Art Library

1980年代以降

ダムタイプ

身体、映像、テクノロジー

宮島達男の「時間」から、ダムタイプの「環境」へ

前の記事で見た宮島達男は、LEDの数字を変化させ続けることで、時間を作品の内部に流れ込ませた。そこでは電子技術は単なる未来的な装置ではなく、生と死、継続、個体差、他者との関係を考えるための仕組みとして使われていた。1980年代後半から90年代にかけて日本の現代美術が国際的な回路へ入っていくなかで、電子技術を人間の経験と結びつけたもう一つの重要な存在がダムタイプである。ただし、宮島が個々の発光素子と時間の関係を精密に構成したのに対し、ダムタイプが扱ったのは、映像、音響、身体、舞台装置、印刷物、ネットワーク、社会的言説までが同時に作用する「環境」そのものだった。

ダムタイプを「日本のメディアアート集団」と呼ぶことは間違いではない。しかしその呼称だけでは、彼らの活動の射程を狭くしてしまう。作品には映像機器やコンピューター制御が早い段階から導入されているが、中心にあるのは技術の新しさではなく、技術によって組み替えられる身体、都市生活、欲望、情報、規範、コミュニケーションのあり方である。さらに重要なのは、ダムタイプが一人の作家名ではなく、複数の人間が流動的に参加する共同制作の枠組みであったことだ。作品の形式だけでなく、誰がどのように作品をつくるのかという制作組織そのものが、1980年代以降の日本美術に新しいモデルを提示した。

1984年、京都市立芸術大学の学生たちから始まる

ダムタイプは1984年、京都市立芸術大学の学生を中心に京都で結成された。公式資料やNTTインターコミュニケーション・センター[ICC]の記録では、美術、映像、音楽、デザイン、建築、ダンス、演劇、コンピューター・プログラミングなど異なる領域の実践者が関わり、プロジェクトごとに参加者が変化する集団として説明されている。設立時から完成した一つの様式や明確なジャンルが存在したわけではない。むしろ、それぞれが持つ異なる技術と関心を持ち寄り、既存の美術、演劇、ダンス、音楽の境界では収まりにくい場をつくることが活動の基礎になった。

1984年の活動記録には、《The Admirable Health Method》《An Asteroid Addition》《Plan for Sleep #1》《Plan for Sleep #2》といったパフォーマンスが並ぶ。翌1985年には《The Order of the Square》が京都市内10カ所で展開され、《An Encyclopedia for Landscapemanias》《Listening Hour》など、パフォーマンス、インスタレーション、映像、印刷物を横断する試みが続いた。ここで重要なのは、後年のダムタイプを象徴する大型映像や精密な舞台機構が最初から完成していたわけではないという点である。初期には、身体的な行為、場所の使い方、音、テキスト、印刷物、複数の出来事を組み合わせながら、集団制作の方法そのものが実験されていた。

京都という拠点も無視できない。1980年代の日本の現代美術を東京だけで捉えると、ダムタイプの活動は理解しにくい。大学、関西圏の小劇場やオルタナティブなスペース、音楽や舞台のネットワークを横断しながら活動した彼らは、既存の美術館制度や商業画廊だけを発表の基盤にしていなかった。アートスペース無門館、ギャラリー、ホール、大学構内など異なる場所を使い、作品ごとに必要な形式を組み替えていった。のちに国際的な美術館や舞台芸術祭へ進出した後も、この「作品のために媒体と場所を選び直す」姿勢は残り続ける。

「ダムタイプ」という名称と、情報過剰の時代

東京都現代美術館の2019–20年の回顧展「Dumb Type | Actions + Reflections」は、グループ名に含まれる「dumb」を、1980年代の日本社会における情報過多と、それにもかかわらず状況への認識が希薄である状態への批判的な感覚と結びつけて説明している。また、当時の言語中心のパフォーマンスに対し、言葉に依存しない方法を模索し、音、映像、インスタレーション、身体の反応から作品を構成しようとしたことも紹介されている。「dumb」は単純に「愚か」という意味だけでなく、「口をきかない」「声を持たない」という含意を重ねながら、情報と沈黙の奇妙な関係を示す名称として機能した。

1980年代後半の日本では、消費社会の拡大と情報メディアの発達が同時に進んだ。都市空間には広告、ディスプレイ、音楽、テレビ映像、商品情報があふれ、個人はそれまで以上に多くの視覚情報と音響情報に囲まれるようになる。ダムタイプはこの状況を外から批判するというより、その速度、光、反復、無機質さを作品の内部へ取り込み、それ自体を強く感覚させる方法を選んだ。だから彼らの作品はしばしば洗練され、冷たく、都市的で、機械的に見える。しかし、その表面はテクノロジーへの楽観的な賛歌ではない。むしろ、魅力的な映像や音響に身体が引き込まれることと、同じシステムによって身体が管理され、分類され、圧迫されることを同時に経験させる。

《Pleasure Life》と、消費社会を舞台装置に変える

1987年の《036 – Pleasure Life》を経て、1988年に《Pleasure Life》が発表された。この作品は東京のクエストホールで上演された後、第1回ニューヨーク国際芸術祭のPerformance Space 122、ドイツのミュンスター、ロンドンのICA、デンマーク国立美術館などへ展開し、ダムタイプの活動が早い段階から国外の舞台芸術・現代美術のネットワークへ接続していったことを示している。国内で評価が確立してから海外へ紹介されたという単純な順序ではなく、80年代末にはすでに日本と海外を往復する制作環境が形成され始めていた。

《Pleasure Life》で扱われた「快楽」は、個人的な幸福の物語というより、消費社会の内部で設計される欲望や生活の様式に関わっていた。舞台上に身体、人工的な照明、映像、音響、規則的な動き、商品社会を想起させる記号を並置することで、観客は「快適で洗練された生活」の表面と、それを支える制御の構造を同時に見ることになる。この段階で、ダムタイプの特徴となる、身体と機械を対立させるのではなく、身体がすでに技術的・社会的な環境の内部に組み込まれているという認識が明確になっていった。

1989年には、《Pleasure Life》をもとにしたインスタレーション《Playback》が、米国を巡回した展覧会「Against Nature: Japanese Art in the Eighties」のために制作された。後年の再制作版に関するダムタイプ公式資料によれば、当初の《Playback》はレコード盤を思わせるアクリル板、レコード針を思わせるロケット状の要素、コンピューター制御による蛍光管の点滅などで構成されていた。ここでは舞台作品の要素が、美術館で鑑賞されるインスタレーションへ翻訳されている。ダムタイプにとって「パフォーマンス」と「展示」は別々の分野ではなく、同じ主題を異なる時間構造と空間構造へ変換する方法だった。

《pH》——身体を走査する機械

1990年に東京のスパイラルで初演された《pH》は、ダムタイプの国際的な評価を決定づけた初期代表作の一つである。作品は舞台上を横断する巨大な機構、映像、光、音響、パフォーマーの身体から構成され、コンピューター制御された横棒が一定の運動を繰り返す。パフォーマーはその機械的な運動に合わせて移動し、避け、跳び、時にはその動きによって行動を強制される。ICCの解説は、この構造を、テクノロジーが人間にとって必ずしも有効に働くとは限らないことを突きつけるものとして位置づけている。

タイトルの《pH》は酸性・アルカリ性を示す尺度を参照しながら、作品内部では二項対立を段階的に配列する考えへ展開された。東京都現代美術館の回顧展では、問い/答え、イメージ/言葉、事実/虚構、公/私、現実/理想、攻撃/防御、男性/女性、終わり/再開などが「phase」として構成されていたことが紹介されている。重要なのは、二項のどちらか一方を正しいものとして選ぶことではない。むしろ社会が人間を二つの側へ分類しようとする仕組みと、その間を身体が移動させられる状態そのものが舞台化される。

この作品では、人間の身体はテクノロジーの外部にある自然なものとして提示されない。舞台を走査する装置、映像の投影、音響のタイミングと身体の運動が一つのシステムを形成し、人間はその内部で反応する。観客の側も、安全な外部から物語を見るというより、強い光、機械音、速度、反復によって知覚を揺さぶられる。《pH》が重要なのは、電子機器を舞台美術として使用したからではなく、「テクノロジーによって構成された環境のなかで身体がどう振る舞わされるのか」を鑑賞者の身体感覚へ直接戻したからである。

劇場、美術館、映像、印刷物を往復する

《pH》は一回限りの舞台公演に閉じなかった。公式記録ではパフォーマンス、インスタレーション、映像、印刷物へ展開され、1991年以降スペイン、イギリス、オーストリア、ドイツ、オーストラリアなどで上演された。映像版も制作され、1992年には国際的な映像・舞台記録の賞を受けている。ここから見えるのは、同一作品を固定した完成形として保存するのではなく、別の場所、別の媒体、別の技術条件に応じて再構成する方法である。

この流動性は、ダムタイプの組織形態とも対応している。国際交流基金は、彼らを固定された演出家を置かず、プロジェクトによって参加メンバーが変わる、流動的で非階層的な共同制作を重視する集団として紹介している。一方で、歴史を振り返れば古橋悌二が多くの重要作で構想・演出を担い、1995年の死後には高谷史郎が制作上の中心的役割を担う場面も増えた。したがって「完全に作者性のない集団」と単純化するのも正確ではない。複数の専門性が共同作業をつくる理念と、各作品で特定のメンバーが重要な判断を担う現実が並存していたと見る方がよい。

古橋悌二と、作品の中心に入ってくるHIV/AIDS

1990年代初頭、ダムタイプの活動は大きく変化する。ICCの記録によれば、1992年秋、中心的メンバーだった古橋悌二が自らHIV陽性であることをメンバーに伝え、その後グループはエイズ、同性愛、ジェンダー、マイノリティをめぐる問題をより積極的に社会へ発信するようになった。ここで重要なのは、HIV/AIDSが突然「テーマ」として選ばれたのではなく、メンバー自身の生、身体、社会的な偏見と直接結びついた問題として共同体の内部へ現れたことである。

1980年代から90年代前半のHIV/AIDSをめぐる社会状況には、病気そのものへの恐怖だけでなく、同性愛者や感染者への差別、誤情報、沈黙、可視性の不足が絡み合っていた。ダムタイプはこれを医療情報の説明へ還元せず、誰が「正常」とされ、誰が周辺へ押し出されるのか、誰の声が信号として認識され、誰の存在がノイズとして処理されるのかという問題へ広げた。この時期の作品では、身体を制御する技術の問題と、社会が身体を分類する言説の問題が重なっていく。

古橋は1960年京都生まれで、京都市立芸術大学在学中にダムタイプの結成に関わった。映像、音楽、パフォーマンス、演出を横断し、グループの初期活動を牽引した人物である。同時に、彼を単独の「ダムタイプの作者」として扱うことも、集団の実態を取り逃がす。ダムタイプの作品は、映像を担当する者、音響を担当する者、舞台機構を設計する者、出演する者、印刷物や空間を構成する者など、多数の技能が接続することで成立した。古橋の強い構想力と、共同制作の分散性を両方見る必要がある。

《S/N》——信号とノイズを社会へ置き換える

《S/N》プロジェクトは1992年に始まり、インスタレーションや「S/Nのためのセミナー・ショー」を経て、1994年にオーストラリアのアデレード・フェスティバルでパフォーマンスとして初演された。タイトルは電子通信や音響で使われるsignal-to-noise ratio、すなわち信号とノイズの比率に由来する。ダムタイプはこの工学的な用語を、ジェンダー、性的指向、人種、民族、国籍、HIV/AIDSなどをめぐる社会的な不協和へ置き換えた。何が「正しい信号」として中心に置かれ、何が「不要なノイズ」として排除されるのかを問う仕組みである。

この作品で重要なのは、少数者を単に「表象する」ことではない。古橋は舞台上で自らゲイでありHIV陽性であることを公表し、作品を自分自身の身体から切り離さなかった。公式サイトは、《S/N》が劇場的表現を越えて、アクティヴィズムやコミュニティとの連携へ向かう試みであったと説明している。つまり《S/N》は、社会問題を素材にした舞台作品であると同時に、美術がどこまで現実の共同体や政治的な課題へ関与できるのかを試すプロジェクトでもあった。

映像、巨大な文字、身体、音声、無音、光、白い壁などは、観客に情報を明快に説明するためだけに配置されない。情報は断片化され、反復され、時に過剰になり、見えるものと見えないもの、読めるものと読めないものが入れ替わる。そこでは「情報が多ければ理解が深まる」という前提そのものが疑われる。情報化社会のなかでは、ある事実が大量に流通していても、それが理解や連帯につながるとは限らない。この問題は1980年代にグループ名へ込められた感覚を、HIV/AIDSとアイデンティティの切迫した状況へ接続し直したものでもある。

《S/N》はネットワークと出版へも拡張された

《S/N》の展開は劇場だけではなかった。1995年、ダムタイプはNTTインターコミュニケーション’95「on the Web —ネットワークの中のミュージアム—」に《S/N インターネット・ヴァージョン》を出品している。当時の日本では一般家庭へのインターネット普及が始まったばかりで、ウェブ上で作品を成立させる方法自体が実験段階にあった。ICCもこの展覧会を、既存の作品を単にネットへ置き換えるのではなく、ネットワークという新しい時空間における作品と観客の関係を試す場として位置づけていた。ダムタイプがそこで《S/N》を展開したことは、信号とノイズ、中心と周縁、可視性と不可視性という問題が、通信ネットワークの構造そのものと強く接続できたことを示している。

また、ダムタイプはCD、VHS、DVD、カタログ、冊子、カセットブックなど、多様な出版・記録媒体を継続的に制作してきた。公式の出版物一覧を見ると、《Plan for Sleep》《pH》《S/N》《OR》《memorandum》などが舞台上演とは別の物質的・記録的形態を持って流通している。これは宣伝物の付随的な制作ではない。ライブでしか成立しない身体経験と、記録を通して別の時間・別の場所へ運ばれる作品との間に、複数の入口をつくる行為だった。舞台、美術館、映像、音源、印刷物、ウェブを横断することで、作品は一つの会場に閉じず、異なる観客と異なる制度へ接続された。

この媒体横断性は、ダムタイプを「舞台芸術のグループ」か「美術のグループ」かという二択で分類しにくくした一方、国際的な流通には大きな強みとなった。ある都市では劇場公演として、別の都市ではインスタレーションとして、さらに別の機会には映像や出版物として作品が受容される。同じ主題を媒体ごとに翻訳できるため、美術館、フェスティバル、映像祭、メディアアート機関など異なる制度と関係を結ぶことができたのである。

身体は、映像の前で消えるのではなく、むしろ露出する

ダムタイプの舞台では、大型スクリーンや投影映像が強い視覚的印象をつくるため、「身体がテクノロジーに置き換えられた」と見えやすい。しかし実際には逆で、技術が増えるほど身体の脆弱さ、有限性、位置、性別、社会的な分類が露出する構造がつくられている。《pH》では身体は機械の運動を避けなければならず、《S/N》では身体は社会的な言葉や視線にさらされる。映像は身体を消去する背景ではなく、身体がどのような制度の内部に置かれているかを見せる面として機能する。

同時に、ダムタイプは身体を「人間らしさ」の最後の聖域として理想化していない。身体もまたメディアであり、情報を受け、反応し、他者へ伝え、管理され、記録される。舞台上の人間は映像や音響の支配を受けるだけでなく、それらと同期し、ずれ、衝突することで作品を成立させる。ここに、1990年代以降のメディアアートで重要になる「人間対機械」という単純な対立を越えた視点がある。人間はすでに技術環境の一部であり、問題はそこから逃げることではなく、その関係をどのように見えるものにするかなのである。

セクシュアリティ、ジェンダー、国籍を固定しない

《S/N》で扱われるジェンダーやセクシュアリティは、作品に社会性を付け加えるための題材ではない。信号とノイズという構造そのものが、社会が人間を分類する方法と結びついている。男性/女性、異性愛/同性愛、健康/病気、自国民/外国人、中心/周辺といった二分法は、一見すると秩序をつくる。しかし、その秩序の外側には必ず分類しきれない身体や経験が残る。ダムタイプは、その残余を「ノイズ」として消すのではなく、むしろノイズの側からシステム全体を見る。

そのため、彼らを「HIV/AIDSを扱ったアーティスト集団」とだけ説明するのも不十分である。HIV/AIDSは極めて重要な契機だったが、そこから問いは、情報の選別、社会的な可視性、コミュニケーション、少数者の位置、身体と制度の境界へ広がった。また、欧米のHIV/AIDSアクティヴィズムをそのまま日本へ移植したわけでもない。京都を拠点とする独自の共同制作、舞台芸術と美術の越境、国際公演で生じる翻訳の問題を通して、異なる地域や観客に開かれた形式がつくられた。

古橋悌二の《LOVERS》——集団と個人の境界

同じ時期に制作された古橋悌二の個人作《LOVERS》にも触れておく必要がある。これはダムタイプ名義の作品ではなく、古橋がキヤノン・アートラボとの共同制作によって1994年に発表したインスタレーションである。暗い空間を裸身の人物像が等身大に近い映像として移動し、鑑賞者の周囲を横切り、接近し、すれ違う。東京都現代美術館は、《LOVERS》を《S/N》と同時期に生まれた作品として紹介しつつ、その後MoMAのコレクションにも入った初期版と、2001年に制作された第2版の系譜を記録している。

《LOVERS》をダムタイプの作品に含めるのは正確ではないが、集団と個人の境界を考えるうえでは重要である。ダムタイプのメンバーは、集団活動だけを行っていたわけではなく、それぞれが個人制作や別の共同制作を続け、その経験を再び集団へ持ち込んだ。後に高谷史郎、池田亮司、高嶺格、小山田徹などが異なる方向で活動を展開していくことからも分かるように、ダムタイプはメンバーの個性を一つの様式へ統合する集団ではなかった。個人の制作と共同制作が往復する開かれた構造だったからこそ、中心人物の死後にも別のメンバーが新しい方向をつくることができた。

1995年、古橋悌二の死と、集団が続くということ

古橋悌二は1995年10月29日、AIDSに関連する敗血症のため35歳で亡くなった。《S/N》は彼の死後も上演され、公式記録には1996年に東京、京都、香港、ウェリントン、セビリア、クレテイユなどで公演されたことが残されている。中心的な構想者を失った後にも作品が継続されたことは、ダムタイプの共同制作の構造を考えるうえで重要である。作品は一人の身体と強く結びつきながら、その身体が不在になった後にも、他のメンバーの手によって再演・再構成され得た。

ただし、これは「作者がいなくても同じ作品が自動的に続いた」という意味ではない。古橋の不在は、作品の主題そのものを変えた。生と死、記憶、不在、技術による身体の保存と再生は、それまで以上に切実な問題になる。1997年に初演された《OR》、1999年の《memorandum》、2002年の《Voyage》は、古橋死後のダムタイプを代表する作品群であり、単に以前のスタイルを継承するのではなく、失われた身体や記憶をどのように扱うかという新しい段階へ進んでいった。

《OR》——生と死の境界を、技術がどう定義するのか

《OR》は1997年、フランスのモブージュで初演された。タイトルの「OR」は「または」を意味する接続詞であると同時に、Operating Roomなど複数の語を連想させる。東京都現代美術館の解説では、古橋が生前に残した将来作品の構想ノートに、生と死の境界、そしてその境界の定義へ技術や科学がどこまで介入できるのかという問題が記されていたことが紹介されている。《OR》はその問題意識を、古橋亡き後の集団が引き継ぎながら展開した作品として位置づけられる。

ICCでは1997年に《installation OR》が展示され、同年にはパフォーマンス版も日本初演された。ここでも舞台と展示は別々の完成品ではなく、同じ問いを異なる形式へ展開する関係にある。生/死、存在/不在、映像/身体といった二項は、どちらかへ決着するのではなく、その境界が揺れ続ける。《S/N》が社会の分類によって誰が信号とされ誰がノイズとされるのかを問うたとすれば、《OR》では、そもそも生きていることと死んでいることの境界さえ、医療技術や情報技術によって単純には定義できなくなっていることが前景化する。

《memorandum》——記憶を保存するのではなく、崩れていく構造を見せる

1999年にフランスで初演された《memorandum》は、記憶を主題とする。東京都現代美術館は、この作品を複数のメンバーの記憶を圧縮し、時間軸に沿って複雑に再構成したものとして説明している。舞台には半透明のスクリーンが置かれ、スクリーンに近い身体は明確なシルエットとして現れ、離れるにつれて像がぼやけていく。記憶は過去をそのまま保存する容器ではなく、現在から距離が生じるほど変形し、薄れ、別の記憶と接続されるものとして扱われる。

ここでも映像技術は「記録の正確さ」を保証するために使われない。むしろ、映像や音響は記憶が不安定であることを示す。録画すれば出来事を永遠に保持できるように思えても、記録を見る現在の身体や社会状況は変化している。古橋の死を経験した集団にとって、映像アーカイヴは単なる保存資料ではなく、不在の人間と現在の制作をつなぐ媒体になった。後年、過去の舞台作品をインスタレーションとして再構成する活動が増えていく背景には、この「記録を再び現在の経験へ変換する」考え方がある。

ダムタイプにとってテクノロジーは「主題」ではなく条件である

ダムタイプの歴史を振り返ると、使用機材は時代とともに変化している。蛍光管、ビデオ、コンピューター制御の舞台装置、プロジェクション、デジタル音響、ネットワーク、レーザー、指向性スピーカーなど、その時々の技術が作品に導入された。しかし彼らの作品は、最新機器の性能を紹介するデモンストレーションではない。技術は人間の生活を取り巻く現実的な条件として採用され、その条件のなかで身体、情報、欲望、記憶がどう変化するのかを検証するために使われる。

この点で、ダムタイプを「ハイテク日本」のイメージだけで説明するのは危険である。1980〜90年代の海外では、日本は電子産業、都市のネオン、ビデオゲーム、ロボットなどと結びついた未来的な国家像で表象されることが多かった。ダムタイプの洗練された映像と機械装置は、そのような期待に合致して見える部分もある。しかし作品の内部では、技術はしばしば不安、過剰、監視、分類、誤作動、死、記憶の消失と結びつく。彼らは「日本のテクノロジー」を輸出したのではなく、テクノロジーの内部で生きる人間の不安定さを国際的な観客へ提示したと考える方が適切である。

共同制作という制度——一人の作者を中心にしない

現代美術の制度は、作品を特定の作家名へ帰属させることで展覧会、コレクション、市場、著作権、批評を組み立ててきた。ダムタイプはその枠組みに対し、複数の人間が技能を持ち寄り、参加者がプロジェクトごとに変わる集団として活動した。映像、音響、舞台機構、身体表現、グラフィック、プログラミングのどれか一つだけを作品の中心に置かない。この形式は、芸術家一人の内面を作品へ表出するという作家像とは異なる。

もっとも、共同制作であることを理想化しすぎるべきでもない。実際の制作には、構想を主導する人、技術的判断を担う人、出演する人、外部の共同制作者、制作費を支える劇場や美術館、国際共同制作のパートナーが存在する。《OR》や《memorandum》の公式資料には、多数の共同制作機関が列挙されており、大規模なメディア作品が一つのグループ内部だけで完結しないことが分かる。ダムタイプの「集団性」は、作者名を消すことより、制作を成立させる関係の網目を作品ごとに組み直すことに特徴がある。

この点は、日本の戦後美術における過去の集団活動とも比較できる。具体美術協会、ハイレッド・センター、フルクサス周辺のネットワーク、1970年代の各種コレクティヴなど、複数の作家が共同で活動した例は以前から存在した。しかしダムタイプの場合、映像・音響・舞台技術の専門性が高まり、劇場や国際芸術祭との共同制作が不可欠になることで、集団のあり方そのものがより制作システムに近づいた。後の日本のメディアアート、パフォーマンス、アート・コレクティヴを考えるうえで重要な先例となった理由の一つである。

国際舞台で形成されたダムタイプ

ダムタイプの国際化は1990年代後半に突然始まったのではない。《Pleasure Life》は1988年にニューヨーク、ミュンスター、ロンドン、コペンハーゲンへ巡り、《Playback》は1989年から米国の複数都市を巡回した「Against Nature」に出品された。《pH》は1991年以降ヨーロッパ各地で上演され、1992年にはマドリードのレイナ・ソフィアやウィーン芸術週間などへ展開した。《S/N》もアデレードでの初演後、北米、ヨーロッパ、日本を横断して上演されている。作品は海外で「紹介」されただけでなく、国際的な公演・展示の条件のなかで更新されていった。

これは次の記事で扱う「1990年代の日本現代美術の国際化」と深く関係する。80年代末から90年代には、日本美術を海外の美術館が大規模に紹介する展覧会が増え、同時に国際芸術祭、舞台芸術祭、レジデンス、共同制作のネットワークが広がった。ダムタイプは、美術館だけではなく劇場やフェスティバルを移動できたため、この国際化を別の角度から体現した。絵画や彫刻のように作品を輸送して展示するだけではなく、機材、技術者、出演者、設営、リハーサル、現地スタッフとの調整まで含めて作品が移動する。この制作モデルそのものが、グローバル化する1990年代の文化制度と結びついていた。

美術館がダムタイプを「歴史化」する

活動開始から約30年以上が経過すると、ダムタイプの作品は新作として上演されるだけでなく、美術史的に回顧される対象になった。2018年にはポンピドゥー・センター・メッスで「DUMB TYPE | ACTIONS + REFLECTIONS」が開催され、2019年から2020年には東京都現代美術館へ展開した。東京都現代美術館では《Playback》《pH》《LOVE/SEX/DEATH/MONEY/LIFE》《MEMORANDUM OR VOYAGE》などが再構成され、古橋悌二の《LOVERS》や活動資料もあわせて紹介された。過去のパフォーマンスを単なる記録映像として見るのではなく、空間的なインスタレーションとして再経験させる展示だった。

この再構成には、保存の問題が伴う。メディア作品の機材は更新され、映像フォーマットは変わり、舞台装置は解体され、当時の出演者が常に参加できるわけではない。したがって「作品をそのまま保存する」ことは難しい。ダムタイプの回顧展は、メディアアートの保存とは、古い機材を凍結することなのか、それとも作品の構造を保ちながら新しい技術へ置き換えることなのかという問題も浮かび上がらせる。2018年版の《pH》が、過去の舞台機構を参照しながら展示空間用に再構成されたことは、その典型である。

2022年ヴェネツィア・ビエンナーレへ

2022年、第59回ヴェネツィア・ビエンナーレ国際美術展の日本館にダムタイプが選出された。国際交流基金によれば、この時のプロジェクトでは坂本龍一が新たなメンバーとして加わり、高谷史郎、古舘健、濱哲史、白木良、原摩利彦、泊博雅、南琢也、高谷桜子ら複数のメンバーが参加した。新作《2022》では、高速回転する鏡、レーザーによる文字投影、回転する指向性スピーカー、複数の声、フィールドレコーディングが組み合わされ、展示室の中心には空虚な領域が残された。

1984年の大学構内のパフォーマンスから数えると、約40年後に日本館代表としてヴェネツィアへ至ったことになる。しかし、ここを単純な「成功物語」として読むと、ダムタイプの歴史の特徴を見失う。彼らは一貫したブランド様式を守ってきたのではなく、古橋の死、メンバーの出入り、技術の更新、劇場と美術館の制度変化、社会問題の変化を受けながら制作形式そのものを更新してきた。《2022》で扱われる情報、真実、境界、コミュニケーションの問題は、インターネット以前の1980年代に感じ取っていた「情報があふれているのに何も分からない」という問題が、別の技術環境のなかで再び現れたものとも読める。

「日本的」な集団として単純化しない

ダムタイプは海外で高く評価された日本の集団であり、京都を拠点に活動してきた。しかし、その共同制作を「日本的な集団主義」や「禅的な無名性」といった文化的ステレオタイプへ回収するのは適切ではない。彼らの非階層的な制作志向は、具体的な大学環境、友人関係、異なる専門性、当時の舞台・美術シーン、国際共同制作の経験から生まれたものである。また《S/N》が扱ったジェンダー、セクシュアリティ、人種、国籍の問題自体が、固定された「日本人」という枠を問い直すものだった。

同様に、作品の無機質な視覚性を「日本のテクノロジー文化」の反映とだけ見ることにも注意が必要である。ダムタイプはテクノロジーを利用しながら、その技術が生み出す規範、速度、情報格差、身体への圧力を批判的に扱った。彼らの国際性は、西洋の現代美術へ日本的要素を持ち込むことよりも、異なる都市の観客が同じ情報環境、同じ身体の脆弱さ、同じ社会的分類の問題に巻き込まれていることを、舞台と展示を通して共有可能な経験へ変換した点にある。

ダムタイプが日本現代美術にもたらしたもの

ダムタイプの重要性は、映像、音響、コンピューター、身体を早くから組み合わせたことだけにない。第一に、美術、舞台、音楽、映像の制度的境界を越え、作品に応じて発表の場所を変えることを常態化した。第二に、一人の作者を中心とした制作とは異なる共同制作の方法を長期にわたって維持した。第三に、情報化社会やテクノロジーを抽象的な未来論としてではなく、ジェンダー、セクシュアリティ、病、死、差別、記憶といった身体的・社会的問題へ接続した。そして第四に、作品を固定された物体としてではなく、再演、再編集、再構成される時間的な存在として扱った。

このため、ダムタイプは「メディアアート」「パフォーマンス」「現代美術」「舞台芸術」のどれか一つだけに分類しにくい。その分類のしにくさ自体が歴史的な意味を持つ。1980年代以降、美術は絵画や彫刻だけでなく、映像、音響、コンピューター、ネットワーク、身体、社会活動を含む方向へ拡張した。ダムタイプは、その拡張を作品の形式だけでなく、制作組織、国際流通、保存方法、観客との関係まで含めて実践した集団だった。

1990年代、日本現代美術の国際化へ

宮島達男が電子数字によって時間を可視化したのに対し、ダムタイプは、電子技術のなかへ身体そのものを置き、情報と社会の圧力をリアルタイムの環境として経験させた。両者は方法こそ異なるが、1980年代末以降の日本美術が、伝統/現代、日本/西洋といった古い二項対立だけでは捉えられない領域へ入っていったことを示している。作品は海外の美術館や国際展へ移動し、制作には複数の都市、制度、技術者、キュレーター、フェスティバルが関わるようになった。

次に見る1990年代は、この変化が個々の作家や集団だけでなく、日本の現代美術を取り巻く制度全体へ広がっていく時期である。海外美術館による日本現代美術展、国際芸術祭、国内の新しい美術館、商業ギャラリー、キュレーター、批評、文化政策が複雑に接続し、「日本の現代美術」が国際的にどのように展示され、説明され、流通するのかが大きな問題になった。ダムタイプの移動する作品と共同制作のネットワークは、その変化を先行して体現していた。次の記事では、1990年代の日本現代美術の国際化を、美術館、ギャラリー、海外展、キュレーションの制度から追っていく。

参考資料

資料確認日:2026年10月2日