Art Library

1990年代

日本現代美術の国際化

美術館、ギャラリー、海外展

1990年代、日本現代美術はどのように「国際化」したのか

1990年代の日本現代美術を振り返るとき、「国際化」という言葉は便利である一方、注意して使う必要がある。日本の作家がそれ以前には海外で活動していなかったわけではない。草間彌生、河原温、オノ・ヨーコ、荒川修作、李禹煥、杉本博司らは早くから国外に拠点や発表の場を持ち、ヴェネツィア・ビエンナーレをはじめとする国際展への日本参加も1950年代から続いていた。1990年代に変化したのは、個々の作家の越境だけではない。日本の戦後美術や同時代美術をまとまった歴史として海外へ紹介する展覧会、現代美術を専門的に扱う国内の美術館、国際交流を担う公的機関、新しい商業ギャラリー、オルタナティヴな展示空間、そしてアジア太平洋地域を結ぶキュレーションの回路が重なり始めたことである。

したがって、この時代を「日本美術が世界に認められた」と一本の成功物語にまとめると、実際に起きていたことを見失う。誰が作家を選び、どのようなテーマで展示し、どの美術館が作品を収集し、どの言語で作品が説明され、どのギャラリーが国外へ運び、どの地域を「世界」と呼んだのか。1990年代の重要性は、作品だけでなく、作品を移動させ意味づける制度そのものが組み替えられた点にある。前章までに見てきた森村泰昌、杉本博司、宮島達男、ダムタイプといった異なる実践が、同じ時期に国外の展覧会へ接続していった背景には、こうした複数の回路があった。

出発点は1990年ではない――1980年代末の海外展

1990年代の変化には、直前の1980年代後半に準備された重要な前史がある。1986年末から1987年にかけてパリのポンピドゥー・センターで開催された「前衛芸術の日本 1910–1970」は、造形美術だけでなく建築、デザイン、写真、文学などを含む大規模な日本前衛芸術展だった。日本の近現代美術を、欧米美術の周縁的な派生としてではなく、長い内部史をもつ対象として提示しようとする動きが、すでに80年代後半には目立ち始めていたのである。

さらに1989年に始まった「Against Nature: Japanese Art in the Eighties」は、サンフランシスコ近代美術館を皮切りに、アクロン、ボストン、シアトル、シンシナティ、ニューヨーク、ヒューストンへと巡回した。ダムタイプ、舟越桂、宮島達男、森村泰昌、大竹伸朗、椿昇らが出品し、キャシー・ハルブライヒ、トーマス・ソコロフスキー、河本信治、南條史生がキュレーションを担った。この展覧会は、80年代日本美術を米国の複数都市へ継続的に見せる回路をつくった点で重要である。単発の「日本紹介」ではなく、複数館を移動する巡回展という形式そのものが、作家の名前、作品画像、カタログ、批評的言説を同時に流通させた。

展覧会は作品だけでなく「日本美術の読み方」を輸出する

海外巡回展では、作品そのものと同じくらい、展覧会の題名や章立て、カタログの論考が大きな役割を果たす。「自然に抗して」「原初的精神」「ポストモダン日本の記号」といった枠組みは、海外の観客が初めて見る作家を理解する入口になる一方、日本の多様な実践を一つの文化的特徴へまとめてしまう危険も持つ。国際化とは、作品が国境を越えることだけではなく、作品を解釈する概念が翻訳され、ときに作り替えられる過程でもあった。

この点は、当時の日本人作家を「日本的なもの」の代表としてのみ捉えないために重要である。森村のセルフポートレイト、宮島のデジタルカウンター、杉本の写真、大竹のコラージュ、ダムタイプのパフォーマンスは、素材も思想も大きく異なる。それでも「日本現代美術」という展覧会名のもとに集められれば、鑑賞者はそこに共通する文化的性格を探そうとする。1990年代の国際展は日本の現代美術に可視性を与えたが、その可視性は常にキュレーションによる選択と編集を伴っていた。

《A Primal Spirit》――日米の美術館が共同でつくった巡回路

1990年の「A Primal Spirit: Ten Contemporary Japanese Sculptors」は、原美術館とロサンゼルス・カウンティ美術館が共同で組織し、まずハラ ミュージアム アークで開催されたのち、ロサンゼルス、シカゴ、カナダ国立美術館などへ巡回した。海老塚耕一、遠藤利克、川俣正、國安孝昌、戸谷成雄、若林奮ら10人の彫刻家が取り上げられた。日本側の私立美術館と北米の大規模館が共同で企画を形成し、作品を複数都市へ移動させた点に、90年代的な国際化の具体的な仕組みを見ることができる。

ここで注目すべきなのは、作家が単独で国外へ出て行くだけではなく、美術館同士の協働が作家の移動を支えたことである。輸送、保険、カタログ制作、翻訳、広報、現地での設営、関連講演まで含めて展覧会が組織されることで、作品は一度きりのイベントではなく、継続的に参照可能な記録になる。国際評価は作品の質だけで自動的に形成されるのではない。それを見せるための予算、専門職、交渉、出版、収集の仕組みが必要であり、1990年代にはこの制度的な部分が次第に厚くなっていった。

《A Cabinet of Signs》――同時代の日本を欧州で読む

1991年から92年にかけて、テート・ギャラリー・リバプール、ホワイトチャペル・アート・ギャラリー、マルメ美術館を巡回した「A Cabinet of Signs: Contemporary Art from Post-modern Japan」も重要である。笠原恵実子、小杉美穂子+安藤泰彦、宮島達男、森村泰昌、野村仁、大竹伸朗、杉本博司らが参加し、リチャード・フランシスと南條史生がキュレーションを担った。ここでは1980年代末から90年代初頭の日本を、記号、都市、消費社会、メディアといった同時代的な問題から読み取る視点が強く現れていた。

この展覧会の参加者を見ると、後に国際的に広く知られることになる作家が複数含まれている。しかし重要なのは、後年の名声から逆算して「スター作家を発見した展覧会」とだけ評価しないことである。当時はまだ、現代日本美術を欧州の公的美術機関でどう提示するか自体が試行錯誤の対象だった。複数の作家を一つの時代感覚の中に配置し、英語圏の美術館がカタログを刊行し、巡回によって批評家やキュレーターの目に触れる。その反復が、個々の作家を国際的な文脈へ接続していった。

1994年《戦後日本の前衛美術――空へ叫び》が変えた射程

1994年に横浜美術館で開幕し、同年秋にニューヨークのグッゲンハイム美術館ソーホー、翌1995年にサンフランシスコ近代美術館へ巡回した「Japanese Art After 1945: Scream Against the Sky」は、1990年代の転換を象徴する展覧会である。アレクサンドラ・モンローがキュレーションを担当し、具体美術協会、読売アンデパンダン、ハイレッド・センター、舞踏、実験映画、フルクサス、もの派から、宮島達男、森村泰昌、ダムタイプ、柳幸典、中原浩大ら当時の同時代作家まで、戦後日本の前衛表現を長い時間軸で結び直した。

それ以前にも日本美術を海外へ紹介する展覧会は数多くあったが、「空へ叫び」が重要なのは、戦後日本美術を単なる同時代の流行としてではなく、1945年以降の歴史として組み立てたことである。具体、反芸術、実験映像、身体表現、もの派、1980年代以降の作品を一つの系譜の中で見ることで、90年代の若い実践にも歴史的な背景が与えられた。国際化とは現在の作品を輸出することだけではなく、過去を再編集し、その歴史を国外の美術史へ接続する作業でもあった。

「日本美術史」が海外の研究対象になる

「空へ叫び」は展覧会だけでなく、英語圏で参照されるカタログと研究の基盤を残した。作品の実見に加え、作家名、グループ名、年表、社会背景、写真資料が英語で整理されれば、大学、美術館、図書館、次の展覧会へ知識が引き継がれる。こうした出版物は、展覧会が終了した後にも作品の位置づけを支える。美術の国際化を市場価格や海外個展の数だけで測れない理由がここにある。

同時に、海外の研究者が日本の戦後美術を記述することは、日本国内の美術史にも反作用をもたらした。どの運動を重要とみなすのか、東京だけでなく関西の実践をどう位置づけるのか、映像やパフォーマンスを絵画・彫刻と同じ歴史の中に含めるのかといった問いが改めて意識される。国外への紹介は一方向の輸出ではなく、日本側の自己理解を更新する鏡にもなったのである。

国内では「現代美術を扱う場所」が増えていった

海外展の増加と並行して、国内では現代美術を継続的に扱う施設の基盤が整っていった。1989年には広島市現代美術館が、公立館として日本で初めて現代美術を専門とする美術館として開館した。1990年には水戸芸術館が開館し、現代美術ギャラリーを含む自主企画型の複合文化施設として活動を始める。横浜美術館も1989年に開館しており、1994年の「空へ叫び」の国内会場となった。これらは単に展示面積を増やしただけではなく、学芸員が調査し、作品を借用し、作家へ新作を依頼し、カタログを編集する拠点を増やした。

1995年には東京都写真美術館が恵比寿で総合開館し、同年3月には東京都現代美術館が開館する。写真や映像、インスタレーションなど、従来の美術館制度では周縁化されやすかった表現を専門的に収集・展示できる施設が成立したことは大きい。現代美術を一時的な企画展で紹介するだけでなく、作品を収蔵し、保存し、研究し、図書資料を蓄積する制度ができることで、同時代の表現が「将来の美術史」へ組み込まれる条件が整った。

東京都現代美術館と《日本の現代美術 1985–1995》

東京都現代美術館は1995年3月19日に開館し、開館記念展として「日本の現代美術 1985–1995」を開催した。中村一美、杉本博司、辰野登恵子、柳幸典、荒木経惟、蔡國強、福田美蘭、舟越桂、川俣正、宮島達男、森村泰昌ら18人が選ばれている。ここには絵画、写真、彫刻、インスタレーションなどが同居し、80年代後半から90年代半ばまでを単一の運動名ではなく、複数の作家の並存として示そうとする姿勢が見える。

この開館は、東京に巨大な現代美術館が一つ増えたというだけではない。公立美術館が同時代の作家を収集・展示し、国内外の美術館と作品貸借を行うための重要な結節点が形成されたということである。一方で、大規模館の開館がただちに若い作家の活動環境を安定させたわけではない。美術館には収蔵方針や予算、企画周期があり、すべての実験的表現を受け止められるわけではない。その隙間を埋めたのが、オルタナティヴ・スペースや小規模ギャラリーだった。

佐賀町エキジビット・スペース――美術館でも商業画廊でもない場所

1983年に小池一子が東京・佐賀町の食糧ビルに開いた佐賀町エキジビット・スペースは、2000年まで活動を続け、1990年代の日本現代美術を支える重要な場所となった。美術館でも商業ギャラリーでもない実験的な展示空間として、森村泰昌、大竹伸朗、杉本博司、内藤礼らを含む国内外の作家に発表の機会を提供した。群馬県立近代美術館による後年の検証では、17年間に106の展覧会、400人を超える作家が関わったとされる。

この空間が示したのは、現代美術の国際化が必ずしも巨大な制度からだけ生まれるわけではないということである。若い作家がまだ大規模館に招かれない段階で実験し、その展示を訪れた批評家、学芸員、海外関係者との接点が次の機会につながる。1991年に佐賀町で発表された内藤礼の《地上にひとつの場所を》が、後に海外各地で展示され、1997年にはヴェネツィア・ビエンナーレ日本館へ展開された事実は、小さな発表空間と国際展が切り離された世界ではなかったことを端的に示している。

1990年代前半、新しい商業ギャラリーが生まれる

1990年代前半から半ばには、後に日本の現代美術市場を支えることになる商業ギャラリーが相次いで活動を始めた。SCAI THE BATHHOUSEは1993年に設立され、1994年にはタカ・イシイギャラリー、ミヅマアートギャラリー、Ota Fine Artsが開廊、1996年には小山登美夫ギャラリーが佐賀町で始動した。これらのギャラリーは一様な方針を持っていたわけではない。写真を含む国内作家を国外へ紹介する動き、社会や都市の問題を扱う作家への関心、海外作家の日本紹介、若い作家の継続的な個展など、それぞれ異なる方向から活動した。

SCAIの1990年代前半の展覧会記録を見ると、1994年に村上隆、1995年に奈良美智の個展が開かれている一方、ジェームズ・リー・バイヤーズ、シグマー・ポルケ、カジミール・マレーヴィチのドローイングなど国外作家・歴史的作家も扱われている。重要なのは、日本から海外への一方通行ではなく、国外の作家や作品を東京へ導入する動きと、日本の作家を外へ運ぶ動きが同じギャラリー活動の中で進んだことである。国際化は「輸出」だけでは成立せず、国内の観客や作家が海外の実践へ継続的に接触する「輸入」の回路も必要だった。

ギャラリーは作家の作品を売るだけではない

現代美術の商業ギャラリーの役割は、店頭で作品を販売することに限られない。個展を定期的に企画し、作品を保管し、撮影し、英語資料を整え、国外のキュレーターへ情報を送り、美術館への貸出を調整し、コレクターとの関係を維持する。のちには国際アートフェアへの参加が重要になるが、その前提として、作家の活動を数年、十数年という単位で支える継続的な代理機能が必要になる。1990年代に設立されたギャラリーのいくつかが2000年代以降の国際市場で大きな役割を担うようになるのは、この長期的な関係構築の結果でもある。

ただし、1990年代に新しいギャラリーが生まれたことを、そのまま国内現代美術市場の成熟と同一視することはできない。貸し画廊を利用して作家自身が発表費用を負担する仕組みも広く残っていたし、美術館で高く評価される作品と商業的に売買しやすい作品が一致するわけでもなかった。公立美術館、私立美術館、オルタナティヴ・スペース、商業ギャラリーは異なる経済原理で動いている。1990年代の特徴は、これらが完全に統合されたことではなく、異なる制度の間を作家が行き来できる回路が増えたことにある。

ヴェネツィア・ビエンナーレ1993――草間彌生の再評価

国際展の象徴として重要なのがヴェネツィア・ビエンナーレ日本館である。1993年の第45回展では草間彌生が日本代表として個展形式の展示を行った。国際交流基金の公式アーカイブによれば、日本館で一人の作家に展示を委ねるのはこの時が初めてだった。草間は1966年にヴェネツィアで《ナルシスの庭》をゲリラ的に展開していたが、1993年の日本館では初期のネット・ペインティングからソフト・スカルプチャー、近作までを含む構成がとられ、《ミラー・ルーム(かぼちゃ)》が中心的に展示された。

この出来事は、単純な「海外進出」ではない。草間は1960年代のニューヨークですでに国際的な活動歴を持っていたため、むしろ戦後美術史の中でその仕事を制度的に再評価する意味が大きかった。コミッショナーの建畠晢は、作家をめぐる神話的イメージだけに依存せず、その達成を戦後モダニズムの流れの中で位置づけようとした。ここでも、1990年代の国際化は新しい作家を外へ送り出すだけでなく、過去の評価を組み替える作業と結びついている。

1995年日本館――単一の「日本らしさ」ではなく複数の表現へ

1995年の第46回ヴェネツィア・ビエンナーレ日本館では、崔在銀、日比野克彦、千住博、河口洋一郎の4人が参加した。展示案は全国の美術館学芸員や美術評論家などから提案を募る指名コンペによって選定され、伊東順二がコミッショナーを務めた。建築家の隈研吾が空間構成、田中一光がグラフィック・デザインを担当するなど、作家作品だけでなく展示空間全体が複数分野の協働によって構成された。

ここではコンピューター・グラフィックス、日本画、段ボールを支持体とする平面、写真とインスタレーションが同じ日本館に並んだ。表現媒体の違いを見れば、90年代日本美術を一つの様式で代表させることがすでに困難だったことがわかる。一方、国別パヴィリオンという制度そのものは、作家を「日本代表」として見せる仕組みである。国際化が進むほど、作家個人の活動と国籍による代表制の間に緊張が生まれる。この矛盾は、その後の国際展でも繰り返し問われていく。

1997年の内藤礼――佐賀町から日本館へ

1997年の第47回展では内藤礼が日本館を担当し、《地上にひとつの場所を》によって建物全体を一つのインスタレーションへ変えた。この作品は1991年に佐賀町エキジビット・スペースで発表され、その後ニューヨーク、パリ、ウェールズ、名古屋などで展示されたのちヴェネツィアへ至っている。鑑賞者が一人ずつ作品と向き合うという条件も含め、作品は物体の集合ではなく、鑑賞の時間と行為を含んだ環境として成立した。

この経路は、1990年代の国際化を理解するうえで象徴的である。小規模な自主的空間で生まれた作品が、別の都市へ招かれ、その都度設営と鑑賞条件を調整しながら、最終的に国際展の国家館へ到達する。作品は単純に同じ形のまま輸送されるのではなく、場所ごとに再制作される。インスタレーションやパフォーマンスが国際的に流通する時代には、作品の設計、作家の立会い、技術情報、展示条件の共有そのものが重要な文化的インフラになった。

1999年の宮島達男――個人の時間から歴史の記憶へ

1999年の第48回ヴェネツィア・ビエンナーレでは、宮島達男が日本館で《Mega Death》を発表した。2400個のデジタルカウンターが異なる速度で点滅し、ある契機にすべてが消えて空間が暗闇に包まれる作品である。前章で見たように、宮島は1988年の「アペルト」参加以降、数字と時間をめぐる作品を国際的に展開してきたが、99年の日本館では大量死をめぐる歴史的問題へ射程を広げた。

1993年の草間、1997年の内藤、1999年の宮島を並べても、そこに共通する「日本的様式」を見つけることは難しい。反復する水玉と鏡、繊細な物質と一人で向き合う空間、電子カウンターと暗闇。それぞれの作品は異なる歴史と方法から生まれている。1990年代の日本現代美術の国際化とは、国際展で「日本らしい一つの傾向」が確立したことではなく、むしろ異質な実践が同じ国の美術として海外へ提示され、その差異自体が可視化された時代と考える方が実態に近い。

欧米だけが「海外」ではなくなる――アジア太平洋の回路

1990年代のもう一つの大きな変化は、日本の現代美術を考える地理的な枠組みが欧米中心から広がったことである。1993年にブリスベンのクイーンズランド美術館で始まった第1回アジア・パシフィック・トリエンナーレは、アジアと太平洋の現代美術に焦点を当てる継続的な国際展として構想された。第1回には日本から秋岡美帆、福田美蘭、大竹伸朗、佐藤時啓、戸谷成雄らが参加し、中国、韓国、東南アジア、オーストラリア、ニュージーランド、太平洋地域の作家と同じ枠組みで展示された。

これは日本の作家にとって、「西洋へ紹介される非西洋の一国」という位置とは異なる関係をつくった。アジア太平洋という地域の内部で、日本も複数の参加地域の一つになる。クイーンズランド美術館はこの展覧会を、欧米中心の評価軸だけでは地域の現代美術を捉えきれないという認識から構想したと説明している。日本現代美術の国際化は、ニューヨーク、ロンドン、パリへ近づくことだけではなく、アジアの近隣地域との関係を編み直す方向にも進んでいた。

国際交流基金と「アジア」という新しい制度的課題

国際交流基金は1970年代から海外展やヴェネツィア・ビエンナーレ日本館を支えてきたが、1990年代にはアジア地域との双方向的な交流がより明確な課題になった。1990年にアセアン文化センターが設置され、1995年にはそれを拡大・改組する形でアジアセンターが設立された。同基金のアーカイブには、1993年の日本・シンガポール現代美術展、同年の日本・タイ現代美術展、1994年の現代美術シンポジウム「アジア思潮のポテンシャル」、1995年の「アジアのモダニズム」などが記録されている。

ここで重要なのは、「日本がアジア美術を紹介する」という一方向の文化外交だけでなく、キュレーター、研究者、作家が互いに往来する回路が制度として整備され始めたことである。もちろん、日本側の資金力や制度的優位を無視して対等な交流だったと単純化することはできない。しかし、少なくとも美術を語る地図の上で、欧米と日本という二項関係だけでは捉えられない複数の地域的ネットワークが目に見える形になっていった。

福岡がつくった別の国際美術史

この流れを最も長期的に準備していた国内拠点の一つが福岡である。福岡市美術館は1979年の開館時からアジアの近現代美術を紹介し、ほぼ5年ごとにアジア美術展を開催して作品を収集してきた。1992年にはアジア近代美術館の建設意向が示され、準備委員会や専門委員会を経て、1999年3月6日に福岡アジア美術館が開館した。開館記念展として第1回福岡アジア美術トリエンナーレが開催され、21の国・地域から作家を招き、展示だけでなくオープンスタジオ、共同制作、パフォーマンス、トークなどが行われた。

福岡の活動が示すのは、「国際化」が東京から欧米へ伸びる一本の線ではないことである。地理的にアジアと近い福岡で、作品収集、展覧会、調査、作家滞在を組み合わせた美術館が成立したことは、日本国内に別の中心をつくる試みだった。アジアの美術を西洋美術の派生や伝統文化の延長としてではなく、それぞれの社会に根ざした近現代美術として扱う姿勢は、後の日本の美術館や国際展にも大きな影響を与えることになる。

1997年ICC開館――情報技術も国際交流のインフラになる

1997年4月には、東京・西新宿にNTTインターコミュニケーション・センター[ICC]が開館した。ICCは電話事業100周年の記念事業を起点に、1990年から構想を進め、開館前からイベントや季刊誌『InterCommunication』を通じて芸術と科学、通信技術の接点を検討していた。開館後は仮想現実、インタラクティヴ技術、ネットワークを用いた作品などを積極的に紹介し、作家と科学者を国際的に結ぶ情報交流の拠点を目指した。

これは第94記事で見たダムタイプの活動とも接続する。1990年代には映像、音響、コンピューター、通信網が作品の素材になるだけでなく、作品を遠隔地と結ぶ手段にもなった。ICCが1991年に電話回線を用いた「電話網の中の見えないミュージアム」、1995年にインターネット上の「on the web ネットワークの中のミュージアム」を試みていたことは、美術館という場所の概念自体が変化し始めていたことを示している。国際交流は、作品を飛行機で輸送することだけでなく、情報をネットワークで交換することへも広がりつつあった。

キュレーターがつなぐ作家・都市・制度

1990年代の国際化を作家だけの物語として記述すると、展覧会を組織したキュレーターの役割が見えにくくなる。南條史生、建畠晢、河本信治、アレクサンドラ・モンローをはじめ、国内外のキュレーターが共同企画、作家選定、カタログ執筆、海外機関との交渉を担った。キュレーターは作家を「発見」するだけでなく、作品をどの歴史へ位置づけ、どの作品と並べ、どの都市へ巡回させるかを決める。展覧会はそうした判断の積み重ねとして成立する。

同じ作家でも、展覧会が変われば意味は変わる。宮島達男は「Against Nature」では80年代日本美術の一人として、「A Cabinet of Signs」ではポストモダン日本の文脈で、「空へ叫び」では戦後前衛の長い歴史の延長で示され、1999年には日本館を単独で担う作家となった。この違いは、作家の本質が変わったというより、作品を囲む制度的なフレームが変化したことを示している。国際美術界での位置は、作品とキュレーションの関係によって更新され続ける。

コレクションに入ること――一時的な展示から美術史へ

国際展への参加と同じくらい重要なのが、美術館コレクションへの収蔵である。展覧会は数か月で終了するが、作品が収蔵されれば、保存、研究、再展示、貸出を通じて長期間にわたり参照される可能性が生まれる。第1回アジア・パシフィック・トリエンナーレでは、展示を契機にクイーンズランド美術館がアジア太平洋美術のコレクション形成を進め、日本の戸谷成雄の大規模作品もその文脈に組み込まれた。展覧会と収集が一体化することで、国際的な可視性は一時的な話題から制度的な記憶へ変わっていく。

国内でも、広島市現代美術館、東京都現代美術館、東京都写真美術館、福岡アジア美術館などの新しい収集活動が進んだ。これは作家にとって販売先が増えるという市場上の意味だけではなく、作品の保存方法、映像機器の更新、インスタレーションの再制作手順、写真やエフェメラの整理といった新しい課題を美術館にもたらした。メディアが多様化するほど、現代美術を歴史として残すための技術と知識も複雑になる。90年代は、その保存制度を実地で作っていく時代でもあった。

国際化は「日本」という枠を強めも、弱めもした

日本の現代美術が国外で多く紹介されるほど、「日本」というカテゴリーは強く意識される。海外の観客にとって、日本展は未知の作家へアクセスする便利な入口であり、公的機関にとっても国別の文化交流事業は企画しやすい。一方で、作家本人の関心は必ずしも国民文化の表象に向かっているわけではない。杉本博司の時間、宮島達男のカウンター、内藤礼の存在感覚、ダムタイプの身体と情報、森村泰昌の美術史的引用を、すべて「日本文化」から直接説明することはできない。

したがって1990年代の国際化には二重の運動がある。一方では「Japanese Art」という枠が展覧会や文化交流の制度として強く使われ、他方では、その展覧会に登場する作品の多様さが「日本美術とはこういうものだ」という単純な定義を壊していく。国別展は境界をつくるが、作品はしばしばその境界を越える。この緊張関係こそ、1990年代以降の日本現代美術を理解する重要な条件である。

市場だけでは説明できない国際的評価

現代美術の国際化を語るとき、作品価格や海外ギャラリーとの契約だけに注目すると、1990年代の実態は見えにくい。森村、宮島、ダムタイプ、内藤、杉本らの国際的な活動には、美術館展、国際展、文化交流機関、研究出版、非営利スペースが大きく関与していた。市場はその一部であり、必ずしも最初の入口ではない。作品が研究され、展覧会に招かれ、カタログに掲載され、別の学芸員の目に触れることが、後の個展や収蔵、ギャラリー契約へつながる場合もある。

一方、1990年代に設立された商業ギャラリーは、2000年代以降、日本の作家を国際アートフェアや海外コレクターへ接続する重要な役割を担うようになる。つまり美術館と市場は別々の世界ではなく、相互に情報を参照しながら作家の評価を形成する。ただし両者の目的は異なる。美術館は研究・保存・公共性を、商業ギャラリーは作家の継続的な活動と販売を担う。その複数の制度が重なったことが、90年代以降の国際的な展開を持続させた。

「国際化」は東京一極の物語でもない

この時代の制度を並べると、東京の重要性は確かに大きい。しかし、広島市現代美術館、水戸芸術館、横浜美術館、福岡市美術館から福岡アジア美術館へ続く活動、さらに海外のブリスベン、ロサンゼルス、ニューヨーク、ロンドン、マルメ、ヴェネツィアなど、複数都市の連携がなければ1990年代の国際化は成立しなかった。現代美術の流通は首都から世界へ放射状に広がるのではなく、都市と都市、館と館、人と人の間にできる多数の線によって支えられている。

このネットワーク的な構造は、後の地域型芸術祭にもつながっていく。作品を恒久的な美術館の中だけで見せるのではなく、特定の地域へ作家を招き、現地で制作し、住民や行政、企業、研究者を巻き込みながら発表する方法が2000年代に拡大するからである。その前提には、90年代に蓄積された国際共同制作、作家招聘、展覧会運営、翻訳、輸送、広報、滞在制作の経験があった。

1990年代を「成功の十年」にしないために

1990年代の日本現代美術には、確かに国際的な接点が増えた。しかし、すべての作家が同じように機会を得たわけではない。海外の大規模展に選ばれる作家は限られ、作品輸送に耐える形式、英語資料を用意できる環境、キュレーターとの接点、制作費や渡航費を確保できる制度など、多くの条件が関係する。誰が可視化され、誰が記録からこぼれたのかという問題は、国際化の歴史を考える際に残り続ける。

また、国際展で評価された作品を後から見て、それらだけが90年代日本美術を代表していたと考えるのも危険である。貸し画廊、大学、地方都市、クラブ、劇場、路上、出版物、映像上映、音楽イベントなど、美術館の外にも多くの活動があった。国際化の制度が強くなるほど、そこに乗りやすい表現と乗りにくい表現の差も生まれる。美術史は制度が残した資料によって書かれるからこそ、その制度が何を選択したかを同時に見る必要がある。

それでも1990年代が転換点だった理由

それでも1990年代を大きな転換点と呼べるのは、個々の成功が偶然に並んだのではなく、複数の制度が互いに接続し始めたからである。海外巡回展が作家と歴史を紹介し、国内の新しい美術館が作品を収集し、オルタナティヴ・スペースが若い実践を試し、商業ギャラリーが継続的な個展と販売を担い、国際交流基金が展覧会と文化交流を支え、アジア太平洋の新しい国際展が欧米とは異なる地域関係をつくった。さらにICCのような施設が、通信技術そのものを新しい交流の基盤として扱い始めた。

この複合的な変化によって、日本の作家は「国内で活動し、ときどき海外へ出る」というだけではなく、複数の都市、制度、観客を前提に制作活動を組み立てることが可能になっていった。もちろん、それは国境が消えたことを意味しない。むしろヴェネツィアの国別パヴィリオンのように国籍が強く作用する制度と、国籍を越える共同制作や地域ネットワークが同時に存在するようになったのである。

1990年代から2000年代へ――作家個人の国際展開が加速する

こうして整えられた回路の中から、1990年代後半以降、作家個人の活動はさらに大きく広がっていく。奈良美智はドイツでの生活と制作を経て日本へ戻りながら、絵画とドローイングによって国内外の観客を獲得していく。村上隆はギャラリー、美術館、商品、アニメやオタク文化、海外市場を横断しながら「スーパーフラット」という言葉を掲げ、2000年代の日本現代美術の見え方を大きく変える。森万里子も写真、映像、立体、テクノロジーを用いた作品によって国際展や海外美術館へ進出していく。

彼らの活動は突然現れたものではない。1980年代末から90年代に形成された海外展、キュレーター、美術館、ギャラリー、出版、国際交流の回路があったからこそ、作家はより複雑な方法で国外へ出ていくことができた。次の記事では、この制度史を背景にしながら、1990年代を代表する作家の一人、奈良美智に焦点を移す。子どものような人物像、絵画とドローイング、音楽文化、ドイツ滞在、そして「かわいい」という言葉だけでは捉えきれない作品の形成過程を見ていく。

参考資料

資料確認日:2026年10月2日