Art Library

1990年代以降

森万里子

身体、テクノロジー、未来

村上隆の「スーパーフラット」とは異なる未来像

前の記事では、村上隆が1990年代から2000年代にかけて、アニメ、マンガ、フィギュア、美術市場、商品、制作組織を結びつけ、「スーパーフラット」という理論と流通の仕組みを構築した過程を見た。同じ時代に国際的な現代美術の場で急速に注目された森万里子も、日本のポップカルチャーや未来的なイメージと結びつけて語られることが多い。しかし、森の方法は村上とは大きく異なる。彼女は自らの身体を写真や映像の中心へ置き、都市空間、ファッション、SF、ジェンダー、デジタル画像、宗教的イメージを重ねながら、人間と機械、現在と未来、身体と精神の境界を変形させていった。

1990年代半ばの森は、サイボーグのような衣装をまとい、東京の地下鉄、オフィス街、ゲームセンターや都市の公共空間へ姿を現した。そこでは「未来的な日本」というイメージがそのまま肯定されているのではなく、女性に期待される役割、消費社会が生み出す欲望、テクノロジーによって加工される身体が、鮮やかで人工的な表面のなかに組み込まれている。その後、彼女の関心は仏教的な死生観や宇宙観、意識、生命の連続性へ広がり、写真から映像、建築的なインスタレーション、科学者との協働へと展開した。

1967年東京生まれ——ファッションから美術へ

森万里子は1967年に東京で生まれた。美術へ進む以前にはファッションを学び、モデルとして活動した経験を持つ。MoMAも《Star Doll》の解説で、森が東京でファッションを学びモデルを経験した後、ロンドンの美術学校へ進んだ経歴を紹介している。初期作品で自ら衣装を設計し、自分自身をモデルとして撮影する方法は、この経験と無関係ではない。衣服は作品の外側にあるスタイリングではなく、身体を別の社会的役割や存在へ変えるための装置として機能する。

森は1992年にロンドンのチェルシー・カレッジ・オブ・アーツを卒業し、1993年にはニューヨークのホイットニー美術館インディペンデント・スタディ・プログラムを修了した。東京だけで制作歴を積んだ後に海外へ進んだのではなく、若い時期からロンドン、ニューヨークという異なる都市で学び、そのまま国際的な美術環境へ入っていった。この移動は、後の作品が特定の一国の視覚文化に閉じない理由の一つでもある。

東京、ロンドン、ニューヨークという三つの視点

森の初期作品には、日本の都市社会を外側から見返す視線がある。長期間海外で学んだ経験によって、日本で当然とされていたジェンダー役割やサービス労働、会社員文化、消費社会の風景が、あらためて演じ直す対象になった。MoMAが紹介する本人の言葉でも、海外生活を経て日本社会における女性の扱われ方へ批評的な距離を持つようになったことが語られている。

一方で、森は「西洋から日本を批判する」という単純な立場にも収まらない。作品には欧米のSF、ファッション、現代美術、写真技術と、日本のアニメ、ゲーム、都市文化、宗教的イメージが混在している。どこか一つの文化を基準にして別の文化を判断するのではなく、自らの身体を媒介に複数の視覚文化を接続する。この混成性は、1990年代のグローバル化した現代美術の条件そのものでもあった。

1994年、「サイボーグ」シリーズ

森美術館は、1994年から1995年の初期作品群を「サイボーグ」シリーズとして位置づけている。アニメ、ビデオゲーム、コスプレ、ファッションの要素を採用し、森自身が都市の日常風景のなかに「ポスト・ヒューマン」の女性として登場する。重要なのは、未来世界を特撮セットの中で再現するのではなく、現実の東京に異質な身体を置いたことである。会社員や通行人がいる普通の都市空間に、銀色の衣装や人工的な髪、機械的な装具を身につけた森が現れることで、現在の社会の方がむしろ奇妙に見えてくる。

サイボーグは人間と機械の境界を示すだけではない。初期作品では、女性の身体が社会制度によってどのように役割化され、同時に商品やイメージとして消費されるかという問題とも結びつく。未来的な衣装を着ても、登場人物が置かれるのは給仕、接客、通勤、娯楽といったきわめて日常的な場である。テクノロジーは女性を自由にする万能な力として描かれるのではなく、社会が身体へ与える役割を可視化するための仮面にもなっている。

《ティーセレモニー》——未来服を着た「オフィスレディ」

1994年の《ティーセレモニー》の作品群では、森は東京のオフィス街で、会社員を思わせる衣服と未来的な装具を組み合わせた姿で人々へ茶を配る。森美術館は《ティーセレモニーⅡ》を1994年制作のCプリントとして所蔵している。日本語で「茶の湯」を連想させる題名と、企業社会における女性の給仕役が意図的に重ねられており、伝統文化と現代の職場慣行が一つの動作の中で衝突する。

この作品を「日本女性へのフェミニズム批判」と一語で処理すると、その視覚的な曖昧さが失われる。森は悲惨な労働者として自分を演じるのではなく、明るく整った外見で役割を遂行する。その過剰な完成度のため、写真は広告のようにも見える。批評的な内容が、商品のように魅力的な表面によって包まれていることが重要である。鑑賞者はその表面に惹かれると同時に、自分もまた女性の身体を広告的なイメージとして見ていることに気づかされる。

《プレイ・ウィズ・ミー》——ゲームセンターと人間の商品化

《プレイ・ウィズ・ミー》(1994年)では、森は東京の電器店やゲームセンターを思わせる場所の前に立つ。青い人工的な髪と硬質な衣装をまとった姿は、店内に並ぶキャラクターや機械から現実空間へ抜け出してきた存在のように見える。森美術館の2026年回顧展でも、初期の重要作として《スター誕生》とともに紹介されている。

ここで森の身体は、街路に立つ「本人」であると同時に、広告、玩具、ゲームキャラクター、接客者のような複数の存在へ分裂する。都市の通行人が彼女を特別な存在として注視していないことも作品の一部になる。サイボーグは非日常的な未来人であるはずなのに、東京の大量消費空間のなかでは周囲の商品の一つのように溶け込む。未来は遠くにあるのではなく、すでに日常の商品環境の内部に存在している。

身体を使うが、自画像とは限らない

森は初期作品の多くで自らの身体を使う。そのため作品は「セルフポートレート」と呼ばれやすいが、そこに写る人物を作家本人の内面の告白として読む必要はない。森の身体は役割を演じるための媒体であり、作品ごとに会社員、サイボーグ、ポップスター、巫女、女神のような別の存在へ変わる。身体は固定したアイデンティティを表現するものではなく、社会的・技術的に書き換えることのできる表面として扱われる。

この点ではシンディ・シャーマンや森村泰昌との比較も可能だが、それぞれの方法は異なる。森村が西洋美術史や映画史の既存イメージへ入り込むことを重視したのに対し、森万里子は既存の特定人物を再演するより、未来の女性像や架空の存在を作り出す。その身体は過去のイメージへの引用だけでなく、まだ存在しない未来を仮設するために使われる。

《スター誕生》——ポップスターは「作られる」

1995年の《スター誕生》は、森の初期を代表する作品の一つである。MoMA所蔵作では、3Dデュラトランス・プリント、アクリル、音響によって構成され、ライトボックス状の展示形式を取る。森はピンク色の髪、ヘッドフォン、ミニスカート、ブーツを身につけた架空のポップスターとして登場する。後に同じキャラクターは《Star Doll》として人形化され、1998年には複製可能な立体作品となった。

MoMAは《Star Doll》について、メディアや有名人を通じて女性像がいかに作られるかを扱う作品として説明している。ここでは本人が「スターになる」のではなく、「スターという存在がどのように設計されるのか」が問題になる。音楽、衣装、髪型、ポーズ、立体化、複製という複数の技術によって、一人の女性が市場で流通可能なイメージへ変換される。身体と商品、本人とキャラクターの境界が曖昧になる点で、この作品は同時代のアイドル文化やメディア環境とも接続する。

1995年、ニューヨークでの個展

1995年、森はニューヨークのAmerican Fine Arts, Co.で個展を開催した。同ギャラリーはコリン・デ・ランドが運営し、1990年代ニューヨークの実験的な現代美術を支えた重要な場の一つである。森の初期作品が国際的に知られるうえで、このニューヨークでの発表は大きな転換点となった。

ここで注目すべきなのは、森が日本国内の美術館制度で評価を確立した後に海外へ輸出されたのではないことである。ロンドンで学び、ニューヨークのホイットニーのプログラムを経て、ニューヨークのギャラリーで個展を行いながら活動を広げていった。1990年代の日本現代美術の国際化は、国内から国外への一方向の移動ではなく、作家が複数の都市を移動しながら制作環境そのものを形成する過程でもあった。

《エンプティ・ドリーム》——現実の風景をデジタルに複製する

1995年の《Empty Dream》では、森自身の身体が一つの画面のなかに複数回現れ、現実の場所がデジタル処理によって人工的な夢の空間へ変換される。初期の都市写真では、奇妙な衣装の人物が現実の東京へ侵入していたが、この段階では背景そのものも操作されるようになる。身体だけでなく世界全体が画像処理の対象になるのである。

1999年にはブルックリン美術館で個展「Mariko Mori: Empty Dream」が開催された。同館のアーカイブは会期を1999年4月8日から8月15日までと記録している。90年代半ばに始まったデジタル画像を用いる仕事が、数年のうちにアメリカの主要美術館で大規模に提示されたことは、森が同時代のテクノロジーと身体表象を象徴する作家として急速に認識されたことを示している。

テクノロジーは単なる「未来らしさ」ではない

森作品では、光沢のある表面、人工的な色彩、デジタル合成、立体音響、3D映像などが使われるため、「ハイテクで未来的」という印象が先行しやすい。しかし技術は未来感を演出する装飾ではない。初期作品では、人間の身体がメディアによってどのように別の役割へ変換されるかを示し、中期以降は鑑賞者自身の知覚や意識を変化させるために使われる。

森美術館は、彼女の30年以上の実践を、パフォーマンスに基づく写真と映像、コンピューター画像、立体、大規模なインタラクティブ・インスタレーションという複数の媒体から捉えている。そこで一貫しているのは、最新機器を見せることよりも、技術を介したとき人間の身体や意識がどのように再構成されるかという問いである。作品形式が変化しても、技術と人間の関係が中心から消えたわけではない。

1996年、《巫女の祈り》

《巫女の祈り》(1996年)は、初期のサイボーグ像から、宗教的・精神的なイメージへ移る重要な作品である。シカゴ美術館の資料では、デジタル処理された関西国際空港を思わせる空間に、白く光沢のある衣装をまとった森が登場し、透明な球体を抱えながら映像と音のなかで祈るような動作を行う。未来的な空港は、同時に寺院のような空間へ変形される。

この人物は、SF的なサイボーグ、商品を宣伝するモデル、巫女、菩薩のような存在を同時に連想させる。どれか一つに決めることができないところが重要である。初期の都市写真では社会的な役割を演じていた身体が、ここでは物質世界と精神世界の間を媒介する存在へ移行する。テクノロジーと宗教は対立するものではなく、同じ人工的なイメージの内部で重ねられる。

仏教的イメージへの移行を「日本回帰」と単純化しない

1990年代後半、森の作品には浄土、輪廻、祈り、巫女、菩薩などを連想させるイメージが増える。この変化を、海外生活を経て「日本の伝統へ戻った」と説明するのは単純すぎる。森が参照する宗教的イメージは、コンピューター・グラフィックス、人工素材、未来建築、SF的デザインと組み合わされ、歴史的な宗教美術の再現とはまったく異なる環境へ置かれる。

また、仏教や神道を固定的な「日本人の精神性」として扱うことにも注意が必要である。森の仕事は複数の宗教思想、宇宙論、科学技術、古代遺跡への関心を横断しており、後年には縄文文化やケルトの先史文化、素粒子物理学、宇宙物理学まで参照範囲を広げる。日本的精神への回帰というより、文化と時代を越えて生命や意識を考える枠組みを探す方向へ進んだと見る方が適切である。

《エソテリック・コスモス:ピュア・ランド》

1996年から1998年に制作された「エソテリック・コスモス」シリーズは、この転換を大規模な写真作品として示す。森美術館が紹介する《エソテリック・コスモス:ピュア・ランド》は、横幅約6メートルに及ぶ写真とガラス、ステンレススチールによる作品である。遠隔地の風景とデジタル処理された像が融合し、森自身が超越的な存在として画面に現れる。

ここでは都市の通行人との偶発的な関係が消え、画面全体が完全に設計された世界になる。人物、風景、光、色彩は一つの人工的な宇宙へ統合され、写真が現実の記録というより、存在しない空間を構築するための媒体として使われる。写真は現実を写す道具から、宗教画や宇宙図のように世界観そのものを提示する装置へ変化している。

《Nirvana》と1997年ヴェネツィア・ビエンナーレ

1997年、第47回ヴェネツィア・ビエンナーレで森は国際展に参加し、優秀賞に相当するMenzioni Onorateを受賞した。森美術館の略歴は、同年に北欧館にも出品したことを記している。1998年のサーペンタイン・ギャラリーは、前年のヴェネツィアで紹介された3D映像作品《Nirvana》を展覧会の重要作として展示した。

ここで区別しておく必要があるのは、森が1997年の日本館代表だったわけではないことである。国際交流基金の日本館記録によれば、同年の日本館は南條史生をコミッショナーとして内藤礼の《地上にひとつの場所を》を展示していた。森の受賞はヴェネツィアの国際展での評価であり、日本館という国家単位の展示とは別の回路で起きた。1990年代の国際化には、国別パヴィリオンと国際企画展という複数の制度が並行していた。

1997年は一つの転換点

同じ1997年、森はヴェネツィアだけでなく、第5回イスタンブール・ビエンナーレ、第4回リヨン・ビエンナーレにも参加した。短期間に複数の国際展へ招かれたことは、森の仕事が「日本の新しい作家」という枠を越え、ポストヒューマン、ジェンダー、デジタル画像、グローバルな視覚文化といった同時代の問題の中で読まれ始めたことを示す。

国際展は作品を国外へ運ぶだけの場ではない。異なる地域から集められた作家が一つのテーマのもとで並べられ、キュレーターや批評家によって新しい文脈が与えられる。森の作品も、日本のアニメやSFだけではなく、1990年代の身体論、新しいメディア技術、女性表象、グローバリゼーションと結びつけて読まれるようになった。この評価の多層性が、その後の美術館個展へつながっていく。

1998年サーペンタイン・ギャラリー

1998年、ロンドンのサーペンタイン・ギャラリーは、当時のイギリスで最大規模となる森の個展を開催した。展覧会には《Nirvana》、コンピューター処理された巨大な写真パノラマ、さらに太陽光を利用する《Enlightenment Capsule》の試作などが含まれた。同館の記録では、ゴビ砂漠、死海、カリフォルニアの風力発電施設、アリゾナの砂漠など、異なる場所で撮影されたイメージが大画面へ統合されたことが確認できる。

この展覧会は、初期の都市型セルフイメージから、自然、宗教、光、宇宙的なスケールへ関心が移る時期をよく示している。その後、展覧会はシカゴ現代美術館、アンディ・ウォーホル美術館、ロサンゼルス・カウンティ美術館へ巡回した。森の作品は写真の一点売買だけではなく、大規模な映像や環境を伴う展覧会として国際的に流通するようになった。

《Beginning of the End》——都市と時間を円環にする

1990年代後半から2000年頃にかけて制作された《Beginning of the End》では、森が世界各地の都市や古代遺跡を移動し、横たわる身体をパノラマ写真のなかへ配置した。ポンピドゥー・センター所蔵の上海版は1999年制作で、同館はこのシリーズが過去・現在・未来を扱う13の要素から構成されると説明している。

ここでは都市の速度に適応するサイボーグではなく、森の身体が都市の中で静止する。巨大建築や都市景観に対して、横たわった身体は活動を止めたように見える。初期作品で自らをキャラクター化した身体が、次第に時間そのものを測る基準のような存在へ変わる。都市、古代遺跡、未来的な建築が一本の線ではなく円環として接続され、人類の時間を直線的な進歩として見る考え方が揺さぶられる。

1999年《Dream Temple》——作品が建築になる

1999年、ミラノのプラダ財団で《Dream Temple》を中心とする大規模な展覧会が開催された。プラダ財団によれば、《Dream Temple》は奈良の法隆寺夢殿から着想を得た透明で発光するような建築的インスタレーションであり、鑑賞者が段階的に内部へ進み、瞑想的な経験へ入る構成を持っていた。会場には《Enlightenment Capsule》《Garden of Purification》《Kumano》なども配置され、展覧会全体が一つの精神的な旅として設計された。

ここで作品は「見る対象」から「入る環境」へ変わる。写真や映像を壁面で鑑賞するだけでなく、鑑賞者は光、素材、空間、音に包まれながら移動する。森の関心は自分自身の身体を画像へ変換することから、鑑賞者の身体と意識を作品内で変化させることへ移行していった。テクノロジーも、作家の未来的な外見をつくるためではなく、観客の知覚を組み替える環境を構築するために使われる。

光は宗教と技術をつなぐ媒体になる

《Dream Temple》以降の森作品では、光が重要な役割を持つ。プラダ財団の展覧会では、光は純化や普遍性を示す要素であり、外部の光と内面的な光の関係が意識された。森美術館の現在の回顧展も、森の30年にわたる実践を貫く要素として「光」を位置づけている。

ただし、ここで光を漠然とした「東洋的精神性」として理解するべきではない。森は太陽光を集める装置、透明素材、映像投影、発光体、コンピューター制御など具体的な技術によって光を操作している。宗教的な象徴と工学的な装置が同じ作品の中に存在することが重要であり、精神性はテクノロジーの反対側に置かれるのではなく、技術を通じて身体的に経験される。

2000年、ポンピドゥー・センター「Link」

2000年、パリのポンピドゥー・センターで森の個展が開催された。同館は、森が身体とアイデンティティを扱い、新しいメディアを重要な位置に置く作家として紹介し、過去・現在・未来をめぐる映像インスタレーションを展示した。森美術館は《Link》について、透明な身体カプセルに横たわる森の像を複数の象徴的な場所へ重ね、人間の時間を直線ではなく輪廻的なものとして提示する作品と説明している。

1990年代初頭の写真では、身体は都市社会に対して異物として挿入されていた。2000年頃になると、身体は都市や文明史を横断する媒体へ変化する。個人のアイデンティティを演じる身体から、人類の時間、死、生、再生を考える身体へとスケールが拡大したのである。それでも身体が作品の中心から消えたわけではなく、抽象的な哲学を鑑賞者へ接続する具体的な入口として残っている。

「未来」は進歩のイメージだけではない

森作品に登場する未来は、最新技術によって現在を乗り越える単純な進歩史ではない。古代寺院、宗教的儀礼、自然、宇宙物理学、コンピューター画像が同じ作品に置かれるため、未来は過去と切り離されない。《Beginning of the End》や《Link》では、過去・現在・未来が循環する構造として扱われる。

この点で森の未来像は、1990年代のサイバーカルチャーがしばしば持っていた「身体を捨てて情報空間へ移る」という想像とは異なる。彼女の作品では、身体はむしろ繰り返し作品へ戻ってくる。技術は身体を不要にするものではなく、光、音、空間、映像を通じて身体感覚を拡張するものとして使われる。

《Wave UFO》——脳波を作品へ取り込む

《Wave UFO》は1999年から2002年に制作された、森の中期を代表する大型インタラクティブ作品である。流線形のポッド内部へ鑑賞者が入り、脳波を測定し、そのデータをコンピューター画像へ変換する。Public Art Fundによれば、作品はリアルタイムのコンピューター・グラフィックス、脳波技術、音響、建築工学を組み合わせ、三人の参加者が内部で体験するよう設計された。

森美術館は《Wave UFO》を、脳波バイオフィードバックを用いた作品として極めて先駆的なものと位置づけている。ここで重要なのは、脳波が医学的診断のために使われるのではなく、自分では直接見ることのできない身体内部の活動を視覚化する媒体になることである。鑑賞者は作品を見る人ではなく、自らの身体データを作品へ提供し、その変化を経験する参加者になる。

テクノロジーによる「共同体」

《Wave UFO》では三人の参加者が同時に内部へ入り、それぞれの脳波が映像化される。Public Art Fundは、この構造を個人と宇宙の相互接続という森の関心と結びつけて説明している。個人の脳波という非常に私的なデータが、共同で見る光や映像へ変換されることで、身体内部と共有空間が接続される。

ここには、1990年代初期の作品との大きな違いがある。《ティーセレモニー》や《プレイ・ウィズ・ミー》では、森自身が都市の中で他者から見られる身体だった。《Wave UFO》では作家の身体が中心ではなく、鑑賞者の身体が作品を動かす。テクノロジーによって作家が未来人を演じる段階から、テクノロジーを使って他者同士の関係を構築する段階へ移ったのである。

「ワンネス」はいつから中心になるのか

現在の森美術館の解説では、「ワンネス」は2000年代初頭以降、世界的な分断が深まるなかで森が中心的に提唱するようになった概念とされている。したがって、1994年の《プレイ・ウィズ・ミー》や《ティーセレモニー》を、最初から「ワンネス」を表した作品だったと遡及的に説明するべきではない。初期にはジェンダー、都市、ポップカルチャー、ポストヒューマンの問題がより前面にあった。

一方で、人間と機械、本人とキャラクター、現在と未来といった境界を揺らす初期の方法が、後の「すべてが相互に接続している」という考えへ展開したと見ることはできる。重要なのは、一つの思想が最初から完成していたのではなく、制作の過程で関心のスケールが変わっていったことである。森の30年以上の活動には連続性と断絶の両方が存在する。

2002年「ピュアランド」と日本での大規模個展

2002年、東京都現代美術館で個展「森万里子 ピュアランド」が開催された。森美術館の2026年回顧展は、この2002年展以来24年ぶりとなる日本での大規模個展として企画されている。海外のギャラリーや国際展、美術館で評価を確立した森の活動が、日本国内の公立美術館でまとまった形で紹介されたことは、1990年代の国際化が国内の美術制度へ還流する一例でもある。

1990年代の森は、海外で先に評価された日本人作家としてしばしば語られた。しかし「海外で認められてから日本へ戻った」という単純な成功物語ではない。初期作品は東京の都市社会を素材にし、制作はロンドンやニューヨークの経験から形成され、発表は複数の国を行き来しながら広がった。作品自体がすでに国際的な移動の中で生まれていたのである。

美術館、研究者、技術者との協働

森の作品が写真から大型インスタレーションへ拡張すると、制作は個人のスタジオだけで完結しなくなる。《Wave UFO》のような作品には、脳波計測、コンピューター・グラフィックス、構造設計、特殊素材など複数の専門技術が必要である。森美術館は、中期以降の作品が国際的な科学者や研究機関との協働によって開発された計算技術を利用していることを強調している。

これは、同時代の村上隆が制作工房と企業組織を拡大したのとは別のかたちの制作システムである。森の場合は、科学者、エンジニア、美術館、技術会社との協働を通じて、個人では製造できない環境をつくる。現代美術家の仕事は、自分の手で物質を加工することだけではなく、異なる専門分野を接続し、経験全体を設計することへ広がっている。

「日本的」「女性的」「未来的」という三つのラベル

森万里子は国際的な美術界で、「日本人」「女性」「未来的」という複数の分かりやすいラベルによって紹介されてきた。初期作品には確かに日本の都市文化、女性の社会的役割、アニメやゲームを連想させる造形がある。しかし、それらを作品の本質として固定すると、後年の変化を理解できなくなる。森は自分の身体を用いながら、その身体を固定したアイデンティティから何度も離脱させてきた。

特に「日本のハイテク文化を象徴する女性作家」という見方は、1990年代の国際美術界が日本へ抱いていたイメージとも重なる。森はその期待を利用しながら、同時にずらしていった。サイボーグ、巫女、菩薩、宇宙的な存在は、どれも単一の日本像へ回収できない。未来的な外見の内部に宗教史やジェンダーの問題が入り、伝統的なイメージの内部に先端技術が入り込む。

メディアアートだけでもない

森の活動はデジタル画像、映像、脳波計測、コンピューター制御を用いるため、メディアアートの歴史から見ることができる。しかし、彼女を「技術を使う作家」という分類だけに置くと、作品の核心を狭める。作品の目的は新技術そのものの提示ではなく、身体、ジェンダー、宗教、死生観、宇宙、共同体といった問題を、技術によって経験可能なものへ変えることである。

また、技術の選択は常に作品の主題と関係している。写真加工は身体を複製し、3D映像は女神の像を浮遊させ、建築的インスタレーションは鑑賞者を内部へ包み込み、脳波装置は意識の状態を可視化する。新しい機器が登場するたびに使うのではなく、見えないものを見える経験へ変換するために技術が選ばれている。

自然と宇宙へ——2000年代以降の展開

2000年代以降、森の関心はさらに宇宙物理学、素粒子、先史文化、自然環境へ広がる。森美術館は、《Tom Na H-iu》(2006年)でスーパーカミオカンデなどから得られるニュートリノに関わるデータを光へ変換する試みや、2010年に設立したFaou Foundationによる自然環境の中での恒久設置作品を紹介している。ここでも、見えない現象を光や空間として経験させる方法が続いている。

この後期の展開を見ると、1990年代の「未来的」な衣装は単なる時代のスタイルではなかったことが分かる。森が一貫して関心を持ってきたのは、人間が現在の身体や知覚の限界を越えて何と接続できるのかという問題である。その対象は都市社会から宇宙へ、ジェンダーから生命全体へ拡大したが、テクノロジーを境界の媒介として使う方法は継続している。

国際的評価は作品だけで成立しない

森の1990年代を追うと、国際的な評価が一つの展覧会から突然生まれたのではないことが分かる。ロンドンとニューヨークでの教育、American Fine Artsでの個展、ヴェネツィア、イスタンブール、リヨンなどの国際展、サーペンタイン・ギャラリーの巡回展、ブルックリン美術館、プラダ財団、ポンピドゥー・センターといった複数の制度が連続して作品を紹介した。

その過程では、ギャラリー、キュレーター、美術館、国際展、企業財団、技術者がそれぞれ異なる役割を担う。森の大型作品は輸送、設営、映像機器、建築、保守を必要とし、美術館の技術的な能力も作品成立の条件になる。国際化とは作家名が海外で知られることだけではなく、複雑な作品を異なる都市で再制作し、展示し、保存できる制度的なネットワークが形成されることでもある。

2026年、再び大規模回顧展へ

2026年10月31日から森美術館では、ソロモン・R・グッゲンハイム財団の協力による「森万里子:燦燦」が予定されている。森美術館は、写真、映像、ドローイング、彫刻、大規模インタラクティブ作品まで30年以上の実践を通覧し、大衆文化、テクノロジーの未来主義、意識をめぐる哲学という複数の視点から再検討するとしている。

この再評価は、1990年代に作られた「未来的な日本人女性」というイメージだけでは森の仕事を捉えられなくなったことを示している。初期のジェンダー批評とポストヒューマン、後の宗教的・宇宙的な探究は、別々の作家が行ったように見えるほど大きく変化している。しかし、その間には身体を変形し、知覚を拡張し、見えない関係を可視化するという連続した問題が存在する。

森万里子を1990年代日本美術の中でどう位置づけるか

森万里子は、奈良美智や村上隆と同じ1990年代に国際的な注目を集めたが、その制作方法を「日本のポップ文化」という一つの括りへまとめることはできない。奈良は絵画とドローイングを軸に個人的な記憶と音楽文化を接続し、村上はキャラクターと市場、制作組織、キュレーションを制度化した。森は自らの身体と先端技術を組み合わせ、写真から映像、建築的環境、インタラクティブ作品へ媒体を変化させた。

三者に共通するのは、国内の既存美術制度だけを活動基盤にせず、海外のギャラリー、美術館、国際展、出版、企業、技術者などと接続しながら仕事の規模を拡張したことである。1990年代以降の日本現代美術では、作品の形式だけでなく、それを作り、運び、展示し、説明するネットワークそのものが変化した。森万里子の実践は、その変化を身体とテクノロジーの側から示す。

次の地域型芸術祭へ——「国際化」から「場所」へ

ここまで見てきた1990年代の国際化では、作家は東京、ロンドン、ニューヨーク、ヴェネツィア、パリ、ミラノなどを移動し、美術館と国際展を通じて作品を流通させた。2000年代の日本では、もう一つ別の方向から現代美術の制度が拡張していく。美術館や大都市へ観客を集めるのではなく、地方の集落、島、廃校、田畑、空き家へ作品を持ち込み、地域そのものを展覧会場にする芸術祭が急速に発展したのである。

そこでは作家と鑑賞者だけでなく、自治体、住民、ボランティア、観光、交通、地域振興が作品の成立条件に加わる。次の記事では、2000年に始まった越後妻有アートトリエンナーレから瀬戸内国際芸術祭へ至る流れを中心に、日本の現代美術が「国際的な作家を海外へ送り出す」段階から、「地域そのものを国際的な文化の場へ変える」段階へ進んだ過程を見ていく。

参考資料

資料確認日:2026年10月2日