Art Library

1960–1964

ハイレッド・センター

都市、行為、日常

反芸術の次に起きたのは、「物を作らない」前衛だった

1960年前後の読売アンデパンダン展では、廃材、日用品、セメント、縄、巨大なオブジェが美術館へ持ち込まれ、絵画や彫刻の境界が急速に崩れた。前の記事で見た「反芸術」は、美術作品にふさわしい材料、美しい完成形、作者の手技という近代美術の常識を攻撃した。

しかし廃物を使うこと自体が新しい様式になれば、やがて「反芸術らしい作品」を作ることも可能になる。そこで1960年代前半の一部の作家は、さらに一歩進み、「そもそも作品という物を作る必要があるのか」と考え始めた。

高松次郎、赤瀬川原平、中西夏之が1963年に結成したハイレッド・センターは、その転換を最も鮮明に示す集団の一つだった。彼らが作品にしたのは、街を歩くこと、ホテルで人の身体を測ること、屋上から物を落とすこと、銀座の道路を過剰に掃除することだった。

「作品」から「行為」へ

ハイレッド・センターの活動を説明するとき、「ハプニング」「イベント」「パフォーマンス」など現在の美術用語を使うことができる。しかし、彼ら自身が重視した言葉の一つは「直接行動」だった。

2014年の渋谷区立松濤美術館回顧展も「『直接行動』の軌跡」と題され、街路、ホテル、鉄道など日常環境へ介入した活動を中心に紹介した。美術館の中に完成作品を置き、観客が後から見るのではなく、現実の場所で出来事を起こす。

そこで作品になるのは物体だけではない。場所、日時、参加者、招待状、指示、写真、観客の反応までを含んだ一連の状況が作品になる。

名前は「高・赤・中」から作られた

ハイレッド・センターという名称は、三人の姓に含まれる「高」「赤」「中」を英語へ置き換えたものだった。高松の「高」をHi、赤瀬川の「赤」をRed、中西の「中」をCenterとして並べた。

政治組織や秘密機関のようにも聞こえる名前だが、実際には三人の名前を機械的に翻訳した言葉遊びである。この匿名的で制度めいた響きは、後の活動方法ともよく合った。

彼らは「高松次郎作品」「赤瀬川原平作品」として個人名を前面に出すだけでなく、架空の機関や社会運動のような形式を使い、誰が芸術家で誰が事務局員なのか分からない状況を作った。

正式結成は1963年5月

渋谷区立松濤美術館および国立新美術館の展覧会記録によれば、ハイレッド・センターは1963年5月に高松次郎、赤瀬川原平、中西夏之を中心として正式に結成された。

ただし三人が1963年に突然出会ったわけではない。全員が読売アンデパンダンを含む1960年代初頭の前衛美術環境で活動し、既存の絵画・彫刻から外れる方法を模索していた。

そのためハイレッド・センターの歴史は、結成年だけでなく、1962年前後に個々の作家が美術館外へ動き始めた前史から見る必要がある。

高松次郎 — 「紐」で物と空間をつなぐ

高松次郎は1936年東京生まれ。東京藝術大学油画科で中西夏之と同級だった。卒業後、読売アンデパンダンへほぼ毎年出品し、廃材を使うオブジェへ進む。

アートプラットフォームジャパンによれば、1962年頃から高松は紐を用い、廃物や物体を互いに結びつける作品を制作した。1963年の第15回読売アンデパンダンでは、トランクやテーブルに絡む紐が展示空間へ、さらに美術館の外部へまで伸びた。

高松の紐は「形ある彫刻」というより、物と物、内部と外部の関係を可視化する。物体を新しく作るより、既にある空間へ一本の線を引くことが作品になる方向へ進んでいた。

中西夏之 — 日用品を異常な密度へ変える

中西夏之は1935年東京生まれ。東京藝術大学で高松と同級だった。1950年代末には絵画を制作していたが、1960年代初頭にオブジェと行為へ大きく展開する。

1963年の第15回読売アンデパンダンでは、《洗濯バサミは攪拌行動を主張する》を発表した。大量の洗濯バサミを紙紐へ取り付け、キャンバスから展示空間へ伸ばす。

普通の洗濯道具が、機能から切り離され大量に反復されると、見慣れた日用品なのに異様な物体へ変わる。中西は日常物を美術へ持ち込むだけでなく、日常を「撹拌」して別の見え方へ変える方法を探していた。

赤瀬川原平 — 物の価値制度を疑う

赤瀬川原平は1937年横浜生まれ。幼少期を芦屋、門司、大分で過ごし、大分では若い美術家グループ「新世紀群」と交流した。東京へ出た後、ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズへ参加し、廃材を使うオブジェを制作する。

その後、赤瀬川の関心は物の形以上に「価値を決める制度」へ向かった。タイヤチューブ、包装、千円札などを用い、日常物が作品・商品・貨幣としてどのように扱われるかを問題にした。

ハイレッド・センターで行う「直接行動」にも、この制度を一見まじめに模倣しながら内部からずらす感覚が強く表れる。

1962年「山手線のフェスティバル」

ハイレッド・センター結成前の重要な前史が、1962年10月に行われた「山手線のフェスティバル」、通称「山手線事件」である。高松次郎、中西夏之らが参加し、山手線の駅や車内を移動しながら一連の行為を行った。

豊田市美術館は、中西が卵型の透明樹脂に鋏、砂鉄、磁石、鎖、針、赤い糸、かみそりなどの日用品を封入した〈コンパクト・オブジェ〉を持って山手線を回ったことを紹介している。

作品を美術館へ運ぶのではなく、作品を持った作家自身が公共交通機関へ入り、一般乗客のいる日常空間を展示場所へ変える。ここに後のハイレッド・センターの方法がすでに現れている。

山手線は「移動する美術館」になったのか

山手線は東京の都市生活を循環する公共交通である。乗客の目的は美術鑑賞ではなく、仕事、買物、学校への移動だ。

そこへ奇妙な物体を持つ人物が入り、駅と車内で行為を行うと、美術に関心のない人まで出来事へ巻き込まれる。

重要なのは「電車を美術館にした」というより、美術館と日常交通の境界を短時間だけ混乱させたことである。どこからが作品で、どこまでが普通の乗客の行動なのかが不明確になる。

日常の中で行うからこそ、観客は準備できない

美術館へ行く人は、奇妙な作品を見る心構えを持っている。しかし通勤電車の乗客は、自分が突然芸術イベントの観客になるとは思っていない。

ハイレッド・センター的な行為の力は、この「鑑賞の準備がない人」を巻き込む点にある。日常の秩序がほんの少しだけずれることで、普段は意識しないルールが見えてくる。

前衛は、観客へ新しい物を見せるだけでなく、観客自身がいる現実の場所を不安定にする方法へ進んだ。

1963年、第15回読売アンデパンダン

1963年3月の第15回読売アンデパンダンは、高松、中西、赤瀬川がハイレッド・センターを結成する直前の重要な場だった。

高松の紐、中西の洗濯バサミ、赤瀬川の千円札や梱包作品など、三人はそれぞれ異なる方法で作品と展示空間の関係を崩していた。

読売アンデパンダンが同年を最後に終了することも象徴的である。美術館の無審査展で作品概念を限界まで拡張した作家が、次には美術館そのものを離れ、街へ向かう。

「第5次ミキサー計画」

1963年5月、東京・新宿第一画廊で「第5次ミキサー計画」が開催され、ハイレッド・センターの結成を示す最初期の重要な発表となった。東京国立近代美術館には、この展覧会のポスターや招待状など関連資料が所蔵されている。

名称に「第5次」と付くことで、実際には知られていない第1次から第4次までの計画が存在するかのような印象を与える。「ミキサー」という言葉も、人や物、制度を混ぜ合わせる活動を思わせる。

グループは最初から、展覧会名を作品の説明より「公的な計画」のように見せる言語感覚を持っていた。

「秘密組織」のように振る舞う

ハイレッド・センターは赤い感嘆符「!」をシンボルとして使用し、案内状、カード、書類を制作した。作品を美術作品らしい額へ入れるより、役所、企業、研究機関、秘密結社の書類のような形式を好んだ。

これは単なるグラフィックデザインではない。観客は「これは本当の通知なのか」「どこまで冗談なのか」と判断できなくなる。

社会制度は、制服、印章、書類、専門用語によって権威を作る。ハイレッド・センターはその形式を借りることで、芸術家が一時的な架空制度を作れることを示した。

「匿名の行動」

渋谷区立松濤美術館は、ハイレッド・センターの活動を、平穏な日常を「撹拌」して高度経済成長を進む人々の意識を覚醒させる「匿名」の行動として紹介している。

三人は有名作家として署名した作品を作るだけではなく、組織の名の下で行動する。誰か一人の個性を鑑賞する構造から距離を取る。

近代美術が作家名を価値の中心へ置いてきたのに対し、ハイレッド・センターは「誰が作った物か」より、「社会の中で何が起きたか」を前面へ出した。

イベントの参加者は三人だけではない

ハイレッド・センターの核は高松、赤瀬川、中西の三人だったが、実際の活動には和泉達、刀根康尚、風倉匠、写真家の平田実や羽永光利、映像作家の飯村隆彦など周辺の多くの人物が関わった。

2014年の回顧展でも、三人以外の参加者・記録者を含む資料が展示された。

「三人組」という簡単な物語だけでは、実際に都市でイベントを成立させ、写真と映像を残し、後世へ伝えたネットワークを見落とすことになる。

記録写真は作品の「後日談」ではない

街路や電車での行為は、その場にいなければ見ることができない。しかし現在、私たちは平田実や羽永光利らが撮影した写真を通して活動を知る。

写真は単なる記念記録ではなく、出来事が美術史へ残るための重要な媒体になった。行為が数分で終わっても、写真は雑誌、美術館、海外展へ移動できる。

「一回限りの出来事」と「複製可能な記録」の組み合わせが、1960年代前衛を国際的に流通させた。

1964年《シェルター計画》

1964年1月26日と27日、ハイレッド・センターは東京・日比谷の帝国ホテルで《シェルター計画》を実施した。東京国立近代美術館には当時の領収書など関連資料が収蔵され、MoMAもこのイベントを東京前衛とフルクサスの交流を示す重要な活動として紹介している。

ハイレッド・センターは架空の「シェルター・プラン・コンファレンス」から依頼を受けたかのように装い、選ばれた知人へ正式な招待状と指示を送った。

参加者がホテルへ到着すると、身体を細かく測定し、一人用核シェルターを設計するためのデータを採取する。しかし実際のシェルターは作られなかった。測定、書類、写真、応対という手続き全体が作品だった。

帝国ホテルという場所を選ぶ意味

《シェルター計画》は、地下室や実験的な貸画廊ではなく、格式ある帝国ホテルで行われた。参加者には服装や持ち物について細かな指示があり、一般客と同じ正面入口からホテルへ入る。

高級ホテルのサービスは、宿泊者の身体を快適に扱うための高度な制度である。ハイレッド・センターはそこへ、身体を測り、分類し、管理する架空の制度を重ねた。

美術展らしい場所を避けることで、「これはホテルのサービスなのか、科学調査なのか、芸術なのか」という曖昧さが強くなる。

身体を数値へ変換する

《シェルター計画》では、身長、体重、肩幅、顔の寸法など参加者の身体が詳細に測定された。Collaborative Cataloging Japanの資料では、口腔内部の容積や靴底を含む複数方向からの写真まで記録されたことが紹介されている。

日常では「その人自身」として扱われる身体が、数字、写真、寸法表へ変換される。人間が設計データになる。

核シェルターという安全装置を設計する名目で、逆に身体管理の不気味さが現れる。科学的で合理的な手続きほど、何のために行われているか分からないと異様に見える。

冷戦と核シェルター

1964年は冷戦期であり、核戦争への不安が世界的に存在した。個人用シェルターという設定は、単なる突飛な冗談ではない。

人間の身体へぴったり合うシェルターを作るという考えは、安全を究極まで個人化する一方、社会全体が破壊される状況を前提にしている。

ハイレッド・センターは政治的なスローガンを掲げなくても、現代社会の安全、管理、恐怖を一つの架空サービスとして可視化できた。

オノ・ヨーコやナムジュン・パイクも参加した

MoMAの研究によれば、《シェルター計画》にはオノ・ヨーコやナムジュン・パイクら、東京の国際的な前衛ネットワークにいた作家も参加した。

1960年代初頭の東京では、実験音楽、フルクサス、舞踏、映像、美術が互いに近い場所で交流していた。ハイレッド・センターだけを孤立した日本美術グループとして理解することはできない。

東京の前衛は国内の読売アンデパンダンから生まれつつ、同時にニューヨークやヨーロッパへつながる人間関係を持ち始めていた。

フルクサスとの関係

MoMAはハイレッド・センターをフルクサスとの国際交流の中でも紹介している。刀根康尚、オノ・ヨーコ、ナムジュン・パイク、塩見允枝子、久保田成子らを通して、東京とニューヨークの実験芸術は情報を交換していた。

ただしハイレッド・センターを「日本のフルクサス」と同一視するべきではない。組織も活動方法も異なる。

重要なのは、同時代に複数の地域で「物としての作品」から、指示、行為、日常、時間へ芸術を広げる試みが並行していたことである。

《大パノラマ展》 — 展覧会を閉じる

1964年にはナイカ画廊で《大パノラマ展》が行われた。通常の展覧会は扉を開き、内部の作品を観客へ見せる。しかしハイレッド・センターは、画廊の入口を封鎖し、「閉鎖」を示すことで、展示空間そのものを問題化した。

中にある作品を見るのではなく、閉められた画廊と、その外側にいる観客の状態が出来事になる。

美術館へ廃物を持ち込む反芸術からさらに進み、「展示する」という制度の基本行為そのものを止める。展覧会の否定が展覧会になるという逆説である。

作品がなくても展覧会は成立するのか

画廊が閉じていて内部を見られないなら、観客は何を鑑賞しているのか。閉鎖された扉、告知、待つ時間、他の観客の反応。それら全体が作品の経験になる。

ここでは作品物体より、制度的な状況の設計が中心になる。

後のコンセプチュアル・アートでは、物よりアイデアや条件を重視する作品が増える。ハイレッド・センターの活動は、その方向へ日本の前衛が移る重要な過程でもあった。

1964年10月10日《ドロッピング・イベント》

MoMAの研究資料によれば、1964年10月10日、ハイレッド・センターと周辺の参加者は東京の池坊会館屋上から、衣類、本、靴、トランクなど日常物を地上へ落とす《ドロッピング・イベント》を行った。

物を作るのではなく、既にある持ち物を重力へ渡す。落下によって物は傷つき、形を変える。

その後の処理まで含めて、日用品が通常の使用・所有関係から切断される。落とすという単純な行為が、物の価値、所有、廃棄、偶然を一度に露出させる。

重力は作者なのか

屋上から物を落とした瞬間、作家は落下の方向を完全には操作できない。重力、空気抵抗、地面との衝突が結果を決める。

具体美術協会が泥、水、風と物質の作用を作品へ取り入れたように、ここでも作者が全てを支配しない。

ただしハイレッド・センターでは、物質の美を発見することより、「落とすという社会的に異常な行為を都市の中で実行すること」の方が前面に出る。

東京オリンピックと都市

1964年10月10日、東京オリンピックが開幕した。首都では道路、鉄道、建築、街路景観が大きく整備され、日本の復興と近代化を世界へ示す機会とされた。

ハイレッド・センターの代表的な行為が、このオリンピック前後の東京で集中していることは偶然ではない。

都市が国家的イベントのために「整然とした近代都市」として演出される一方、彼らは街路へ異常な手続きを重ね、日常の秩序が誰によって作られているのかを可視化した。

1964年10月16日《首都圏清掃整理促進運動》

ハイレッド・センターの最も有名な活動の一つが、1964年10月16日に銀座で行われた《首都圏清掃整理促進運動》である。英語ではStreet Cleaning EventやBe Clean!として紹介される。

白衣を着た参加者たちは、銀座の並木通りで道路や街頭設備を過剰なほど丁寧に清掃した。MoMAやM+は、この行為を東京オリンピックに合わせて進んだ都市美化へ応答する活動として位置づけている。

普通の清掃活動に見えるからこそ、何が芸術なのか分かりにくい。派手な破壊ではなく、「まじめすぎる行動」によって日常を撹乱した。

白衣は「専門家」を演じる制服になる

白衣を着れば、参加者は芸術家より衛生管理の専門職員や研究者のように見える。歯ブラシや小さな道具を使って路上を細部まで掃除すると、その真剣さが逆に不自然になる。

ハイレッド・センターは社会の中で権威を持つ外見を利用した。制服、道具、集団行動によって、架空の公的業務を本物らしく演じる。

作品を見る人は、それが行政活動か、いたずらか、芸術かを即座に判定できない。その判断停止自体が作品経験になる。

オリンピックを単純に「反対」した作品ではない

《首都圏清掃整理促進運動》は、オリンピック開催に合わせた東京の美化政策への批評として読まれてきた。M+も、戦後日本が世界へ見せようとした都市像と個人の関係を問い直す行為として紹介している。

ただし「オリンピック反対デモ」と同じものではない。プラカードで政策反対を直接訴えるのではなく、美化運動を極端にまじめに模倣する。

批判を説明文で伝える代わりに、現実の制度を過剰に演じることで矛盾を浮かび上がらせる。ここにハイレッド・センター独自の冷たいユーモアがある。

派手な破壊から「過剰な秩序」へ

ネオ・ダダや読売アンデパンダンの反芸術では、廃物、破壊、騒音、身体的な過激さが目立った。ハイレッド・センターもそこから出発しているが、次第に別の方向へ進む。

ホテルで厳密に身体を測り、銀座を異常に清潔にし、招待状と書類を整え、架空組織を運営する。無秩序を演じるのではなく、秩序を過剰に演じる。

社会制度を攻撃するために、その制度よりさらに制度的に振る舞う。この反転がハイレッド・センターを他の反芸術から区別する。

「直接行動」は政治運動の言葉にも聞こえる

直接行動という言葉は、労働運動や政治運動でも使われる。ハイレッド・センターがこの語を使うと、美術活動と社会的行動の境界がさらに曖昧になる。

しかし彼らは特定政党の文化部として統一政治綱領を実行したわけではない。直接行動とは、作品によって現実を表象するより、現実空間で直接何かを起こす方法だった。

政治的な語感を借りつつ、美術における行為の直接性へ転換したと見ることができる。

都市を「素材」にする

画家が絵具を材料にし、彫刻家が石を材料にするなら、ハイレッド・センターは東京という都市の制度を素材にした。

鉄道、ホテル、画廊、道路、屋上、電話帳、ロッカー、通貨、制服。これらは都市生活のためにすでに存在する。

新しい物を一から作るより、既にある社会インフラを少しずらす。都市が巨大な既製品として作品へ利用される。

「サイト・スペシフィック」という後世の言葉

現在なら、《シェルター計画》や《首都圏清掃整理促進運動》を特定の場所に依存する「サイト・スペシフィック」な作品と説明することもできる。

帝国ホテルでなければ同じ緊張は生まれず、1964年の銀座でなければオリンピック都市美化との関係は薄れる。

ただし彼ら自身が現在と同じ制度的な「サイト・スペシフィック・アート」を目指したわけではない。後世の分類を使いながらも、当時の「直接行動」という文脈を優先して理解する必要がある。

行為が終わった後、何が作品として残るのか

街の清掃は終われば通常の街へ戻る。身体測定も二日間で終わる。屋上から物を落とす瞬間も一度しかない。

そこで後に残るのは写真、映画、招待状、領収書、測定表、ポスター、印章、証言などである。

ハイレッド・センターは「物を作らない」方向へ進んだが、結果的には大量のドキュメントを残した。その文書と写真が現在、美術館の所蔵品になるという逆説がある。

東京国立近代美術館が「領収書」を収蔵する

東京国立近代美術館は、《シェルター計画》に関する帝国ホテルの領収書、案内状、資料などを所蔵している。アートプラットフォームジャパンでも、その領収書がハイレッド・センターの作品資料として登録されている。

通常なら経費精算後に捨てられるホテルの領収書が、重要な現代美術資料になる。

作品の中心が行為へ移ると、「作品そのもの」と「作品を証明する文書」の境界も変わる。美術館は絵画だけでなく、出来事を再構成できる資料を保存する必要が生まれた。

記録者も作品史の一部になる

平田実、羽永光利、村井督侍らが撮影した記録がなければ、ハイレッド・センターの多くの活動は現在ほとんど想像できない。

写真家は作品の外部にいる透明な記録係ではない。どの瞬間をどの角度から撮ったかによって、後世が活動を理解する像が作られる。

行為芸術の歴史では、実演者と記録者の役割を完全に切り離すことができない。

「写真映え」が当時の目的だったわけではない

現在では、パフォーマンス作品が記録写真としてSNSや展覧会カタログへ流通することを前提に制作される場合がある。しかし1960年代の環境は異なる。

ハイレッド・センターも記録を意識していたが、活動の中心は実際に東京の社会空間へ介入することにあった。

現在残る数枚の有名写真だけを見て、最初から写真作品を作るための演技だったと考えると、当時の都市的緊張を見失う。

ハイレッド・センターと東京の急速な変化

1960年代前半の東京は、オリンピックへ向けた建設、高速道路、交通網整備、消費社会の拡大など、都市の見た目が急速に変化した時期だった。

ハイレッド・センターは都市を描いた風景画を作らず、都市改造の中へ直接入り込んだ。

戦後復興の成功を祝う視線だけではなく、秩序化され管理される都市で個人はどのように振る舞うのかという問題を、行為を通して問い直した。

1964年以後、活動は事実上停止する

ハイレッド・センターは明確な解散宣言を行わなかったが、1964年の《首都圏清掃整理促進運動》以後、三人による主要な共同活動は事実上終息したとされる。

短期間の活動だったが、これは失敗による消滅というより、三人それぞれの関心が次の段階へ移ったことと関係する。

共同名で都市イベントを続ける必要がなくなり、高松、赤瀬川、中西は異なる方法で「作品とは何か」という問いを追い続けた。

高松次郎 — 「影」と「単体」へ

ハイレッド・センター後の高松次郎は、実体と影のずれを描く〈影〉シリーズや、物の存在そのものを問い直す〈単体〉など、より概念的な制作へ進む。

都市で制度を撹乱する共同イベントから、知覚、存在、言語の構造を分析する個人制作へ移ったように見える。

しかし「物そのものより関係を見る」という高松の関心は、紐の作品やハイレッド・センター期から連続している。

赤瀬川原平 — 千円札事件へ

赤瀬川原平は1963年前後から千円札を拡大・印刷した「模型千円札」を制作し、警察の捜査を受け、1965年に起訴された。1970年に有罪が確定する。

ハイレッド・センターが架空制度を演じたのに対し、千円札事件では本物の国家制度が赤瀬川の作品へ介入する。

「これは貨幣ではなく芸術作品である」という作家側の論理と、通貨秩序を守る法律が衝突した。芸術と日常の境界を揺らす実験が、司法の問題へまで進んだ。

中西夏之 — 再び絵画へ

中西夏之はハイレッド・センター後、土方巽ら舞踏家との共同や空間的実験を続けながら、1960年代後半から本格的に絵画へ戻った。

山梨県立美術館と茨城県近代美術館の回顧展は、中西の前衛活動とその後の長い絵画制作を一続きの問題として紹介している。

美術館外へ出た作家が絵画へ戻ることは「保守化」とは限らない。行為と空間を経験した後、絵画という場所を改めて問い直すこともできる。

三人の違いが、グループを短くした

高松は関係と知覚、赤瀬川は制度と価値、中西は物質と絵画。三人は同じ方法を共有していたわけではない。

ハイレッド・センターという枠組みは、三人の違いを一時的に都市イベントへ集中させた。しかし、それぞれの問題意識が深化すれば、長期の共同様式を維持する必要はなくなる。

短命なことは、グループの弱さではなく、目的が「一つの流派を確立すること」ではなかったことの結果とも考えられる。

ハイレッド・センターは「パフォーマンス集団」だったのか

現在の美術史では、ハイレッド・センターは日本のパフォーマンス・アートの先駆として紹介されることが多い。それは理解しやすい整理である。

しかし、彼らの活動には書類、印刷物、オブジェ、写真、映像、地図、架空組織の設定などが含まれる。身体による実演だけに限定すると、制度を模倣する言語的・事務的な側面が見えなくなる。

「イベントをする人々」というより、芸術作品が社会の中でどのように存在できるかを複数の媒体で実験した集団として見る方が広い。

「直接行動」は観客参加型とも少し違う

《シェルター計画》では参加者が身体測定を受けるため、観客参加型作品と呼ぶこともできる。街頭清掃では通行人が出来事を目撃する。

しかし参加者へ自由に創作させることが目的ではない。むしろ細かな指示に従わせ、社会制度の中で人間がどのように扱われるかを体験させる場合もある。

参加することが必ず自由を意味するわけではない。ハイレッド・センターでは、参加そのものが管理や規則の不気味さを示すことがある。

「芸術らしくないこと」が新しい芸術らしさになる問題

街を掃除する、ホテルで測定する、物を落とす。これらが美術史で評価されると、後の作家は同じように「日常行為を作品にする」ことができる。

すると、芸術らしくないこと自体が新しい芸術様式として定着する危険もある。

ハイレッド・センターの重要性を形式だけで模倣することはできない。その時代、その場所、その社会制度に対して行為がどのように異物として働いたかを見る必要がある。

海外で再演される《街路清掃》

MoMAには、1964年の《街路清掃》が1966年にニューヨークのフルクサス関連イベントで再演された際の写真が収蔵されている。

東京オリンピック期の銀座で行った清掃をニューヨークで再演すると、場所と政治的文脈は変わる。それでも「街を異常なほどまじめに掃除する」という基本構造は移植できる。

行為作品には、楽譜のように別の場所で再演できる側面と、元の場所から切り離すと意味が変化する側面の両方がある。

地図へ行為を記録する

MoMAが所蔵するハイレッド・センターのポスターでは、東京の地図上に複数の活動地点と記録が配置されている。1965年にニューヨーク版が告知されたもので、都市の地理と出来事を一つの印刷物へまとめている。

通常の美術カタログは作品画像を一覧にする。しかしハイレッド・センターの場合、作品は都市各所で起きたため、地図が活動をまとめる最も適した形式になる。

東京そのものが巨大な展示平面だったことを、地図が後から可視化している。

ハイレッド・センターが変えた「作品」の単位

絵画なら、一枚のカンヴァスを作品の単位として数えられる。《シェルター計画》では、招待状、ホテルの部屋、参加者の身体、写真、測定表、二日間の時間のどこまでが一つの作品なのかを明確に切れない。

《首都圏清掃整理促進運動》も、清掃道具だけを美術館へ置いても同じ作品にはならない。

作品が「一つの物」から「複数の要素が一定時間結びついた出来事」へ変わった。この変化は、その後の現代美術を理解する上で極めて重要である。

所有できない作品

出来事全体を一人のコレクターが所有することは難しい。写真、案内状、道具、映像は購入できても、1964年の銀座の時間そのものは買えない。

これは美術市場の基本構造にも影響する。作品の価値を一点物の物質へ集中できなくなる。

現代美術がイベント、コンセプト、映像へ広がるにつれ、美術館と市場は「作品をどう保存し、所有するか」という新しい制度を作る必要が生まれた。

「都市、行為、日常」という三つの軸

ハイレッド・センターを理解するためには、都市、行為、日常という三つを切り離さない方がよい。

都市は単なる背景ではなく、ホテル、鉄道、道路、屋上という既存インフラを提供する。行為は作品を一時的な出来事へ変える。日常は、清掃や測定のような普通の行動を美術へ転換する材料になる。

三つが重なることで、「美術館の中にないのに美術として働くもの」が生まれた。

1960–1964|ハイレッド・センター

ハイレッド・センターは1963年5月、高松次郎、赤瀬川原平、中西夏之によって結成された。名称は三人の姓の「高・赤・中」をHi・Red・Centerへ置き換えたものだった。結成以前から高松と中西は1962年の「山手線のフェスティバル」で公共交通へ介入し、1963年の最後の読売アンデパンダンでは三人がそれぞれ紐、洗濯バサミ、千円札や梱包を用い、作品と美術館空間の境界を揺さぶっていた。

結成後、彼らは「直接行動」によって美術を都市へ持ち出す。1963年の「第5次ミキサー計画」では秘密組織のような印刷物と記号を用い、1964年1月の《シェルター計画》では帝国ホテルへ招待客を呼び、身体を詳細に測定して個人用核シェルターの設計資料を作るという架空制度を運営した。作品は完成したシェルターではなく、招待、ホテル、測定、写真、書類を含む手続き全体だった。

同年には画廊を閉鎖する《大パノラマ展》、日用品を屋上から落とす《ドロッピング・イベント》を行い、10月16日には銀座で白衣姿の参加者が街路を過剰に清掃する《首都圏清掃整理促進運動》を実施した。東京オリンピックに合わせて都市が整備・美化される中、彼らは破壊ではなく「過剰な秩序」を演じることで、管理された都市と個人の関係を可視化した。

1964年以後、グループとしての主要活動は事実上停止したが、正式な解散によって終わったわけではない。高松は知覚と存在を問う概念的作品へ、赤瀬川は千円札事件を経て制度・日常の観察へ、中西は舞踏との協働を経て絵画の再構築へ進んだ。ハイレッド・センターが変えたのは、作品の見た目以上に「作品の単位」だった。一枚の物体ではなく、場所、指示、身体、行為、文書、時間を束ねた出来事そのものが美術になり得る。その転換は、1960年代後半の概念芸術やイベント、そして次に扱う草間彌生やオノ・ヨーコら国際前衛の活動を理解する重要な入口になる。

参考資料

資料確認日:2026年10月2日