規範を壊す。鑑賞者を驚かせ、怒らせ、新聞に書かせることも運動の一部になる。
前衛にとって無関心は最大の敵だった。賛成されなくても、社会が反応すること自体に意味があった。
作家の身体も作品になる
神奈川県立近代美術館の村山回顧展資料には、1924年に村山のアトリエで行われた「踊り」の写真が紹介されている。また同館は、村山が造形作品だけでなくダンスやパフォーマンスへ活動を広げたことを強調している。
ここでは身体が、完成作品を見るための作り手ではなく、作品そのものの媒体になる。服装、動き、声、時間が美術へ入る。
後のパフォーマンスアートという言葉をそのまま1920年代へ当てはめる必要はないが、作品を物体だけに限定しない発想がすでに現れていた。
1923年9月1日、関東大震災
MAVO結成からわずか数か月後、関東大震災が東京・横浜を襲った。市街地は地震と火災によって大規模に破壊され、住居、店舗、劇場、美術展会場も失われた。
前衛作家が「古い都市を壊し、新しい生活を作る」と宣言していた時に、現実の都市が物理的に破壊された。その出来事は、MAVOの活動条件を根本から変えた。
抽象的な「破壊」という言葉は、焼け跡、瓦礫、仮設住宅、看板という具体的な現実と向き合わなければならなくなる。
「芸術の破壊」と現実の災害は同じではない
ここで注意しなければならないのは、前衛が語った破壊を震災の破壊と同一視しないことである。芸術家が既存制度を壊すと言うことと、人命や住宅が失われる災害はまったく別のものである。
震災は前衛にとって刺激的な「都市リセット」だったのではない。生活基盤が失われ、多くの人が生存と復旧を優先しなければならない現実だった。
MAVOの震災後活動が重要なのは、破壊を美化したからではなく、芸術家が現実の復興空間へどう関わるかを問われたからである。
仮設都市へ、美術家が入る
震災後の東京には、急場をしのぐため木材、トタン、古材などを使ったバラック店舗や住居が大量に建てられた。恒久建築ではなく、必要最小限の仮設建築である。
この都市状況の中で、美術家や建築家がバラックの外壁や室内装飾へ参加した。完成した美術館の壁ではなく、営業を再開するための仮店舗の壁が制作場所になる。
美術を生活へ近づけるという前衛の理念が、震災後には非常に具体的な問題として現れた。
MAVOと「バラック装飾社」は同じではない
震災後の前衛活動を語るとき、MAVOと今和次郎の「バラック装飾社」が混同されることがある。しかし三重県立美術館の研究は、この二つを別のグループとして整理している。
バラック装飾社は今和次郎を中心に、アクションや尖塔社関係の美術家らが参加し、日比谷公園の開運食堂やカフェー・キリンなどを装飾した。一方MAVOも、葵館の装飾やバー・オララなど震災後の建築仕事へ進んだ。
両者は同時代の仮設都市を美術の場所にした点で近いが、組織としては区別する必要がある。
今和次郎のバラック装飾社との並走
青森県立美術館は、今和次郎が震災後の仮設住居をスケッチし、美術家仲間とバラック店舗を装飾する「バラック装飾社」を始めたことを紹介している。
今の関心は、のちに考現学へつながるような生活観察にも向かっていた。街を歩き、人々の服装、持ち物、住居を記録する。一方MAVOは、より挑発的な構成・装飾・パフォーマンスを都市へ持ち込んだ。
震災後東京では、「生活を観察する」「生活を装飾する」「生活そのものを芸術化する」という複数の実験が近接して進んでいた。
建物の外壁がカンヴァスになる
バラック建築への装飾では、画家は小さなカンヴァスではなく、店の正面全体を扱う。扉、窓、看板、壁、屋根という既存の建築要素を一つの構成へまとめる必要がある。
色と形は鑑賞のためだけでなく、「ここが店である」「人に入ってほしい」という実用的な役割も持つ。美術と広告、建築、商業が重なる。
画家が都市空間を直接扱う経験は、平面作品とは異なる。MAVOにとって震災後の建築仕事は、構成主義的な思想を現実の空間で試す機会になった。
仮設だからこそ、実験できた
バラックは数十年残す記念建築ではない。短期間で建て、恒久建築が完成すれば撤去される。その一時性は、通常なら建築主が避ける大胆な色彩や装飾を試す余地を作った。
「永遠に残る名作」である必要がなければ、失敗してもよい。前衛美術にとって、この暫定性は大きな自由になる。
MAVOの活動の多くが現存しない理由でもあるが、残らないこと自体が当時の都市の速度と結びついていた。
残らない芸術を、美術史はどう知るのか
MAVOの構成物、舞台、建築装飾、パフォーマンスの多くは現存しない。村山知義の戦前作品も、神奈川県立近代美術館の調査によれば戦災などで大半が失われ、現存する造形作品は非常に限られる。
それでも写真、雑誌、新聞、展覧会目録、自伝、スクラップブックが残っている。2012年の村山回顧展では、それらの資料から失われた作品を写真パネルや原寸推定によって紹介する試みも行われた。
MAVOを研究することは、作品の実物だけで美術史を書く方法では足りないことを示す。記録メディアそのものが作品史を支えている。
第2回MAVO展と震災後の再編
アートプラットフォームジャパンの村山略歴によれば、震災後MAVOは村山を中心に再編され、1923年11月には東京周辺の複数会場で第2回MAVO展が行われた。
第一回展の時点では、前衛作品を展覧会へ並べる活動が中心だった。震災を挟むことで、グループの活動は街頭、建築、雑誌、身体行為へさらに広がっていく。
同じ「MAVO」という名前でも、1923年夏と震災後では運動の性格が変わっている。
柳瀬正夢は、震災後に社会へ向かう
神奈川県立近代美術館は、1923年の関東大震災が柳瀬正夢の活動へ決定的な影響を与え、以後次第に絵画から離れ、漫画やポスターなどグラフィックへ進んだと説明している。
柳瀬にとって、美術を社会へ出すことは、建築装飾だけでは終わらなかった。政治漫画や新聞、ポスターなら、展覧会へ来ない人にも届く。
「生活と芸術をつなぐ」というMAVO的な問題は、柳瀬の場合、社会運動と視覚伝達へつながっていく。
1924年、雑誌『マヴォ』創刊
京都国立近代美術館には、村山知義が編集・発行した『マヴォ』第1号が所蔵されている。刊行は1924年7月で、判型は31×23センチ。第2号は8月、第3号は9月に刊行された記録が残る。
雑誌はMAVOにとって単なる活動報告ではない。版画、写真、詩、宣言、文字配置、広告、作品記録を同じページへ入れられる総合的な媒体だった。
展覧会が終わっても雑誌は残り、東京以外へ郵送できる。短命な運動が広い範囲へ影響を与えるために、印刷物は非常に重要だった。
『マヴォ』は読むだけの雑誌ではない
一般的な雑誌では、文字は読みやすく配置され、図版は文章を補足する。しかし前衛雑誌では、その関係を壊すことができる。
文字を斜めに置く。大きさを極端に変える。版画をページ全体へ広げる。写真と文字を衝突させる。ページそのものを「構成」する。
読者は情報だけでなく、雑誌を開く身体的な経験を通して前衛に触れる。タイポグラフィと編集が美術作品の一部になる。
第1号から第7号まで
国立美術館所蔵資料では、『マヴォ』第1号が1924年7月、第2号が同年8月、第3号が9月に刊行されたことが確認できる。別の公的資料には、第5号が1925年6月、第6号が7月、第7号が8月と記録されている。
刊行は一定のペースではなく、途中に間隔がある。運動の不安定な活動状況を反映している。
それでも第7号まで継続したことは重要である。数回の展覧会だけなら一時的な事件として終わるが、雑誌によって思想、作品、版画、写真が記録され、MAVOという名称が反復される。
雑誌が、失われた作品の「容器」になる
MAVOの立体作品やパフォーマンスの多くは現存しない。一方、雑誌にはその写真や版画が掲載された。
つまり雑誌は宣伝媒体であると同時に、作品を保存するアーカイブでもある。写真がなければ、作品の外観さえ分からない場合がある。
前衛が「物として残る名作」から離れるほど、写真と印刷物の重要性が高くなる。MAVOは、作品とその記録の関係を考える上でも重要である。
出版は「生活へ出る」ための方法だった
美術館や画廊へ行く人は限られる。しかし雑誌や本は書店で買える。ポスターは街頭で見える。新聞の漫画は大量に配布される。
MAVOの参加者が出版、装幀、版画、挿絵へ向かったのは、単なる副業ではない。美術を日常の視覚環境へ移すための実践でもあった。
「美術と生活を一つにする」という理念は、特別な総合芸術作品を作ることだけでなく、毎日触れる紙面を変えることでも実現できる。
「誰でもMAVOになれる」という開放性
筑波大学の近代美術年譜資料には、村山が「誰でも勝手にマヴォイストとなり勝手に運動する」よう提唱したことが記録されている。
これは通常の美術団体とは大きく異なる。会員資格、師弟関係、厳密な審査で組織を守るより、MAVOという運動を自由に拡散させようとする。
一方、その開放性は組織としての不安定さにもつながる。誰でも参加でき、誰でも離れられる運動は、長期的な制度を作りにくい。MAVOの強さと短命さは同じ性質の両面だった。
1924年、MAVOは三科へ接続する
1924年には、MAVO、旧未来派美術協会、アクションなど、大正期の新興美術運動に関わる複数の作家が「三科」の結成へ進む。京都国立近代美術館も、MAVOや未来派美術協会、アクションなどが結集して三科造形美術協会を形成したことを説明している。
これはMAVOが突然消えたというより、より広い前衛連合へ活動が接続したことを意味する。村山はMAVOの活動を続けながら三科にも関わった。
1920年代前衛では、グループ名が頻繁に変わる。重要なのは組織の連続性より、人と問題意識が次の組織へ移動することだった。
三科とMAVOは同じではない
後世の説明ではMAVOと三科が一続きに語られるため、同じ団体のように見えることがある。しかし三科は、複数のグループを横断して作られた別組織である。
MAVOはその流れの一部として重要だったが、すべての三科参加者がMAVOの思想を共有したわけではない。
大正期新興美術を理解するときは、組織名を固定的な流派として見るより、作家が重なりながら短期間で組み替わるネットワークとして見る必要がある。
1924年、舞台へ進む
村山知義は1924年、築地小劇場でゲオルク・カイザー作《朝から夜中まで》の舞台装置を担当した。神奈川県立近代美術館の資料では、この仕事は村山の代表的な構成主義的舞台として紹介されている。
築地小劇場自体が、日本の新劇運動を支える新しい劇場だった。そこで前衛美術家が装置を設計することで、美術と演劇の接続が実際の上演空間として実現する。
舞台は動く人間、光、時間を含む。静止した絵画とは異なる「構成」が必要になる。
舞台装置は、俳優の動きを設計する
舞台美術では、形を美しく並べるだけでは機能しない。俳優がどこから現れ、どこを歩き、観客からどう見えるかを考える必要がある。
つまり構成は、平面上の色と形の関係から、身体と空間の関係へ広がる。構成主義的な考え方が舞台と相性がよかった理由の一つである。
村山にとって、舞台は美術の外へ出た別職業ではない。「空間を作る」という同じ問題を別の媒体で試す場所だった。
衣裳や髪型も前衛になる
村山知義の回顧展資料には、服装や身体表現を含む彼の活動が大きく扱われている。前衛作家にとって、自分の外見も社会に向けた表現になった。
奇抜な衣裳や髪型は、作品の外にある私生活ではなく、既成社会への態度を可視化する。街を歩けば、展覧会場以外でも前衛を見せることができる。
「生活と芸術を一致させる」という理念は、住宅や雑誌だけでなく、自分自身の身体へも向けられた。
芸術家とデザイナーの境界が消える
MAVOの活動を追うと、現在なら純粋美術、グラフィックデザイン、舞台美術、建築、パフォーマンスと分類される仕事が一つの運動の中に並ぶ。
これは何でも手を出したというだけではない。芸術を生活へ広げるなら、生活を構成するあらゆる視覚物を扱う必要がある。看板、雑誌、店舗、舞台も無視できない。
明治期に美術学校が「絵画」「彫刻」「工芸」という専門分野を整えた後、MAVOはその境界を再び壊した。
「破壊」は、完成作品を壊すことだけではない
MAVOにおける破壊は、物理的に美術作品を破壊することだけを意味しない。何が美術であるかを決めていた分類、展示制度、作家の職業像を壊すことでもある。
絵画へ靴を入れれば「絵画」という分類が揺れる。建物を塗れば展覧会場の境界が揺れる。踊れば「作品は物体である」という前提が揺れる。雑誌を構成すれば文字と美術の境界が揺れる。
制度的な破壊は、物を壊すより長期的な影響を持つ場合がある。
芸術と生活を一つにすれば、芸術は消えるのか
美術と生活の境界をなくすという理想には逆説がある。すべての生活が芸術になれば、「芸術作品」という特別なものは必要なくなるかもしれない。
MAVOはその矛盾を解決したというより、実際に試した。看板、建築、印刷物、身体行為へ進むほど、従来の作品という単位は薄くなる。
そのためMAVOは、美術館が収蔵しやすい大量の名作を残さなかった。しかし、それは活動が弱かったからではなく、保存されにくい媒体へ自ら進んだ結果でもある。
「実用」と「芸術」は対立するのか
店舗装飾や舞台装置には実用目的がある。店なら客を呼び、舞台なら上演を支える。純粋な鑑賞だけを目的とする美術作品とは違う。
しかし構成主義的な発想では、実用性は芸術を汚すものとは限らない。むしろ現実の生活へ機能することが重要になる。
MAVOの活動は、日本の近代美術に「役に立つものと芸術は別なのか」という問題も持ち込んだ。これはデザインと美術の関係を考える上でも重要な問いである。
市場で売る「美術作品」と相性が悪い
通常の画家なら、絵を完成させ、展覧会へ出し、売ることができる。建築装飾、パフォーマンス、舞台装置は、同じ方法では売りにくい。
MAVOの活動が経済的に安定しにくかった背景には、彼らが近代美術市場の標準商品である絵画から離れたこともある。
生活へ出るという理念は、美術市場からも外れる危険を伴う。前衛芸術の自由と生活の不安定さはしばしば隣り合っていた。
政治への接近
1920年代半ば以降、村山知義や柳瀬正夢は社会主義・プロレタリア文化運動へ接近していく。村山の活動も次第に演劇と政治的文化運動へ重心を移す。
美術を社会へ出すというMAVOの問題は、「社会をどのように変えるのか」という政治的な問いへ接続しやすかった。
ただし、MAVO全体を最初から統一された左翼芸術運動と考えるべきではない。初期メンバーの思想は多様であり、政治化の程度と時期も異なった。
柳瀬と村山の方向も同じではなかった
MAVOを代表する二人として村山知義と柳瀬正夢が並べられることが多い。しかし両者は常に同じ立場だったわけではない。
柳瀬は次第に漫画、ポスター、プロレタリア美術へ進み、社会的な伝達機能をより強く重視する。一方村山は舞台と演劇へ急速に活動を広げ、演出家・劇作家として大きな仕事を残していく。
MAVOは共通の出発点であって、参加者を同じ未来へ連れていく組織ではなかった。
1925年、MAVOの終わり
アートプラットフォームジャパンはMAVOの活動期間を1923年6月から1925年までとしている。雑誌『マヴォ』も1925年8月の第7号まで確認されている。
三科への合流、参加者それぞれの活動の変化、政治・演劇への接近によって、MAVOという独立したグループの役割は終わっていく。
わずか二年ほどである。しかし、短さを「未成熟」と見る必要はない。前衛運動にとって、組織を永続させることより、短期間に既存の制度へ大きな亀裂を入れることが重要な場合がある。
「失敗した運動」ではなく、次の媒体へ移った
MAVOの参加者が画壇の中心的な団体として長く活動しなかったからといって、運動が消えたわけではない。村山は演劇、舞台、美術評論へ、柳瀬は漫画・グラフィック・政治運動へ、尾形亀之助は詩へ進んだ。
つまり「美術運動が終わった」のではなく、エネルギーが別の媒体へ移動したと見ることができる。
MAVOがジャンル横断を目指した以上、最終的に参加者が「美術家」という肩書きの外へ出ることは、ある意味でその理念に沿っている。
後世からMAVOを見るときの難しさ
現在の美術館でMAVOを紹介しようとすると、現存作品が少ないため、雑誌、写真、新聞記事、復元模型、ポスターが大量に必要になる。
これは通常の画家の回顧展とは異なる。作品を年代順に壁へ掛けるだけでは、MAVOの活動全体を再現できない。
東京藝術大学大学美術館がMAVOとシュヴィッタースのメルツを並べた展覧会や、神奈川県立近代美術館による村山の大規模回顧展が、資料や写真を重視したのはそのためである。
「日本のダダ」と呼ぶ利点と限界
MAVOを「日本のダダ」と呼べば、反芸術、パフォーマンス、日用品の使用、挑発性を理解しやすい。東京藝術大学大学美術館もMAVOをダダとの関係で研究している。
一方、MAVOには構成主義、未来派、表現主義、震災後の都市復興、日本独自の画壇制度など、ダダだけでは説明できない条件がある。
名称は理解の入口にはなるが、結論にしてはいけない。MAVOはヨーロッパの前衛を東京で混成し直した運動だった。
クルト・シュヴィッタースの「メルツ」との比較
東京藝術大学大学美術館は2005年、「日本におけるダダ:マヴォ/メルツ 村山知義/クルト・シュヴィッタース」展を開催した。シュヴィッタースは紙片、切符、廃材などを組み合わせ、「メルツ」と呼ぶ独自の作品と活動を展開した。
MAVOとの直接的な関係を単純に断定することはできないが、日常材料、印刷、詩、構成物、音、複数媒体を横断する点には比較可能な共通性がある。
重要なのは「どちらがどちらを真似たか」ではなく、第一次世界大戦後の複数地域で、従来の絵画・彫刻分類を越える必要が感じられていたことである。
MAVOの「日本性」はどこにあるのか
MAVOの作品だけを見ると、ドイツやロシアの前衛に近く、日本的な伝統要素が少ないように見える。そのため「西洋前衛の模倣」と評価されることもある。
しかし、活動の場所を見ると東京の具体的状況が深く入り込んでいる。浅草での展覧会、関東大震災後のバラック都市、東京の店舗、築地小劇場、日本語の活字と雑誌。
日本性を和柄や伝統材料に求める必要はない。1923年の東京という場所へ前衛思想を適用したこと自体が、MAVOの地域的な固有性を作っている。
生活を作品化すると、日常は本当に変わるのか
店舗を派手に装飾し、雑誌の文字を斜めにし、奇抜な服装で歩く。それだけで社会構造が変わるわけではない。MAVOの「生活と芸術の一致」には理想主義的な側面もあった。
しかし、彼らはその理想を作品説明に留めず、実際に街へ出た。現実の店舗、劇場、出版物へ手を入れた。
理想を完全に実現したかではなく、美術家が美術館以外の空間に介入できることを実証した点に歴史的な意味がある。
美術館の外へ出たからこそ、美術館へ収蔵しにくい
MAVOが現在の美術館コレクションで見えにくい理由の一つは、その活動が美術館収蔵に適した物体を残すことを目的としていなかったからである。
建物の装飾は建物とともに失われる。舞台装置は公演が終われば解体される。踊りは写真や記憶しか残らない。雑誌は破れ、散逸する。
後世に残りにくいことは、当時の影響が小さかった証拠ではない。保存制度と作品形態の相性の問題でもある。
現代美術から見ると、驚くほど近い
日用品を作品へ入れる、複数素材を組み合わせる、雑誌そのものを造形する、街頭で行動する、建築へ介入する、作家自身の身体を使う。これらは現在の現代美術では珍しくない。
しかし1923年の日本では、近代美術制度そのものがまだ形成されてから数十年しか経っていなかった。その時点ですでに、絵画・彫刻という分類を越えようとする活動が現れている。
MAVOを「古い前衛」として見るより、現在のインスタレーション、パフォーマンス、デザイン、社会介入型芸術へつながる問いが早くから存在した例として見ることができる。
それでもMAVOを現代美術と同じにしてはいけない
一方で、現在のインスタレーションやパフォーマンスという制度用語をMAVOへそのまま遡って適用すると、1920年代の特殊性が見えなくなる。
MAVOの参加者が活動したのは、関東大震災、大正デモクラシー、社会主義運動、新劇、急速な都市化と印刷文化の拡大が同時進行する時代だった。
似た形式があっても、社会的な意味は現在と同じではない。歴史的な前衛として、その時代の制度との衝突を見る必要がある。
「芸術/生活の破壊」とは何だったのか
この記事の題にある「芸術/生活の破壊」は、芸術と生活そのものを否定するという意味ではない。両者を分けていた境界を壊すことを指している。
美術は展覧会場、生活は街。作品は絵具、日用品は作品ではない。作家は専門家、観客は見るだけ。こうした区分を一つずつ不安定にする。
MAVOが破壊しようとしたのは、美術を特別な場所へ隔離していた制度だった。そして、その破壊の後に、街、身体、印刷、建築、演劇を芸術の新しい場所として組み直そうとした。
1923–1925|MAVO
MAVOは1923年、ベルリンから戻った村山知義と、未来派美術協会など国内の新興美術を経験していた柳瀬正夢、尾形亀之助、大浦周蔵、門脇晋郎らによって東京で結成された。浅草・伝法院での第1回展では、日用品や異素材を使った構成物が並び、絵画・彫刻の分類そのものが揺さぶられた。
その直後の関東大震災は、彼らの活動を現実の都市へ押し出した。MAVOは今和次郎のバラック装飾社とは別組織でありながら、同時代の仮設都市へ建築装飾という形で介入した。作品を展示するのではなく、店舗、看板、壁面を変える。芸術を生活へ接続する構想が、震災後東京の具体的な空間で試された。
1924年には機関誌『マヴォ』を創刊し、版画、写真、詩、タイポグラフィ、宣言、作品記録を一つの紙面へ混在させた。村山は築地小劇場の舞台装置へ進み、参加者はグラフィック、詩、演劇、政治運動へ分岐する。MAVOそのものは1925年頃に終わるが、それは運動のエネルギーが消えたというより、別の媒体へ拡散した結果だった。
わずか二年ほどの活動で、MAVOは巨大な恒久作品や美術館コレクションを残したわけではない。しかし、美術を「額縁の中の物」から、身体、紙面、建物、都市、時間へ広げた。その意味でMAVOが壊したのは作品そのものより、美術を囲っていた境界だった。次の記事では、1920〜30年代のもう一つの大きな視覚革命である新興写真へ進み、カメラ、印刷、都市の視点が日本のモダニズムをどのように変えたのかを見る。
参考資料
- Art Platform Japan「MAVO」
- Art Platform Japan「村山知義」
- Art Platform Japan「尾形亀之助」
- 東京藝術大学大学美術館「日本におけるダダ:マヴォ/メルツ 村山知義/クルト・シュヴィッタース」
- 神奈川県立近代美術館「すべての僕が沸騰する 村山知義の宇宙」
- 神奈川県立近代美術館「柳瀬正夢 1900-1945 時代の光と影を描く」
- 京都国立近代美術館「すべての僕が沸騰する―村山知義の宇宙―」
- 国立美術館 所蔵作品検索「『マヴォ』第1号」
- 国立美術館 所蔵作品検索「『マヴォ』第2号」
- 国立美術館 所蔵作品検索「『マヴォ』第3号」
- 青森県立美術館「今和次郎 採集講義」
- 三重県立美術館「芸術と社会」『1920年代の日本』
- 三重県立美術館「生きられた混沌―1920年代の日本美術」
- 神奈川県立近代美術館「100年前の未来:移動するモダニズム 1920–1930」
- 筑波大学「近代日本美術年譜 マヴォ」
資料確認日:2026年10月2日