1950–60年代
九州派
地方から現れた反芸術
九州派は「東京の前衛の地方版」ではない
1950年代後半、福岡に「九州派」と呼ばれる前衛美術グループが現れた。桜井孝身、オチ・オサム、菊畑茂久馬、田部光子、石橋泰幸、尾花成春らをはじめ、多数の若い美術家が出入りし、街頭展、グループ展、読売アンデパンダン展などを通して活動した。
後世から見ると、同時期には関西で具体美術協会、東京で実験工房、少し後にはネオ・ダダイズム・オルガナイザーズが活動している。そのため九州派を「福岡にも前衛があった」という補足的な位置へ置きたくなる。しかし福岡市美術館は、九州派が「地方」と「生活」をよりどころに、東京中心の既存美術システムから独立した活動を展開した点を重要視している。
九州派の歴史的な意味は、中央で生まれた新様式を地方で再現したことではない。福岡という場所に暮らし、働き、入手できる材料を使いながら、「前衛」を地方の生活者の側から作り直そうとしたことにある。
1950年代の「地方」は、単なる住所ではない
戦後日本の美術情報、主要公募展、評論家、画廊、国立美術館の多くは東京へ集中していた。地方の若い作家が全国的な評価を得ようとすれば、東京の展覧会へ作品を送り、そこで批評される必要がある。
九州派はこの中央集権的な構造を強く意識した。福岡で制作しながら東京へ認めてもらうことだけを目的にするのではなく、「地方にいること」を自分たちの立場として引き受ける。
そのため九州派の「地方」は、不利な条件であると同時に批評的な位置でもあった。中央の美術界から距離があるからこそ、そこで当然とされている価値を疑うことができる。
「生活」を前衛の出発点にする
福岡市美術館は九州派の特徴を、「地方」とともに「生活」をよりどころとしたことに求めている。ここでいう生活は、静物画の題材として日用品を描くという意味だけではない。
働くこと、家族を持つこと、政治的な争議を見ること、街を歩くこと、安価な材料しか使えないこと。制作と日常を切り離さず、生活の条件そのものから美術を考える。
美術家を日常社会から隔離された特別な存在とするのではなく、「生活者である美術家」が何を作れるか。そこに九州派独自の前衛意識があった。
1956年、街頭詩画展《ペルソナ》
九州派結成の重要な前史となったのが、1956年に福岡県庁西側の大通りに面した壁面で開かれた街頭詩画展《ペルソナ》である。菊畑茂久馬の略歴にも、この展覧会への参加が記録されている。
美術館や画廊ではなく、街路に面した県庁の壁を展示場所にする。通行人は入場料を払い、専門的な展覧会へ入る必要がない。通勤や買物の途中で作品を見ることになる。
九州派が後に「生活」を強調する以前から、作品を日常の都市空間へ直接出す試みが始まっていた。
街頭展では、観客を選べない
画廊へ来る人は、最初から美術を見るつもりでいる。しかし街頭では、美術に興味のない人も作品の前を通る。
この違いは大きい。美術の専門用語も、前衛美術の歴史も知らない観客へ、作品が直接さらされる。無視されることもあれば、批判されることもある。
九州派にとって街頭は、単に無料の展示場所ではなかった。美術界内部の観客から離れ、社会の中で作品がどう見えるかを試す場所だった。
1957年、九州派結成
福岡市美術館によれば、九州派は1957年、桜井孝身、オチ・オサムらを中心に福岡の若い作家が集まり結成された。菊畑茂久馬、田部光子らも主要な活動へ加わっていく。
1988年に福岡市美術館が開催した「九州派展〈反芸術プロジェクト〉」では、石橋泰幸、大山右一、オチ・オサム、尾花成春、菊畑茂久馬、桜井孝身、田部光子、谷口利夫ら25名が出品作家として整理された。
ただし九州派を25人の固定会員を持つ組織と考えるべきではない。参加者は出入りし、活動時期も異なる。九州派は、厳密な会員名簿で統一された組織より、福岡の前衛的な制作と議論を束ねる流動的な場だった。
桜井孝身 — 絵画だけでなく言葉でも運動を作る
桜井孝身は1928年福岡県久留米市生まれ。福岡学芸大学を卒業後、西日本新聞社で働きながら制作を続け、1950年代半ばから前衛美術へ進んだ。
桜井は九州派の作品だけでなく、文章、宣言、議論の面でも運動を牽引した人物の一人として知られる。美術家が作品だけを作り、評論は評論家へ任せるという分業ではなく、自分たちの立場を自分たちの言葉で定義しようとした。
地方から前衛を作るには、作品を東京へ送るだけでは足りない。「なぜ福岡でやるのか」「何に反対しているのか」を言語化しなければ、既存美術の中へ回収されてしまうからである。
オチ・オサム — 身近な物を作品へ入れる
オチ・オサムは1936年生まれ。1955年の二科展入選をきっかけに本格的に活動し、九州派の創立期から中核メンバーとなった。
福岡市美術館は、オチが1950年代末からアスファルト、ベニヤ、日用品など身近な素材を作品へ持ち込んだ点を重要な特徴としている。高価な画材へ素材を限定せず、周囲に存在する物から制作方法を見つける。
これは単なる節約ではない。「美術作品には美術材料を使う」という制度的な常識を外し、材料の側から作品を考え直す態度だった。
アスファルトは「黒い絵具」ではない
九州派の作品ではアスファルトが繰り返し使われた。尾花成春《黄色い風景No.1》、菊畑茂久馬《葬送曲 No.2》など、福岡市美術館の所蔵作品にもアスファルトを用いた例が残る。
アスファルトは道路や建築に使われる工業材料であり、油絵具とは粘り、光沢、厚み、乾き方が異なる。画面へ塗れば、絵具で黒色を表現するのとは異なる物質感が生まれる。
九州派が行ったのは「アスファルトのように見える黒」を描くことではなく、本物のアスファルトを作品へ入れることだった。材料が表象から実物へ移る。
段ボール、陶片、金属、糸も画面へ入る
福岡市美術館の九州派コレクションを見ると、油彩だけではなく、段ボール、陶器片、金属、糸、パテ、カシュー、板など多様な材料が使われている。
これらは「美術材料店で買うべきもの」という分類から外れている。工事、包装、家庭用品、工業製品の世界から材料が流れ込む。
絵画はカンヴァスへ絵具を置く平面ではなく、異なる物質が衝突する場所へ変わっていく。
素材が変わると、絵画の境界が曖昧になる
陶片や木片を板へ取り付ければ、作品は壁から前へ飛び出す。厚いアスファルトを塗れば、表面はレリーフのようになる。箱や日用品を加えれば、それは絵画なのかオブジェなのか判定しにくくなる。
九州派は「彫刻へ移行する」と宣言して絵画を捨てたのではない。材料を変えた結果、既存のジャンル区分が機能しなくなっていった。
反芸術的な効果は、制度を否定するスローガンだけでなく、作品そのものが分類できなくなることから生まれた。
1958年、菊畑茂久馬《ポロックに捧ぐ》
菊畑茂久馬は1958年、第10回読売アンデパンダン展へ《ポロックに捧ぐ》を出品したことが国立美術館の作家解説に記録されている。
題名にはジャクソン・ポロックの名がある。戦後日本の若い作家がアメリカ抽象表現主義を意識していたことは明らかである。
しかし九州派をポロックの模倣と見ることはできない。アスファルト、段ボール、日用品、政治的な生活意識は、ニューヨークの抽象表現主義とは別の制作条件から生まれている。
海外美術を知ることと、地方で作ることは矛盾しない
「地方を拠点にする」という言葉から、海外美術を拒み地域文化だけを見る運動を想像するかもしれない。しかし九州派は国際的な前衛情報にも敏感だった。
雑誌や展覧会を通してポロック、アンフォルメルなどを知り、その一方で自分たちの生活環境から材料と主題を探す。
地方性は外部情報を遮断することではない。世界の美術を見た上で、「自分が今いる場所から何を作れるか」を問い直すための座標だった。
読売アンデパンダン展へ進出する
九州派の作家たちは、福岡だけで活動したわけではない。菊畑茂久馬は1958年、1960年、1961年など読売アンデパンダン展へ出品し、オチ・オサムも1962年の第14回展に《出口ナシ》を出品した。
読売アンデパンダン展は無審査で出品でき、1950年代末から60年代初頭にかけて、既存の絵画・彫刻から逸脱する若い作家が集中する場所となった。
九州派は東京中心の制度を批判しながら、その東京の最も開かれた展覧会を利用して作品を全国へ見せた。中央から独立することと、中央を無視することは同じではない。
「東京へ出る」という矛盾を抱える
地方を掲げながら全国的な評価を得ようとすれば、東京へ作品を持っていく必要がある。この構造そのものが九州派の矛盾だった。
しかし矛盾があるから運動が失敗したわけではない。むしろ、自分たちの立場を東京の制度内部へ持ち込み、その制度へ異物を入れることができる。
読売アンデパンダンへの参加は、九州派が「地方に閉じこもる運動」ではなく、地方から中央へ圧力をかける運動だったことを示す。
1959–60年、三井三池争議
九州派が活動した時期、九州では労働運動が大きく高揚した。特に福岡・熊本にまたがる三井三池炭鉱では、1959年から60年に大規模な労働争議が起き、全国的な政治問題になった。
福岡市美術館も、三井三池争議を中心とする労働争議の盛り上がりを九州派の重要な社会背景として挙げている。九州派の作家すべてが同じ政治思想を持ったわけではないが、労働者の生活と政治的対立を身近な現実として見ていた。
抽象美術だから社会から離れている、という単純な区分は九州派には当てはまらない。抽象的・物質的な作品と生活者としての政治意識が同時に存在した。
「生活者の前衛」という考え
前衛芸術家は日常社会から離れた特殊な天才ではなく、会社員、家庭を持つ人、地域社会の一員でもある。九州派では、この生活者としての立場を美術と切り離さない意識が強かった。
桜井孝身は新聞社で働き、オチ・オサムも若い頃に印刷会社などで働きながら制作を続けた。美術だけで生活が成立する作家ばかりではなかった。
その経験が、美術市場や画壇の内部論理だけではなく、労働、所得、生活環境の側から美術を考える基盤になった。
「反芸術」は、芸術が嫌いという意味ではない
九州派は後に「反芸術」の重要な運動として位置づけられ、1988年の福岡市美術館回顧展も「九州派展〈反芸術プロジェクト〉」と題された。
しかし「反芸術」は、芸術そのものを無価値と考えることではない。美術館に入るもの、高価な材料で作るもの、審査員が評価するものだけを芸術とする制度へ反対する態度として理解した方がよい。
九州派の作家たちは作品を作ることをやめなかった。むしろ、美術の範囲を広げるために既存の美術観を攻撃した。
美しい作品を作らないことが目的だったのか
アスファルト、廃材、壊れた陶器を使った作品は、従来の「美しい絵画」とは違って見える。そのため反芸術を「醜いものを作る運動」と理解することもできる。
しかし、醜さそのものが目的ではない。美術作品にふさわしい材料、美しい表面、完成度という判断基準を一度停止させ、別の物質感を見せることが重要だった。
「美しくないから価値がない」という評価の前提を壊すことで、新しい造形を見る可能性が開かれる。
尾花成春 — 絵画の表面を物質化する
尾花成春《黄色い風景No.1》は1959年制作で、油彩にアスファルト、カシューなどを組み合わせた作品として福岡市美術館に所蔵されている。
題名には「風景」とあるが、伝統的な遠近法で場所を描く風景画とは異なり、厚い物質的な表面そのものが画面を支配する。
九州派の「風景」は、見える場所を再現するより、生活環境から取った材料によって身体的に感じる表面へ変わることがあった。
菊畑茂久馬《葬送曲》
菊畑茂久馬《葬送曲 No.2》は1960年制作で、アスファルト、ペンキ、陶器、段ボールを板へ組み合わせた作品である。
絵画・レリーフ・廃物の集合体のどれとも言い切れない。陶片のような物が画面へ物理的に入り、黒い物質が表面を覆う。
ここでは、抽象絵画の「筆触」を強くするのではなく、筆触の代わりに実物の異物を挿入することで画面を変えている。
1960年、九州派内部も分裂する
九州派は一枚岩ではなかった。菊畑茂久馬の作家解説によれば、1960年に菊畑は九州派を脱退し、オチ・オサム、山内重太郎らと銀座画廊で「洞窟派展」を開催している。
結成から数年で、作家たちは新しいグループを作り、別の方法を試し始めた。思想的な意見の違い、制作方向の違い、集団運営の問題が重なり、メンバー構成は流動的だった。
九州派を1957年から60年代末まで同じメンバーと同じ理念が続いた組織として描くことはできない。
分裂は「失敗」ではなく、前衛の通常状態でもある
前衛グループは、共通の敵や新しい問題を持つ時には強くまとまる。しかし、各作家の制作が発展すると、全員が同じ方向へ進むことは難しくなる。
MAVO、実験工房、ネオ・ダダなど、20世紀の前衛集団には短期間で組み替わる例が多い。九州派も例外ではなかった。
重要なのは組織が長寿だったかではなく、そこからどのような作品・人脈・次のグループが生まれたかである。
田部光子 — 九州派をジェンダーから見直す
田部光子は1933年、日本統治下の台湾に生まれ、1946年に福岡へ引き揚げた。絵画を独学し、1957年に九州派の主要メンバーとして活動を始めた。
近年、田部の仕事は「九州派の女性メンバー」という補助的な位置ではなく、戦後日本におけるジェンダーと前衛の問題を早くから扱った独立した作家として再評価されている。
福岡市美術館は2022年に田部の大規模な回顧展を開催し、九州派期だけでなく1970年代以後の活動まで検証した。
1959年《魚族の怒り》
福岡市美術館の田部光子展では、1959年の《魚族の怒り》が初期の重要作品として紹介されている。
田部は九州派のアスファルトや異素材の実験と同時代に活動しながら、社会の変化、自身の身体、女性の生活経験へ強く反応した。
九州派に「生活」という共通語があっても、男性作家と女性作家が経験する生活条件は同じではない。その差を田部の作品は可視化する。
1961年《人工胎盤》
田部光子《人工胎盤》は1961年に制作され、2004年に再制作された版が熊本市現代美術館に所蔵されている。マネキン、紙、合成繊維、真空管、電気コードなどを用いた三点組の作品である。
福岡市美術館はこの作品を、田部自身の妊娠をめぐる苦痛や困難から生まれ、女性の解放を妊娠・出産の問題から考えた非常に早い作品として紹介している。
現在のフェミニズム・アートという枠組みが日本で定着する以前に、自分の身体経験を社会構造の問題として作品化した点が重要である。
「生活」は誰にとっても同じではない
九州派が生活者の視点を掲げたとしても、「生活」という言葉だけでは性別による役割分担や身体経験の違いは見えにくい。
家事、出産、育児は当時、女性が担うことを当然視されやすかった。田部はその現実を、前衛美術の内部から問題化した。
地方と中央、労働者と美術家だけでなく、男性と女性の非対称性まで見ることで、九州派の「生活」という理念はより複雑に見えてくる。
1961年《プラカード》
田部光子は1961年、《プラカード》と題する作品群も制作した。印刷物、真鍮、口紅、墨、塗料などが使われ、福岡市美術館や東京都現代美術館に作品が残る。
プラカードはデモや政治運動で身体が掲げる物である。田部はそれを美術作品の支持体と結びつけ、日常的・政治的な物を展示空間へ持ち込んだ。
「絵を見る」という行為の背後に、街頭で声を上げる身体のイメージが重なる。絵画、政治的表示、日用品の境界が揺れる。
九州派と労働運動を同一視しない
三池争議をはじめとする労働運動は九州派の重要な背景だった。しかし、九州派を労働組合の文化部や統一された左翼美術組織として理解することはできない。
作家によって政治への関わり方は異なり、作品も直接的な労働者像から、抽象、オブジェ、身体、ジェンダーの問題まで多様だった。
社会意識を持つことと、政治的な図像を描くことは同じではない。九州派は、材料選択や展示制度への態度そのものを社会批評へすることがあった。
菊畑茂久馬《奴隷系図》
菊畑茂久馬は1961年から《奴隷系図》シリーズを展開した。福岡市美術館には《奴隷系図(三本の丸太による)》の2016年再制作版があり、国立国際美術館や板橋区立美術館にも1962年のシリーズ作品が所蔵されている。
塗装した木材、金属、陶器、布、石、義歯などを使う作品もあり、単純な抽象絵画の形式から大きく離れている。
題名の「奴隷」という強い言葉は、物の異様な組み合わせと結びつき、社会の権力関係や価値の制度そのものを不穏に連想させる。
作品は「意味」を説明しすぎない
九州派の社会意識を強調すると、すべての作品を政治的メッセージの暗号として読みたくなる。しかし《奴隷系図》の異物や《葬送曲》の黒い物質には、一つの意味へ回収できない不気味さがある。
反芸術の作品は、標語を絵にしたプロパガンダではない。何を意味しているのか確定しないからこそ、見る人が制度や社会との関係を考えさせられる。
政治性と曖昧さは両立する。
1962年、オチ・オサム《出口ナシ》
オチ・オサム《出口ナシ》は1962年の第14回読売アンデパンダン展に出品された。オリジナルは現存せず、2015年にオチ自身と妻の順子によって再制作された作品が東京都現代美術館に所蔵されている。
黒い塗料で覆われた長い木の箱にガラスなどを組み合わせる。福岡市美術館の研究では、身近に入手できる素材を即物的に用い、材料そのものから作品の形を導くオチの態度が注目されている。
九州派の熱いアスファルト絵画とは異なり、《出口ナシ》には静かで閉塞した空間性がある。同じグループ周辺でも「反芸術」の見え方は一つではない。
九州派の作品は、全員同じに見えない
具体には身体と物質という強いイメージがあり、ネオ・ダダには廃材と派手な行動の印象がある。九州派もアスファルトを共通素材のように語られることがある。
しかし実際には、オチ、菊畑、田部、桜井、尾花らの作品はかなり異なる。グループの名称より、個々の制作が先へ進んでいった。
九州派を一つの「様式」として識別しようとすると、その活動の核心を見誤る。共通していたのは形ではなく、既存の美術制度から距離を取ろうとする姿勢だった。
「安い材料」には制度批判が含まれる
アスファルト、ベニヤ、段ボール、工業塗料は、伝統的な美術材料より安価で身近に入手できる場合が多い。
高価なカンヴァスと輸入絵具を使い、美術館で保存されることを前提に作品を作る。この近代美術の経済的条件を外すと、誰が作家になれるかという問題まで変わる。
九州派の材料選択は、貧しさを美化することではない。制作の条件を画壇の高級な物質文化から生活世界へ引き戻す行為だった。
保存しにくい作品を作る
アスファルト、紙、日用品を使う作品は、必ずしも長期保存に適していない。九州派時代の作品には現存しないものも多く、再制作や写真資料によって知られる作品がある。
保存性の低さは、美術館収蔵にとって不利である。しかし当時の作家が最優先したのは、数百年残る美術商品を作ることより、現在の社会へ強い作品を投げ込むことだった。
反芸術は、作品の材料だけでなく「作品は永久保存されるべきだ」という制度的前提も結果的に揺さぶった。
地方性と物質は直接結びつくわけではない
九州派がアスファルトを使ったからといって、それをただちに「炭鉱の九州だから黒い物質を使った」と説明するのは危険である。
三池争議や工業地域の社会環境は重要な背景だが、個々の材料選択には作家ごとの造形的理由がある。地方性を特定の色や素材へ固定すると、作家の実験を地域イメージへ閉じ込めてしまう。
九州派の地域性は、題材の九州らしさより、制作・発表・生活の条件全体に現れている。
具体美術協会との違い
九州派と具体は同じ1950年代に地方都市圏から生まれ、既存画壇と異なる材料や方法を使った点で比較される。
しかし具体は吉原治良という強いリーダーのもとで独創性を求め、野外展や舞台展を組織し、海外へ機関誌を送り、長期的な国際ネットワークを作った。九州派はより流動的で、労働・生活・地方という社会的立場を強く前面へ出した。
似た形式だけで同じ運動にまとめず、どのような社会的・組織的条件から作品が生まれたかを見る必要がある。
ネオ・ダダとの違い
1960年に東京で結成されたネオ・ダダイズム・オルガナイザーズも、廃材、日用品、身体的な行為を使い、「反芸術」の代表として知られる。
九州派はそれ以前から異素材を使い、街頭展と読売アンデパンダンを通して活動していた。ネオ・ダダの地方版として後から生まれたわけではない。
1960年前後の日本では、東京、関西、九州など複数地域で、既存美術の材料と制度への不満が同時多発的に表面化していたと考える方が正確である。
読売アンデパンダンが地域をつなぐ
読売アンデパンダン展は東京で開催されたが、無審査制度によって地方の作家も中央の審査員を通さず出品できた。
九州派の作家にとって、この仕組みは重要だった。地元で制作した作品を東京へ直接持ち込み、具体、ネオ・ダダ、東京の若手作家と同じ会場で見せることができる。
次の記事で詳しく扱う読売アンデパンダンは、東京の前衛展であると同時に、全国の異質な前衛が衝突する接続装置でもあった。
中央批判をしながら、中央の批評を必要とする
地方から独立した美術を掲げても、全国的な美術史へ残るには批評家、新聞、展覧会記録が必要になる。東京の批評家が作品を論じれば知名度が上がり、中央の展覧会へ出れば他地域の作家と比較される。
九州派はこの矛盾を避けられなかった。中央への反発と中央への進出が同時に存在した。
しかし、その矛盾こそ日本の文化制度が東京へ集中していたことの証拠でもある。九州派の活動は、その構造を可視化した。
グループより個人が先へ進む
1960年代に入ると、菊畑茂久馬は《奴隷系図》《ルーレット》へ、オチ・オサムはオブジェから後の球体絵画へ、田部光子はジェンダーと社会を扱う独自の制作へ進んでいく。
九州派という名称は彼らの重要な出発点だが、その後の活動をすべて「九州派様式」と呼ぶことはできない。
優れた前衛グループが、自分のメンバーを永遠に同じスタイルへ縛らないことは、具体や実験工房にも共通する。集団は個人を生み出すための一時的な装置にもなる。
1960年代半ば、活動の形が変わる
九州派の初期メンバーは1960年前後から離脱や別活動を増やし、60年代半ばには各作家の方向が大きく分かれていった。
菊畑茂久馬は一時美術界から距離を置き、オチ・オサムは1960年代後半に渡米経験を経て別の絵画へ進む。田部光子は福岡にとどまり、女性作家の活動や地域の現代美術へ関わり続けた。
グループの名前が弱くなっても、福岡の前衛的な人脈は消えず、別の展覧会と組織へ流れていった。
1969年頃、九州派は実質的に活動を終える
福岡市美術館は、1969年の「第3回九州・現代美術の動向展」の時点で、九州派が実質的に活動を終えていたと説明している。
つまり1957年に始まった九州派は、具体のように正式な解散年を強く持つ組織ではない。分裂、離脱、別グループ、地域展へ徐々に拡散し、境界が消えていった。
この終わり方も、九州派が厳密な組織より地域の前衛ネットワークに近かったことを示している。
九州派の後にも、福岡の前衛は続く
九州派が終息した後も、福岡の現代美術活動は途切れない。1960年代後半には「九州・現代美術の動向展」など、グループの所属を越えた地域展が行われる。
福岡市美術館の記録では、九州派以外のグループの作家や新聞記者も交流し、展覧会を企画していたことが紹介されている。
九州派の最大の遺産の一つは、特定の様式ではなく「福岡で自分たちの現代美術の場を作る」というネットワークだった。
美術館がなかった時代の前衛
現在の福岡市美術館が開館するのは1979年であり、九州派の主要活動期にはまだ存在しなかった。
つまり九州派は、地域の現代美術を継続的に収集・展示する大規模な公立美術館がない状況で、街頭、貸会場、百貨店、新聞社、東京の無審査展などを使って発表場所を作った。
作品だけでなく「どこで見せるか」を自分たちで確保しなければならなかったことが、九州派の自主性を強めた。
後世の美術館が、消えた作品を集め直す
1979年に福岡市美術館が開館すると、地域の戦後美術を調査・収集する作業が始まる。1988年には初の本格的回顧展「九州派展〈反芸術プロジェクト〉」が開催された。
その時点ですでに失われていた作品も多く、元メンバーへの聞き取り、写真、文献、現存作品を組み合わせて歴史を再構成する必要があった。
前衛運動は活動している最中には「保存される歴史」だと思われていないことが多い。後世の美術館が資料を集めて初めて、運動の全体像が見えてくる。
1988年「反芸術プロジェクト」
1988年の福岡市美術館回顧展は、九州派を「反芸術プロジェクト」として位置づけた。これは戦後美術史の中で、読売アンデパンダン、ネオ・ダダなどと並べて九州派を考え直す大きな契機だった。
同時に、回顧展では多数の元メンバーの証言が集められた。作家自身の記憶を通して、公式文書だけでは分からない内部の議論や人間関係も記録された。
九州派の歴史は、残った作品だけでなく、後から語られた証言によっても作られている。
2015年、再び「九州派展」
2015年、福岡市美術館は改めて大規模な「九州派展」を開催し、所蔵品を中心に66点と関連資料を展示した。
展覧会では、「地方」で「前衛」を名乗った作家たちを、戦後という時代と福岡という場所から再検討した。1988年以後に進んだ研究、収集、新しいジェンダー視点も加わり、九州派像は更新された。
前衛運動の評価は一度決まって終わるものではない。時代が変わると、同じ作品から別の問題が見える。
田部光子の再評価が、九州派像を変える
九州派が最初に語られた時、桜井孝身、菊畑茂久馬、オチ・オサムなど男性作家が中心人物として強く記憶された。
しかし田部光子《人工胎盤》や《プラカード》の研究が進むと、九州派の「生活」という理念に、妊娠、出産、女性解放という問題が含まれていたことが見えてきた。
誰を代表作家として選ぶかが変われば、運動全体の意味も変わる。九州派研究は、美術史の書き方そのものが更新される例でもある。
「地方美術」と呼ぶことの危険
九州派を「福岡の地方美術」と呼ぶと、その重要性を地域内の歴史へ限定してしまう危険がある。
一方で「日本戦後美術の前衛」とだけ呼び、福岡という場所を消してしまえば、運動の核心である中央への距離と生活者意識が失われる。
地域性を小さなローカル史へ閉じ込めず、地域から全国・国際美術史を組み替える視点として扱うことが必要である。
東京だけを見れば、日本の前衛史は歪む
読売アンデパンダン、ネオ・ダダ、ハイレッド・センターは東京で展開し、日本の反芸術史の中心として語られやすい。
しかし同じ時代、関西には具体、福岡には九州派があり、それぞれ別の社会条件から既存美術を問い直していた。
戦後日本の前衛は東京から全国へ広がった一本の線ではない。複数の地域が相互に情報を受け取り、東京へ作品を送りながら、それぞれ異なる前衛を作ったネットワークとして見る必要がある。
九州派と「反芸術」の位置
九州派が反芸術史で重要なのは、廃材を使ったからだけではない。美術作品、美術家、展覧会、中央と地方の関係を同時に問い直したからである。
高価な材料を使わない。街頭へ出る。生活と政治を制作から切り離さない。地方から東京の無審査展へ乗り込む。女性の身体経験まで作品へ持ち込む。
反芸術とは「芸術を破壊すること」ではなく、芸術の条件を生活側から再設定することだったと、九州派は示している。
1950–60年代|九州派
九州派は1957年、桜井孝身、オチ・オサムらを中心に福岡で結成された。その前史には1956年の街頭詩画展《ペルソナ》があり、美術館や画廊ではなく都市の壁面へ作品を出す試みがすでに始まっていた。結成後は菊畑茂久馬、田部光子、尾花成春ら多くの作家が加わり、「地方」と「生活」をよりどころに東京中心の美術制度へ対抗した。
作品では、アスファルト、段ボール、ベニヤ、陶片、金属、日用品といった材料が絵画へ侵入する。オチ・オサムは身近な材料からオブジェを作り、菊畑茂久馬は《葬送曲》《奴隷系図》へ進み、田部光子は《人工胎盤》《プラカード》によって女性の身体と社会制度を問題化した。材料と生活経験の両方が、近代美術の「作品にふさわしいもの」という境界を壊していった。
九州派は福岡だけへ閉じず、メンバーは読売アンデパンダン展へ進出した。地方を掲げながら東京へ作品を持ち込む矛盾は、当時の美術制度が東京へ集中していたことそのものを可視化する。1959–60年の三井三池争議など労働運動の高揚も、生活者として前衛を考える彼らの社会的背景となった。ただし全員が同一の政治思想や様式を共有していたわけではなく、1960年前後から脱退と分裂が進み、各作家は別々の方向へ展開した。
1960年代後半には九州派としての活動は実質的に終息するが、福岡の前衛美術ネットワークはその後も続いた。1988年の福岡市美術館「九州派展〈反芸術プロジェクト〉」、2015年の「九州派展」、そして田部光子やオチ・オサム、菊畑茂久馬の再検証によって、その意味は現在も更新されている。九州派が残した最大の問いは、「地方の作家が中央へ追いつくにはどうするか」ではない。「中央で決められた芸術の条件を、地方の生活から作り変えられるか」という問いだった。次の記事では、その九州派の作家たちも作品を送り込んだ「読売アンデパンダン展」へ進み、無審査展がなぜ1950〜60年代の反芸術を爆発させる装置になったのかを詳しく見る。
参考資料
- 福岡市美術館「九州派展」
- 福岡市美術館「オチ・オサム展」
- 福岡市美術館「田部光子展『希望を捨てるわけにはいかない』」
- 福岡市美術館「菊畑茂久馬展」
- 福岡市美術館「菊畑茂久馬回顧展 戦後/絵画」
- 福岡市美術館「『菊畑茂久馬展』ができるまで」
- 福岡市美術館「『オチ・オサム展』記念講演会・担当学芸員によるレポート」
- 福岡市美術館「田部光子展のポスター」
- Art Platform Japan「九州派展〈反芸術プロジェクト〉」
- Art Platform Japan「九州派展〈反芸術プロジェクト〉展覧会カタログ」
- Art Platform Japan「桜井孝身」
- Art Platform Japan「菊畑茂久馬」
- Art Platform Japan「菊畑茂久馬《奴隷系図(三本の丸太による)》」
- Art Platform Japan「田部光子《人工胎盤》」
- Art Platform Japan「オチ・オサム《出口ナシ》」
- 国立美術館所蔵作品検索「菊畑茂久馬 作家解説」
資料確認日:2026年10月2日