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Art History

1951–1955

ロバート・ラウシェンバーグ

白い絵画からCombinesへ

1950年代前半、ニューヨークではジャクソン・ポロック、ウィレム・デ・クーニング、マーク・ロスコらの絵画が新しいアメリカ美術として注目され始めていました。しかし、その抽象表現主義がまだ現在進行形だった同じ時期に、ロバート・ラウシェンバーグ(Robert Rauschenberg, 1925–2008)は、別の方向から絵画そのものの条件を揺さぶり始めます。1951年には白一色の《White Paintings》を制作し、1951–53年には新聞紙を下地として使う《Black Paintings》を展開し、1953年にはウィレム・デ・クーニング本人から受け取ったドローイングを消す《Erased de Kooning Drawing》を制作しました。

さらに1953年以降、赤い絵画へ新聞、布、写真、木片などが入り込み、1954年頃には絵画と彫刻の区別を保てない「Combines」が始まります。1955年の《Bed》では、キャンバスそのものがなくなり、枕、シーツ、キルトという実際の寝具が壁に掛けられ、その上へ絵具が流されます。ラウシェンバーグは抽象絵画を否定して単純に具象へ戻ったのではありません。抽象表現主義の筆触を残したまま、その画面へ現実世界の物やイメージを侵入させました。

この動きを後から「Neo-Dada」やPop Artの前史として整理することはできます。しかし1951年のラウシェンバーグが、後のポップアートという運動を目標に制作していたわけではありません。むしろ重要なのは、当時の絵画が作者の内面、ジェスチャー、画面の自律性へ強く集中していく中で、ラウシェンバーグが光、影、偶然、既製品、新聞、他人の作品、日用品など、作者の外部にあるものを次々と作品へ戻していったことです。

CONTENTS

  1. 1951年以前 — Black Mountain Collegeとニューヨーク
  2. Black Mountain Collegeという実験の場
  3. ジョン・ケージとの出会い
  4. 1951年《White Paintings》
  5. 何も描いていないのか
  6. 光と影が作品を変える
  7. 作者が描かなくても作品は変化する
  8. 作品を描き直しても「同じ作品」なのか
  9. 《White Paintings》とケージの《4’33″》
  10. 1951–53年《Black Paintings》
  11. 新聞紙が画面へ入る
  12. 白と黒は同じモノクロームではない
  13. 1952–53年、サイ・トゥオンブリーとの旅
  14. 拾った物を作品にする
  15. Scatole Personali — 小さな集積物
  16. 1953年《Erased de Kooning Drawing》
  17. なぜ自分のドローイングでは駄目だったのか
  18. デ・クーニングに作品を頼む
  19. 消すことによって作品を作れるのか
  20. ジャスパー・ジョーンズのラベル
  21. 破壊か、制作か
  22. 1953–54年《Red Paintings》
  23. 赤い画面へ物が入り始める
  24. 1954年 — Combineの始まり
  25. なぜ「Combine」と呼ぶのか
  26. 《Collection》— 絵画の表面が物で埋まる
  27. 美術史と食品包装を同じ画面へ置く
  28. 《Minutiae》— 絵画が舞台空間へ出る
  29. マース・カニンガムとの協働
  30. 絵画と彫刻の境界をなくす
  31. 1955年《Bed》
  32. キャンバスの代わりに寝具を使う
  33. ポロック的な筆触を日用品へ置く
  34. 「art」と「life」の間
  35. 1955年《Monogram》が始まる
  36. まだPop Artではない
  37. 抽象表現主義を否定したのか
  38. グリーンバーグ的モダニズムとの緊張
  39. 1951–1955年に何が変わったのか
  40. ラウシェンバーグ以後 — 画面の外部が戻ってくる
  41. 次の時代へ — ジャスパー・ジョーンズ、見慣れた記号を描く
  42. 参考資料・出典

1951年以前 — Black Mountain Collegeとニューヨーク

ラウシェンバーグは1948年、ノースカロライナ州のBlack Mountain CollegeでJosef Albersに学び、その後ニューヨークのArt Students Leagueでも学びました。Robert Rauschenberg Foundationによれば、1949年秋にはニューヨークへ定着し、当時急速に注目を集めていた抽象表現主義の作品を見るようになります。ポロックやデ・クーニングの自由な筆触は重要な刺激になりましたが、彼はその語彙をそのまま引き継ぐより、そこへ写真、新聞、物体、偶然の現象を加えていきました。

この出発点は重要です。ラウシェンバーグは抽象表現主義より後の世代ですが、その運動が終わった後に登場したわけではありません。ポロックがまだドリップ作品を制作し、デ・クーニングが《Woman I》へ取り組み、フランケンサーラーが《Mountains and Sea》へ向かうのとほぼ同じ時期に、白い絵画や黒い絵画を制作しています。戦後美術の次の段階は、前の段階が終了してから始まったのではなく、すでに内部で同時進行していました。

Black Mountain Collegeという実験の場

Black Mountain Collegeは、教師と学生が生活を共有しながら美術、音楽、舞踊、文学などを横断する実験的な教育機関でした。Rauschenberg Foundationの年譜によれば、ラウシェンバーグは1948年と1951–52年にここで学び、写真家Hazel Larsen Archer、Harry Callahan、Aaron Siskind、画家Robert Motherwellなどと接触しました。Cy Twomblyも学生として在籍していました。

ここでは絵画だけを独立した専門分野として扱う必要がありませんでした。写真を撮る、舞台美術を作る、ダンサーと協働する、音楽家の実験を見るといった経験が同じ環境で起きます。この横断性は、後にラウシェンバーグが絵画と彫刻、写真、舞台、日用品の境界を気にせず制作する基礎の一つになりました。

ジョン・ケージとの出会い

Black Mountain Collegeでの重要な関係の一つが作曲家ジョン・ケージです。ケージは音楽作品の内部だけでなく、周囲の環境音、偶然、沈黙を作品の条件として考えていました。ラウシェンバーグの《White Paintings》も、作者が描いた像より、その前を通る人の影や部屋の光によって見え方が変わります。

両者が共有したのは「作者がすべてを作り込まなくてもよい」という考えです。画家が画面上に意味のある形を配置する代わりに、作品が周囲の環境を受け取る条件を作る。制作の中心が、作者の表現から作品と世界の関係へ少しずつ移っていきました。

1951年《White Paintings》

1951年、ラウシェンバーグは一枚、二枚、三枚、四枚、七枚のパネルからなる《White Paintings》を制作しました。Robert Rauschenberg Foundationによれば、それぞれのキャンバスは均一な白で塗られ、明確な図像も筆触のドラマも持ちません。作者自身が残した目立つジェスチャーを極端に減らした作品です。

抽象表現主義の大画面を見た直後にこの作品を見ると、同じ白いキャンバスでも意味が違います。ニューマンやロスコが色面によって鑑賞者へ強い経験を作ろうとしていたのに対し、ラウシェンバーグは画面上にほとんど何も置かず、周囲の世界がその白へ作用する状態を作りました。作品の内容を増やす代わりに、作品の外部から入ってくるものを受け取る面へ変えています。

何も描いていないのか

《White Paintings》を見ると、「白く塗っただけで何も描いていない」と考えたくなります。しかし、作品が展示された瞬間から白は一定ではありません。窓から入る光の強さ、照明の角度、人が前を通ることで生まれる影によって表面は変化します。Foundationはこれらを、周囲の光と影の偶然的な効果を反映する作品として説明しています。

つまり、固定された像がない代わりに、常に変化する現在の環境が作品へ入ります。作者が完成時に決めたイメージを見るのではなく、鑑賞する瞬間の条件によって毎回違うものを見る。この考え方は、絵画を「作者が作った像を保存する物体」と考える従来の理解から大きくずれています。

光と影が作品を変える

白い表面はスクリーンのように周囲の現象を受け取ります。明るい場所では白が強く反射し、照明が変われば灰色の濃度も変わります。鑑賞者が近づけば身体の影が一時的に画面へ落ち、その人が移動すれば消えます。作品の一部が作者のアトリエではなく展示空間で発生します。

この点で、《White Paintings》は完成作品でありながら毎回変化するという矛盾を持っています。キャンバスと白い塗料という物質は固定されていますが、見えている状態は固定されません。絵画を時間から切り離された静止物としてではなく、周囲の環境とともに変化するものとして扱っています。

作者が描かなくても作品は変化する

抽象表現主義では、筆触や線が作者の身体の痕跡として読まれることが多くありました。《White Paintings》では、その作者の痕跡がほとんど消えます。その代わり、作者がコントロールしていない影、光、埃、時間の変化が表面へ現れます。

ここでラウシェンバーグは「作者が何もしない」わけではありません。どの大きさのキャンバスを使い、何枚のパネルにし、すべてを白く塗るという条件を決めています。しかし、その条件の中で実際に何が見えるかを世界へ委ねました。作品を作ることが、像を作ることから状況を設定することへ変わります。

作品を描き直しても「同じ作品」なのか

《White Paintings》にはもう一つ興味深い問題があります。Foundationによれば、ラウシェンバーグは白い表面を常にきれいな状態に保つことを重視し、後年にはアシスタントや友人に塗り直させ、場合によっては作品そのものを再制作させました。1968年の展示では、スタジオ助手だったBrice Mardenが新しいパネルを制作しています。

通常の絵画では、作者本人が1951年に塗った絵具そのものが作品の真正性を支えると考えられます。しかし《White Paintings》では、重要なのは特定の筆触より「白いパネルが環境を受け取る」という構造です。そのため、物質が交換されても作品のアイデンティティが維持され得るという、コンセプチュアル・アートにもつながる問題が早くから現れています。

《White Paintings》とケージの《4’33″》

Foundationによれば、《White Paintings》の一部は1952年、Black Mountain Collegeでジョン・ケージが企画した《Theater Piece No. 1》の舞台環境にも使われました。ケージは後に《White Paintings》を、自身の代表作《4’33″》へつながる刺激の一つとして挙げています。

《4’33″》では演奏者が意図的な楽音を奏でないため、その時間に会場で聞こえる咳、椅子の音、空調、外部の音が意識されます。《White Paintings》でも作者が図像を描かないことで、周囲の光と影が見えるようになります。何もない状態を作るのではなく、通常は背景として無視される環境を前景化するという点で、二人の実験は接近していました。

1951–53年《Black Paintings》

同じ1951年頃から、ラウシェンバーグは《Black Paintings》にも取り組みました。Foundationによれば、これらは紙またはキャンバスに艶消しや光沢のある黒い絵具を使い、ときには複数のパネルから構成されます。重要なのは、多くの作品で新聞紙が下地として使われていることです。

白一色の作品と黒一色の作品を対になるモノクロームとして見ることもできますが、表面の性質は全く違います。《White Paintings》では表面をできる限り均質にし、外部の光を受け取るスクリーンのようにします。《Black Paintings》では新聞紙のしわ、継ぎ目、印刷の痕跡が黒の下から浮かび、物質的な表面が強く現れます。

新聞紙が画面へ入る

新聞紙を下地に使うことは、後のラウシェンバーグにとって非常に重要になります。新聞は美術材料として特別に作られた紙ではなく、社会のニュース、広告、写真、文字が印刷され、短期間で捨てられる大量媒体です。それをキャンバスへ貼り、その上から黒く塗ることで、日常世界の情報が画面の内部へ入りました。

この段階では新聞の記事を積極的に読ませることが目的ではなく、印刷面が黒の下へ隠れる場合もあります。しかし、絵画の支持面が純粋な空白ではなく、すでに別の情報を持つ素材になったことは重要です。後のCombinesやシルクスクリーン作品では、こうした外部のイメージがさらに前面へ現れていきます。

白と黒は同じモノクロームではない

《White Paintings》も《Black Paintings》も一色に近いため、まとめてモノクローム作品と呼べます。しかし白と黒は反転した同じ実験ではありません。白では光、影、環境への開放性が強く、黒では新聞紙、絵具の艶、しわ、表面の物質性が強くなります。

つまり色を一つに制限することで、色彩以外の要素が見えてきます。一方は周囲の時間を取り込み、もう一方は支持体の物質を露出させる。ラウシェンバーグはモノクロームを「純粋な色の絵画」として完成させるのではなく、逆に絵画の外部や下地に注意を向けるために使いました。

1952–53年、サイ・トゥオンブリーとの旅

1952年から1953年にかけて、ラウシェンバーグはCy Twomblyとともにヨーロッパと北アフリカを旅行しました。Rauschenberg Foundationによれば、この旅で制作されたコラージュ、写真、小さなオブジェには、身体の断片、乗り物、美術作品の複製、文字、図表など、後の作品に繰り返し現れる多様なモチーフがすでに含まれています。

ニューヨークで抽象絵画の議論に囲まれていた状況から離れ、街頭、市場、古代遺跡、印刷物、拾得物などを見ることで、作品に入れられるものの範囲が拡大しました。画家が新しい形を「描く」だけでなく、すでに世界に存在するものを選び、組み合わせるという方法が強くなります。

拾った物を作品にする

イタリア滞在中、ラウシェンバーグは路上や周囲で見つけた木片、紐、骨、布などを組み合わせた小さなアッサンブラージュを制作しました。Foundationは、これらの小作品や「Elemental Sculptures」を、後のCombinesへつながる実験として位置づけています。

重要なのは、拾った物を何か別のものへ変装させなかったことです。木片は木片のまま、紐は紐のまま作品へ入ります。物体が持つ以前の使用歴や汚れを消して純粋な造形材料にするのではなく、その過去をある程度残した状態で別の物と接続します。

Scatole Personali — 小さな集積物

1953年にローマで制作した「Scatole Personali(Personal Boxes)」と呼ばれる小さな箱状作品にも、拾得物や断片が組み合わされています。Foundationの初期作品研究では、これらを後のCombinesの「laboratories」と表現しています。絵画の平面へ物を貼り付ける以前に、小さな立体の内部で異なる物体を隣り合わせる実験を行っていました。

ここでは、素材同士が共通の物語を作る必要がありません。関係のなさそうな物が近接することで、それまで持っていなかった連想が生まれます。シュルレアリスムのオブジェやDuchampのreadymadeとの接点を考えることもできますが、ラウシェンバーグは既製品一つを選ぶだけでなく、多数の断片を組み合わせる方向へ進みました。

1953年《Erased de Kooning Drawing》

1953年の《Erased de Kooning Drawing》は、ラウシェンバーグの初期作品の中でも特に重要です。SFMOMAによれば、彼は「完全に消去することによって作品を作ることができるか」という問題を考え、まず自分自身のドローイングを消す実験を行いました。しかし、それでは単に自作を消しただけで、消去そのものに十分な意味が生まれないと判断します。

そこで、当時すでにニューヨークの重要な画家だったウィレム・デ・クーニングを訪ね、消すためのドローイングを一枚譲ってほしいと依頼しました。デ・クーニングは意図を理解したうえで作品を渡し、ラウシェンバーグは長い時間をかけて鉛筆、木炭などの痕跡を消していきました。

なぜ自分のドローイングでは駄目だったのか

自分の作品を消しても、作者が自分の判断を撤回しただけと受け取ることができます。ラウシェンバーグが必要としたのは、すでに「作品」として価値を持つ他者のドローイングでした。SFMOMAは、この実験が成立するためには元の作品自体が明確に重要である必要があると、ラウシェンバーグが考えたことを説明しています。

そのため、消去後の作品には元のデ・クーニング作品が物質的にはほとんど見えないにもかかわらず、その名前が不可欠になります。「何が消されたのか」という情報がなければ、ほとんど白い紙にしか見えません。作品の意味が見えている像だけではなく、作品の履歴と知識によって成立するようになります。

デ・クーニングに作品を頼む

SFMOMAによれば、デ・クーニングはラウシェンバーグの依頼をすぐに拒絶したわけではなく、実験が難しくなるよう、消しにくい素材を含むドローイングを選びました。ここで重要なのは、ラウシェンバーグが尊敬する先行世代を秘密裏に攻撃したのではなく、デ・クーニング本人が行為の意図を理解したうえで作品を渡していることです。

そのため《Erased de Kooning Drawing》を「若い世代が抽象表現主義を破壊した象徴」とだけ読むと単純化しすぎます。世代間の緊張は確かに読み取れますが、同時にこれは二人の作家が共同で成立させた作品でもあります。否定と尊敬が同時に存在しています。

消すことによって作品を作れるのか

通常のドローイングでは、紙に線を加えることで作品を作ります。《Erased de Kooning Drawing》では逆に、線を減らすことが制作行為になります。ただし完全に何もなくなるわけではありません。紙には消しゴムの摩擦、残った薄い線、元の描画の痕跡が残ります。

つまり消去はゼロへ戻すことではなく、別の表面を作ります。描く/消す、制作/破壊という二項対立が崩れます。前の記事で扱ったリー・クラスナーが自作を破ってコラージュへ再利用したのと同じように、1950年代前半には「壊す行為が新しい作品を生む」という問題が別々の作家によって異なる形で現れていました。

ジャスパー・ジョーンズのラベル

消去が終わった後、ラウシェンバーグとJasper Johnsは作品の提示方法を考えました。SFMOMAによれば、Johnsが「ERASED de KOONING DRAWING / ROBERT RAUSCHENBERG / 1953」というラベルを書き、マットと金色の額縁が加えられました。この文字が完成作品の意味を決定する重要な要素になります。

ラベルがなければ、鑑賞者は何が起きた作品なのか判断できません。ここでは言葉が作品の外部説明ではなく、作品そのものの一部として働きます。後のコンセプチュアル・アートで、作品の意味が物体より言語や手続きによって成立する方向を考える際にも重要な先行例となります。

破壊か、制作か

《Erased de Kooning Drawing》は、作品を傷つける行為を含んでいるため、破壊的な作品として語られることがあります。しかし、最終的には新たに額装され、題名を与えられ、美術館に保存される別の作品になりました。元の作品を消したことで、美術作品そのものが消えたのではなく、作者、所有、制作行為について別の問いを持つ作品が生まれています。

この逆説がラウシェンバーグらしいところです。何かを捨てることで空白を作り、その空白へ別の文脈を入れる。後のCombinesでも、街で捨てられた物や価値を失った印刷物を作品へ戻します。「既に価値があるもの」と「捨てられたもの」の境界そのものが制作材料になっていきます。

1953–54年《Red Paintings》

ヨーロッパと北アフリカからニューヨークへ戻った1953年、ラウシェンバーグは《Red Paintings》に取り組みます。Rauschenberg Foundationによれば、これらは赤い絵具だけでなく新聞紙、布、印刷物などを重ね、その表面へさらに絵具を置いた作品です。白と黒のモノクロームから、一転して非常に物質的で多層な画面へ移りました。

しかし《Black Paintings》で新聞紙を下地として使っていたことを考えれば、完全な断絶ではありません。違うのは、以前は黒い絵具の下へ隠れていた日常素材が、赤い作品では徐々に露出し始めることです。画面の「外から来たもの」が、背景から前景へ移動してきました。

赤い画面へ物が入り始める

1954年にかけて、新聞、布、写真、美術作品の複製、木片、鏡などが画面へ加わります。これらは描かれた物体ではなく、実物です。新聞のイメージを絵具で模写するのではなく新聞そのものを貼り、布を描写するのではなく布を貼ります。

この変化によって、絵画の表面は視覚的なイメージだけの場所ではなく、実際の物が存在する場所になります。画面は平らである必要もなくなり、物が突出し、影を作り、重さを持ちます。絵画と彫刻の境界が、材料のレベルから曖昧になっていきます。

1954年 — Combineの始まり

Rauschenberg Foundationは、1954年頃から始まる一連の作品を「Combines」と位置づけています。絵画、コラージュ、彫刻、拾得物が一つの作品へ組み合わされ、壁に掛かるものもあれば、床に自立するものもあります。《Untitled》《Collection》《Charlene》《Minutiae》などがこの初期に制作されました。

SFMOMAは《Collection》を最初期の「Combine painting」の一つとして説明しています。三枚のパネルには絵具だけでなく布、紙、新聞、木、金属、鏡などが加えられ、表面から物体が突出します。それでも壁に掛けられるため、絵画の形式を完全に捨てたわけではありません。絵画の内部へ彫刻的な現実を入れています。

なぜ「Combine」と呼ぶのか

「Combine」という言葉は、作品を既存の「painting」または「sculpture」のどちらかへ分類することを避けるために使われました。Foundationは、ラウシェンバーグが1954年から1964年まで続くこの作品群に対して用いた名称として説明しています。壁掛け作品と自立作品の両方があり、カテゴリーの境界そのものが意味を失います。

重要なのは、新しいジャンル名を作って別の純粋なカテゴリーを成立させたことではありません。むしろ「これは絵画か彫刻か」という質問を成立しにくくしたことです。材料と展示方法の組み合わせによって、従来の分類が作品を説明できなくなります。

《Collection》— 絵画の表面が物で埋まる

1954–55年の《Collection》には、油絵具、紙、布、新聞、印刷複製、木、金属、鏡などが三枚のキャンバスへ組み合わされています。SFMOMAによれば、上部には木片が突出し、中央付近の鏡には布がかかり、画面全体にさまざまな断片が集積しています。

作品の表面は非常に混雑していますが、完全な無秩序ではありません。三枚のパネルの構造や、大きな色面、縦横の分割が断片をまとめています。抽象表現主義から受け取った絵具の滴や筆触と、街や印刷文化から拾った物が一つの構成の中で共存しています。

美術史と食品包装を同じ画面へ置く

SFMOMAの詳細調査では、《Collection》にゴッホやルノワールの作品複製と、食品パッケージなどの日常的な印刷物が同じ作品内に入っていることが確認されています。つまり、美術館で保存される「高い芸術」と、大量消費され捨てられる印刷物の間に、あらかじめ優劣を設定していません。

この並置は、後のPop Artにとって重要になる問題を先取りしています。ただしラウシェンバーグでは、商品イメージそのものを明快に拡大して主題化するより、異質な断片が雑多に集積します。美術史、広告、新聞、私的な写真、物体が、一つの画面で同じ物質的な強さを持ちます。

《Minutiae》— 絵画が舞台空間へ出る

1954年の《Minutiae》は、Merce Cunningham Dance Companyの同名作品の舞台装置として制作されました。Rauschenberg Foundationによれば、油絵具、紙、布、新聞、木、金属、プラスチック、鏡などを組み合わせた高さ2メートルを超える自立構造です。ダンサーはその周囲を動き、作品は壁に掛けられた絵画ではなく、身体が通過する実際の空間へ置かれます。

この点で、Combinesは絵画と彫刻の混合にとどまりません。舞踊、時間、身体、舞台空間とも関係します。作品は正面から眺めるためだけの面ではなく、人がその周囲を移動し、別の角度から見る物体になります。

マース・カニンガムとの協働

ラウシェンバーグは1950年代からMerce Cunningham Dance Companyと長く協働し、舞台美術、衣装、照明などを担当しました。この経験によって、美術作品を静止した独立物としてだけ考えず、身体や音楽と同じ時間の中に置くことが自然になります。

絵画だけを制作しているなら、キャンバスの四辺が作品の境界になります。しかし舞台では、照明、音、ダンサー、物体が同じ空間で同時に存在します。Combinesで日用品と絵具を同じ画面へ置く感覚と、舞台で異なる要素を並存させる考えには共通するものがあります。

絵画と彫刻の境界をなくす

初期Combinesでは、物体が画面表面から少し突出する段階から、やがて作品が完全に床へ出てきます。Metropolitan Museum of ArtのCombine展資料にある《Untitled》(1954)では、絵具、紙、布、新聞、写真、木、鏡などに加え、靴、草、鶏の剥製まで一つの自立作品へ組み込まれています。

この時点では、絵画と彫刻のどちらが基本なのかを決めることが難しくなります。それでも抽象表現主義的な絵具の飛沫や筆触は残っています。ラウシェンバーグは「絵画を捨てて物体へ進んだ」のではなく、絵画の語彙を保持したまま、そこへ現実の物体を付け足して境界を拡張しました。

1955年《Bed》

1955年の《Bed》では、この拡張が非常に分かりやすい形で現れます。MoMAによれば、作品には枕、シーツ、キルトが使われ、その上に鉛筆、油絵具が置かれています。通常のキャンバスは存在しません。実際の寝具を木製支持体へ取り付け、縦向きに壁へ掛けています。

ラウシェンバーグ自身の回想では、当時キャンバスを買う余裕がなく、暑い時期で必要のなかったキルトを制作に使ったことが出発点でした。しかし、キルトに絵具を加えても「これはベッドだ」という物のアイデンティティが消えなかったため、最終的に枕まで加えたと語っています。日用品を抽象化して絵画へ変えるのではなく、日用品であり続けることを受け入れています。

キャンバスの代わりに寝具を使う

キャンバスも布なので、物質だけ見ればキルトと完全に異質ではありません。しかし美術制度の中では、キャンバスは絵を描くための中立的な支持体として扱われ、キルトやシーツは生活用品として扱われます。《Bed》は、その制度的な区別を利用しています。

同じ絵具を塗っても、支持体がキルトであるだけで睡眠、身体、家庭、触覚といった連想が消えません。絵画の支持体が「何でもよい」というより、支持体が以前どのような物だったかが作品の意味へ入ってきます。材料は中立ではなくなります。

ポロック的な筆触を日用品へ置く

MoMAは《Bed》について、寝具の上へ滴らせた絵具がポロックのアクション・ペインティングを思わせると説明しています。しかし、そのジェスチャーがキャンバスではなくベッドへ置かれることで、意味は変わります。英雄的な画家の身体の痕跡として見ることもできる筆触が、眠る身体に非常に近い日用品の上へ現れます。

ここで抽象表現主義の技法は否定されるのではなく、別の文脈へ移されます。筆触自体を引用しながら、その支持体と日常性によって読み方を変える。この「すでにある美術の言語を別の場所へ移す」態度は、後の美術でますます重要になります。

「art」と「life」の間

ラウシェンバーグは後年、自分の制作について「painting relates to both art and life」と語り、その二つの間で行動したいと述べました。MoMAも《Bed》を説明する際、この考えを引用しています。Combinesは、この言葉を非常に具体的に示します。絵具、美術史上の複製、構図といった「art」の要素と、寝具、新聞、靴、鏡、食品包装といった「life」の要素が分離されずに存在するからです。

重要なのは、生活をそのまま芸術にすることでも、美術を生活へ溶かして消すことでもありません。両者の間の区別を残しながら、その境界を横断し続けることです。ベッドは作品になってもベッドの記憶を失わず、新聞はコラージュされても新聞であった履歴を残します。

1955年《Monogram》が始まる

1955年、ラウシェンバーグは後に代表作となる《Monogram》の制作を始めます。Foundationによれば、作品は1959年まで複数の状態を経て制作され、最終的にはタイヤを通されたアンゴラ山羊の剥製が水平な絵画状の支持体の上に立つ構造になります。

1955年の段階ではまだ完成していませんが、この長い制作過程はCombinesの方向を象徴しています。拾った物体を一度置いて終わるのではなく、配置を何度も変え、絵画との関係を試し、数年かけて構造を決めています。日用品や既製物を使うことと、構成上の判断を放棄することは同じではありません。

まだPop Artではない

ラウシェンバーグの新聞、食品包装、写真、日用品の使用は、1960年代のPop Artにつながる要素を多く含んでいます。しかし1951–55年の作品をそのまま「Pop Art」と呼ぶのは時系列的にも作品上も適切ではありません。WarholやLichtensteinが広告、漫画、商品イメージを明確な主題として扱うのは、この後です。

ラウシェンバーグの初期Combinesでは、大衆文化のイメージはまだ無数の断片の一つとして現れます。一つの商品やメディア画像をアイコンのように強調するのではなく、絵具、新聞、美術複製、私的な写真、布、物体が同じレベルで混在します。Popへの道を開きながら、まだ別の問題を扱っていました。

抽象表現主義を否定したのか

ラウシェンバーグの作品は、しばしば抽象表現主義への反動として説明されます。確かに《Erased de Kooning Drawing》や《Bed》には、その世代の「絵画」に対する明確な応答があります。しかし、彼は抽象表現主義のすべてを捨てたわけではありません。Combinesには滴、飛沫、自由な筆触、大画面といった要素が大量に残っています。

したがって、前の様式を否定して次の様式へ進んだと考えるより、抽象表現主義が開いたジェスチャーや画面の自由を受け取り、その中へ排除されていた外部世界を戻したと見る方がよいでしょう。作者の筆触と新聞、絵具とキルト、抽象と写真が同じ作品で共存できるようにしたことが重要です。

グリーンバーグ的モダニズムとの緊張

この動きは、クレメント・グリーンバーグが戦後絵画を説明する際に重視した媒体の自己批判や平面性と、次第に緊張することになります。絵画が絵画固有の条件を明確にしていくという歴史観に対し、ラウシェンバーグのCombinesは絵画へ彫刻、写真、新聞、舞台、日用品を持ち込み、媒体の境界そのものを曖昧にします。

ただし、ここで「Greenberg対Rauschenberg」という単純な対立を先に作る必要はありません。1950年代前半にはまだ、それぞれの歴史的位置が確定していたわけではないからです。今後予定しているGreenbergの独立記事では、彼の批評が1940–50年代に大きな説得力を持った理由をまず確認したうえで、ラウシェンバーグ、Johns、Pop、Minimalismなどが増える1960年代にその枠組みがどう相対化されていったかを時系列で扱います。

1951–1955年に何が変わったのか

この4年間で、ラウシェンバーグの作品は、白一色のほとんど何も描かれていないキャンバスから、現実の物体が大量に突き出すCombinesまで急速に変化しました。しかし、その両端には共通した問題があります。《White Paintings》では周囲の光と影を受け入れ、《Black Paintings》では新聞紙を下地にし、《Erased de Kooning Drawing》では他人の作品と消去行為を取り込み、Combinesでは日用品そのものを画面へ入れました。

一貫しているのは、作品を作者だけで閉じないことです。外部の光、他者、印刷物、拾得物、生活用品、舞台空間が制作へ参加します。ポロックが絵具と身体と重力の関係を変え、フランケンサーラーが絵具と支持体の関係を変えたのに対し、ラウシェンバーグは「絵画とその外部」の境界そのものを変えました。

ラウシェンバーグ以後 — 画面の外部が戻ってくる

Combinesによって、美術史上のイメージ、大衆文化、商品、写真、日用品を作品へ持ち込むことが、戦後アメリカ美術の中心的な問題の一つになります。Jasper Johnsは国旗、標的、数字という誰もが知っている記号を絵画へ持ち込み、1960年代のPop Artでは広告、漫画、商品パッケージ、スターの写真がさらに明確に前景化します。

同時に、この流れはPopだけへ進むわけではありません。John Cageとの関係はコンセプチュアルな思考や偶然性へ、Cunninghamとの協働はPerformanceへ、Combineの実在物はMinimalismやInstallationとは別の角度から「作品と実空間」の問題へつながります。ラウシェンバーグは一つの運動の始祖というより、1950年代以降の複数の方向が交差する重要な接点になりました。

次の時代へ — ジャスパー・ジョーンズ、見慣れた記号を描く

ラウシェンバーグと同じ1950年代半ば、Jasper Johnsは旗、標的、数字、アルファベットといった、見る前から意味を知っている記号を絵画へ持ち込み始めます。ラウシェンバーグが新聞や物体をそのまま作品へ入れたのに対し、Johnsは「すでに知っているもの」をあえて手作業で描き直しました。

次の記事では、1954–1960|ジャスパー・ジョーンズ — 国旗、標的、数字として、《Flag》《Target with Four Faces》《Numbers》を中心に、抽象表現主義の筆触を残しながら、作者の感情ではなく既成の記号を主題にしたことで絵画がどう変化したのかを見ます。そこから1950年代後半〜1960年代初頭のPop Artへ、時系列を保ちながら進んでいきます。

参考資料・出典

本ページは、美術館、作家財団、研究機関が公開する作品、年譜、保存研究、アーカイブ資料を参照してART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。原文の全文翻訳ではありません。

資料確認日:2026年10月1日 / ART LIBRARY