7–8世紀
白鳳・天平美術
国家と仏教美術の形成
飛鳥美術から、国家規模の仏教美術へ
7世紀半ばから8世紀にかけて、日本列島の美術は大きく変化した。前代の飛鳥美術では、仏教とともに寺院建築、仏像、瓦、絵画、工芸などの新しい造形体系が導入され、法隆寺ではそれらが一つの宗教空間として組み上げられていた。そこからさらに時代が進むと、寺院造営と造仏は一部の有力氏族だけの事業ではなく、天皇を中心とする国家形成と深く結びついた大規模な営みへと拡大していく。
美術史では、7世紀半ば頃から710年の平城京遷都までを「白鳳時代」あるいは「白鳳文化」と呼ぶことがある。奈良国立博物館も、白鳳を7世紀半ばから710年までの文化や時代を指す美術史上の用語として説明している。この時期には藤原京の大官大寺や薬師寺、飛鳥の山田寺、川原寺などで造寺・造仏が活発化し、新羅をはじめ朝鮮半島諸国との交流を通じて大陸の新しい文化が伝えられた。
ただし「白鳳」は、律令上の正式な時代区分ではない。作品の制作年代についても、白鳳か天平かを明確に分けられない例がある。薬師寺の薬師三尊像のように、制作年代を7世紀末から8世紀初頭のどこに置くかについて長く議論が続いてきた作品もある。したがって白鳳美術と天平美術は、一本の線で完全に切り分けるよりも、7世紀後半から8世紀にかけて続く大きな変化の中で見る方が理解しやすい。
白鳳仏 — 飛鳥仏とは異なる若い身体
奈良国立博物館は、白鳳仏の特色として、若々しく、時に童子のような可憐さをもつ姿を挙げている。これは、法隆寺金堂の釈迦三尊像に代表される飛鳥前期の止利様式とは明らかに印象が異なる。飛鳥仏では左右対称性、強い正面性、線的な衣文が目立ち、身体は超越的で静止した存在として構成されていた。それに対して白鳳期の仏像では、身体に柔らかな量感が加わり、顔つきもより自然で若々しくなる。
その変化は単に「写実的になった」と言うだけでは十分ではない。仏像の身体そのものが、より立体的で、人間の身体に近い重さや柔らかさを感じさせるようになる一方、あくまで宗教的な理想像として整えられているからである。若い顔、なだらかな頬、丸みを帯びた肩や胴体、わずかな身体のひねりなどによって、静止していても像の内部に生命があるような感覚が生まれる。
東京都調布市の深大寺に伝わる国宝《銅造釈迦如来倚像》は、文化庁が7世紀後半ないし末の制作と推定する代表的な白鳳仏である。少年を思わせる明るい表情、身体に密着して肉付けを見せる着衣、流麗な衣文などが白鳳仏の特色とされている。ここでは、仏の姿は飛鳥前期の硬質な正面性から離れ、身体と衣がより密接に関係するようになっている。
薬師寺 — 双塔をもつ新しい伽藍
白鳳から奈良時代への変化を考えるうえで、薬師寺は重要な存在である。薬師寺公式の年表によれば、680年、天武天皇が皇后、後の持統天皇の病気平癒を願って建立を発願し、698年頃には伽藍がほぼ整って僧侶が住み始めた。その後、710年の平城京遷都に伴って寺も奈良へ移され、現在地の薬師寺では718年から新たな造営が進められた。
薬師寺の伽藍は、金堂の前方に東塔と西塔を左右対称に置くことで知られる。現在、西塔など多くの建物は近現代の再建だが、東塔は創建期から現存する唯一の主要建築であり、公式サイトでは730年創建、平城京に残る最古の建物と説明されている。外観には六つの屋根が見えるが、内部は三層であり、各層に裳階が付くことで大小の屋根が交互に重なる独特のリズムを作っている。
この構成は、単に建物を高く見せるための装飾ではない。大きな主屋根と小さな裳階が反復することで、塔全体に垂直方向への強い運動感が生まれる。さらに相輪上部の水煙には奏楽天人などが表され、建築の頂部まで宗教的な図像と装飾が及んでいる。寺院は仏像を収納する場所ではなく、建築そのものが宗教世界を可視化する巨大な造形だった。
薬師三尊像 — 身体の量感と金属の光
薬師寺金堂の国宝《薬師三尊像》は、中央の薬師如来と左右の日光・月光菩薩からなる大規模な金銅仏である。この三尊像の制作年代については、白鳳期とする説と天平初期とする説があり、奈良国立博物館もその議論を明記している。月光菩薩について同館は、腰をひねった均衡のとれた姿勢と、若々しく張りのある身体を特徴として挙げ、白鳳彫刻の流れの中で紹介している。
左右の菩薩像では、身体は完全な正面を向かず、腰や脚にわずかな動きが与えられる。衣や装身具は身体に沿って配置され、飛鳥前期の仏像に比べて、胸、腹、腰、脚という身体の構造が強く意識されている。これは人間をそのまま写した自然主義ではない。理想化された身体をより立体的に構成し、仏や菩薩の超越性を、身体の充実した量感によって表そうとする造形である。
金銅仏であることも重要である。銅で鋳造された像の表面には鍍金が施され、光を反射する。現在の表面は長い年月によって変化しているが、本来の金色の仏像は堂内で強い光沢をもっていた。寺院内部では、金属の光、彩色、灯明、建築の暗さが組み合わされ、仏像を見る経験そのものが作られていた。
聖観音像 — 正面性から身体の動きへ
薬師寺東院堂の国宝《聖観世音菩薩立像》も、白鳳美術を代表する作品である。奈良国立博物館は像高188.9センチメートルの銅造鍍金像とし、青年を思わせるみずみずしい体型を特徴としている。また、8世紀初頭の唐代造像と共通する要素があり、遣唐使がもたらした新しい図像との関係が考えられるとしている。
ここでは、飛鳥仏のような左右対称の厳格さから離れ、身体の左右に微妙な差が生まれている。腰の位置、腕の下ろし方、衣の流れによって、直立像でありながら身体が呼吸しているような感覚がある。仏像をより人間に近づけたというより、人体の構造や姿勢を理解することで、宗教的な存在を以前とは異なる説得力で表そうとしていると考えた方がよい。
白鳳美術では、このように人体の扱いが大きく変化する。顔、胸、腰、脚が一つの連続した立体として把握され、身体と衣の関係も複雑になる。そしてこの変化は、8世紀の天平彫刻でさらに進み、塑像や乾漆像による個性的な人物表現へとつながっていく。
古墳壁画に現れた東アジアの視覚世界
7世紀末から8世紀初頭の視覚文化は寺院だけに残されているわけではない。明日香村の高松塚古墳とキトラ古墳には、極彩色の壁画が描かれている。文化庁によれば、高松塚古墳は7世紀末から8世紀初頭に築造されたと考えられ、石室内部には星宿図、日月像、四神図、人物群像が描かれている。文化遺産オンラインは、その主題や構成には高句麗壁画との関連が考えられる一方、人物群像の空間表現、暈取り、彩色法、運筆には唐代絵画との密接な関係が見られると説明している。
ここには、日本列島の造形文化が東アジアの広い範囲と接続していたことが鮮明に示されている。四神は東西南北を守る青龍、白虎、朱雀、玄武であり、天体図や十二支とともに宇宙の秩序を墓室内部へ組み込む。キトラ古墳では四神すべてに加えて十二支像、日月、天文図が確認されており、文化庁はその天文図を東アジア最古の現存例としている。
高松塚古墳の女子群像などには、色鮮やかな衣服をまとった人物が複数描かれている。飛鳥時代以前の人物表現と比較すると、衣装、姿勢、集団の配置、色彩の扱いがきわめて複雑である。仏教美術とは異なる場でありながら、同じ時代に大陸から流入した新しい絵画技術や図像体系が受容されていたことがわかる。
710年、平城京へ — 都市と寺院が国家の構造に組み込まれる
710年、都は藤原京から平城京へ移された。ここから奈良時代が始まり、仏教美術はさらに国家的な規模へ拡大していく。興福寺は710年、藤原不比等によって平城京へ移されて現在の名を得た。薬師寺も平城京へ移され、東大寺、大安寺、元興寺などとともに奈良の大寺院群を形成していく。
この時代の寺院は、宗教施設であるだけでなく、政治、教育、経済、技術、国際交流の拠点でもあった。大規模な堂塔を建てるには大量の木材、瓦、金属、漆、顔料が必要であり、それを加工する多くの工人を組織する必要がある。仏像一体、建物一棟の背後に、国家や有力氏族の資源動員能力が存在していた。
美術の規模が大きくなることは、単純に作品が巨大化することだけを意味しない。制作を支える組織、技法、素材の流通、図像の知識、寺院の制度が複雑になり、それらが相互に結びつく。白鳳から天平への移行は、美術が国家の制度の中に深く組み込まれていく過程でもあった。
天平彫刻 — 素材が変わると、身体も変わる
8世紀の天平彫刻では、金銅仏や木彫に加え、塑像と乾漆像が重要になる。塑像は粘土を使って形を作る技法であり、柔らかな材料を少しずつ盛り上げながら顔や身体を造形できる。一方、乾漆像では漆と麻布などを重ねて像を形成する。こうした技法は、硬い木材を直接彫る場合や、金属を鋳造する場合とは異なる身体表現を可能にした。
とくに脱活乾漆造では、まず心木を立てて粘土で像の原型を作り、その表面に漆で麻布を何層も貼り重ねる。乾燥後に像の背面などを切り開いて内部の土を取り除き、残った漆と布の殻を像として仕上げる。興福寺は、八部衆像についてこの制作法を具体的に説明している。完成した像は内部が中空になるため、同じ大きさの金属像や粘土像より軽くでき、表面には細かな表情や衣の起伏を作り込むことができた。
この素材と技法の変化は、天平彫刻の表現に直接関係している。頬の膨らみ、まぶた、唇、指、衣服の細かな重なりなどを柔軟に造形できるため、像ごとの個性が強くなる。仏教彫刻は依然として経典や図像に従う宗教的な像であるが、その枠組みの中で、一体ごとに異なる顔や身体の表情を持つようになった。
興福寺西金堂 — 多数の像が一つの世界をつくる
天平6年、734年、光明皇后は母・橘三千代の冥福を願って興福寺西金堂を建立した。興福寺の記録では、堂内には釈迦三尊像を中心に、八部衆、十大弟子、梵天、帝釈天、四天王、金剛力士など多数の像が配置されていた。現在、西金堂そのものは失われているが、その一部である乾漆八部衆像と十大弟子像が伝わっている。
この構成を考えると、阿修羅像を一体だけ取り出して見るだけでは、本来の意味の一部しか理解できないことがわかる。阿修羅は八部衆の一体であり、釈迦を中心とした大きな仏教世界の中に位置づけられていた。多数の像がそれぞれ異なる役割、姿、表情を持ちながら、一つの堂内に集められることで、宗教的な世界が立体的に再構成されていた。
阿修羅像 — 神の姿と少年のような顔
興福寺の国宝《阿修羅像》は、天平彫刻を代表する作品として広く知られている。像高153.4センチメートル、三面六臂の姿をもち、脱活乾漆造と彩色によって制作されている。阿修羅はもともとインドの神であり、仏教へ取り入れられた後は仏法を守護する八部衆の一員とされた。
この像で強い印象を残すのは、三つの顔と六本の腕という超人的な身体構造と、中央の顔に見られる若く内省的な表情との組み合わせである。身体は細く、表情には激しい怒りよりも緊張や思索を感じさせる。神格を表す像でありながら、見る者が心理的な感情を読み取りたくなるほど繊細な顔貌が与えられている。
ただし、この像を現代的な意味での「心理描写」と断定することには慎重であるべきだろう。制作者が特定の少年の感情を写した証拠があるわけではない。それでも、飛鳥仏の厳格な正面性と比較すれば、天平彫刻で顔貌の微妙な差異や個体性が強く意識されるようになったことは明らかである。
十大弟子像 — 宗教的類型の中に現れる個性
興福寺の乾漆十大弟子像も、天平彫刻の人間表現を考えるうえで重要である。興福寺は、これらの像について、顔の表情、手の形、袈裟の折り目に変化を持たせ、それぞれに個性的な表現を与えていると説明している。迦旃延像では、身体をわずかにひねり、口を開いて歯を見せるなど、静止した像の中に発話の瞬間を感じさせる。
ここでは「僧侶」という共通した図像に従いながら、年齢、顔つき、姿勢、動作が一体ごとに異なる。宗教的な役割を持つ像でありながら、それぞれが別の人物として存在しているように感じられる。これは、天平彫刻が人体の構造だけでなく、人の違いを表すことへ関心を深めたことを示している。
彩色されていた天平彫刻
現在、古代彫刻を見ると木材や漆の落ち着いた褐色を「古い仏像らしい色」と感じることがある。しかし制作当初の像は、しばしば鮮やかに彩色されていた。興福寺の八部衆像や十大弟子像も「乾漆・彩色」の像であり、衣服、装身具、身体には色が施されていた。
つまり、現在私たちが見る古代美術の色彩は、制作当初の状態とは大きく異なる場合がある。金銅仏は金色に輝き、乾漆像や塑像には顔料が塗られ、寺院建築も柱や部材が彩色された。古代の寺院空間は、今日の「古色」のイメージより、はるかに強い色彩と光をもった環境だったと考えられる。
時間の経過によって色が失われたことは、作品の意味を変えている。現在の古代美術に感じる静謐さや素材感の一部は、1300年近い時間によって生まれたものであり、制作当初の視覚経験とは異なる。美術史では、残っている姿だけでなく、失われた色や光も想像しながら作品を見る必要がある。
唐、新羅、朝鮮半島 — 「日本美術」は交流の中で形成された
白鳳・天平美術は、国内だけの変化として理解することはできない。7世紀後半から8世紀にかけて、日本列島は唐、新羅など東アジアの諸地域と継続的に交流していた。仏教の経典や図像、寺院制度、建築技術、彫刻様式、絵画技法、工芸品が人とともに移動した。
高松塚古墳壁画には高句麗壁画との関係と唐代絵画の技法が見られ、薬師寺の聖観音像にも唐代造像との共通点が指摘されている。こうした事例は、一つの様式が一方向に「輸入」されたのではなく、複数の地域の文化が重なりながら日本列島で新しい造形へ再構成されたことを示している。
この時代の日本美術を「日本独自の様式が完成した時代」とだけ見ると、その成立条件を見失う。むしろ外部の文化を積極的に受け入れ、政治制度、宗教制度、技術、素材、土地の条件に合わせて組み替える力こそが、古代日本の美術を形成した。
白鳳から天平へ — 「仏の姿」から「人のような像」へ
飛鳥前期から白鳳、天平へと仏教彫刻を並べると、身体表現が少しずつ変わっていくことが見える。飛鳥前期の仏像では線と正面性が強く、白鳳仏では若々しい身体と柔らかな量感が現れ、天平彫刻では顔や身体の個別性がさらに高まる。
しかし、この流れを単純な「写実性の進歩」と考えるべきではない。目的は現実の人間を忠実に写すことではなく、仏、菩薩、神、弟子といった宗教的な存在を、どのような身体としてこの世界に現前させるかにあった。写実的に見える表現も、その宗教的な役割を強めるために選ばれた方法の一つである。
素材と技術もその変化を支えた。金属の鋳造、木彫、塑像、乾漆という複数の方法が使われ、それぞれが異なる表面、重量、身体表現を可能にした。造形の歴史とは、様式だけではなく、素材と制作技術の歴史でもある。
国家が美術をつくるということ
この時代、美術制作の主体は現代の「個人作家」とは大きく異なっていた。寺院の建立や大規模な造仏には、天皇、皇族、貴族、有力氏族が発願者として関わり、その下で官司や寺院組織が職人や素材を動員した。興福寺西金堂の造営では皇后宮職が関与し、興福寺によれば延べ5万5千人の人員、大量の漆が投入された。
一体の仏像や一棟の寺院の背後には、宗教的な願いだけでなく、行政、労働、資源、技術、物流の組織が存在していた。ここでは美術は国家や社会の構造から独立したものではない。巨大な造形を実現できることそのものが、組織された権力と技術の存在を示していた。
その構造は、8世紀半ばの東大寺大仏で最大規模に達する。巨大な盧舎那仏を造り、そのための大仏殿を建てる事業には全国から資源と人が集められた。次の記事では、奈良時代と東大寺を中心に、国家仏教がいかに巨大な造形へ結びついたのかを見ることになる。
白鳳・天平美術の意味
白鳳・天平美術は、日本美術史の中で仏教美術が本格的に成熟していく時代である。しかし重要なのは、単に「名作が増えた」ことではない。寺院が都市と国家の構造へ組み込まれ、彫刻には複数の素材と技法が使われ、絵画には東アジアの新しい技術が導入され、大規模な制作を支える組織が形成された。
白鳳仏の若々しい身体、薬師寺東塔の複雑な屋根の反復、高松塚・キトラ古墳壁画の宇宙図、天平乾漆像の個性的な顔。これらは一見すると異なる作品群だが、その背後には共通して、7世紀後半から8世紀の日本列島が東アジアとの交流を通じて新しい視覚文化を急速に吸収し、それを国家と宗教の仕組みの中で作り直していった状況がある。
そして奈良時代になると、この動きはさらに巨大化する。平城京という都市、大寺院、東大寺大仏、正倉院に集まった国際色豊かな工芸品へと、美術の範囲は広がっていく。白鳳と天平の間に見える変化は、飛鳥時代に導入された仏教美術が、古代国家の中心的な視覚文化へ変わっていく過程そのものなのである。
参考資料
- 奈良国立博物館「白鳳 — 花ひらく仏教美術」
- 文化庁「国宝(美術工芸品)の指定について」
- 奈良薬師寺「薬師寺の歴史」
- 奈良薬師寺「国宝 東塔」
- 興福寺「興福寺の歴史」
- 興福寺「興福寺の歴史 — 略史2」
- 興福寺「乾漆八部衆立像」
- 興福寺「阿修羅像」
- 興福寺「乾漆十大弟子立像」
- 文化庁「高松塚古墳の保存管理の経緯と壁画修理後の保存の在り方」
- 文化遺産オンライン「高松塚古墳壁画」
- 文化庁「キトラ古墳壁画」
資料確認日:2026年10月1日