Art Library

9–10世紀

和様化する美術

唐から日本へ

「唐から日本へ」は、外来文化を捨てたという意味ではない

9世紀から10世紀の日本美術を説明するとき、「唐風文化から国風文化へ」「大陸文化から日本独自の文化へ」という言い方がよく使われる。確かにこの時期、書、絵画、文学、仏像、服飾、調度などの多くの領域で、それまでの唐文化を直接的な規範とする表現から、日本の宮廷社会や宗教実践に合わせた表現へと変化していった。しかし、この変化を「中国文化の模倣をやめ、日本独自の文化が突然生まれた」と理解するのは正確ではない。

東京国立博物館は、日本の書が中国書法の影響を受けながら発展し、遣唐使停止の頃から国風文化が広まり、平安時代中期に和様の書が成立したと説明している。一方で同館は、遣唐使が停止した後も、中国や朝鮮半島との貿易を中心とした経済・文化交流が盛んに続いたことも指摘している。つまり、9~10世紀の変化とは「外との交流がなくなった結果」ではなく、すでに受け取った大陸文化を選択し、変形し、日本の社会の中で使い直す段階へ進んだことだった。

「和様化」という言葉は、外国的なものが日本的なものへ置き換わる単純な二者択一ではない。唐から伝わった文字や仏教、図像、建築、制度、技術を前提としながら、それを宮廷貴族の生活、和歌、日本の風景、神祇信仰、国内の工房や材料に適応させる。その長い翻訳の過程を指す言葉として捉える必要がある。

894年の遣唐使停止は「国風文化の開始日」ではない

894年、遣唐大使に任命されていた菅原道真は、唐の政情などを理由に遣使の再検討を建議した。文化庁は道真について、寛平6年(894)の遣唐大使任命時に、唐の政情不安を踏まえて遣使の再検討を建議した人物として紹介している。その後、日本から唐へ公式の遣唐使が派遣されることはなく、907年には唐王朝そのものが滅亡した。

この894年という年は、日本文化史の転換点として覚えやすい。しかし、文化の変化が一日で起きるわけではない。遣唐使停止以前から日本列島では大陸文化の受容と変形が進んでおり、停止後も中国や朝鮮半島との交易、人の移動、仏教界の交流は続いた。公式使節がなくなったことと、海外との文化的な接触がなくなったことは同じではない。

むしろ重要なのは、唐を唯一の最新モデルとして国家全体が大規模に学びに行く時代から、すでに蓄積された知識と技術を国内で展開しながら、必要なものを別の経路でも受け取る時代へ移ったことである。和様化は「孤立」ではなく、受容の方法が変わった結果だった。

9世紀の仏像 — 木そのものの力を前面に出す

9世紀の彫刻を見ると、奈良時代の乾漆像や塑像とは異なる、木彫ならではの強い量感が目立つ。平安初期には、一体の像の頭部から胴体を一本の木から彫り出す一木造が広く用いられた。前の記事で見た東寺講堂の密教彫刻も、その大きな流れの中にある。

神護寺の国宝《薬師如来立像》は、この時期の木彫の力強さをよく示す作品である。神護寺は、鋭い眼差し、太い鼻、引き締めた口元、腰以下を強調した重量感を特徴として紹介している。柔らかく理想化された身体というより、木材の塊そのものから強い存在が立ち上がるような造形である。

木という素材には方向性がある。木目が走り、節があり、乾燥によって割れる。一木から大きな像を彫るには、その素材の抵抗を受けながら形を決めていかなければならない。平安初期の仏像に見られる太い身体や深い彫りは、単なる様式ではなく、木材という物質を直接彫る制作方法とも関係している。

外来の図像が、日本の木彫へ変わる

この時期の仏像は、すでに「日本的」な形だけを追求していたわけではない。奈良国立博物館の重要文化財《如意輪観音坐像》は9~10世紀の作で、カヤ材の一木造。連なる眉、切れ長の眼などにはインド的・西域的な図像の影響が指摘され、着衣にも西域由来の表現との関係が見られる。

しかし、その像は大陸から完成品として運ばれたものではない。日本の木材から彫り出され、日本の工房の技術によって制作されている。図像の源流は遠方にありながら、物質としての像は日本列島で生まれる。ここに9~10世紀の「和様化」を考える重要な手がかりがある。

外来文化を受け入れることと、独自の造形を作ることは対立しない。むしろ、外から来た図像や思想を、利用できる素材、職人の技術、信仰の場に合わせて作り直すことによって、新しい地域的な表現が生まれる。日本美術の形成は、純粋な起源を探すことよりも、この変換の過程を見る方が理解しやすい。

888年、仁和寺阿弥陀三尊像 — 厳しさから穏やかさへ

9世紀末には、平安初期の重厚な木彫とは少し異なる方向も現れ始める。仁和寺の国宝《阿弥陀三尊像》は、仁和4年(888)の仁和寺創建時の本尊として制作された。仁和寺は中尊の阿弥陀如来坐像について、一木造でありながら、像がかもし出す和らいだ雰囲気は、平安彫刻が次第に和様式へ向かう出発点の一つと説明している。

この阿弥陀如来は、腹前で定印を結ぶ現存最古の阿弥陀像としても知られている。奈良国立博物館には、同じく9世紀の一木造阿弥陀如来坐像があり、同館は888年の仁和寺像や896年の清凉寺像との関係を指摘している。9世紀末には、阿弥陀如来を一定の姿で造る新しい流れが形成されつつあったことがわかる。

この変化を「怖い仏像から優しい仏像になった」とだけ説明するのは単純すぎる。密教の忿怒尊や強い量感を持つ像はその後も作られ続ける。一方で、阿弥陀信仰の広がりや宮廷社会の美意識に対応し、穏やかで均衡のとれた身体を持つ仏像も求められるようになった。複数の美意識が並行して存在するようになったのである。

10世紀、彫刻は次の制作システムへ向かう

10世紀の彫刻には、平安初期の一木造の伝統を残しながら、後の定朝様へつながる変化が現れる。奈良国立博物館の《聖観音立像》は10世紀の一木造で、面幅の広い顔や密教彫刻の系譜を残しながら、細身の身体や整理された衣文には次代へつながる要素が認められる。

制作技術にも変化が起きた。東京国立博物館は、10世紀後半になると、像の身体の中心部に複数の木材を用いる初期の寄木造が現れたと説明している。大きな仏像を一本の木から彫るには巨大な材木が必要であり、作業を複数人で分担しにくい。複数の材を組み合わせれば、部材ごとに制作を進めることができ、巨大像をより効率的に制作できる。

この技術は11世紀の定朝によって大成されるが、その準備は10世紀の段階ですでに始まっていた。つまり「和様化」は見た目の変化だけではない。工房の組織や制作工程、木材の利用方法まで変化し、それが次の時代の仏像の姿を可能にした。

神を人の姿で表す — 神像の成立

9~10世紀には、仏教美術とは別の重要な変化も起こる。日本の神々を人の姿として表す神像が本格的に作られるようになることである。古代の神祇信仰では、山、岩、樹木などが神の依代となり、神そのものを人間の形に固定して表すことは必ずしも一般的ではなかった。

しかし仏教との接触が深まり、神と仏を関連づける神仏習合が進むと、神々も仏像と同じように木彫像として表されるようになる。奈良国立博物館の展覧会「神仏習合」では、9世紀の女神坐像や男神坐像、889~898年頃の薬師寺《八幡三神坐像》などが、初期の神像を示す重要な作例として紹介されている。

とくに僧形八幡神は興味深い。日本の神である八幡神が、剃髪した僧侶の姿で表されるからである。「神」と「仏教」という二つの異なる体系を分離するのではなく、一つの身体の中で重ね合わせる。これは、外来宗教である仏教が日本の在来信仰と結びつく過程を、造形として直接見ることのできる例である。

和様化とは、唐風のデザインを日本風に変えるだけではなかった。仏教という外から来た思想を、日本に存在していた神の信仰と組み合わせ、新しい像のカテゴリーを作ることでもあった。

漢字から仮名へ — 文字の形そのものが変わる

9~10世紀の変化の中で、もっとも長期的な影響を持ったものの一つが仮名の成立である。日本にはもともと独自の文字体系がなく、中国から伝わった漢字を用いて日本語を書いていた。やがて漢字の音を利用する万葉仮名が使われ、その草書化・簡略化の中から草仮名や平仮名が形成されていく。

東京国立博物館は、平安時代中期に社会制度や文化の和風化が進むなかで、草書体を基に草仮名が生まれ、さらにさまざまな仮名が成立したと説明している。仮名は単に「漢字を簡単に書いたもの」ではない。日本語の音と文法に合うように文字体系そのものを組み替えた結果である。

ここでも外来文化と独自文化の関係は連続している。仮名は漢字を捨ててゼロから作った文字ではなく、漢字を素材として変形させた文字である。中国由来の文字を、日本語を書くための新しい形へ変換する。これは9~10世紀の文化全体で起きていたことを象徴している。

和様の書 — 書き方の「正しさ」から美意識へ

仮名の成立と並行して、漢字を書く書法にも変化が起こった。唐風の力強く規範的な書に対し、曲線を多く含み、柔らかく流れるような筆致を持つ「和様の書」が形成されていく。

東京国立博物館は、小野道風、藤原佐理、藤原行成を「三跡」と呼び、平安時代中期の和様の書を代表する人物としている。小野道風は和様の祖とされ、927年の国宝《円珍贈法印大和尚位並智証大師諡号勅書》には、豊かな筆致の中に新しい書風が見られる。藤原佐理を経て、10世紀末から11世紀初頭の藤原行成の時代に典麗な和様の書が完成していく。

書は文字の内容だけを伝えるものではない。線の太さ、筆の速度、文字間の余白、紙の上での配置そのものが鑑賞の対象となる。宮廷社会では手紙や和歌を書くことが人間関係の一部でもあり、どのような筆跡で書くかは教養や人格の表現と結びついた。

のちには色紙や装飾された料紙と仮名の線が組み合わされ、日本独自の書の空間が発達する。文字は情報を載せるための透明な媒体ではなく、紙面を構成する視覚的な形へ変わっていった。

905年『古今和歌集』 — 日本語が宮廷文化の中心へ入る

10世紀初頭の重要な出来事が、最初の勅撰和歌集《古今和歌集》の成立である。国文学研究資料館によれば、《古今和歌集》は醍醐天皇の命によって紀友則、紀貫之らが撰し、延喜5年(905)頃に成立した。約1100首を収め、以後の和歌の規範となった。

奈良・平安初期の宮廷では、漢詩文が公的教養として非常に高い位置を占めていた。10世紀になると和歌が公的な文学としての地位を高め、歌合などの宮廷文化と結びついていく。ここで日本語を仮名で書くことと、日本語による詩を宮廷文化の中心に置くことが重なっていく。

この変化は美術にも影響する。和歌は季節、植物、月、雪、恋、別れといった主題を繰り返し扱い、それらはのちのやまと絵、屏風、絵巻、料紙装飾の主題や美意識とも深く結びつく。言葉の世界で整えられた「春」「秋」「山里」「月」といったイメージが、視覚文化の中でも共有されるようになる。

やまと絵の成立 — 「日本の風景」を描くということ

平安時代前期には、やまと絵と呼ばれる絵画の領域が成立したと考えられている。東京国立博物館は、やまと絵が平安時代前期に成立し、中国由来の唐絵や漢画との交渉を繰り返しながら独自の発展を遂げたと説明している。

やまと絵は単純に「日本人が描いた絵」という意味ではない。中国的な主題や風景を扱う唐絵に対して、日本の四季、名所、年中行事、物語などを描く絵画が区別されるようになったことが重要である。つまり、何を描くかという主題の選択が変化した。

この時期のやまと絵の現存作は非常に限られており、10世紀の絵画を現在の作品だけから詳細に復元することは難しい。それでも文献からは、宮廷の屏風や障子に日本の風景や季節の景物が描かれていたことがわかる。のちの《源氏物語絵巻》や多くの絵巻に発展する視覚文化は、この宮廷的な絵画環境の中で形成されていった。

重要なのは、やまと絵も中国絵画から完全に切り離されて生まれたわけではないことである。絵画材料や技法、画面構成の基礎には大陸文化との長い交流がある。その上で、日本の文学や生活に対応する主題を選び、新しい画面へ組み替えていった。

宮廷空間が新しい美術の舞台になる

10世紀以降に花開く王朝文化は、平安京の宮廷貴族社会を主要な舞台とした。国立歴史民俗博物館は、10~12世紀の王朝文化を、それまでの唐風文化に代わる日本的特色をもつ文化として位置づけ、貴族的・都市的な性格を強く持つと説明している。

ここで美術の置かれる場所も変わっていく。奈良時代には巨大寺院と仏像が視覚文化の中心にあったが、平安中期になると、貴族の邸宅、屏風、調度、装束、手紙、和歌の料紙など、生活空間そのものが重要な造形の舞台になる。

建築内部は固定された壁面で閉じるより、簾、几帳、屏風、障子などによって柔らかく区切られる。こうした可動的な調度は、空間を必要に応じて変化させると同時に、表面へ絵や文様を加える場所にもなる。絵画は寺院の壁面だけでなく、人びとの生活のすぐ近くに置かれるようになる。

この変化は、のちの寝殿造、やまと絵、仮名書、装飾料紙、絵巻の発展と深く関わる。美術は宗教的な巨大空間だけでなく、日常の身振り、手紙、衣服、室内装飾と結びつきながら広がっていった。

「日本的」というものは、宮廷だけのものだったのか

国風文化という言葉から、日本全体が一斉に同じ文化へ変化したような印象を受けることがある。しかし、現存する作品や文献の多くは宮廷、寺院、貴族社会に由来する。私たちが「平安らしい」「日本的」と感じる美意識の多くは、当時の社会全体の均質な文化ではなく、特定の階層と都市空間で形成された文化でもある。

一方、地方では古代以来の信仰、在地の寺院、神社、地域の工房が活動し、中央から伝わった仏像様式や文様をそれぞれの条件に合わせて取り入れていた。奈良国立博物館に残る10世紀の仏像の中にも、京都だけではなく地方寺院に伝来した作品が多い。

「国風」という名称は便利だが、それを一つの統一された国民的様式と考えるべきではない。中央の宮廷文化、寺院文化、地方の信仰、海外との交易が複雑に重なった結果として、多様な「日本化」が同時に進んでいたと見る方が実態に近い。

中国文化は「消える」のではなく、内部化される

9~10世紀の日本文化を考えるとき、もっとも重要なのは、大陸文化の影響が目立たなくなることと、大陸文化がなくなることを区別することである。漢字、仏教、寺院、官僚制度、暦、文学、絵画技法など、日本の宮廷社会を構成する基礎そのものがすでに大陸文化との交流によって形成されていた。

仮名は漢字から生まれ、和様の書は中国書法を学んだ上で形成され、やまと絵は唐絵との対比の中で成立する。神像も仏像制作の技術を利用して作られる。外来文化が消えたのではなく、それを意識せず使えるほど社会の内部へ定着し、その上で別の表現を作れるようになったのである。

この意味で、和様化は「外国から日本へ」という一方向の移動の終点ではない。いったん受け入れたものを自分たちの文化の内部で再編集し、新しいものとして外へ表す段階である。その過程は、その後の日本美術史でも繰り返し現れる。

強い木彫から、王朝の美へ

9世紀初頭の密教彫刻には、木材の塊を感じさせる強い身体と、見る者を圧倒する明王の姿があった。9世紀末から10世紀になると、仁和寺阿弥陀三尊像のような穏やかな表情が現れ、書では小野道風らの和様が育ち、文学では《古今和歌集》が成立し、絵画ではやまと絵という領域が形成されていく。

これらを一つの「優美化」という言葉だけでまとめることはできないが、共通しているのは、唐から受け取った規範をそのまま再現することが目的ではなくなったことである。日本語を書くために文字の形を変え、日本の季節や物語を描くために絵画の主題を変え、日本の神を表すために仏像制作の技術を変用する。社会の要求に合わせて、既存の形式が作り替えられていった。

10世紀は、のちに「王朝文化」と呼ばれる世界が本格的に形を整え始める時期である。やがて阿弥陀信仰が広まり、極楽浄土を建築・仏像・絵画によって可視化する美術が大きく展開する。平等院鳳凰堂のような11世紀の建築や、来迎図、定朝様の仏像は、この9~10世紀に進んだ造形と文化の再編成の上に成立する。

和様化する美術の意味

9~10世紀の美術を「日本らしさの誕生」とだけ説明すると、何が起きていたのかを単純化してしまう。実際には、中国、朝鮮半島、西域、インドに源流を持つ宗教や図像、文字、技術が長い時間をかけて日本列島へ入り、それらが国内で十分に蓄積された結果、新しい組み合わせが可能になった。

遣唐使が停止しても交流は続き、仏像には外来図像が残り、漢字は使われ続け、宮廷では漢詩文も重要だった。その一方で、仮名、和歌、和様の書、やまと絵、神像、穏やかな阿弥陀像といった新しい造形が現れる。唐風と和風が交代したのではなく、両者が重なりながら比重を変えていったのである。

日本美術史における「和様」とは、孤立の結果ではない。長期にわたる国際交流の成果を、自分たちの言語、宗教、生活、素材、社会に合わせて編集し直す能力から生まれた。9~10世紀は、その編集が視覚文化のさまざまな領域で同時に見え始める重要な転換期だった。

参考資料

資料確認日:2026年10月1日