15–16世紀
狩野派の成立
絵師集団と権力
一人の画家ではなく、「流派」が日本絵画を支配する
15世紀後半、日本の絵画史に新しいタイプの制作組織が現れた。狩野派である。京都国立博物館は、狩野派を室町時代中頃から江戸時代末まで約400年にわたって画壇の中心にあり続けた絵師集団と説明している。初代・狩野正信が室町幕府の御用絵師となって基礎を築き、二代・狩野元信の時代に流派としての体制が確立した。
これまで見てきた雪舟のような画家を考えるとき、作品と一人の作者を結びつけることが比較的容易だった。しかし狩野派では、同じ姓を持つ画家、弟子、工房、分家が世代を越えて活動する。巨大な障壁画の注文を受ければ、一人の画家がすべてを描くのではなく、複数の絵師が共通する様式に従って分担する。
狩野派の歴史で重要なのは、優れた作品を残したことだけではない。「絵師の技術を家と工房へ蓄積し、弟子へ教え、大量の注文へ同じ品質で対応する」という制度を作り上げたことである。個人の才能を流派の技術へ変換する。その仕組みが、狩野派を一時的な流行ではなく、数百年続く組織にした。
狩野正信 — 室町幕府の御用絵師になる
狩野派の始祖とされる狩野正信は、15世紀に活動した画家である。e国宝は、正信を小栗宗湛の後を継いで室町幕府第8代将軍・足利義政の御用絵師となり、幕府が関与する絵画制作を中心に活躍した人物として紹介している。
「御用絵師」とは、単に将軍が気に入った画家という意味ではない。幕府や将軍家から依頼される肖像、障壁画、仏画、山水画などに対応する専門家として、政治権力の近くで継続的に仕事を受ける立場である。正信は足利将軍家が所蔵する中国絵画を見ることができ、そのコレクションを自らの制作に利用した。
この環境は画家にとって非常に大きい。南宋・元の名画を直接見ることのできる場所は限られていた。足利将軍家のコレクション、後に「東山御物」と呼ばれる中国美術群へ接近できれば、馬遠、夏珪、牧谿などの作品を学ぶ機会を得られる。
正信の出発点には、個人的な才能だけでなく、「権力者が集めた美術コレクションへアクセスできる」という制度的な優位があった。
《周茂叔愛蓮図》— 中国画を「筆様」として学ぶ
狩野正信の代表作であり、正信作品として唯一の国宝が《周茂叔愛蓮図》である。e国宝によれば、北宋の儒学者・周茂叔が蓮を愛でる故事を描いた15世紀の水墨画で、画面右下の「正信」印によって作者が確認できる。
この作品では、中国・南宋の宮廷画家、馬遠の様式が明確に参照されている。e国宝は、図様の近い中国絵画の模本が存在することから、正信が足利将軍家所蔵の南宋院体画などを学び、その成果を生かしたと説明している。
室町時代には、特定の中国画家の作風を「筆様」として学び、模倣する方法が広く行われた。馬遠なら馬遠らしい山、岩、樹木、人物配置を学び、夏珪なら夏珪らしい構図を学ぶ。一人の画家が複数の筆様を使い分けることも可能だった。
現代の作家観では、一人の画家が「自分だけのスタイル」を持つことが重要視される。しかし初期狩野派では、複数の権威あるスタイルを正確に使えること自体が専門性だった。注文に応じて必要な画風を出せることが、御用絵師の価値になる。
中国絵画を学ぶことが、幕府の文化になる
足利将軍家は、中国からもたらされた絵画、書、陶磁器などを収集し、鑑賞した。正信がその環境で制作したことは、狩野派の初期様式を強く方向づけた。
九州国立博物館所蔵の正信《山水図》も、南宋の馬遠様式を学んだ作品である。e国宝は、同図のモチーフや構成に、足利将軍家の中国絵画コレクションから学んだ表現が認められると説明している。
重要なのは、「中国風の絵を描く」ことが単なる外国趣味ではなかったことである。中国絵画を理解し、適切な様式で描けることは、将軍家の国際的・文化的権威を支える技能だった。正信は、中国美術を模倣する専門家であると同時に、その知識を幕府の視覚文化へ翻訳する役割を担った。
正信は禅僧ではない
水墨画が禅宗とともに発達したため、初期狩野派も禅僧画家の延長として見えやすい。しかし、正信は禅僧ではなく、世俗の職業絵師だった。メトロポリタン美術館も、正信自身は禅の僧侶ではない一方、有力な禅寺と密接な関係を持ち、中国風絵画を取り入れたと説明している。
この違いは大きい。水墨画が禅院内部の文化から、専門絵師の職業へ移り始めている。禅僧が自らの宗教文化の中で描く絵と、注文に応じてさまざまな主題を描く職業絵師の絵では、制作の仕組みが異なる。
狩野派は禅宗水墨画から多くを学んだが、禅宗のためだけに描く集団ではない。幕府、寺院、公家、武家など、異なる顧客へ対応することで成長した。
絵を描くことが「家業」になる
狩野派の画期的な点の一つは、絵画制作を世代を越えて継続する家業として組織したことである。正信の子・元信が二代目となり、その子や孫、弟子たちへ技術が伝えられていく。
もちろん、それ以前にも仏師の慶派や、やまと絵の土佐派のような世襲的な制作集団は存在した。狩野派だけが初めて家業を作ったわけではない。しかし狩野派は、中国風水墨画を中心に出発しながら、後にやまと絵的な彩色、障壁画、絵巻、扇面などまで広げ、非常に多くの需要へ応えられる総合的な絵画工房へ発展した。
一人の画家が死亡しても工房が終わらない。子や弟子が名前と技術、人脈を継ぐ。これによって顧客側も「狩野派に頼めば一定水準の作品が得られる」という信頼を持つことができる。
芸術家の名声が個人ではなくブランドとして継続する仕組みが、ここで強くなる。
二代・狩野元信 — 流派を「経営」する
正信が基礎を築いた狩野派を、本格的な制作組織へ成長させたのが息子の狩野元信である。京都国立博物館は、元信の時代に流派の体制が確立され、平明で端正な画風、広いジャンルへの対応力、多くの弟子による機動力が狩野派繁栄の要因になったと説明している。
元信の重要性は、優れた画家であったことだけではない。多くの弟子が同じ仕事を分担できるように、画法を整理し、工房全体へ共有したことである。巨大な方丈や御殿の障壁画を短期間で完成させるには、親方一人の技術だけでは足りない。
誰がどの部屋を担当しても、全体が一つの狩野派作品として見える必要がある。そのためには、山、樹木、人物、鳥、岩の描き方をある程度体系化し、弟子へ教えなければならない。
元信は、画家であると同時に、教育者、工房監督者、注文を獲得する経営者でもあった。
真・行・草 — 画風を使い分ける仕組み
元信は水墨画の描法を「真・行・草」の画体として体系化したことで知られる。京都国立博物館は、妙心寺霊雲院の障壁画で、元信が創始した真・行・草の各種画体が部屋ごとに使い分けられていると説明している。
この名称は書の真書・行書・草書を思わせる。絵画でも、細部まで明確に構築する硬質な描法から、より簡略で柔らかな筆法まで、表現の密度を段階化して考えることができる。
これは個人的な気分による描き分けではなく、工房教育にとって非常に便利な仕組みである。弟子に「この部屋は真体、この画面は行体」という共通言語を与えれば、複数の人間が同じ方向で制作できる。
画風が、個人の感覚から共有可能な規則へ変換されている。狩野派の強さは、まさにこの「教えることのできる様式」にあった。
一人の個性から、再現可能なスタイルへ
雪舟の画風を完全に再現するには、雪舟本人の身体感覚を学ばなければならない。しかし工房が数十人規模になると、「親方と同じ感覚を持て」と教えるだけでは生産できない。必要なのは、構図、筆法、図様のルールである。
狩野派では、優れた先行作品を模写し、特定の中国画家の筆様を学び、さらに真・行・草などの画体を使い分けることで、技術を標準化していく。標準化といっても、現代の機械生産のように完全に同一にするわけではない。一定の幅の中で「狩野派らしい」と認識できる作品を作る。
この仕組みは、巨大な注文を受けるために不可欠だった。流派が大きくなるほど、作者個人の手よりも「狩野派の様式」が商品の品質を保証するようになる。
1513年、大仙院《四季花鳥図》— 水墨画が建築を覆う
元信の代表作として特に重要なのが、大徳寺大仙院の重要文化財《四季花鳥図》である。京都国立博物館によれば、永正10年、1513年、大仙院本堂の方丈を飾った障壁画群の一部で、現在は掛幅に改装されている。
8面の画面には、右から左へ四季が展開する。松の巨木、瀑布、岩、水景とともに、鳥や花が前景へ配置される。中国・明の山水画や花鳥画を参照しながら、横へ連続する日本の襖という大画面形式に合わせて構図が最適化されていると京都国立博物館は説明している。
ここで重要なのは、掛幅の水墨画と障壁画の違いである。掛幅は一枚の画面として鑑賞するが、襖は建築の一部であり、人がその前を歩き、開閉する。画面は一つの壁に固定されず、部屋の構造そのものを作る。
元信は、中国絵画の筆法を、日本建築の大画面へ適応させた。その変換が、後の桃山時代に狩野永徳が城郭を巨大な絵画で覆うための基礎になる。
中国の山水を、日本の襖へ移す
大仙院《四季花鳥図》の山水は、中国絵画に由来するモチーフを多く持つ。しかし画面の形は中国の掛幅とは異なり、日本の建築に組み込まれた横長の襖である。
襖が何面も連続すれば、一本の松を一面だけで完結させる必要はない。幹を複数面にまたがらせ、滝から流れる水を隣の画面へ続けることができる。建築の壁面全体を一つの風景として扱える。
ここで中国画の模倣は、そのままのコピーではなくなる。中国の筆法、山水モチーフ、花鳥表現を、日本の建築寸法と鑑賞動線へ合わせて作り直す必要がある。
狩野派の「和漢融合」は、単に中国風の山へ日本風の花を加えることではない。異なる絵画形式を、建築空間の中で再設計することでもあった。
水墨と色彩を両方使えること
初期狩野派は水墨画から出発したが、元信の時代には色彩表現も重要になる。大仙院《四季花鳥図》は紙本著色であり、墨だけではなく明るい色が使われている。
メトロポリタン美術館は、元信が中国絵画に由来する墨と筆の表現へ、日本の装飾的な色彩やパターンを組み合わせ、狩野派のレパートリーを拡大したと説明している。京都国立博物館も狩野派を「和漢兼帯」、すなわち水墨中心の漢画と、濃彩や金泥を用いるやまと絵を融合した流派と説明している。
この柔軟性は商業的にも強い。禅寺には水墨の山水を描き、華やかな祝祭空間には色彩豊かな花鳥を描き、物語絵や絵巻にも対応する。顧客が変わっても仕事を断らなくてよい。
一つの様式だけに純化するのではなく、複数の様式を工房内へ持っていることが、狩野派を長く存続させる最大の武器になる。
やまと絵を吸収する
京都国立博物館は、狩野派が「和漢兼帯」によって、やまと絵の技法を使うことが一般的だった絵巻制作まで手掛けるようになったと説明している。元信筆と考えられる《釈迦堂縁起》はその重要な例である。
初代正信の段階では、中国絵画を学んだ漢画系の職業絵師としての性格が強かった。二代元信の工房では、そこへやまと絵の色彩、物語表現、人物描写を取り込むことで、仕事の種類が拡張する。
この「何でも描ける」ことは、芸術的な純粋性がないという意味ではない。むしろ異なる視覚言語を用途ごとに切り替え、時には一つの画面で統合する高度な専門性である。
狩野派は漢画かやまと絵かという二者択一を避け、その両方を制作組織の内部へ吸収した。
土佐派との違い
室町時代には、宮廷のやまと絵を担う土佐派も重要な制作集団だった。京都国立博物館は、土佐派が宮廷の画事をほぼ独占する一方、狩野派は主に武家の御用絵師として繁栄したと整理している。
ただし、両派を「土佐派=日本的、狩野派=中国的」と完全に分けることはできない。狩野派はやまと絵を吸収し、土佐派も時代の影響を受ける。実際の制作現場では、異なる伝統が相互に接触していた。
重要なのは、狩野派が自分たちの出発点である漢画を守るだけでなく、競合するやまと絵系統の技術まで内部化したことである。競争相手の強みを取り込むことで、注文市場を広げた。
狩野派は「スタイル」より先に、仕事を取る仕組みを作った
美術史では、画家の様式や作品の革新性に注目しやすい。しかし狩野派の成功を説明するには、仕事を獲得する仕組みを見る必要がある。
正信は足利義政の御用絵師となり、将軍家との関係を築いた。元信はその人脈を引き継ぎながら、寺院、公家、武家へ顧客を広げた。京都国立博物館の霊雲院障壁画の記録では、後奈良天皇が元信を好み、宮中へ呼んで屏風を描かせたことも知られている。
優れた作品を作ることと、次の注文を得ることは別の能力である。元信は両方を持っていた。大量の注文を処理できる工房を作りながら、権力者や寺院との関係を維持する。
狩野派の歴史では、絵画制作と経営を分離できない。
1543年、霊雲院 — 49面を工房で描く
元信晩年の工房体制をよく示すのが、妙心寺霊雲院の障壁画である。京都国立博物館によれば、天文12年、1543年、後奈良天皇の行幸を迎えるため方丈が大規模改装され、住持・大休宗休が元信とその一派へ障壁画制作を依頼した。
障壁画は総計49面に及び、花鳥、山水、人物が描き分けられ、元信が整備した真・行・草の各画体が部屋ごとに用いられている。
49面を一人で同時に描くことは現実的ではない。「元信とその一派」という表現が示す通り、工房全体で制作した。親方が構想を決め、重要部分を担当し、弟子が各面を分担し、最後に全体を調整するような制作が必要だったと考えられる。
ここまで来ると、「作品の作者は誰か」という近代的な質問は難しくなる。元信の手がどこまで入ったかより、「元信工房として統一された空間を作った」という事実が重要になる。
部屋ごとに絵を変える
障壁画では、建物のすべての部屋に同じ絵を描けばよいわけではない。儀礼に使う部屋、客を迎える部屋、私的な部屋では求められる格や雰囲気が異なる。
霊雲院で真・行・草の画体を部屋ごとに使い分けたことは、狩野派が建築空間全体を設計対象として考えていたことを示す。重要な部屋にはより格式ある画体を使い、別の空間では柔らかな表現を使う。
絵画は壁へ後から飾る装飾ではない。どの部屋をどう見せるかという建築の序列と一体になる。後の城郭障壁画では、この考え方がさらに巨大化していく。
掛幅から屏風、襖、扇、絵巻まで
狩野派が長く繁栄できた理由の一つは、画面形式の幅広さにもある。掛幅の山水だけなら市場は限られる。しかし屏風、襖、壁貼付、扇面、絵巻、肖像、仏画まで対応できれば、寺院、将軍家、公家、大名のさまざまな需要へ応えられる。
メトロポリタン美術館所蔵の元信《琴棋書画図屏風》は、中国文人の教養とされた琴、囲碁、書、絵を大画面屏風へ展開した作品である。同館は、元信が中国絵画で学んだ小画面の構図や筆法を、大型の屏風や障壁画へ適応させたことを大きな功績の一つとしている。
サイズが変われば、単純に拡大するだけでは成立しない。小さな扇面では一本の枝で十分でも、数メートルの屏風では画面全体の重心を支える巨木が必要になる。狩野派は、主題だけでなくスケールの変換にも対応した。
「図様」を蓄積する
巨大工房が継続して注文へ対応するには、毎回ゼロから構図を考えていては効率が悪い。そこで重要になるのが、過去の作品や中国画の構図、人物、樹木、動物などの図様を記録し、繰り返し利用することである。
室町時代の筆様学習も、その基礎になる。馬遠様の山、夏珪様の岩、牧谿的な人物といったパターンを知っていれば、注文に応じて組み合わせられる。
後世の狩野派では粉本、すなわち手本や下絵の蓄積が教育の中心となる。この体系が完全に整うのは江戸時代だが、その原型は正信・元信期の工房と中国画学習に見ることができる。
狩野派の技術は、一人の身体から別の身体へ口頭だけで伝わるのではない。画像そのものを保存し、次の制作へ使うアーカイブとして継承される。
模倣は、工房を支える知識になる
正信《周茂叔愛蓮図》が馬遠様を学んだように、狩野派は模倣を高度な学習方法として利用した。重要なのは、模倣が最終目的ではないことである。
一つの中国画を忠実に写せれば、その構図、筆順、空間構成を身体で理解できる。その学んだ部品を別の画面へ利用すれば、新しい作品を効率的に組み立てられる。
模写はコピーの制作であると同時に、絵画の構造を解析する行為でもある。狩野派では、その解析結果が工房共有の知識へ変わる。だから一人の画家が亡くなっても技術が消えにくい。
権力に近いことは、表現を制限するのか
御用絵師という言葉から、権力者の要求に従うだけの画家という印象を持つかもしれない。確かに注文制作では、主題、サイズ、設置場所、期限など多くの条件が依頼者によって決まる。
しかし、その制約があるからこそ新しい技術が必要になることもある。巨大な方丈全体を短期間で飾るという注文がなければ、工房による大規模障壁画制作の技術は発達しにくい。複数の身分の顧客から異なる主題を求められなければ、和漢兼帯の広いレパートリーも必要にならない。
狩野派では、権力との関係が制作を縛ると同時に、大きな仕事、優れた材料、重要な中国美術へアクセスする機会を与えた。制約と資源の両方をもたらしたのである。
狩野派は「芸術家集団」だったのか
現代の「アーティスト集団」と狩野派を同一視することはできない。狩野派は、共同の思想を宣言して集まった前衛集団ではなく、家系、師弟、工房、顧客を基盤とする職能組織だった。
仕事の多くは注文制作であり、建物の用途や依頼者の要望に従う。弟子は自由な個性を最初から伸ばすのではなく、まず師の技術を学び、流派の様式を再現できるよう訓練された。
それでも、狩野派の画家が単なる匿名職人だったわけではない。正信、元信、永徳、探幽など、各世代には強い個性を持つ画家が現れる。重要なのは、「個性か組織か」という二者択一ではなく、組織の中から個性が生まれ、その個性が次の世代には組織の標準へ変わる循環である。
元信の個性が、後には「狩野派らしさ」になる
1513年の大仙院《四季花鳥図》は、当時は元信の革新的な大画面表現だった。しかし、その構図、樹木、岩、花鳥の組み合わせが後の世代へ受け継がれれば、「狩野派らしい」表現として規範化される。
革新は一度成功すると伝統になる。次の世代は、その伝統を学び、さらに変形する。狩野永徳は元信の大画面構成をさらに巨大化し、金地を用いた桃山障壁画へ展開する。
つまり流派の歴史では、「新しい表現」と「古い伝統」が固定した二項ではない。昨日の革新が今日の教科書になる。狩野派はそのサイクルを数世紀繰り返すことのできた組織だった。
15世紀末から16世紀へ — 政治が不安定でも工房は成長する
正信が活動した15世紀後半から元信の16世紀前半にかけて、日本は応仁・文明の乱や戦国期の政治的混乱へ入る。室町幕府の権力は弱まり、京都も大きな被害を受けた。
一見すると、幕府御用絵師として成立した狩野派には不利な状況に見える。しかし元信は将軍家だけに依存せず、寺院、公家、有力武家などへ顧客を広げた。政治権力が一極集中しなくなることは、別の注文主が増えることでもある。
狩野派の柔軟な画法と工房組織は、この不安定な時代へ適応した。どの権力者が優勢になっても、大画面装飾を必要とする寺院や邸宅は存在する。狩野派は一つの政権へ忠誠を固定するより、絵画技術そのものを需要へ接続することで生き残った。
権力者が変わっても、狩野派は残る
狩野派の驚異的な長寿を考えるとき、これは重要である。室町幕府、戦国大名、織田信長、豊臣秀吉、徳川幕府と、政治の中心は何度も変わった。それでも狩野派はそのたびに有力な権力者との関係を再構築した。
これは「権力に迎合した」という評価だけでは説明できない。政治秩序が変わるたびに、城、御殿、寺院という新しい建築が作られ、その内部を飾る大量の絵が必要になった。狩野派はその需要へ応えられる最大規模の専門組織だった。
絵師の家を継ぎ、弟子を育て、技法と図様を保存し、大量の制作を組織する能力そのものが、政治変動への耐久力になった。
狩野派の「権威」は作品だけから生まれない
狩野派が有力者の仕事を繰り返し受けると、「権力者が使う流派」という事実自体が新たな権威になる。将軍の御所を描いた画家なら、寺院や大名もその画家へ依頼したくなる。重要な建築を手掛けるほど実績が増え、次の仕事が入りやすくなる。
こうして作品の質、権力者との関係、工房の生産力が相互に強化される。狩野派は単に絵が上手かったから400年続いたのではない。技術、ブランド、人脈、教育、注文管理という複数の仕組みを一体化したから続いた。
美術史における「作者」の見方を変える
狩野派の作品を見るとき、「この部分を元信本人が描いたのか」という問いは重要である。しかし、それだけでは巨大工房の本質を捉えられない。
元信が構図を決め、弟子が描き、別の絵師が仕上げた場合、その作品は誰のものなのか。現代の美術市場では作者名が価格を左右するため、この問題は非常に重要になる。一方、中世の注文主にとっては、「元信工房の仕事」であることが十分な品質保証だった可能性がある。
巨大建築や映画のように、多人数で作る表現では作者を一人へ還元できない。狩野派の障壁画も、個人作品としてだけでなく、組織による制作物として見る必要がある。
「狩野派」というブランドの成立
正信から元信への移行で起きた最も大きな変化は、優れた画家の家が、再現可能な制作システムになったことだった。
正信は足利義政の御用絵師として幕府の中国美術コレクションから学び、漢画系の職業絵師として高い地位を得た。元信はその技法を真・行・草の画体へ整理し、やまと絵的な色彩と物語表現を取り込み、屏風、襖、絵巻などへ仕事を広げた。そして多くの弟子を組織し、大画面を分業で完成させる工房を作った。
その結果、「正信に描いてほしい」「元信に描いてほしい」という個人的な注文から、「狩野派に任せればよい」という組織への信頼が生まれる。これがブランドの成立である。
ブランド化は芸術性の低下を意味しない。むしろ、巨大な城や寺院を統一した視覚世界で覆うためには、個人以上の制作力が必要になる。後の狩野永徳や狩野探幽は、この組織基盤を使って、それぞれの時代に新しい様式を生み出す。
狩野派成立の意味
15~16世紀の狩野派成立は、日本絵画の内容だけでなく、制作の社会構造を変えた。中国絵画の筆法を学ぶ画僧的な文化から出発しながら、それを世俗の職業絵師の技術へ変え、幕府、寺院、公家、武家の注文へ対応する大規模工房を作った。
正信《周茂叔愛蓮図》では、足利将軍家が所有する南宋絵画を「馬遠様」として学ぶ方法が見える。元信《四季花鳥図》では、その中国絵画の語彙が日本建築の襖へ合わせて再設計され、水墨と彩色、花鳥と山水が統合される。霊雲院では、49面に及ぶ障壁画を一派で制作し、真・行・草を部屋ごとに使い分けるまで工房システムが成熟する。
ここで成立したのは、一つの画風だけではない。中国画とやまと絵、個人と集団、創造と模倣、芸術と経営、絵画と建築を同時に扱える制度だった。
だから狩野派は、室町幕府が衰退しても消えなかった。16世紀後半には元信の孫・狩野永徳が織田信長や豊臣秀吉の巨大城郭を飾り、17世紀には狩野探幽を中心とする江戸狩野が徳川幕府の公式絵師組織へ再編される。正信と元信の時代に作られた「絵師集団と権力」の仕組みが、その後の日本絵画を数世紀にわたり規定することになる。
次の記事では、同じ15世紀の東山文化へ視点を移す。足利義政の東山山荘、銀閣、書院、唐物、水墨画、庭、茶がどのように一つの鑑賞空間へ組み合わされ、室町時代の美術を見る場所そのものが変化していったのかを詳しく見ていく。
参考資料
- 京都国立博物館「初期狩野派」
- 京都国立博物館「京博寄託の名宝―初期狩野派の名作―」
- e国宝「国宝 周茂叔愛蓮図 狩野正信筆」
- e国宝「重要文化財 山水図 狩野正信筆」
- 東京国立博物館「禅と水墨画―鎌倉~室町」
- 京都国立博物館「重要文化財 四季花鳥図 狩野元信筆」
- 京都国立博物館「霊雲院の障壁画―狩野元信晩年期の名作―」
- 京都国立博物館「狩野派と絵巻」
- 京都国立博物館「土佐光起と近世のやまと絵」
- The Metropolitan Museum of Art「The Kano School of Painting」
- The Metropolitan Museum of Art「The Four Accomplishments, Kano Motonobu」
資料確認日:2026年10月1日