1850–1870年代
開国と視覚文化の変化
写真、西洋画、輸出工芸
開国は、政治だけでなく「見る方法」を変えた
1850年代、日本列島の外から蒸気船、写真機、石版画、油彩画、新聞、地図、商品見本、外国人の身体と服装が一挙に流れ込んだ。もちろん、それ以前の日本が海外文化から閉ざされていたわけではない。長崎を通じて蘭学、中国書画、輸入品は入り続けていた。しかし1854年の日米和親条約、1858年の日米修好通商条約、1859年の横浜などの開港以後、人と物と画像が移動する量と速度は大きく変わった。
この変化を「日本美術が西洋化した」と一言でまとめることはできない。浮世絵師は新しく生まれた外国人居留地を従来の錦絵技術で描き、写真師はカメラを使って人物と都市を記録し、洋画家は油彩や遠近法を学び、工芸の職人たちは海外市場へ向けて従来技法を別の形へ組み替えた。古い技法が消えて新しい技法へ置き換わったのではなく、複数の画像制度が同時に存在した。
重要なのは、「何を描くか」だけでなく「何によって見るか」が増えたことである。筆、版木、カメラ、石版、油彩、博覧会展示。画像を作る装置が増えると、それぞれが別の現実を見せる。本稿では、写真、西洋画、輸出工芸という三つの方向を中心に、幕末から明治初期の視覚文化がどのように再編されたのかを追う。
1848年、日本へ写真機が入る
東京都写真美術館によれば、日本へダゲレオタイプの写真機材一式が輸入されたのは1848年である。1839年にフランスでダゲレオタイプが公開されてから約10年後のことだった。長崎の商人・上野俊之丞が機材を入手し、その後、薩摩藩などで写真研究が進められた。
写真が日本へ入った時点では、それは現在のような身近な記録メディアではない。光学、化学、金属加工を組み合わせた複雑な西洋技術であり、撮影には長い露光と薬品処理が必要だった。最初に写真へ関心を持ったのも、主に蘭学や軍事・科学技術を研究する層である。
写真は最初から「芸術」として輸入されたのではない。西洋の科学技術を理解する対象であり、目の前のものを人間の手描きとは違う仕組みで固定する装置だった。
1857年《島津斉彬像》— 日本人が日本人を撮影した現存最古の写真
東京都写真美術館は、1857年に撮影された《島津斉彬像》を、日本人が日本人を撮影した現存する最古の写真と位置づけている。薩摩藩主・島津斉彬は西洋科学技術に強い関心を持ち、集成館事業を進めた人物でもあった。
この肖像は銀板へ像を直接定着させるダゲレオタイプで、紙焼き写真のように同じネガから複数枚を作ることができない。左右が反転した一枚限りの画像であり、表面の見る角度によって像の見え方も変わる。
ここには、後の大量複製される写真とは異なる写真の姿がある。新技術なのに一点物であり、肖像画のように人物の姿を保存する。写真は最初から絵画の単純な代替だったのではない。
写真は「似せて描く」問題を変える
肖像画では、絵師が人物の顔を観察し、筆で形へ変換する。写真では光学レンズを通した光が感光材料へ像を作る。そのため、画像の成立に人の手が介在しないように感じられた。
もちろん実際には、撮影位置、背景、ポーズ、露光時間、現像、焼付、彩色など多くの判断が必要である。それでも「本人の姿が光によって直接写った」という感覚は、従来の肖像画とは異なる説得力を持った。
写真が登場したことで、絵画は「正確に似せる」ことを独占できなくなる。一方で写真も、絵画から構図、背景、ポーズ、彩色方法を学ぶ。両者は競争しながら混ざり合った。
1859年、開港地が写真技術の入口になる
東京都写真美術館は、1859年に横浜、長崎、函館などの開港地へ外国人が入り、写真技術が急速に普及したことを説明している。外国人写真師が撮影を行い、日本人が彼らから技術を学んだ。
開港地は単なる港ではない。外国人居留地、商館、ホテル、教会、写真館、印刷物、新聞、輸入商品が集まる場所だった。日本人にとって、海外を実際に目で見ることのできる都市空間が突然出現した。
そのため写真史と都市史は切り離せない。横浜と長崎では、カメラという装置だけでなく、写真を商売として成立させる顧客、薬品、輸入機材、外国人ネットワークが同時に存在した。
上野彦馬 — 長崎で写真を職業にする
上野彦馬は蘭学と化学を学び、長崎で写真技術を習得した日本写真史の中心人物の一人である。東京都写真美術館の展覧会資料には、1861年に撮影された上野彦馬自身のアンブロタイプ肖像や、1864年の《島津久治像》などが残る。
彦馬は1860年代初頭に長崎で写真館を開き、多数の肖像写真や景観写真を制作した。外国人から技術を教わった第一世代が、その知識を日本人の弟子へ伝えることで、写真技術は特定の外国人だけの特殊技能から国内の職業へ変わっていく。
写真師という新しい職業は、絵師とは違う訓練を必要とした。薬品を調合し、露光を計算し、暗室を管理し、カメラを操作する。画像を作る人間の技能体系そのものが変化した。
下岡蓮杖 — 横浜で外国人と日本人を撮る
下岡蓮杖も幕末日本の代表的な写真師である。東京都写真美術館の所蔵資料には、1863年頃から1875年頃にかけての人物、職人、女性、相撲、建物、横浜居留地など多様な写真が残る。
横浜という都市で、写真の顧客は日本人だけではない。来日外国人は日本の風景、侍、女性、職業風俗などを写真で持ち帰ろうとした。日本人側も肖像写真を新しい記念媒体として利用した。
一つの写真館が、国内の肖像文化と外国人旅行者向けの「日本イメージ」の両方を生産する。開港地では、誰が誰を見るのかという視線が複雑に交差した。
横浜写真 — 写真なのに手で色を塗る
幕末から明治にかけて横浜で発展した観光写真では、鶏卵紙などの白黒写真へ絵具で手彩色を施す方法が広く使われた。東京都写真美術館は、外国人写真師ウィリアム・ソンダースやオーリン・E・フリーマン、フェリーチェ・ベアトらの仕事とともに、こうした彩色写真を「横浜写真」の文脈で紹介している。
写真が絵画を消したのではないことがここによく表れている。カメラが形を記録し、その上に職人が筆で着物、肌、風景へ色を加える。写真と絵画は一枚の画像の中で共同する。
後に横浜写真では、浮世絵の摺師や彩色技能を持つ職人が手彩色に関わったとされる。新技術は既存の職人技術を不要にするのではなく、別の用途へ組み替えた。
写真は「日本」を輸出する商品にもなる
外国人旅行者向けに販売された横浜写真では、寺社、富士山、街道、女性、侍、職人、茶屋、農作業など、日本らしいと認識される主題が選ばれた。写真が客観的な記録であるように見えても、何を撮るかは市場によって選ばれている。
写真館では、実際の日常生活をそのまま撮るだけでなく、職業や身分を示す衣装を着せてポーズを作ることもあった。外国人が欲しがる「日本」をスタジオの中で再構成する。
ここでは写真が現実を記録する装置であると同時に、輸出向けのイメージ商品になる。後の輸出工芸と同様に、海外の需要が「日本らしさ」の見せ方を変えていく。
横浜絵 — カメラと同時に浮世絵も新しい都市を描く
1859年の横浜開港直後、外国人居留地、蒸気船、西洋建築、外国人の服装などを題材とする「横浜絵」が大量に刊行された。横浜開港資料館は、幕末から明治初年にかけて横浜の町と外国人風俗を描いた錦絵を横浜浮世絵と呼び、約800点を所蔵している。
五雲亭貞秀、二代広重、三代広重、芳虎らは、新しく生まれた開港都市を従来の木版技術で描いた。写真という新技術が入ったから、浮世絵が即座に古くなったわけではない。
むしろ人々が見たことのない外国人と異国文化を知りたがったため、既存の出版網はすぐに新しい主題を商品化した。古いメディアが、新しい出来事へ最も早く反応したのである。
横浜は「新しい名所」になる
横浜市歴史博物館によれば、1859年の開港以降、急速に変化する横浜の街並み、外国人風俗、西欧文化への強い好奇心に応えるように浮世絵が刊行された。開港翌年の1860年にはすでに、五雲亭貞秀による「神奈川横浜二十八景之内」が出版されている。
これは広重が東海道や江戸を名所絵にした構造の延長でもある。ただし、新しい横浜には古典和歌や長い歴史がない。蒸気船、居留地、外国人そのものが名所になる。
「名所」は古くから伝承された場所だけではなく、メディアが繰り返し描くことで新しく成立する。横浜絵は、近代都市が誕生する瞬間に、その都市のイメージも同時に作った。
絵と写真が同じ建物を残す
横浜開港資料館には、外国人居留地の天主堂などを浮世絵と写真の両方で確認できる資料が残る。貞秀が1862年に描いた居留地図、フェリーチェ・ベアトが1863年以降に撮影した写真、三代広重が明治初期に描いた浮世絵などが、同じ都市の変化を異なる方法で伝える。
写真だから正確、浮世絵だから不正確と単純には分けられない。写真はレンズの位置と撮影可能な範囲に限定され、浮世絵は複数の場所を再構成して全体像を作ることができる。
同じ場所を二つの媒体で比較すると、それぞれが何を記録し、何を省略したかが見える。幕末の視覚文化では、画像の種類が増えたこと自体が重要だった。
鉄道を、完成前から描く
1872年、新橋と横浜の間に日本最初の鉄道が開業する。横浜開港資料館によれば、三代広重は鉄道を積極的に描き、工事中の1871年には、まだ完成していない鉄道の姿を想像で描いた作品も制作した。
ここでは画像が現実の後から記録するだけでなく、完成する未来を先に見せる。蒸気機関車は「これから来る近代」の象徴として版画に現れた。
三代広重の文明開化期の版画には輸入された赤や紫の絵具が多く用いられる。新しい交通手段を、新しい色材で描く。主題だけでなく、画像の材料そのものも開国によって変わった。
西洋画は、幕末以前から断片的に学ばれていた
油彩画や西洋遠近法への関心は、1850年代に突然始まったわけではない。18世紀には司馬江漢らが銅版画や油彩表現を試し、秋田蘭画のような洋風表現も生まれていた。長崎では蘭画や西洋書から画像知識が入っていた。
ただし開国後は、実物の西洋画、石版画、雑誌、外国人画家、西洋式教育へ接触する機会が増える。断片的な知識から、より体系的な技術学習へ変わっていく。
幕末から明治初期の洋画は、「日本画から洋画へ進歩した」という単純な置き換えではなく、既存の絵画教育と新しい図画技術が衝突しながら形成された。
川上冬崖 — 西洋画は測量や図面とも結びついていた
川上冬崖は1827年生まれで、幕末から明治初期に西洋画教育へ大きな役割を果たした。国立国会図書館によれば、1856年に蕃書調所へ出仕し、画学局の筆頭となった。
蕃書調所は西洋学術を研究・翻訳する幕府の機関であり、絵画だけを教える美術学校ではない。西洋画法は地図、測量、軍事、科学図版などとも関係する実用的な画像技術だった。
明治維新後、冬崖は沼津兵学校で絵図方を担当し、大学南校、文部省、陸軍省で図画や測量地図に関わる。西洋式に「正確に描く」技術は、美術と国家技術の境界に位置していた。
1869年、私塾で西洋画を教える
川上冬崖は1869年、東京・下谷に聴香読画館を開き、西洋画法を教えた。国立国会図書館の資料では、門下から小山正太郎、高橋由一ら後の洋画家が育ったとされる。
まだ国立の美術学校制度が整う以前に、私塾が技術伝達の場となった。ここでは師弟関係という従来の学習形式を使いながら、教える内容は西洋画法だった。
新しい技法の導入は、制度まで一度に西洋式へ変えることではない。日本の既存の学習ネットワークの中へ、新しい知識が入っていった。
高橋由一 — 石版画の「本物らしさ」に衝撃を受ける
高橋由一は1828年生まれで、幕末から明治にかけて油彩画を日本に定着させた重要な画家である。国立国会図書館によれば、1862年に洋書調所画学局へ入り、川上冬崖のもとで油彩画を学び、さらに来日外国人から実技指導を受けた。
東京藝術大学の資料では、由一が輸入された石版画の緻密で迫真的な表現に衝撃を受け、西洋画研究を志したと伝えられる。重要なのは、最初に彼を動かしたものが「西洋の美術思想」ではなく、目の前の物が本当にそこにあるように見える画像効果だったことである。
油彩は、対象の質感、陰影、立体感をこれまでと違う方法で作ることができる。その「ものがもののように見える」力が、明治初期の観客に大きな驚きを与えた。
《鮭》— 日常の物を油彩の実験台にする
高橋由一の代表作《鮭》では、塩鮭が縄で吊られ、画面中央に一本だけ置かれる。背景に物語や風景はなく、皮、肉、切断面、光沢、乾いた質感そのものが主題になる。
この作品が重要なのは、鮭という日本の日常的な食物を「西洋的主題」へ変えたからではない。油彩という新しい技法によって、知っている物をこれまでと違う仕方で見せた点にある。
西洋画の導入は、西洋の風景や西洋人を描くことと同義ではない。日本にある物を、西洋から来た技法で再び見る。その組み合わせが日本の洋画を形成した。
写真と油彩は、同じ「迫真性」を競っていた
明治初期の人々にとって、写真も油彩画も対象を驚くほど具体的に見せる新技術だった。東京国立博物館は、当時の洋画について「画がものを云いそう」と評された記録を紹介している。
高橋由一の《鮭》がだまし絵的な驚きを持ったのと同時期に、写真館では人物の姿を光学的に固定していた。どちらも、画像が現実にどこまで近づけるかという問題に関わっている。
しかし写真と油彩は排他的ではない。画家が写真を参考にし、写真へ手彩色を施し、写真師が絵画も制作する。新しい視覚技術同士は競争しながら混ざり合う。
1871年《旧江戸城写真帖》— 写真と絵画が同じ記録を作る
東京国立博物館所蔵の重要文化財《旧江戸城写真帖》は、1871年に蜷川式胤の企画で横山松三郎が撮影し、高橋由一が彩色した資料である。明治維新後に失われつつあった江戸城の建築を記録するために制作された。
ここでは、写真と油彩・水彩的な着色が競争していない。カメラが建物の形を記録し、画家が色を補う。さらに行政官が記録事業を企画する。
画像は個人表現ではなく、失われる建築を保存する国家的・文化財的記録として使われる。近代の視覚文化では、写真家、画家、行政が共同する新しい画像制作が始まっていた。
「正確に見ること」が国家技術になる
測量、地図、軍事、建築、機械、博物学、文化財記録。近代国家の形成には、対象を比較可能な画像へ変換する技術が必要になる。川上冬崖が陸軍省で測量地図に関わり、写真が公共事業や建築記録へ使われることは、この流れに位置づけられる。
絵画の写実性を、美術様式の変化だけで理解すると、この実用的背景が見えない。西洋式の遠近法、陰影、製図法は、世界を「測り、記録し、管理する」ための技術でもあった。
明治初期の洋画教育が、後の美術学校制度へ進む前に、科学・軍事・教育と近接していたことは重要である。
一方、日本の工芸は海外から「見られる」ようになる
写真と洋画では、日本側が西洋から新しい視覚技術を学ぶ。しかし同じ時期、西洋側では日本の陶磁器、漆器、染織、浮世絵などへの関心が高まっていた。
開国とは、日本が西洋を見る窓が開くだけではない。西洋から日本が大量に見られ、分類され、収集され、商品として評価される状況の始まりでもある。
ここで工芸品は重要な役割を果たす。絵画よりも先に、陶磁器、漆、金工、染織などが国際貿易の商品として大量に海外へ動いた。
1862年ロンドン万博 — 日本はすでに展示されていた
国立国会図書館によれば、1862年の第2回ロンドン万国博覧会では、駐日英国公使ラザフォード・オールコックが収集した日本の品々が日本コーナーとして展示された。
この段階では、明治政府が国家として出品を統括したわけではない。外国人が日本で収集した物によって、日本の文化が海外へ紹介される。
つまり「日本とは何か」を誰が選ぶのかという問題が生まれる。日本人が自分で選んだ代表品ではなく、外国人収集家が選んだ物が「Japan」として見られる可能性があった。
1867年パリ万博 — 幕府・薩摩藩・佐賀藩が別々に出品する
1867年の第2回パリ万博では、徳川幕府が正式に参加し、徳川昭武を将軍名代として派遣した。国立国会図書館と外務省外交史料館の資料によれば、幕府は浮世絵、陶磁器、彫刻、楽器など幅広い美術工芸品を出品した。
しかし日本側は一枚岩ではない。薩摩藩は「薩摩琉球国」名義で独自出品し、佐賀藩も参加した。大政奉還直前の日本では、海外の博覧会空間に複数の政治主体が同時に「日本」を提示した。
万博は美術の展覧会であるだけでなく、国家や地域が自分の技術と文化を国際的に演出する政治空間でもあった。
海外で売れるものが、「日本らしいもの」を変える
万博や貿易を通じて、日本の陶磁器、漆器、金工、染織などが海外で注目されると、国内制作にも変化が起こる。外国人が高く評価する細密装飾、大型花瓶、複雑な象嵌、異国的に見える日本文様などが商品として強化される。
前の記事で見た江戸工芸では、器や衣服は国内生活の用途と結びついていた。しかし輸出工芸では、海外の住宅で飾られることを前提とし、日本では実用しないほど巨大な作品が作られることもある。
海外市場は、日本の伝統技術を保存しただけではない。用途、寸法、文様、品質を変え、「輸出される日本美術」という新しいカテゴリーを作った。
1873年ウィーン万博 — 明治政府が国家として参加する
1873年のウィーン万国博覧会は、明治政府が初めて正式に国家として参加した万博である。国立国会図書館によれば、会期は1873年5月1日から11月1日までで、日本は産業館の展示だけでなく、神社や日本庭園なども会場に設置した。
明治政府にとって万博は、外国の技術を学ぶ場であると同時に、日本の産物を海外へ売り込む場だった。佐野常民らは国内の物産を収集し、博物館建設、産業改良、輸出促進に結びつけようとした。
江戸時代の大名や商人が個別に工芸を注文する構造から、国家が「日本の産業美術」を選び、海外へ提示する構造へ変わり始める。
博覧会は、美術と産業をまだ分けていない
19世紀の万国博覧会では、機械、農産物、鉱物、織物、陶磁器、家具、美術が一つの巨大会場に並ぶ。現在の美術館と産業見本市の区別はまだ明確ではない。
日本から出品された精巧な工芸品も、「純粋美術」としてだけ評価されたのではない。技術力、商品価値、輸出可能性、国家の文化水準を示すものとして展示された。
明治期に「美術」という制度が形成される前、工芸は産業政策と美的評価の両方にまたがっていた。この曖昧さが、後の日本美術制度形成に大きく関わる。
ウィーン万博のために、全国から物を集める
ウィーン万博参加に際して、明治政府は全国から工芸、農産物、鉱物などを収集した。国立国会図書館は、この収集活動が国内の物産調査と、博物館建設の構想にもつながったことを紹介している。
「日本を海外へ見せる」ためには、まず「日本国内に何があるか」を分類しなければならない。全国の地域産業が、中央政府によって一覧化される。
博覧会は海外宣伝の場であると同時に、日本が自国の物質文化を自分で整理し始める装置でもあった。
輸出のために、外国人の好みを調べる
佐野常民らがウィーン万博参加に期待した目的の一つは、外国市場の需要を調査することだった。国立国会図書館の資料では、海外の出品物の原価や販売価格を調べ、どのような商品が求められているかを把握し、貿易へ活用する意図が示されている。
工芸はここで、伝統を守る対象であるだけでなく、輸出産業として分析される。外国人がどの形を好み、どの価格なら売れるのかを調べ、その情報を国内生産へ戻す。
美術的デザインと市場調査が接続する。明治の輸出工芸を理解するには、この商業的条件を外すことができない。
1874年、起立工商会社が設立される
ウィーン万博後、海外での販売契約や輸出需要に対応するため、半官半民的な貿易会社・起立工商会社が設立された。国立国会図書館は、同社が明治前半の輸出貿易で大きな役割を果たし、日本の工芸品をヨーロッパへ販売して外貨獲得に貢献したと説明している。
起立工商会社は単に完成品を買い付けて輸出するだけでなく、海外向け工芸の制作や図案にも関わる。後には東京藝術大学大学美術館などに、同社の輸出工芸図案が伝わる。
ここで、海外市場の需要が制作前のデザイン段階へ入り込む。輸出工芸は国内工芸の余剰を国外へ売るのではなく、最初から海外へ見せるために計画されるようになる。
「伝統工芸」は、近代の輸出政策で変形する
明治政府は西洋の機械工業を導入する一方、日本が国際市場で競争できる分野として工芸技術を重視した。金工、七宝、陶磁、漆工、象牙彫刻などは、海外博覧会で高い技術力を示しやすかった。
その結果、江戸時代から続く技法が、さらに細密化・大型化・複合化する。輸出向けの「超絶技巧」と呼ばれる方向が後に強まっていく。
これは伝統をそのまま保存した状態ではない。近代国家と海外市場によって伝統技法が再編された結果である。何を「日本の伝統」として見せるかも、近代に作られていく。
西洋から見た日本も、選択されたイメージだった
ヨーロッパの観客が万博で見る日本は、日本社会全体ではない。選ばれた陶磁器、漆器、屏風、着物、武具、茶屋、日本庭園などによって構成された展示である。
その展示は魅力的であるほど、「日本とはこういう国だ」というイメージを強める。都市の近代化や軍事技術ではなく、古風な工芸と異国情緒が強調される場合もある。
外国人旅行者向け横浜写真が「日本らしい場面」を演出したのと同様、万博も国家規模で「見せる日本」を編集した。
開国によって、画像は国境を往復する
1850年代以前にも画像は国境を越えていた。しかし開港後、その往復は急速に増える。西洋の石版画や写真術が日本へ入り、日本の浮世絵や工芸がヨーロッパへ渡る。外国人写真師が日本を撮り、日本人絵師が外国人を描く。
重要なのは、一方向の「西洋化」ではないことである。日本側は西洋技術を学ぶ一方、西洋側では日本の平面的構図、装飾、工芸技術が新鮮なものとして受け取られていく。
両者は対等な条件ではなく、政治・軍事・経済の大きな力の差があった。それでも画像と物の移動は複雑で、単純な受容と模倣だけでは説明できない。
「西洋画」と「日本画」という二分は、まだ完成していない
1850〜70年代には、後の美術制度で使われる「洋画」「日本画」という分類はまだ固定していない。川上冬崖は南画も描きながら西洋画法を教え、高橋由一は狩野派的教育を受けた後に油彩へ進んだ。
写真師・横山松三郎は写真と絵画の両方を扱い、《旧江戸城写真帖》では高橋由一が写真へ彩色する。横浜写真でも写真と手彩色が結びつく。
近代美術史の後から見ると技法ごとに分類したくなるが、この時期の実践者は複数の技術を横断していた。ジャンルの境界そのものが作られている途中だった。
「写真が絵画を終わらせた」わけではない
写真の登場は絵画に大きな影響を与えたが、絵画の必要をなくしたわけではない。写真へ手彩色するには絵画技術が必要であり、写真では作れない想像的な場面や理想化された図像を浮世絵は描き続けた。
さらに当時の写真は撮影時間、機材、感光材料に制約が多く、動く場面や色彩表現を自由に記録できなかった。浮世絵には大量複製、色彩、物語、文字との組み合わせという別の強みがあった。
新しいメディアは旧メディアをすぐに消さず、役割分担を変える。幕末から明治初期は、その再配置が激しく進んだ時代だった。
画像の「本物らしさ」が複数になる
幕末以前にも写実的な絵画は存在した。しかし写真と油彩の普及によって、「本当にそこにあるように見える」ための方法が増える。
写真は光学的な記録性を持ち、油彩は陰影と質感によって立体感を作り、浮世絵は大胆な構図と色で新都市の印象を伝える。どれか一つが唯一の真実ではない。
人々は複数の画像を比較するようになる。同じ横浜を写真と錦絵で見て、同じ人物を肖像写真と肖像画で見る。視覚文化の近代化とは、画像が「正確になった」だけでなく、現実を表す方式が競合するようになったことでもある。
見る側の日本人も変わる
西洋の画像を見て驚いたのは作家だけではない。写真館で自分の肖像を初めて見る人、油彩画の立体感に驚く観客、横浜絵で外国人を知る江戸の人々、鉄道図でまだ見ぬ機関車を想像する人々がいた。
画像の技術が変わると、鑑賞者が期待する「本物らしさ」や「新しさ」も変わる。視覚文化は制作側だけの問題ではない。
開国期の変化とは、新しい作家が登場したことだけでなく、見る人が異なる画像制度へ慣れていく過程でもあった。
写真・洋画・輸出工芸は、別々の歴史ではない
写真は西洋から入った技術、洋画は西洋美術の導入、輸出工芸は日本の伝統の海外進出、と三つを別々に説明することはできる。しかし実際には同じ開国のネットワークによってつながっている。
開港地へ人と薬品とカメラが入り、同じ港から陶磁器と漆器が海外へ出る。外国人居留地では西洋画・石版・新聞を見ることができ、写真館では海外向け日本写真が制作される。万博では西洋の機械を学びながら、日本の工芸を販売する。
一つの港を通って、技術と画像と商品が双方向へ移動する。開国とは視覚文化の国際物流が再編される出来事だった。
1850–1870年代|開国と視覚文化の変化
1850年代から1870年代の日本では、見ることの制度そのものが増殖した。写真は光によって人物と都市を記録し、油彩は陰影と質感によって対象を新しいリアリティで描き、浮世絵は開港場と鉄道を高速で商品化した。工芸は万国博覧会と海外市場を通して「日本を代表する物」へ再編集される。
ここで古いものと新しいものは単純に入れ替わらない。浮世絵師が鉄道を描き、写真師が絵具で彩色し、洋画家が写真へ色を加え、江戸の工芸技法が近代国家の輸出商品へ変わる。技術が混ざり合うことで、新しい視覚文化が生まれた。
そして、この時期にもう一つの問題が始まる。西洋の「fine arts」に対応する概念を、日本でどう分類し、制度化するのかという問題である。江戸時代には絵画、書、陶磁、漆、染織、版画が異なる社会制度の中で存在していた。それらを近代国家は何と呼び、学校や博物館でどう整理するのか。
次の記事では1868年以後へ進み、「美術」という言葉と制度そのものがどのように作られたのかを扱う。開国によって入ってきた異なる視覚制度が、やがて「日本美術」「西洋美術」「工芸」「美術教育」といった近代的分類へ組み替えられていく過程を見ていく。
参考資料
- 東京都写真美術館「夜明けまえ 知られざる日本写真開拓史」
- 東京都写真美術館「夜明けまえ 知られざる日本写真開拓史 トピックス」
- 東京都写真美術館「光の造形~操作された写真~」
- 東京都写真美術館「写真発祥地の原風景 長崎」
- 日本カメラ博物館「湿板カメラと幕末・明治の写真」
- 横浜開港資料館「横浜の賑わい」
- 横浜開港資料館「横浜浮世絵―よみがえる幕末・明治のまちづくり」
- 横浜市歴史博物館「浮世の華 描かれた港崎」
- 横浜開港資料館「浮世絵でめぐる横浜の名所」
- 国立国会図書館「川上冬崖|近代日本人の肖像」
- 国立国会図書館「高橋由一|近代日本人の肖像」
- 東京国立博物館「歴史の記録 江戸城と寛永寺」
- 東京国立博物館「描かれた明治」
- 国立国会図書館「1867年第2回パリ万博」
- 国立国会図書館レファレンス協同データベース「1867年パリ万博への日本出品」
- 国立国会図書館「1873年ウィーン万博」
- 国立国会図書館「ウィーン万博とジャポニスム」
- 国立国会図書館「佐野常民とウィーンの日本人」
- 東京国立博物館「世紀の祭典 万国博覧会の美術」作品リスト
資料確認日:2026年10月2日