1920年代
日本の未来派・構成主義
前衛美術の登場
1920年代、日本の「前衛」は一つの様式ではなかった
1920年代の日本美術を振り返ると、「未来派」「構成主義」「ダダ」「表現主義」「抽象」「新興美術」といった多くの名称がほとんど同じ時期に現れる。現在の美術史ではそれぞれを別の運動として整理できるが、当時の若い作家にとって、それらは必ずしも明確に分離されたものではなかった。
イタリア未来派が機械・速度・都市・運動を賛美し、ロシア構成主義が材料・構造・社会的機能へ向かい、ダダが既存芸術そのものを攻撃したように、ヨーロッパでは異なる思想的背景を持っていた。しかし日本では、それらの情報が雑誌、複製図版、翻訳、来日作家、海外留学から短期間に重なって届く。
その結果、「未来派だからこの様式」「構成主義だからこの材料」という純粋な分類より、複数の外国前衛を混ぜながら既存の日本美術制度を壊そうとする動きが生まれた。本稿ではこの混成状態を欠点ではなく、日本における前衛美術成立の特徴として見る。
「新しい絵」だけでは足りなくなる
前の記事で見たフュウザン会や大正期洋画では、ゴッホ、セザンヌ、フォーヴィスムなどの影響によって、色彩や形態が大きく変化した。しかし基本的には、カンヴァスに油彩で絵を描き、展覧会場の壁へ掛けるという枠組みが残っていた。
1920年代の前衛になると、その枠そのものが疑われる。なぜ作品は長方形の絵画でなければならないのか。木、布、金属、紙を貼り付けてもよいのではないか。舞台装置やポスター、建築、服装、雑誌のページも美術になり得るのではないか。
前衛美術の登場とは、奇抜な形が増えたことではない。「美術作品とは何か」という制度の境界が動き始めたことだった。
抽象への入口は、未来派以前にも現れていた
日本で非具象的な表現が現れるのは1920年代からではない。恩地孝四郎が1914年に制作した木版《『月映』Ⅰ 叙情Ⅰ》は、具体的な風景や人物を再現せず、形と色によって感情を表す早い作例として知られる。
京都国立近代美術館所蔵の《叙情Ⅰ》や《ただよえるもの》では、木版という伝統的な技法が、自然の写生ではなく抽象的な形態へ使われている。京都国立近代美術館は、恩地をカンディンスキーの影響を受け、日本で早くから抽象表現を追究した作家の一人として位置づけている。
つまり1920年代の前衛は、突然何もない場所から始まったのではない。大正初期からすでに「対象を描かなくても作品は成立するのではないか」という問いが現れていた。
版画と雑誌は、前衛と相性がよかった
恩地の《月映》は油彩の大作ではなく、小型の木版を収めた同人誌だった。これは前衛美術の流通を考える上で重要である。
一点しか存在しない油彩画と違い、版画や印刷物は複数部を作り、郵送し、販売し、別の都市へ運べる。雑誌なら作品図版と詩、宣言文、批評、タイポグラフィを一冊の中へ組み込める。
1920年代に前衛グループが次々と機関誌を作った背景には、印刷物が思想と造形を同時に拡散できるメディアだったことがある。前衛は展覧会場の中だけでなく、紙面上でも成立した。
未来派という言葉が、速度と機械のイメージを持ち込む
イタリアでフィリッポ・トンマーゾ・マリネッティが未来派を提唱したのは1909年である。未来派は自動車、鉄道、電気、都市の速度、機械の力を新しい時代の美として称揚し、伝統文化への攻撃的な姿勢を示した。
日本でも1910年代から未来派に関する文章や図版が紹介され、若い詩人・画家の間で「未来派」という言葉が知られるようになる。重要なのは、未来派作品を大量に実見できたわけではないことである。断片的な文章、宣言、図版から、「旧い美術を壊す新しい運動」というイメージが先行した。
そのため日本で「未来派」と名乗ることは、イタリア未来派の様式を厳密に再現することより、旧来の画壇へ反抗する態度を示す意味を持つことがあった。
1920年、未来派美術協会が結成される
アートプラットフォームジャパンによれば、未来派美術協会は1920年9月に東京で結成され、1923年5月まで活動した。活動領域は絵画と彫刻とされている。
中心人物の一人である普門暁は、二科展落選後の1920年に同協会を結成し、活動を主導した。神原泰も未来派へ強く傾倒し、同年に《第一回神原泰宣言書》を発表している。
グループ名には明確に「未来派」が掲げられた。しかし、その活動をイタリア未来派の日本支部のように理解するのは適切ではない。情報は断片的で、参加者の理解や制作方法も多様だった。
「未来派」を名乗ること自体が挑発だった
当時の日本洋画界には文展、二科会、春陽会などの展覧会制度があり、作品は審査を通過して展示されることが一般的だった。その環境で「未来派」という名称を掲げることは、単なるスタイル選択ではなく画壇への挑発になる。
過去より未来、安定より運動、自然の再現より機械と速度。こうした価値を名乗ることで、既存の美術界へ「自分たちは別の世代である」と宣言できる。
前衛グループの名称は、作品分類である以上に社会的なポジションを示す旗印だった。
神原泰 — 画家であり詩人でもある
神原泰は1898年に生まれ、絵画だけでなく詩や評論にも関わった。アートプラットフォームジャパンによれば、未来派に触れて傾倒し、1920年に《第一回神原泰宣言書》を発表した。
この時期の前衛作家に、絵画だけを制作する専門家が少なくない一方、詩、評論、デザイン、舞台へ横断する人物が目立つ。神原も後にアクション、三科、造形と複数の団体へ関わる。
前衛では、作品を作ることと宣言を書くことが近い。何を描くかだけでなく、自分たちがなぜ旧い美術を否定し、何を目指すかを言葉で示す必要があった。
宣言文は、それ自体が前衛の作品になる
未来派にとって「宣言」は重要な形式だった。マリネッティ以来、挑発的な文章を新聞や冊子へ掲載し、社会へ直接訴えることが運動の一部になっていた。
日本の前衛作家も、展覧会だけでなく宣言、批評、新聞寄稿を積極的に使う。作品を見る前から文章によって運動のイメージを作り、論争を起こす。
美術家は黙って作品を作る職人ではなく、社会に向けて理論を発信する人物へ変わる。1920年代の前衛美術では、文章と造形を切り離して考えにくい。
1920年、「日本に於ける最初のロシア画展覧会」
1920年、東京・京橋の星製薬会社で、ダヴィド・ブルリューク、ヴィクトル・パリモフらによる「日本に於ける最初のロシア画展覧会」が開催された。アートプラットフォームジャパンの斎藤義重略歴にも、16歳の斎藤がこの展覧会を見て強い衝撃を受けたことが記されている。
京都国立近代美術館も、普門暁がこの展覧会でブルリューク、パリモフらと交流したことを紹介している。日本の若い作家にとって、ロシアの新しい美術を複製図版ではなく実物で見る貴重な機会だった。
この展覧会によって、「未来派」はイタリアからの抽象的な情報だけでなく、ロシアから実際に来日した作家の身体と作品を伴って日本へ現れた。
ブルリュークとパリモフは、日本に作品を残した
ブルリュークとパリモフの作品は現在も日本の美術館に所蔵されている。兵庫県立美術館にはブルリュークの1921年《風景》《家族の肖像》《百合》、パリモフの1920年頃《海水浴場》などが残る。
東京都現代美術館にはパリモフの1920年《手術》が所蔵されている。これらは、日本の未来派受容が雑誌記事だけの出来事ではなく、物としての作品が日本国内へ残った交流であったことを示す。
ただし、彼らの作品をすべて「構成主義」や「未来派」という一語で括るべきではない。ロシア・アヴァンギャルド内部にも複数の方向があり、作家自身の画風も変化している。
ロシア革命後の美術情報が、日本へ直接届く
1917年のロシア革命後、ロシアでは絵画だけでなくポスター、舞台、建築、書籍デザイン、写真、工業デザインへ美術を広げようとする動きが強まった。構成主義は、芸術を社会と生産へ結びつける思想の一つになった。
日本では、ロシアの政治状況と芸術理論を完全に同じ形で共有したわけではない。しかし「芸術を美術館の中から生活へ出す」「絵を描くより物を構成する」という発想は大きな刺激になった。
未来派から構成主義へ関心が移ると、前衛作家の仕事は色彩や運動表現だけではなく、材料と空間、印刷、建築、舞台へ広がっていく。
未来派と構成主義は同じではない
日本の1920年代前衛を理解するためには、未来派と構成主義を区別する必要がある。未来派は、速度、運動、都市、機械、過去への攻撃を前面に出した。構成主義では、作品を感情表現として「描く」より、素材や形を合理的に「構成する」考えが強い。
しかし日本では両方の情報が近い時期に流入し、さらにダダ、表現主義も重なった。作家が一つだけを純粋に選ばず、必要な部分を混ぜることが多かった。
そのため「この作品は未来派か構成主義か」という分類より、どの要素がどのように選ばれたかを見る方が、当時の実態に近い。
斎藤義重が受けた衝撃
後に戦後日本の重要な抽象作家となる斎藤義重は、1920年のロシア画展を見たことを出発点の一つとしている。青森県立美術館は、斎藤がロシア未来派の美術に衝撃を受け、村山知義や柳瀬正夢らの大正期前衛へ関心を深めたと説明している。
斎藤が本格的に構成的な作品を発表するのはさらに後だが、1920年代の前衛が次世代へ与えた影響を考える上で重要である。
短命なグループが消えても、それを見た若者の記憶は残る。前衛運動の影響は組織の存続期間だけでは測れない。
1922年、アクションが結成される
1922年、神原泰、古賀春江、中川紀元、矢部友衛らは前衛グループ「アクション」を結成する。アートプラットフォームジャパンは、古賀春江がこのグループを通じて「大正期新興美術運動」と総称される前衛潮流の一翼を担ったと説明している。
名称の「アクション」は、固定した一つの様式より行動そのものを思わせる。未来派美術協会と同様、既存の展覧会団体とは違う立場を作ろうとする若い作家の集まりだった。
1920年代前半には、こうした短命な団体が次々と結成される。一つが解散すると別の組織が生まれ、メンバーも重複する。前衛は安定した組織より、離合集散のネットワークとして存在した。
古賀春江も、一つの様式に収まらない
古賀春江は1917年に二科展へ初入選し、1922年には《埋葬》で二科賞を受賞した。同年アクションへ参加する。後にはシュルレアリスム的な《海》で知られるが、1920年代前半から画風は何度も変化した。
アートプラットフォームジャパンの略歴を見ると、水彩、二科会、アクション、キュビスム的構成、さらに1920年代末の機械・科学イメージへと関心が移っている。
古賀のような作家を一つの「主義」で説明するのは難しい。日本の新興美術では、様式の一貫性より、新しい視覚情報へ反応し続けること自体が作家の特徴になる場合があった。
「新興美術運動」という広い括り
現在、大正末から昭和初期のこうした前衛活動は「大正期新興美術運動」などと総称されることがある。未来派美術協会、アクション、MAVO、三科などを横断して見るためには便利な名称である。
しかし、当時の全作家が同じ綱領のもとで「新興美術運動」という一つの組織に参加していたわけではない。未来派を掲げる者、構成主義を語る者、ダダ的行動をする者が同時に存在した。
後世の括りをそのまま作家自身の自覚と同一視しないことが重要である。共通していたのは、既成画壇と既成ジャンルへの不満であり、その解決方法は多様だった。
1921年、村山知義がベルリンへ向かう
村山知義は1901年東京生まれで、1921年に東京帝国大学哲学科へ入学した後、同年ベルリンへ留学した。国立美術館の作家解説によれば、現地で美術家へ転じ、カンディンスキー、アーキペンコ、シャガール、グロッス、クレーらの新しい美術へ触れた。
ベルリンは第一次世界大戦後の政治的・文化的混乱の中で、表現主義、ダダ、ロシア構成主義などが交差する都市だった。村山は日本で複製を見るだけでなく、その環境へ直接入った。
1922年末にベルリンを離れ、1923年2月に帰国すると、日本の前衛美術へ一気に多くの新しい情報を持ち込むことになる。
村山の「意識的構成主義」
1923年4月、村山は『中央美術』で表現主義を批判し、自らの造形思想として「意識的構成主義」を提唱した。アートプラットフォームジャパンは、これを村山が帰国後に展開した中心的な理論としている。
重要なのは、これをロシア構成主義の単純な翻訳と考えないことである。東京藝術大学大学美術館は、村山の「構成派」がダダイスムと構成主義を取り入れた独自のヴィジョンだったと説明している。
ヨーロッパの複数の思想をそのまま再現するのではなく、自分の理論として組み替える。ここでも日本の前衛は「正確な輸入」より、混成と再編集によって生まれた。
「構成する」という考え方
従来の絵画では、画家が風景や人物を見て、画面上に描写する。構成主義的な発想では、作品を「世界の像」として描くより、色、形、材料を自律的な要素として組み合わせる。
木、紙、布、金属、文字、写真などを、それぞれの物質性を持ったまま並べることができる。画家の感情を筆触で表すより、要素同士の関係を意図的に設計する。
この変化によって、作品は「絵」から「構成物」へ近づく。二次元と三次元の境界も曖昧になる。
《サディスティッシュな空間》
京都国立近代美術館所蔵の村山知義《サディスティッシュな空間》は1922–23年の作品である。油彩画布として分類されるが、画面は従来の風景画や人物画とは大きく異なる。
具象的な場面を再現するより、色面、線、断片的な形が衝突する空間が作られている。村山がベルリンで触れた複数の前衛美術を、自分の構成へ変換しようとしていた時期の作品である。
この段階ではまだカンヴァスの枠内にある。しかし村山はすぐに、カンヴァスそのものを超える作品へ進んでいく。
絵具以外の物を画面へ入れる
村山の作品には、布、木、紙、金属、皮など複数の素材が使用されるようになる。東京国立近代美術館所蔵《コンストルクチオン》は1925年制作で、油彩、紙、木、布、金属、皮から構成されている。
絵画なら、木や金属を「描く」ことができる。しかし構成物では、本物の木や金属をそのまま作品へ入れる。表象から物質へ重心が移る。
これは後世のコラージュ、アッサンブラージュ、ミクストメディアへつながる重要な転換である。美術作品は必ずしも絵具だけで作る必要がなくなる。
「完成した美しい物」を作らなくてもよい
アカデミックな絵画や工芸では、完成度、技術、仕上げが評価される。前衛の構成物では、粗い木片や工業材料を使い、わざと不均衡な状態を残すことができる。
作品の価値は、磨き上げられた技巧ではなく、「なぜこの材料をここに置いたのか」という構造と考え方へ移る。
明治期の超絶技巧とは正反対に見えるが、どちらも近代化への応答である。工芸が技術を極限まで高めた一方、1920年代前衛は「技巧そのものを価値としなくてもよい」と問い始めた。
絵画から舞台へ
村山知義の活動は造形作品に留まらなかった。世田谷美術館によれば、1924年の築地小劇場でゲオルク・カイザー作《朝から夜中まで》の舞台装置を担当し、日本初の構成主義的な舞台装置として注目された。
舞台では、作品は壁へ掛けられない。俳優が動き、照明が変わり、観客が一定時間見る。装置は演技の空間として機能しなければならない。
構成主義的な考え方は、固定された一枚の画面より、空間と身体を設計する舞台と相性がよかった。
舞台美術では「見る」だけでなく「使う」
舞台装置は彫刻のように鑑賞するだけではなく、俳優が上り下りし、その間を通る。美術が実際の身体行為と接続する。
ロシア構成主義でも舞台や建築が重要だったように、日本の前衛でも「作品を生活や行動の中へ入れる」方向が生まれる。
この発想は、後のMAVOによる建築装飾、グラフィック、パフォーマンスへつながる。次の記事で扱うMAVOは、このジャンル横断をさらに急進化させた。
前衛美術家は、デザイナーでもあった
村山はその後、舞台美術、衣裳、建築、映画、美容院や映画館の内装、グラフィック、評論へ活動を広げる。世田谷美術館は、その仕事の広さから村山を「日本のダ・ヴィンチ」と呼ばれるほど多面的な人物として紹介している。
これは単に才能が多かったという話ではない。1920年代前衛には、美術を絵画という専門領域へ閉じ込めず、生活のあらゆる視覚環境へ広げる思想があった。
現在なら美術、グラフィックデザイン、舞台美術、建築、ファッションに分かれる仕事が、一人の前衛芸術家の活動として連続していた。
タイポグラフィも造形になる
前衛雑誌やポスターでは、文字は文章を読ませるためだけの透明な器ではない。字体、大きさ、方向、配置そのものが視覚表現になる。
縦に読む文字を斜めに置く。大きさを極端に変える。写真や幾何学形と組み合わせる。こうした編集によって、ページそのものが一つの構成物になる。
構成主義が日本へ与えた影響を絵画だけで見ると、こうした印刷デザインの変化を見落とす。1920年代前衛は、日本のグラフィックデザイン史にとっても重要だった。
印刷物は、大勢へ届く
一点の構成物を展覧会へ出しても、それを見るのは会場へ来た人に限られる。雑誌、チラシ、新聞広告なら数百、数千部を配布できる。
社会を変えることを意識する前衛にとって、複製可能な印刷物は非常に重要だった。美術館の観客だけでなく、街を歩く人や雑誌を買う人へ届く。
「芸術を社会へ」という理念は、媒体の選択とも結びついていた。
建築も「構成」として見直される
1920年代には美術だけでなく建築でも新しい運動が現れる。1920年には東京帝国大学建築学科の卒業生らによる分離派建築会が結成された。アートプラットフォームジャパンはその活動期間を1920年から1928年としている。
分離派建築会と未来派美術協会は別組織であり、思想も同じではない。しかし同じ時代に、歴史様式を繰り返すだけではない建築を求める若い世代が現れたことは重要である。
美術、建築、演劇、デザインの各領域で「旧い形式から離れる」という感覚が共有されていた。
1923年、関東大震災
1923年9月1日の関東大震災は東京・横浜の都市空間を大きく破壊した。多くの建物、アトリエ、作品が失われる一方、復興の過程で仮設建築、広告、装飾、都市計画への需要が急増した。
前衛美術家にとって、都市が一度物理的に壊れたことは、「新しい都市を作る」という思想を現実と接続する契機にもなった。
MAVOの活動が震災後の東京で活発化し、バラック装飾などへ向かった背景には、この都市の破壊と再建がある。ここは次の記事で詳しく扱う。
1923年、未来派美術協会が終わる
アートプラットフォームジャパンによれば、未来派美術協会の活動期間は1920年9月から1923年5月までだった。わずか3年に満たない。
短命だったから失敗したと考えるべきではない。未来派という名称を画壇へ持ち込み、ロシア未来派との交流を行い、参加者がMAVOや三科など次のグループへ移動した。
前衛グループは長期運営を目指す会社ではない場合がある。役割を果たした後に解散し、人が次の組織へ流れることで運動が続く。
1923年、MAVOへつながる
アートプラットフォームジャパンによれば、村山知義は1923年6月、未来派美術協会の元メンバーらとMAVOを結成し、翌月に第1回展を開催した。
MAVOは未来派美術協会の単純な後継組織ではない。村山の意識的構成主義、ダダ、ロシア構成主義、未来派の経験が混ざり、展覧会だけでなくパフォーマンス、雑誌、建築装飾へ広がる。
1920年の未来派美術協会から1923年のMAVOへ進む過程は、日本の前衛が「新しい絵画」から「芸術そのものを拡張する運動」へ変化したことを示している。
1924年、三科 — 前衛グループが合流する
神原泰のアートプラットフォームジャパン略歴によれば、1924年、アクション、MAVO、未来派美術協会の流れが合流する形で「三科」が結成され、神原も参加した。
京都国立近代美術館は、村山とともに三科へ参加した日本画家・玉村方久斗や、ロシア・アヴァンギャルドで活動したワルワーラ・ブブノワなどにも触れている。洋画だけの団体ではなく、複数の分野と出自が混ざった。
三科も長くは続かず1925年に解散する。しかし短期間に前衛作家を横断的に集めたことは、1920年代のグループ形成の流動性を象徴している。
「三科」という名前が示すもの
既成展覧会では「日本画」「洋画」「彫刻」のように部門を分けることが一般的だった。前衛作家にとって、その分類自体が古く見える。
絵画に木片を貼れば絵画なのか彫刻なのか。舞台装置は建築か美術か。ポスターは商業デザインか芸術か。分類できない作品が増えるほど、従来の「科」は不自由になる。
1920年代前衛の意味は、新しい作品を増やしたことだけでなく、作品を整理していたジャンル制度を不安定にしたことにもある。
1925年《コンストルクチオン》
村山知義の《コンストルクチオン》は1925年の三科展へ出品された。東京国立近代美術館所蔵で、油彩、紙、木、布、金属、皮という複数素材からなる。
材料一覧を見るだけでも、通常の「油彩画」とは異なる。画面上に異なる物質が実際の厚みを持って存在し、平面とレリーフの境界へ位置する。
この作品は「何を描いているか」より、「どの材料がどのように配置されているか」を見る必要がある。絵画鑑賞のルールそのものが変わる。
構成主義は「幾何学模様」の名前ではない
現在、直線や円、矩形を使ったデザインを見て「構成主義的」と呼ぶことがある。しかし歴史的な構成主義は、幾何学形だけのスタイルではない。
材料を合理的に組み合わせること、作品を生産や社会へ接続すること、芸術家を物を設計する「構成者」として考えることが重要だった。
日本での受容はロシアと同一ではないが、絵画から舞台、印刷、建築へ活動を拡張した点には、この考え方の影響が見える。
未来派も「速そうな絵」の名前ではない
同様に未来派も、動く人物を連続して描けば未来派になるわけではない。イタリア未来派には、過去の文化制度への攻撃、機械文明への賛美、政治的主張まで含まれていた。
日本の未来派美術協会は、その思想を完全に共有したわけではない。むしろ「未来派」という強い名前を通して、新しい時代と断絶を示した側面が大きかった。
名称だけを表面様式へ変換すると、当時その言葉が持った挑発性が失われる。
日本の前衛は「誤解」から生まれたのか
日本の作家が未来派、ダダ、構成主義を厳密に理解していなかった例はある。アートプラットフォームジャパンの普門暁解説も、初期には未来派理論の十分な理解があったか疑問があると指摘している。
しかし、それを単純な「誤解だから価値が低い」と評価することもできない。文化が国境を越えるとき、情報は必ず選択され、欠落し、別の文脈へ入る。
日本の前衛は、その不完全な情報から独自の運動を作った。正確なコピーではなかったからこそ、未来派とダダと構成主義が混ざる日本独自の状態が生まれたとも言える。
翻訳の「誤差」が、新しいものを作る
セザンヌやゴッホを複製図版で学んだ白樺派と同じように、1920年代前衛も翻訳と複製の誤差を含んでいた。宣言の一部だけを読み、白黒図版で作品を見て、そこから全体を想像する。
本国の運動から見れば不正確でも、日本の既成美術制度に対しては十分に強い武器になった。
美術史では影響源との一致だけでなく、ずれがどのような新しい表現を生んだかを見る必要がある。
「前衛」とは、誰より新しい形を作ることなのか
前衛という言葉には、軍隊の先頭部隊という原義がある。そのため美術でも「誰より先に新しいスタイルを作ること」と理解されやすい。
しかし1920年代日本の前衛では、形の新しさだけでなく、どこで作品を見せるか、誰に向けるか、どんな媒体を使うかが重要だった。展覧会場を飛び出し、街頭、雑誌、劇場、建築へ進む。
美術界の内部で一番新しい絵を描くより、美術界の境界そのものを変えようとする。その態度が前衛性を作った。
芸術家の職能も変わる
明治期には「画家」「彫刻家」「工芸家」という専門職が学校制度によって整えられた。1920年代前衛は、その専門分化を再び横断する。
村山知義のように、絵画、舞台、建築、グラフィック、評論、演劇を行う人物が現れる。神原泰は詩と絵画を横断し、恩地孝四郎は版画と装幀・写真へ関心を広げる。
近代美術制度が一度専門を作った後、前衛はその専門境界を壊し始めた。制度化と反制度化が短い期間で続いている。
都市が作品の背景から「媒体」へ変わる
印象派や洋画では、都市は描かれる対象だった。1920年代前衛では、都市そのものが活動場所になる。ポスターを貼り、建物を装飾し、劇場を設計し、街頭で行動する。
作品が都市を描くのではなく、都市の中へ直接介入する。震災後の東京ではこの傾向がさらに強まる。
美術は「世界の像」を作るものから、「現実の空間を変える行為」へ近づいていく。
戦後前衛へつながる長い影響
未来派美術協会、アクション、三科などの多くは数年で解散した。しかしその問題意識は消えなかった。
斎藤義重は1920年代のロシア未来派と村山らの前衛に刺激を受け、後に絵画と彫刻の境界を越える作品へ進む。戦後には具体美術協会や実験工房など、ジャンル横断と物質実験を行うグループが現れる。
直接的な系譜を単純に引くことはできないが、「作品は絵画だけでなくてよい」という問いは、1920年代にすでに明確に現れていた。
1920年代|日本の未来派・構成主義
1920年代の日本前衛は、未来派という一つの外国様式を輸入した歴史ではない。1914年の恩地孝四郎にはすでに抽象への試みがあり、1920年には未来派美術協会が結成され、同年のロシア画展でブルリューク、パリモフらの作品が日本の若い作家へ直接的な衝撃を与えた。
神原泰、普門暁らが未来派を掲げ、1922年にはアクションが成立する。一方、ベルリンへ渡った村山知義は表現主義、ダダ、構成主義を同時に経験し、1923年の帰国後に「意識的構成主義」を提唱した。これはロシア構成主義の正確な複製ではなく、複数の欧州前衛を村山自身が組み替えた理論だった。
そこから作品はカンヴァスの内部を離れ始める。木、布、金属、紙を組み合わせた構成物、舞台装置、印刷物、建築、タイポグラフィへ活動が広がる。1924年には三科が複数の前衛グループを束ね、村山は築地小劇場で構成主義的舞台装置を制作する。美術は「描かれた像」から「構成された現実」へ向かっていた。
この時代の重要性は、未来派や構成主義を日本人がどれほど正確に理解したかだけにはない。断片的な翻訳と誤解を含みながらも、それを使って既存の美術制度、ジャンル、材料、展示方法を問い直したことにある。次の記事では、この混成した前衛の中から1923年に生まれたMAVOへ焦点を絞り、村山知義、柳瀬正夢らが展覧会、雑誌、パフォーマンス、建築装飾を通して「芸術と生活の境界」をさらに激しく破壊していく過程を扱う。
参考資料
- Art Platform Japan「未来派美術協会」
- Art Platform Japan「普門暁」
- Art Platform Japan「神原泰」
- Art Platform Japan「古賀春江」
- Art Platform Japan「村山知義」
- Art Platform Japan「斎藤義重」
- Art Platform Japan「ヴィクトル・パリモフ《手術》」
- Art Platform Japan「ダヴィド・ブルリューク《風景》」
- Art Platform Japan「恩地孝四郎《『月映』Ⅰ 叙情Ⅰ》」
- Art Platform Japan「村山知義《サディスティッシュな空間》」
- 国立美術館 所蔵作品検索「村山知義《コンストルクチオン》」
- 国立美術館「村山知義 作家解説」
- 東京藝術大学大学美術館「日本におけるダダ:マヴォ/メルツ」
- 世田谷美術館「村山知義の宇宙」
- 京都国立近代美術館「村山知義と同時代の日本の『前衛』」
- 青森県立美術館「斎藤義重」
資料確認日:2026年10月2日