Art Library

1970

大阪万博

芸術、建築、テクノロジー

1970年の大阪に、「未来都市」が半年だけ出現した

1970年3月15日から9月13日まで、大阪府吹田市の千里丘陵で日本万国博覧会、通称「大阪万博」「EXPO’70」が開催された。万博記念公園の公式記録によれば、会期は183日間、会場面積は約330ヘクタール、入場者数は6,421万8,770人に達した。テーマは「人類の進歩と調和」。アジアで初めて開催された万国博覧会であり、高度経済成長を遂げた戦後日本が、技術、産業、文化の到達点を世界へ示す巨大な国家的イベントだった。

しかし美術史から見ると、大阪万博は単なる産業見本市ではない。建築家、美術家、作曲家、映像作家、デザイナー、エンジニア、企業が協働し、建物、映像、音響、光、霧、身体、イベントを一つの「環境」として体験させる実験場になった。

前の記事で扱った東京ビエンナーレ「人間と物質」が、同じ1970年に石、鉄、紙、重力、場所の関係を静かに問い直したとすれば、大阪万博は正反対の方向から、巨大な技術と資本によって人間を包み込む環境を作った。二つは同じ年の日本現代美術を理解するための、対照的な出来事である。

テーマは「人類の進歩と調和」

大阪万博のテーマ「人類の進歩と調和」は、技術文明の発展を肯定しながら、それが人間社会と共存する未来を構想する言葉だった。国際博覧会事務局も、冷戦下にありながら急速な経済発展を遂げた日本が、技術文明の進歩を示しつつ平和と共通基盤を訴える場として万博を位置づけている。

しかし「進歩」と「調和」は簡単に一致しない。産業技術が進歩すれば、都市化、公害、大量消費、自然環境の改変も進む。世界各地ではベトナム戦争、学生運動、反体制運動が続いていた。

大阪万博は「未来は技術によってより良くなる」という戦後社会の強い期待を示す一方、その期待自体が疑われ始めた時期にも開催された。

会場そのものが巨大な展示だった

万博では各国・企業のパビリオン内部だけが展示なのではない。道路、広場、交通システム、サイン、ランドスケープ、塔、巨大屋根を含む330ヘクタールの会場全体が未来都市の模型として設計された。

万博記念公園の資料は、会場が一日に数十万人を受け入れる高度な都市機能を必要としたと記録している。人を運び、情報を伝え、食事を供給し、イベントを同時進行させる巨大なシステムそのものが展示だった。

ここで建築は「作品を入れる箱」ではない。都市計画、交通、イベント運営、視覚デザインを統合する媒体となる。

丹下健三とシンボルゾーン

文化庁国立近現代建築資料館は、大阪万博を「技術・デザイン・芸術の統合」として位置づけ、シンボルゾーンの主要施設として丹下健三の大屋根・お祭り広場、菊竹清訓のエキスポタワー、大高正人のメインゲートなどを挙げている。

丹下は戦後日本建築を代表する建築家であり、都市を単体建築の集合ではなく、巨大な構造と交通によって成長するシステムとして考えていた。万博は、そうした都市思想を実際の巨大イベントとして試す機会になった。

中心部には大屋根、お祭り広場、太陽の塔が配置され、そこから各パビリオンへ人々が流れる。会場の中心は一つの建物ではなく、人間の移動とイベントが交差する都市的な「場」として設計された。

大屋根 — 建築を巨大なインフラにする

お祭り広場を覆った大屋根は、長さ約292メートル、幅約108メートルに達する巨大構造だった。万博記念公園によれば、丹下健三の設計、坪井善勝・川口衞らの構造設計による立体トラス構造で、当時の日本の建築技術を象徴する施設の一つとなった。

屋根の下には大人数が集まり、開閉会式や各国のナショナルデー、音楽、舞踊、パフォーマンスが繰り広げられた。建築は固定された記念碑というより、多様な出来事を受け入れる巨大なフレームだった。

1960年代の建築で盛んに議論されたメガストラクチャーの考えが、半年間の都市装置として現実化したとも言える。

岡本太郎《太陽の塔》は大屋根を突き破った

シンボルゾーンの中心には、岡本太郎がデザインした《太陽の塔》が立った。高さ約70メートルの塔は、丹下らが設計した合理的な大屋根を貫いて上へ伸びる。

万博記念公園によれば、頂部の「黄金の顔」は未来、正面の「太陽の顔」は現在、背面の「黒い太陽」は過去を象徴する。内部には高さ約41メートルの《生命の樹》があり、原生生物から人類へ至る生命の進化を立体的に表現した。

鉄骨トラスによる未来都市のグリッドから、原始的で巨大な顔を持つ塔が突き出す。その衝突自体が大阪万博の象徴的な風景になった。

岡本太郎は「未来」を機械だけで表さなかった

万博全体には電子機器、コンピューター、映像システム、新素材があふれていた。しかし岡本のテーマ館では、未来だけでなく、生命、原始、祭祀、人類の過去が強調された。

地下展示では「生命の神秘」、地上では「現代のエネルギー」、大屋根の空中部門では「未来の空間」が扱われ、来場者は地下から太陽の塔内部を通り、空中展示へ移動した。

技術文明が未来へ一直線に進むという時間観に対し、岡本は過去・現在・未来を同時に一つの巨大な身体へ重ねた。万博の「進歩」という理念の内部へ、原始的な生命力を挿入したのである。

太陽の塔と大屋根は、異なる未来像の衝突でもあった

大屋根は均質な構造体であり、拡張可能な人工環境を象徴する。一方、太陽の塔は左右非対称の巨大な身体を思わせ、計算可能な工業製品の外観とは異なる。

両者を別々の作品として見るだけではなく、塔が大屋根を物理的に突き抜ける構図を見ると、大阪万博の中に二つの未来観が共存していたことが分かる。

都市を合理的システムとして設計する未来と、合理性では割り切れない生命・祭り・身体を中心に置く未来。万博の中心部では、この二つが一つの景観として成立していた。

メタボリズムの建築が実物になる

1960年代の日本では、菊竹清訓、黒川紀章らメタボリズムの建築家が、都市や建築を生物のように成長・交換可能なシステムとして考えていた。多くの提案は未来都市のドローイングだったが、大阪万博では一部が実際の建築となった。

森美術館は、メタボリズムが建築や都市だけでなく、「環境」というキーワードを通して美術、デザイン、音楽へ広がり、1966年の「空間から環境へ」展から1970年大阪万博へつながったと整理している。

万博は、紙の上の未来都市を一時的ではあっても実際に建設できる特殊な機会だった。

菊竹清訓《エキスポタワー》

菊竹清訓が設計したエキスポタワーは、シンボルゾーン南側の丘に建てられた展望塔だった。万博記念公園の資料によれば、上部に展望施設を持ち、会場全体や周辺の交通を見渡すランドマークであると同時に、無線中継基地としても使われた。

M+は、この塔をメタボリズム思想が実際の建築となった稀有な例として紹介している。中央の巨大な立体トラスへ複数の多面体カプセルを取り付け、将来的に追加・交換できるように見える構造を持っていた。

建築を完成した一つの形ではなく、部品を交換しながら成長する骨格として考える。万博はその思想を巨大な実物として提示した。

黒川紀章《タカラ・ビューティリオン》

タカラグループの《タカラ・ビューティリオン》は、鋼管ユニットとステンレス製カプセルを組み合わせた建築だった。万博記念公園の記録によれば、構成部材は工場で製作され、現場では短期間で組み立てられ、必要に応じてレイアウトやユニットを増減できる構想を持っていた。

黒川紀章が発展させていたカプセル建築の考えが、企業パビリオンという一時建築で大胆に試された。建築を土地へ永久に固定するのではなく、部品化し、組み替え可能にする。

二年後の中銀カプセルタワービルへもつながる、メタボリズムの交換可能性が大衆の目に触れた。

万博パビリオンは、建築の「試作品」だった

万国博覧会の建築は、会期終了後に解体されることを前提とする場合が多い。恒久建築なら安全性、維持管理、長期利用など多くの制約があるが、半年のパビリオンでは大胆な材料や構造を試しやすい。

文化庁国立近現代建築資料館は、大阪万博の建築図面を、技術・デザイン・芸術を結びつけた実験の証拠として位置づけている。

一時的だからこそ実現できた建築が、後の建築史へ大きなイメージを残す。万博は実物大の未来建築研究所でもあった。

1966年「空間から環境へ」が前史にあった

大阪万博の四年前、1966年11月、東京・銀座松屋で「空間から環境へ」展が開催された。絵画、彫刻、写真、デザイン、建築、音楽など異なる領域の38名が参加し、作品単体から観客を包む「環境」へ表現を広げることを試みた。

森美術館は、この展覧会をメタボリズム期の建築・美術・デザイン・音楽が交差する重要な出来事と位置づけ、1970年大阪万博を「環境」という考えが巨大イベントとして展開した場として捉えている。

万博で突然アートとテクノロジーが結びついたのではない。実験工房、草月アートセンター、「空間から環境へ」など1950–60年代の横断的な実践が、その前史として存在していた。

万博では「作品を見る」より「環境に入る」

従来の美術館では、観客は壁の絵や台座の彫刻を順番に見る。大阪万博の多くの展示では、建物へ入り、暗闇を歩き、音に包まれ、映像が周囲を覆い、床や座席が体験の一部になる。

映像・音響・照明・建築を組み合わせれば、作品は一つの対象ではなく全身で経験する環境になる。

現在の没入型展示やメディア・アートに通じる形式が、企業パビリオンを含む巨大な大衆イベントとして実験された。

鉄鋼館 — 建物そのものを「巨大な楽器」にする

日本鉄鋼連盟が出展した鉄鋼館は、現在もEXPO’70パビリオンとして残る重要な建築である。設計は前川國男。テーマは「鉄の歌」だった。

中心の「スペース・シアター」は外部から遮断された音響空間で、万博記念公園によれば、天井、壁、床下に合計1,008個のスピーカーが配置された。音が前方の舞台から聞こえるのではなく、あらゆる方向から移動してくる。

建物は音楽を収容するホールではなく、ホール全体が一つの巨大な楽器として設計された。

武満徹が音響空間をプロデュースする

鉄鋼館の演出プロデューサーは作曲家・武満徹だった。1,008個のスピーカーを用いる多元音響システムによって、音を空間の中で自由に移動させることが構想された。

プログラムには武満徹《クロッシング》、イアニス・クセナキス《ヒビキ・ハナ・マ》、高橋悠治《エゲン》が含まれた。音楽は時間の中で流れるだけでなく、空間上の位置を持つようになる。

電子技術は作曲された音を増幅する補助装置ではなく、作曲そのものの条件を変える媒体になった。

宇佐美圭司とレーザー光

鉄鋼館では宇佐美圭司が光の演出を担当し、赤と青のレーザーを複数地点から発射し、鏡によって反射・変化させる空間演出が行われた。

音楽と光が同期し、固定された絵画を見るのではなく、時間とともに空間全体が変化する。

美術家の仕事が一枚の作品を作ることから、照明、音響、エンジニアリングを含む環境を設計することへ拡張した例である。

バシェ兄弟の「音響彫刻」

鉄鋼館のホワイエには、フランソワ・バシェとベルナール・バシェによる音響彫刻も展示された。金属やガラスを叩いたり擦ったりすると、彫刻自体が独特の音を出す。

彫刻を見るだけでなく、音を発生させる装置として体験する。視覚芸術と音楽の境界が一つの物体の中で消える。

1950年代の実験工房が追究した視覚・音響・舞台の統合が、万博では大規模な企業館の中で実現された。

みどり館《アストロラマ》

みどり館では「アストロラマ」と呼ばれる全天全周映像が最大の展示となった。半球状ドームの内部全体をスクリーンとし、5台の特殊カメラと5台の映写機によって、周囲360度、上下210度に映像を投影した。

万博記念公園はこれを、従来の「見る映画」と異なる「参加する映画」と説明している。総スクリーン面積は約2,000平方メートル、音響には515個のスピーカーが使われた。

映画のフレームを正面の四角いスクリーンから解放し、観客の視界全体を映像へ変える。映像は建築そのものになった。

「映画を見る身体」が変わる

通常の映画館では、観客は同じ方向を向き、正面スクリーンを見続ける。全天全周映像では、背後や頭上にも像があるため、一つの方向だけを見ていられない。

観客は頭や身体を動かし、映像空間の中で自分の位置を感じる。

映像の革新は画質だけではなく、「観客をどこに置くか」を変えることだった。これは後のドーム映像、VR、没入型メディアへつながる問題である。

せんい館と松本俊夫の「空間芸術」

せんい館では、映像作家・松本俊夫が監督したスペース・プロジェクション《アコ》が展開された。巨大な女性像、複数スクリーン、映像、57台のスピーカー、照明を組み合わせ、ドーム全体を一つの映像環境へ変えた。

松本は実験映画と映像理論の重要人物であり、映画を一方向のスクリーンから解放する試みを続けていた。

万博では、その実験が巨大企業パビリオンの予算と技術によって大規模化した。前衛映像と商業展示の境界がここで接触する。

富士グループ館と巨大映像

大阪万博では映像技術そのものが未来の象徴になった。国際博覧会事務局は、富士グループ館で世界初のIMAX映画が上映されたことを、万博の技術的革新の一つとして紹介している。

従来よりはるかに大きく高精細な映像を使い、観客の視界を占有する。映画は家庭のテレビと競うのではなく、家庭では再現できない巨大体験へ進んだ。

万博は映像作品の内容だけではなく、スクリーン、投影機、音響など「見るための装置」そのものを展示する場だった。

ペプシ館 — E.A.T.が企業パビリオンを作品にする

大阪万博のアートとテクノロジーを象徴する国際的プロジェクトが、ペプシコーラ社のパビリオンだった。ニューヨークのExperiments in Art and Technology(E.A.T.)が設計・プログラムを担い、20名ほどのアーティストと50名ほどのエンジニア・科学者が関わった。

Getty Research Instituteは、このパビリオンをE.A.T.の代表的プロジェクトとして位置づけ、演劇、音響、光学、工学、彫刻を融合した没入環境と説明している。

企業館でありながら、商品説明より「人間の知覚そのものを変える環境」を作ろうとした点が特異だった。

中谷芙二子《霧の彫刻》

ペプシ館外部を覆った最大の特徴が、中谷芙二子による人工霧だった。ドーム外周に多数のノズルを配置し、水を微細な粒子として噴霧することで、建築全体を天候のような霧が包んだ。

Gettyによれば、中谷はE.A.T.東京側の重要メンバーとしてこのプロジェクトに関わり、エンジニアや研究者と協力して大規模な霧生成システムを開発した。

彫刻は石や金属の固定物ではなく、風、湿度、温度によって毎秒形を変える気象現象になる。作者が形を完全に制御できない環境彫刻だった。

建築を隠すことで、建築を変える

白い幾何学ドームへ霧をかけると、建築の輪郭が消えたり現れたりする。建物は固定された物体ではなく、気象条件によって変化する像になる。

ペプシ館の公式資料によれば外周には2,500本のノズルが使われ、大量の水を細かな霧へ変えた。

新しい建築形態を設計するのではなく、既存の建築の見え方を環境によって変える。この考えは、もの派や環境芸術とは別の方法から「物体より関係」を扱っている。

ロバート・ブリアの《Floats》

ペプシ館の広場では、ロバート・ブリアによる白い移動彫刻《Floats》がゆっくりと自走した。機械でありながら目的地を持たず、観客の間を不規則に移動する。

彫刻は台座へ固定されず、自分で位置を変える。観客が作品の周囲を歩くのではなく、作品の方が観客のいる空間へ移動する。

静止物という彫刻の前提を、簡単なモーターと制御技術が変えた。

鏡のドームと360度の像

ペプシ館内部には、直径約90フィートの巨大な半球形ミラーが設置され、内部空間と観客の姿を連続的に反射した。Gettyはこの鏡面を、パビリオンの多感覚体験の中心の一つとして紹介している。

普通の鏡では自分の像を正面に見る。しかし曲面鏡では人、床、光、空間が歪みながら一つの反射像へ統合される。

草間彌生の鏡の部屋とは異なる技術的構造を持つが、1960年代に「鏡によって観客自身を環境の中へ組み込む」表現が複数の場所で発達していたことが分かる。

デイヴィッド・チュードアの音響

ペプシ館内部では作曲家・演奏家デイヴィッド・チュードアらが複雑な空間音響システムを構築した。音を特定の方向から聞かせるだけでなく、空間内の位置を移動させ、観客を音の内部へ置く。

鉄鋼館の1,008スピーカーと同様、1970年の大阪では「音楽を聴く」のではなく「音響空間へ入る」という発想が複数のパビリオンで実現した。

日本とアメリカで別々に発達したアート・アンド・テクノロジーの実践が、万博会場で同時に大衆へ公開された。

アートと企業の協働には摩擦もあった

E.A.T.とペプシコーラ社の協働は理想的な成功物語だけではない。Gettyのアーカイブと研究によれば、運営費、技術的な問題、ライブ・プログラムの内容をめぐって両者の関係は悪化し、開幕約一か月後にペプシ側がE.A.T.との運営協力を打ち切った。

芸術家は実験、失敗、予測不能性を作品の価値として受け入れられる。一方、企業パビリオンには予算、広報、安全、安定運用が求められる。

大阪万博は「芸術とテクノロジーは協働できる」と示したと同時に、「芸術と企業の目的は必ずしも一致しない」という問題も露出させた。

企業が前衛芸術を必要とした

高度経済成長期の企業にとって、未来的な企業イメージを作ることは重要だった。新製品を展示するだけでなく、「この企業は未来を作っている」という経験を観客へ与える必要がある。

そこで前衛芸術家の実験性が企業展示へ取り込まれる。映像作家、作曲家、建築家、彫刻家が企業パビリオンのプロデューサーや演出家となった。

前衛はもはや小さな画廊の反体制文化だけではない。巨大企業の予算で数百万人へ見せる公共的スペクタクルにもなり得た。

それは「前衛の勝利」だったのか

1950年代の実験工房、具体、反芸術は、既成美術制度の外へ表現を広げようとした。その実験が1970年には万博という国家・企業主導の巨大イベントで必要とされている。

一方から見れば、前衛芸術が社会へ浸透し、建築・産業・大衆文化を変えた成功である。別の角度から見れば、制度を批判した前衛が国家的祝祭や企業広告へ吸収されたとも考えられる。

大阪万博の美術史的な面白さは、このどちらか一方に決められない点にある。

具体美術協会も万博へ参加した

大阪中之島美術館の具体美術協会アーカイブによれば、具体は大阪万博に参加し、「万国博美術展」への出品、みどり館エントランスでの「グタイグループ展示」、さらに8月31日から9月2日までお祭り広場で「具体美術まつり」を実施した。

1950年代に芦屋公園で野外展を行い、紙を破り、泥と格闘した具体が、1970年には世界最大級の国家イベントの中心会場へ登場する。

これは具体が社会的承認を得た証拠であると同時に、前衛芸術と制度の関係が十数年で大きく変化したことを示す。

「具体美術まつり」では作品が舞台イベントになる

具体は初期から舞台を使った実験を行っていたため、万博のお祭り広場という巨大なイベント空間は、その過去の実践を大規模化できる場所でもあった。

ここでは美術作品は静かな展示物だけではなく、照明、身体、音、動き、観客を含む祝祭的な出来事になる。

1957年の「舞台を使用する具体美術」から1970年の万博へ、具体のイベント志向には一定の連続性があった。

万国博美術館と「芸術」の制度

大阪万博には「万国博美術館」も設置された。万博記念公園の記録では、貴重な美術品を守るため温湿度、紫外線、熱、採光を自動制御する当時先端の設備が導入され、新しい美術館の方向性を示したとされる。

つまり大阪万博では、最先端の環境芸術だけでなく、歴史的美術品を保存展示する近代美術館技術も同時に提示されていた。

「古い作品を安全に保存する装置」と「新しい作品を環境として生成する装置」が、同じ会場の中に共存した。

万博美術館は国立国際美術館へつながる

国立国際美術館の沿革によれば、万博終了後、旧万国博美術館の建物は国立国際美術館の施設として引き継がれ、1977年に同館が開館した。2004年に中之島へ移転するまで万博記念公園内に所在した。

半年間のイベント施設が、戦後美術を収集・展示する恒久的な国立美術館へ転用された。

大阪万博は一過性の祝祭で終わらず、日本の現代美術制度そのものにも物理的な遺産を残した。

「未来」は映像と音響によって体験されるようになった

大阪万博で繰り返し現れるのは、未来を図解して説明する展示ではなく、映像、レーザー、立体音響、鏡、霧によって身体的に体験させる方法である。

観客は未来都市の模型を見るだけでなく、全天映像へ入り、多方向音響に包まれ、動く彫刻の横を歩き、霧の中へ入る。

未来は「知識」として展示されるのではなく、「感覚」として演出されるようになった。

テクノロジーは展示内容ではなく展示方法になった

産業博覧会では、新しい機械を陳列することが伝統的な展示方法だった。大阪万博では技術そのものが見えない場所へ組み込まれ、鑑賞体験を作るようになる。

スピーカー、レーザー、映写機、制御装置、ポンプ、センサー、空調システムは、観客に必ずしも機械として見える必要がない。背後で作動し、環境を変える。

ここからメディア・アートにおける技術は「テーマ」より「作品を成立させるインフラ」へ近づいていく。

大量の観客へ前衛芸術を見せる

1960年代の前衛美術は、画廊、同人誌、アートセンターなど比較的小規模な観客へ向けて行われる場合が多かった。大阪万博では6,400万人を超える人々が会場を訪れた。

観客の大半は現代美術を見るためだけに来たわけではない。企業館、外国館、月の石、遊園地、食文化などを目当てに訪れ、その途中で実験映像、音響彫刻、霧の環境、美術家のイベントへ遭遇する。

前衛芸術が「美術を見に来ない人」へ一気に接触した点で、万博は特別な場だった。

美術館から出ることと、企業館へ入ることは同じではない

ハイレッド・センターが街路へ出た時、美術館制度から距離を取ることが重要だった。大阪万博でも美術家は美術館の外へ出ているが、そこには企業、国家、博覧会協会という別の制度がある。

「美術館の外」は自動的に自由な場所ではない。予算、スポンサー、広報、技術、安全、来場者管理といった別の条件へ作品が組み込まれる。

ペプシ館でE.A.T.と企業側が衝突したことは、その違いを非常に明確に示している。

万博を批判する前衛も存在した

すべての前衛美術家が大阪万博を未来の実験場として歓迎したわけではない。東京都現代美術館には、平田実が撮影した1969年の「万博破壊共闘派」「万博粉砕ブラック・フェスティバル」の記録写真が収蔵されている。

1960年代末には、美術家共闘会議など、美術制度そのものを政治的に批判する動きも現れた。国家・企業が「前衛」を利用して未来的イメージを作ることへ疑問を持つ作家がいたことは、万博美術史に欠かせない。

大阪万博を「日本中が未来へ熱狂した幸福な時代」とだけ記憶すると、この同時代の対立が消えてしまう。

参加と反対は、きれいに二分できない

万博へ参加した作家が体制支持者で、参加しなかった作家が反体制だった、という単純な線引きもできない。作家は企業資金を利用しながら実験を実現することもでき、制度の内部で予想外の作品を作ることもある。

一方、企業や国家が前衛芸術のイメージを「新しい日本」の広告として利用することもできる。

大阪万博は、芸術家が社会制度と協働するときに生まれる可能性と危険を同時に巨大化した。

東京ビエンナーレとの対照

1970年5月、東京では「人間と物質」が開催されていた。大阪万博と時期が重なる。二つを並べると、日本現代美術の1970年が一つの方向へ進んでいなかったことが分かる。

大阪では企業、国家、建築、電子技術が総動員され、巨大な没入環境が作られた。東京ビエンナーレでは、石、鉄板、紙、油、場所、行為などを最小限に提示し、「作品を作りすぎない」方向が注目された。

テクノロジーを最大化する未来と、物質との関係を最小限に問い直す美術。同じ年に両者が並行していた。

大阪万博は「メディア・アートの始まり」なのか

映像、電子音響、レーザー、コンピューター制御、環境装置が多数使われたため、大阪万博を日本のメディア・アートの出発点と呼びたくなる。

しかし、その前には実験工房、草月アートセンター、1966年「空間から環境へ」など長い蓄積がある。海外でもE.A.T.の《9 Evenings》など、アートと工学の協働はすでに進んでいた。

大阪万博は始まりというより、それまで複数の場所で進んでいた芸術と技術の実験が、国家規模・企業規模で一気に集積した「頂点」の一つと考える方が正確である。

実験工房から大阪万博へ

1950年代の実験工房では、山口勝弘、北代省三、武満徹、湯浅譲二らが、スライド、録音音楽、舞台、美術、写真を組み合わせていた。当時は限られた機材と小さな会場で行われた実験だった。

1970年には武満が1,008スピーカーを持つ巨大音響空間をプロデュースし、映像作家は企業館で全天投影を行う。十五年ほどの間に、前衛の小規模実験が産業技術と接続し、桁違いのスケールへ拡張された。

その変化は、戦後日本の経済成長が芸術の制作条件まで変えたことを示している。

一方で、技術は急速に古くなる

万博では当時最新だった映像機器、音響装置、電子制御が大量に使われた。しかしテクノロジーは更新速度が速く、数十年後には機器自体が使えなくなる。

絵画なら支持体と絵具を保存できるが、特殊な映写機や制御装置を使う作品は、部品、ソフトウェア、技術者の知識まで保存しなければ再現できない。

大阪万博は、後のメディア・アート保存が抱える問題を早くから示した。

現在残るのは建築だけではない

太陽の塔や旧鉄鋼館は現在も見ることができるが、多くのパビリオンは消滅した。それでも設計図、模型、写真、映像、パンフレット、音源、企業資料、作家アーカイブが各機関へ残されている。

Getty Research InstituteはE.A.T.の膨大な資料を所蔵し、大阪中之島美術館は具体の万博参加資料を整理し、国立近現代建築資料館は建築図面を研究対象としている。

万博の歴史は、現存建築だけでなく複数のアーカイブを横断して再構成される。

旧鉄鋼館が記念館になった意味

鉄鋼館は万博終了後も残り、2010年からEXPO’70パビリオンとして公開されている。スペース・シアターも保存され、当時の音響・光演出を伝える施設になった。

一時的な万博パビリオンが、今度は万博そのものを保存する博物館へ変わった。

展示する建築が、自分自身の歴史を展示する建築になる。大阪万博の「未来」が、半世紀後には文化遺産として保存される対象になった。

太陽の塔も「未来」から「文化財」へ変わる

太陽の塔は2018年に内部公開が再開され、2025年には国の重要文化財に指定された。1970年に未来と生命を象徴した巨大な現代作品が、現在では戦後日本社会そのものを証言する歴史的建造物として扱われている。

現代美術・現代建築は、時間が経てば歴史遺産へ変わる。

万博を「懐かしい昭和」の記号だけとして見るのではなく、当時何が本当に新しく、何が社会的な矛盾を含んでいたかを検証する必要がある。

万博の「未来」は実現したのか

大阪万博が描いた未来の中には、大型映像、電子通信、キャッシュレス決済、環境制御など、その後の日常へ入った技術もある。一方、メタボリズムが想定した自由に交換できる巨大都市構造は広く実現したわけではない。

未来予測が当たったか外れたかだけで万博を評価することはできない。当時の社会が何を「未来らしい」と想像したかを見る資料として重要である。

建築と美術は、未来そのものを作ったというより、未来をどう想像するかを巨大な視覚・身体体験に変えた。

「進歩」と「調和」の矛盾は現在も残る

新技術は生活を便利にするが、環境負荷や社会的不平等を生む場合もある。企業と芸術が協働すれば巨大作品を実現できるが、スポンサーの目的と作家の自由は衝突する。

都市を合理的に設計すれば大人数を管理できるが、人間の身体や祭りの混沌はその計画からこぼれる。

大阪万博の主題だった「進歩」と「調和」の緊張は、半世紀後のテクノロジー社会にもそのまま残っている。

1970|大阪万博

1970年3月15日から9月13日まで大阪・千里丘陵で開かれた日本万国博覧会は、「人類の進歩と調和」を掲げ、6,400万人を超える観客を集めた。丹下健三を中心とする会場計画のもと、巨大な大屋根、お祭り広場、菊竹清訓《エキスポタワー》、黒川紀章《タカラ・ビューティリオン》など、メタボリズムやメガストラクチャーの建築思想が実物大で試された。会場そのものが、半年間だけ存在する未来都市だった。

その中心で岡本太郎《太陽の塔》は、大屋根を貫き、内部の《生命の樹》によって生命の進化を表した。合理的な巨大構造と原始的な生命像を衝突させる塔は、技術文明だけでは説明できない未来を万博の中心へ置いた。一方、鉄鋼館では武満徹のプロデュースによる1,008スピーカーの多元音響と宇佐美圭司のレーザー、みどり館では全天全周映像《アストロラマ》、せんい館では松本俊夫のスペース・プロジェクションが展開され、映像・音・光・建築は一つの環境へ統合された。

国際的にはE.A.T.がペプシ館を制作し、中谷芙二子の人工霧、ロバート・ブリアの移動彫刻、デイヴィッド・チュードアの音響、巨大鏡面などによって、観客が内部へ入る「応答する環境」を構築した。しかし企業とE.A.T.は運営と予算をめぐって衝突し、アートとテクノロジー、企業資本の協働が持つ限界も露呈した。日本側でも具体美術協会が万博へ参加する一方、1969年には万博破壊共闘派の抗議活動が記録されており、前衛芸術が国家・企業の未来像へ組み込まれることをめぐる対立が存在した。

大阪万博は、日本のメディア・アートや環境芸術の「始まり」ではない。その前には実験工房、草月アートセンター、1966年「空間から環境へ」などの蓄積があった。むしろ万博は、それらの小規模な前衛実験が高度経済成長の資本と工学技術に接続し、数千万人が体験する巨大環境へ到達した一つの頂点だった。そして同じ1970年、東京では「人間と物質」が正反対の縮減的な美術を提示していた。日本の現代美術は、テクノロジーによる未来へ一方向に進んだのではなく、未来を最大化する動きと、その進歩そのものを問い直す動きの間で分岐していたのである。次の記事では1970年代の松澤宥へ進み、物質を巨大化する万博とは反対に、物そのものを消し、言語と観念だけで芸術を成立させようとした日本の概念芸術を見る。

参考資料

資料確認日:2026年10月2日