Art Library

1960年代

反芸術

芸術そのものへの攻撃

「反芸術」は、芸術をやめる運動ではなかった

1960年前後の日本美術では、「反芸術」という強い言葉が広がった。廃材、タイヤチューブ、セメント、縄、食品、日用品が美術館へ持ち込まれ、作家は作品を壊し、身体を使い、街へ出て行った。従来の意味で美しく仕上げられた絵画や彫刻から見れば、「芸術を否定している」と感じられる作品が次々に現れた。

しかし反芸術は、「もう芸術など必要ない」と制作を放棄する運動ではない。国立国際美術館は、1950年代末から60年代の反芸術について、伝統的な芸術概念の狭さを問い直し、現実の生活や社会へ芸術を解放しようとした動向と説明している。芸術を消すより、「芸術と呼べる範囲」を壊して広げることが問題だった。

その結果、逆説的な状況が生まれる。特別な美術材料で作られた作品だけが芸術ではないなら、日用品も行為も街の出来事も芸術になり得る。反芸術は最終的に、「すべてが芸術になり得る」という汎芸術の可能性まで開いた。

一つの正式な「反芸術運動」があったわけではない

未来派や具体美術協会のように、「反芸術」という名称の団体が結成され、全員が同じ宣言へ署名したわけではない。反芸術は、1960年前後に現れた複数の作家・グループを説明するために批評の中で広がった言葉である。

読売アンデパンダン展で活動した工藤哲巳、篠原有司男、荒川修作、赤瀬川原平、吉村益信、九州派の菊畑茂久馬や桜井孝身らは、同じ作品を作っていたわけではない。ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズも短命な独立グループであり、具体美術協会とも目的は異なった。

したがって「反芸術様式」を探すより、既成美術のどの条件へそれぞれが反発したのかを見る方が正確である。材料、作者、展示制度、美術館、市場、社会との距離。その攻撃対象は作家ごとに異なっていた。

言葉の大きな契機は1960年の工藤哲巳だった

アートプラットフォームジャパンおよび青森県立美術館の資料によれば、工藤哲巳が1960年の第12回読売アンデパンダン展へ出品した〈増殖性連鎖反応〉の作品をめぐり、美術評論家・東野芳明が「反芸術」という言葉を用いたことが、日本でこの語が広がる重要な契機となった。

工藤の作品は、完成した彫刻を台座へ置くものではなかった。紐、たわしのような日用品、異物が絡まり、増殖し、従来の絵画・彫刻の分類からはみ出す。

そこで問われたのは「これは上手い彫刻か」ではなく、「そもそもこれを芸術として見る必要があるのか」という問題だった。その違和感を説明するために、「反芸術」という言葉が強い力を持った。

工藤哲巳 — 絵画の表面から増殖する物体へ

工藤哲巳は1935年生まれ。東京藝術大学在学中から読売アンデパンダン展へ出品し、初期にはアンフォルメルの影響を感じさせる平面作品を制作した。

しかし青森県立美術館によれば、点の集合からなる絵画は次第に、白や黄色のビニール紐を結び合わせ、たわしなどへ絡ませた立体へ展開していった。絵画の画面内部にあった増殖感が、現実の空間へ飛び出したのである。

これは「絵画を彫刻へ変更した」というより、絵画の表面だけでは扱えない現象を物質へ移したと考える方が近い。増殖、絡まり、身体性が、壁面から展示空間へ侵入していく。

《増殖性連鎖反応》は、何を壊したのか

1960年の工藤作品が壊したのは、美しい形だけではない。彫刻は石や木やブロンズで作るもの、絵画はカンヴァスと絵具で作るもの、という材料の序列を壊した。

日用品や工業素材を使えば、作品と生活物の差が曖昧になる。展覧会場へ持ち込まれなければゴミや資材に見える物が、美術館では「作品として見るべきもの」に変わる。

この変化によって、鑑賞者は造形だけでなく「なぜ今これを芸術として見ているのか」という制度まで意識させられる。

「ガラクタの反芸術」という批評

青森県立美術館は、工藤の1960年作品が東野芳明によって「ガラクタの反芸術」と評されたことを紹介している。この言葉には、当時の衝撃がよく表れている。

「ガラクタ」は通常、価値を失った物を指す。美術館へ入る物とは反対の存在である。そのガラクタを作品にすると、美術館が価値を付与する装置であることが露出する。

反芸術の攻撃は「美しい物を醜くすること」以上に、「価値のない物と価値ある芸術を分けているのは誰か」という問いへ向かった。

反芸術とダダは同じなのか

「反芸術」という言葉から、第一次世界大戦中にヨーロッパで起きたダダを思い出すのは自然である。ダダも既成芸術、ブルジョワ文化、合理主義へ激しい否定を突きつけ、日用品や偶然を芸術へ持ち込んだ。

1960年には実際に「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」という名称のグループも結成される。しかし、日本の反芸術を1910年代ヨーロッパのダダの再演と考えることはできない。

戦後日本には、敗戦、占領、高度経済成長の始まり、テレビや消費財の普及、安保闘争、東京への人口集中といった別の社会条件があった。類似する方法を用いても、攻撃している現実は異なっていた。

1950年代末、物が急速に増える社会

日本社会は1950年代後半から高度経済成長へ入り、工業製品、包装材、プラスチック、広告、家庭電化製品などが生活へ急速に増えていく。

美術家の周囲にも、伝統的な絵具や木材とは異なる大量生産品があふれる。廃材や日用品を使う前衛表現は、単に貧しいから安い材料を選んだというだけではない。

社会そのものが「物を生産し、消費し、捨てる」速度を上げる中で、その物質環境を作品へ直接持ち込むことができた。反芸術は消費社会の物質と同時代だった。

読売アンデパンダンが、反芸術の実験場になる

前の記事で見たように、読売アンデパンダン展は無審査だった。既成団体の審査員へ理解される作品を作る必要がないため、1950年代末から異物、廃物、大型作品が急増する。

国立国際美術館は、工藤哲巳、篠原有司男、菊畑茂久馬、高松次郎、中西夏之、荒川修作らを、読売アンデパンダンを中心に展開した反芸術的動向として振り返っている。

反芸術は一人の天才が発明した形式ではない。同じ会場で他人の作品を見て、「それなら自分はさらに別のことをする」と作家同士が刺激し合う環境から拡大した。

「上手く作ること」が価値でなくなる

アカデミックな美術教育では、形を正確に描く、材料を適切に扱う、完成度の高い表面を作ることが技能として評価される。

反芸術では、わざと粗く作ること、壊れた物を使うこと、完成していないように見せることも表現になる。すると技術の意味が変わる。

技術が不要になるのではない。何をどのように壊せば既成の作品概念が揺れるかを判断する、新しい技術が必要になる。

1960年、ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ

アートプラットフォームジャパンによれば、ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズは1960年3月、東京で結成された。吉村益信を中心に、篠原有司男、赤瀬川原平、荒川修作ら若い作家が参加した。

グループは当初「オール・ジャパン」と名乗っていたが、メンバーを増やしてネオ・ダダイズム・オルガナイザーズとして銀座画廊で結成展を開催した。作品には有機物、廃材、日用品が使われ、身体的な行為も目立った。

活動期間は非常に短く、同年中に終息した。それでも1960年の日本前衛を象徴するグループとして強い印象を残した。

短命だったから失敗したわけではない

ネオ・ダダは数年かけて制度を整えた美術団体ではない。展覧会とイベントを立て続けに行い、メンバー同士の衝突も含め、短期間で解体した。

しかし前衛グループの価値を活動年数だけで測ることはできない。赤瀬川原平、荒川修作、篠原有司男らは解散後、それぞれ全く異なる方向へ進み、日本の1960年代美術を大きく変える。

グループは長く作品を統一する組織ではなく、若い作家が一度衝突し、次の活動へ分裂する加速装置だった。

吉村益信 — 場を作る作家

吉村益信は大分出身で、1950年代に東京へ進出した。大分市美術館の資料では、吉村、赤瀬川原平、風倉匠らが大分の「新世紀群」で交流していたことが紹介されている。

1960年には吉村が中心となってネオ・ダダを結成する。作品制作だけでなく、他の若手を集め、グループを成立させる役割を担った。

戦後前衛では、個人作品だけでなく「人が集まる場所を作ること」自体が重要だった。読売アンデパンダンで出会った作家が別の場を作り、そこから新しい行為が生まれる。

篠原有司男 — 作品を「事件」にする

篠原有司男は1932年東京生まれ。ネオ・ダダの中心人物となり、派手な身体行為と造形によって強い存在感を持った。

篠原の作品では、完成した物だけでなく制作行為そのものが観客を引きつける。後に代表的方法となるボクシング・ペインティングでは、グローブに絵具を付け、支持体を連続して殴る。

画面は身体行為の結果として残る。白髪一雄の足による絵画と同じように、絵画が「何を描いたか」から「身体が何をしたか」を記録する面へ変化する。

身体を使えば、すべて反芸術なのか

具体美術協会も身体を使い、ネオ・ダダも身体を使った。しかし同じ意味ではない。具体では、身体と物質の新しい関係を通じて未知の美を作ることが強く意識されていた。

ネオ・ダダの行為には、既成美術と社会的な常識へ挑発的に衝突する側面がより前面に出る。派手さ、無意味さ、破壊、騒音も武器になる。

形式が似ているから同じ運動なのではない。身体行為が何を攻撃するために使われたかを見る必要がある。

赤瀬川原平 — 廃材から制度そのものへ

赤瀬川原平は1959年末、吉村益信から前衛グループへの参加を誘われ、1960年にネオ・ダダへ参加した。初期にはタイヤチューブなど廃材を用いたオブジェを制作し、1961年、62年の読売アンデパンダンへ出品する。

しかし赤瀬川の関心は、単に奇妙な物を作ることから、物に価値を与える社会制度へ移っていく。1963年の読売アンデパンダンでは千円札を巨大に拡大した作品や、カンヴァスをクラフト紙で梱包した作品を出品した。

材料を攻撃する段階から、貨幣、包装、美術作品の価値制度そのものを対象にする段階へ進んでいる。

「作品を包む」と何が起きるのか

絵画をクラフト紙で完全に包めば、観客は画面を見ることができない。通常、美術展は作品を見せる場所なのに、「見えない作品」が展示される。

すると注意は中の絵から、作品を保存し、輸送し、商品として扱う包装へ移る。作品が美術市場で流通する物体であることが露出する。

反芸術は作品の中身だけを変えるのではなく、「作品を見る」という展覧会の基本動作まで疑うことができた。

荒川修作 — セメントと棺桶

荒川修作は1957年から61年まで読売アンデパンダンへ出品し、1960年にはネオ・ダダへ参加した。アートプラットフォームジャパンによれば、初期にはセメントを使った不気味なオブジェで注目された。

1960年の個展「もうひとつの墓場」では、木箱の中に布団状の素材を敷き、セメントの塊を置く〈棺桶〉シリーズを発表した。観客は箱の蓋を開き、内部の異様な物体へ対面する。

伝統的な彫刻のように、外側から形を鑑賞するだけではない。蓋を開けるという観客の動作が必要になり、作品は物体と行為の組み合わせになる。

荒川はすぐに物質的な反芸術から離れていく

荒川は1961年末に渡米し、その後、矢印、言葉、図式を用いる概念的な作品へ移行する。セメントの塊を作り続けて「反芸術様式」を確立しようとはしなかった。

これは反芸術が一つの完成スタイルではなく、既存の制作方法から脱出する過渡期だったことを示す。

一度「何でも材料にできる」と分かれば、次には物質さえ必要なのかという問いが出てくる。1960年代後半の概念的な美術への道は、この地点から開かれた。

1961年、国立近代美術館「現代美術の実験」

1961年4月、東京の国立近代美術館は「現代美術の実験」を開催した。国立新美術館とアートプラットフォームジャパンの展覧会記録によれば、荒川修作、オチ・オサム、菊畑茂久馬、工藤哲巳、白髪一雄、田中敦子、中西夏之、松澤宥、元永定正らが出品した。

読売アンデパンダンや地方グループで制度へ挑戦していた作家が、わずか数年後には国立美術館の「実験」という枠で紹介される。

これは前衛が制度の完全な外側にあったわけではないことを示す。美術館もまた、新しい表現を発見し、取り込もうとしていた。

制度へ反抗すると、制度に認められるという逆説

反芸術が注目されれば、美術館や批評家はそれを無視できなくなる。展覧会へ招待し、資料を収集し、美術史の中へ位置づけ始める。

すると「美術館に入らない物」を作ったはずの作品が、美術館で展示される。反制度的な行為が新しい美術制度の一部になる。

この逆説は反芸術の失敗ではなく、前衛が制度を変化させる基本構造でもある。昨日まで作品でなかった物を、明日の美術館が保存するようになる。

九州派も「反芸術」に位置づけられる

1983年の東京都美術館「現代美術の動向II 1960年代〈多様化への出発〉」では、読売アンデパンダンと反芸術的傾向の章に工藤哲巳、篠原有司男、荒川修作だけでなく、九州派の桜井孝身や菊畑茂久馬も位置づけられた。

九州派は福岡で「地方」と「生活」を掲げた独自の運動であり、東京のネオ・ダダと同じではない。それでもアスファルト、廃材、日用品を使い、既存の美術制度を疑う点で反芸術史と交差する。

反芸術という言葉は、異なる地域・集団を一つに統一する名称ではなく、それらを比較するための広い批評概念として使われてきた。

具体美術協会も、後から反芸術に近く見える

白髪一雄の泥、村上三郎の紙破り、田中敦子の電気服は、現在の視点では反芸術と非常に近く見える。1961年の「現代美術の実験」でも具体会員と工藤・九州派の作家が同じ展覧会へ並んだ。

しかし具体は1954年から独自の組織と「具体美術宣言」を持ち、吉原治良は新しい美の創造を強く求めていた。芸術そのものへ否定的だったわけではない。

後から共通する形式を見つけても、同時代の自己認識と組織的背景を区別する必要がある。

反芸術は「醜い物」の運動ではない

廃物、汚れ、破壊、男根状の形、セメントの塊。反芸術の作品は、伝統的な美の基準から意図的に離れているように見える。

しかし目的を「醜い物を作ること」と定義すると、すぐに醜さ自体が新しい装飾様式になる。重要なのは、美/醜という評価基準を作品の前に置くこと自体を揺さぶることだった。

「美しいか」より先に、「なぜこれは芸術と呼ばれるのか」「この物は社会のどこから来たのか」という別の問いを発生させる。

反芸術は「技術がない人の逃げ道」ではない

伝統技法を使わない作品を見ると、「描けないからガラクタを使った」と考えることもできる。しかし多くの反芸術作家は美術教育を受け、絵画や彫刻の技能を身につけた上で、それを意図的に外している。

荒川修作、工藤哲巳、高松次郎らは美術学校で学び、篠原有司男も東京藝術大学で学んだ。既存技能を知らずに偶然外れたのではなく、知った上で別の方法を選んだ。

反芸術の否定は、制作能力の欠如ではなく、美術教育で学んだ基準そのものへの批判だった。

作者の「手」がなくても作品になる

近代美術では、筆触や彫刻刀の跡に作者の個性を見る。ところが既製品を持ち込み、梱包し、配置するだけなら、作品に作者の手仕事がほとんど見えない場合がある。

すると作者性は「自分の手で作ったか」から、「何を選び、どこへ置き、どのような関係を作ったか」へ移る。

これは創作版画の「自画・自刻・自摺」とは逆方向に見える。20世紀美術では、一人の作者性を強くする運動と、手仕事から作者性を切り離す運動が並行して存在した。

物体より「選択」が作品になる

日用品をそのまま使うなら、同じ商品は店で何個でも買える。作品の独自性は材料そのものにはない。

どの物を選ぶか、どの場所へ置くか、何と組み合わせるか。その選択が作者の判断になる。

この方向をさらに進めれば、物体を新しく作らなくても、既にある現実へ意味を与えるだけで作品が成立する可能性が生まれる。反芸術は概念芸術へつながる条件も作った。

観客も安全な鑑賞者ではいられない

絵画は通常、壁から一定距離を取って見ることができる。しかし巨大オブジェ、床へ広がる物、蓋を開ける作品、行為を伴う作品では、観客も作品の空間へ巻き込まれる。

不快な物質や性的な形態が目の前にあれば、純粋な造形美だけを鑑賞することは難しい。嫌悪、笑い、戸惑いも作品経験になる。

反芸術は観客へ「美しく鑑賞すること」を許さず、身体的・心理的な反応まで引き出した。

芸術と日常の境界を壊す

国立国際美術館の1991年展「芸術と日常―反芸術/汎芸術」は、反芸術の核心を芸術と日常の関係から捉え直した。

日用品を作品へすることは、芸術を日常から隔離された特別な領域として扱わないことを意味する。反対に、日常の物や行為の中にも美術的な意味を発生させることができる。

「芸術を日常へ下げる」のか、「日常を芸術へ上げる」のか。どちらとも言い切れない境界状態が反芸術の特徴だった。

反芸術から「汎芸術」へ

既成芸術を否定し続けると、論理的には「芸術ではないもの」がどんどん減っていく。日用品も芸術、身体行為も芸術、街の出来事も芸術になれば、最終的には何でも作品になり得る。

国立国際美術館は、この反芸術が開いた可能性を「汎芸術」という言葉で捉えた。反芸術の否定性は、逆に芸術の領域を限りなく広げる肯定へ変わる。

これは1960年代後半以後のコンセプチュアル・アート、イベント、環境芸術を理解するためにも重要な転換である。

「何でも芸術」なら、芸術という言葉は必要なのか

すべてが作品になり得るなら、芸術と日常を区別する意味がなくなる。この問いは反芸術が自ら作り出した問題である。

答えは一つではない。作家の宣言、展示の文脈、観客の認識、制度的な承認によって、普通の物が一時的に作品として働くとも考えられる。

反芸術は「芸術とはこれである」という新しい定義を与えるより、定義そのものを不安定にした。

1960年安保という政治的背景

1960年前後は、日米安全保障条約改定をめぐる大規模な抗議運動が起き、日本社会全体で政治参加と既成権威への不信が高まった時期でもある。

すべての反芸術作品を安保闘争の直接的表現とすることはできない。ネオ・ダダや工藤の作品は政治ポスターではなく、作家ごとの目的も異なる。

しかし、国会周辺のデモ、大衆運動、急速な都市化が同時に存在した社会で、若い作家が「既成秩序を壊す」という感覚を共有した背景を完全に切り離すこともできない。

政治的な主張と反芸術は一致しない

九州派には労働運動との接点があり、他方ネオ・ダダは明確な政治綱領を共有していなかった。工藤哲巳も社会への強烈な批判を持つが、特定政党の宣伝芸術を作ったわけではない。

反芸術の政治性は、主題に政治家やデモを描くことだけではない。美術館、市場、作者、価値といった制度的権威を揺さぶること自体が社会的な意味を持つ。

「政治を描く美術」と「美術制度を政治的に問い直す美術」は区別して考える必要がある。

大衆社会のイメージも作品へ入る

1960年代になると、テレビ、広告、漫画、週刊誌、商品パッケージが都市生活へ急速に増える。美術家は美術史の名作だけを参照する必要がなくなる。

反芸術以後の作家には、大衆文化、政治図像、商品イメージを取り込む者も増えた。1983年の東京都美術館展は、「反芸術以降―大衆化社会の美術」という章を設け、立石絋一、中村宏、横尾忠則、靉嘔らを紹介している。

反芸術によって高級美術と日常物の境界が壊れたことが、大衆文化を美術へ持ち込む後続の表現にも道を開いた。

「廃物を使うこと」が流行すると反芸術ではなくなる

反芸術が注目されると、廃材や日用品を使うだけで前衛的に見える状況が生まれる。すると最初の否定方法が、新しい様式として模倣可能になる。

これは前衛が常に抱える矛盾である。既成様式を破壊した方法が成功すると、その方法自身が既成様式になる。

1960年代前半の作家たちは、物質の過激さをさらに増やすだけではなく、行為、言語、制度、都市空間へ問題を移す必要に迫られた。

読売アンデパンダンの終了は一つの転換点

1963年の第15回展を最後に、読売アンデパンダンは終了した。反芸術の主要な発表場所がなくなったことで、作家は別の場所と方法を探す。

高松次郎、中西夏之、赤瀬川原平は同年ハイレッド・センターを結成し、展覧会作品より都市での「直接行動」へ進む。作家の関心は、美術館へ奇妙な物を持ち込むことから、現実の街そのものを作品化することへ移っていく。

次の記事で詳しく扱うハイレッド・センターは、反芸術の一つの帰結であると同時に、反芸術的な物体競争から距離を取る新しい段階でもあった。

ハイレッド・センターは「反芸術の続き」だけではない

赤瀬川原平のアートプラットフォームジャパン略歴は、ハイレッド・センターについて、当時の反芸術の熱狂とは異なる、あえて格式ばったイベントを数多く実行したと説明している。

街を掃除する、人体を計測する、屋上から物を落とす。廃物を美術館へ積み上げるのではなく、社会に既に存在する行為を少し変形して「芸術らしくない芸術」を作る。

反芸術から次の段階へ進むと、攻撃の方法さえ派手な破壊である必要がなくなる。普通の行為が最も不穏な作品になる。

千円札事件 — 芸術の境界が司法へ移る

赤瀬川原平の千円札モチーフは警察の捜査対象となり、1965年に起訴された。アートプラットフォームジャパンは、1970年に有罪が確定するまでの千円札事件を、国と美術が司法の場で争った稀有なケースと位置づけている。

ここでは「美術館が作品と認めるか」という問題を越え、「国家が通貨模造として規制する物を芸術行為として扱えるか」が争点になる。

反芸術が制度を攻撃した結果、美術制度の外にある国家法制度と正面から衝突した例である。

作品は「美術だから」法律の外に出られない

美術家が作品だと宣言しても、他者の所有権、道路交通、通貨、公共秩序など社会の法律が消えるわけではない。

美術館を離れて社会へ出るほど、作品は美術制度以外の規則と接触する。反芸術が芸術と日常の境界を消せば、日常社会の法律も作品へ入ってくる。

この点で1960年代の前衛は、芸術の自由を抽象的理念ではなく、実際の制度摩擦として経験した。

美術市場にも矛盾を突きつける

腐る物、行為、一時的なイベント、日用品の配置は、絵画のように簡単に所有・販売できない。

作品市場へ乗りにくいことは、反芸術の制度批判を強める。一方、作家が生活するには収入が必要で、記録写真や後の再制作が美術市場へ入ることもある。

市場を拒否すれば完全に自由になるわけではない。反芸術は、作家が経済社会の中で制作する矛盾まで露出させた。

後世の美術館は反芸術を収蔵する

現在、工藤哲巳、荒川修作、赤瀬川原平、高松次郎、中西夏之、菊畑茂久馬らの作品は国公立美術館へ収蔵されている。かつて「美術作品らしくない」と見えた物が、戦後美術史の重要作品になった。

1991年、国立国際美術館は「芸術と日常―反芸術/汎芸術」を開催し、反芸術が切り開いた地平を歴史的に検証した。2013年にも工藤哲巳回顧展に合わせ、1960年代の反芸術から現在までをたどるコレクション展示を行っている。

反芸術は美術制度を消滅させなかった。むしろ美術館が収集しなければならない作品の範囲を大きく変えた。

美術館へ回収されたら、反芸術は負けたのか

制度批判の作品が美術館へ収蔵されると、反抗性が失われたと考えることもできる。しかし、美術館に入ったから作品の過去の作用が消えるわけではない。

重要なのは、現在の美術館が作品を美しい物として無害化するのではなく、当時どの制度へ何を問いかけたかを文脈とともに示すことである。

反芸術を保存するとは、物体を残すことだけではなく、その物体が芸術制度を不安定にした歴史を保存することである。

「反芸術」という言葉自体も後から歴史化された

1981年の東京国立近代美術館「1960年代―現代美術の転換期」、1983年の東京都美術館「現代美術の動向II 1960年代〈多様化への出発〉」、1991年の国立国際美術館「芸術と日常―反芸術/汎芸術」などを通して、1960年代の複数動向が戦後美術史として整理されていった。

その際、「反芸術」は非常に便利な枠組みになった。読売アンデパンダン、九州派、ネオ・ダダ、ハイレッド・センターなどを、一つの時代的転換として説明できるからである。

一方、便利な言葉ほど個々の差を消す危険もある。反芸術は「1960年代のすべて」を表す万能語ではない。

反芸術以外の1960年代も同時に存在した

1960年代には抽象絵画、版画、彫刻、在外作家、写真、デザインなど多様な活動が続いていた。東京都美術館の1983年展が「多様化への出発」と題したのも、そのためである。

反芸術が目立ったからといって、日本の画家全員が廃材を使ったわけではない。伝統的な絵画を更新しようとした作家も多数いた。

反芸術は1960年代を独占した様式ではなく、芸術の定義を変えるほど強い衝撃を与えた一つの動向だった。

反芸術が変えたのは「作品」より「質問」だった

反芸術以前にも廃物や既製品を使う作品は世界に存在した。新しい材料だけなら、方法として模倣することができる。

しかし「これは美しいか」ではなく「なぜこれを芸術と呼ぶのか」、「作者は何を作ったのか」ではなく「選択や行為も制作なのか」、「作品は美術館の中だけにあるのか」という質問は、その後の美術に残り続けた。

反芸術の最大の遺産は特定の見た目ではなく、美術を見る際の問いを変えたことにある。

絵画や彫刻は消えなかった

反芸術が登場しても、絵画と彫刻は終わらなかった。むしろその後も新しい絵画、新しい彫刻が作られ続ける。

変わったのは、それらが「芸術の唯一の正統形式」ではなくなったことである。絵画の隣にオブジェ、行為、写真、イベント、概念が存在できる。

反芸術は旧ジャンルを消すより、ジャンルの独占権を奪ったと言った方が近い。

1960年代|反芸術

1960年前後の日本で広がった「反芸術」は、一つの正式なグループや統一された様式ではなかった。大きな契機となったのは、1960年の第12回読売アンデパンダン展に出品された工藤哲巳の〈増殖性連鎖反応〉をめぐり、東野芳明が「反芸術」という言葉を用いたことである。絵画や彫刻にふさわしい材料、美しい完成形、作者の手技という既成の価値から外れる作品を説明するため、この言葉は急速に力を持った。

同じ1960年には吉村益信を中心にネオ・ダダイズム・オルガナイザーズが結成され、篠原有司男、赤瀬川原平、荒川修作らが廃材、有機物、セメント、身体的な行為を用いた。九州派もアスファルトや日用品によって中央画壇の価値体系を問い、読売アンデパンダンはそれら複数の実践が衝突する場となった。反芸術は一つの形ではなく、美術作品を成立させる材料・展示・評価のルールを次々と疑う状況だった。

1961年には国立近代美術館が「現代美術の実験」を開催し、荒川修作、工藤哲巳、菊畑茂久馬、オチ・オサム、白髪一雄、田中敦子、中西夏之らを展示する。制度へ反抗した前衛を美術館自身が取り込むという逆説が早くも生まれた。反芸術は美術館を壊すことにはならなかったが、美術館が何を作品として受け入れるかを大きく拡張した。

そして反芸術の否定は、逆に「日常のあらゆる物や行為が芸術になり得る」という汎芸術へ開かれた。1963年には高松次郎、中西夏之、赤瀬川原平がハイレッド・センターを結成し、美術館へ廃物を持ち込むことから、都市の日常行為そのものを作品へする段階へ進む。反芸術の歴史的な力は、芸術を終わらせたことではない。芸術が何でなければならないかという制限を次々と外し、その後の作品に「なぜこれは芸術なのか」という問いを残したことである。次の記事では、その問いを東京の街路、ホテル、屋上、清掃行為へ持ち出したハイレッド・センターの「直接行動」を詳しく見る。

参考資料

資料確認日:2026年10月2日