1945–1950
ニューヨーク・スクールの形成
戦後アメリカで新しい絵画を探す
第二次世界大戦が終わった1945年の時点で、「抽象表現主義」という統一された運動が完成していたわけではありません。ニューヨークにはすでにジャクソン・ポロック、ウィレム・デ・クーニング、マーク・ロスコ、ロバート・マザウェル、リー・クラスナー、バーネット・ニューマン、ウィリアム・バジオティス、ノーマン・ルイスらが活動していましたが、作品の見た目も制作方法も大きく異なっていました。彼らを後から一つの「スクール」としてまとめたことで、当時の違いが見えにくくなることがあります。
この時期に共通していたのは、一つの画風よりも「戦後に絵画をどう成立させるか」という切迫した問いでした。戦争、ホロコースト、原爆、ヨーロッパからの亡命者との接触を経験した後で、戦前と同じ主題や形式をそのまま続けることに多くの作家が違和感を持ちました。同時に、シュルレアリスムの自動性、ピカソ、ミロ、マッソン、メキシコ壁画、アメリカ先住民文化、抽象絵画など、それまでに蓄積された複数の方法がニューヨークで交差していました。
1945年から1950年は、その交差から個々の作家が自分の方法を急速に見つけていった時期です。ポロックはキャンバスを床へ置き、絵具を滴らせる方法へ進み、デ・クーニングは黒と白の複雑な形態から具象と抽象の境界を揺らしました。ロスコは神話的な人物像を捨てて色面へ進み、ニューマンは一本の垂直帯によって画面の構造を根本から作り直します。後に「抽象表現主義」と呼ばれる美術は、一つの発明からではなく、同じ時代に現れた複数の異なる回答から形成されました。
CONTENTS
- 1945年 — 抽象表現主義はまだ一つの運動ではない
- 戦後に「何を描くのか」という問題
- ニューヨークに集まった複数の前衛
- Art of This Century — 作家が出会う場所
- 1946年、「抽象表現主義」という名称
- 名前は一つでも、作品は同じではない
- ポロック — 神話的イメージから抽象へ
- 1945年、スプリングスへ移る
- 1947年 — キャンバスを床へ
- 《Number 1A, 1948》— 全面が出来事になる
- リー・クラスナー — 「Little Images」という別の回答
- デ・クーニング — 抽象と具象を分けない
- 《Painting》— 黒と白から形が現れる
- ロスコ — 神話から色面へ
- 1949年 — 色の矩形が浮かび始める
- ニューマン — 絵画を最小限から始め直す
- 《Onement I》— 一本の「zip」
- クリフォード・スティル — ニューヨークの外から
- マザウェル — 自動性と歴史的記憶
- 1948年「Subjects of the Artist」
- ノーマン・ルイス — 都市の気配を抽象へ
- 彼らは何を共有していたのか
- 1950年 — 一つの世代として見え始める
- 次の時代へ — 抽象表現主義が国際的な存在になる
- 参考資料・出典
1945年 — 抽象表現主義はまだ一つの運動ではない
1945年を「抽象表現主義が始まった年」と決めることはできません。Metropolitan Museum of Artは、後に抽象表現主義またはニューヨーク・スクールと呼ばれる作家たちを、1940年代初頭からニューヨークを中心に活動した「緩やかに結びついた」集団として説明しています。彼らは正式な団体を作ったわけでも、共通の宣言を発表したわけでもなく、それぞれが別々の問題を追究していました。
現在ではポロックの滴る絵具やロスコの色面が同じ「抽象表現主義」の代表例として並べられますが、両者の画面はほとんど正反対です。デ・クーニングは抽象へ進んでも人体の形を捨てず、ニューマンは画面から形を極端に減らしました。スティルはニューヨークのグループへの帰属そのものを嫌いました。この多様性を最初に確認しておくと、抽象表現主義を一つの技法や「激しい筆触」の様式として誤解せずに済みます。
戦後に「何を描くのか」という問題
第二次世界大戦後の作家たちにとって、新しい形式を探すことは単なるスタイルの更新ではありませんでした。MoMAは、ヨーロッパの戦争によって多くの芸術家がアメリカへ亡命し、若いアメリカ人作家がシュルレアリスムの無意識、自動性、普遍的な神話や象徴へ直接触れたことを、戦後アメリカ美術の重要な条件として説明しています。同時に、戦争の破壊を経験した後で、従来の美術史をそのまま継承すること自体に疑問を持つ作家もいました。
ニューマンは後年、戦争後に「何を描けばよいのか」という根本的な問いに直面したことを語っています。ただし、彼らが本当に歴史を完全に捨ててゼロから始めたわけではありません。Metの「Epic Abstraction」が指摘するように、実際の作品はヨーロッパ前衛、メキシコ、ラテンアメリカ、アメリカ国内の文化など多くの交流から形成されています。「何もなかった場所からアメリカ独自の美術が突然生まれた」という物語より、複数の歴史を吸収しながら別の絵画へ変換したと考える方が正確です。
ニューヨークに集まった複数の前衛
戦争中から戦後にかけて、ニューヨークではヨーロッパから亡命したシュルレアリスト、抽象画家、ギャラリスト、批評家と、アメリカで活動してきた若い画家が直接接触できるようになりました。前の記事で見たように、ブルトン、マッソン、マッタ、エルンストらが一時期ニューヨークに滞在し、ペギー・グッゲンハイムのArt of This Centuryはヨーロッパ前衛とアメリカの新しい世代を結ぶ重要な場所になりました。
しかし、若い画家たちはシュルレアリスムをそのまま引き継いだわけではありません。自動描画のように完成像を事前に決めない方法、無意識や神話を重視する考え方、偶然を制作へ入れる態度などを受け取り、それぞれ別の制作へ変換しました。シュルレアリスムは「何を描くか」より、「どうやって未知のイメージへ到達するか」という制作の入口として重要でした。
Art of This Century — 作家が出会う場所
ペギー・グッゲンハイムが1942年に開いたArt of This Centuryは、1947年に閉廊するまで、形成期のアメリカ前衛に重要な役割を果たしました。Guggenheim Foundationによれば、ここではヨーロッパのシュルレアリストや抽象作家とともに、ロバート・マザウェル、ジャクソン・ポロック、クリフォード・スティルら当時まだ十分に知られていなかったアメリカ人作家が紹介されました。
特にポロックに対する支援は具体的でした。グッゲンハイムは1943年に最初の個展を開き、1947年まで月額の契約によって制作を支援しました。芸術運動の形成には作品だけではなく、制作を継続できる収入、展示場所、他の作家と出会うネットワークが必要です。戦後ニューヨークの新しい絵画は、個々の「天才」のアトリエだけではなく、こうした小規模なギャラリーや人的関係の中で育ちました。
1946年、「抽象表現主義」という名称
「Abstract Expressionism」という名称がニューヨークの新しい絵画と結びつくのは1946年です。MoMAによれば、『The New Yorker』の批評家ロバート・コーツが、ハンス・ホフマンの作品を論じた文章でこの言葉を使用しました。言葉自体にはそれ以前の使用例がありますが、戦後ニューヨークの美術を表す呼称として使われ始める重要な契機になりました。
ただし、1946年に名前が付いたからといって、参加作家が「私たちは抽象表現主義者である」と共通のプログラムを持ったわけではありません。MoMAもMetも、この名称がポロック、ニューマン、デ・クーニング、ロスコなど非常に異なる作家を後からまとめるための言葉になったことを強調しています。「運動名が先にあり、その規則に沿って作家が制作した」のではなく、違う制作が同時期に現れ、それを説明するために名称が広がったのです。
名前は一つでも、作品は同じではない
後の美術史では、抽象表現主義を大きく「アクション・ペインティング」と「カラー・フィールド」に分ける説明があります。しかし「アクション・ペインティング」という言葉がハロルド・ローゼンバーグによって提示されるのは1952年で、この1945–1950年の段階ではまだ存在していません。作家たちは後の分類を意識して制作していたわけではありません。
また、ポロックやデ・クーニングだけを見て「抽象表現主義=巨大な身振り」と考えると、ロスコやニューマンの静かな色面を説明できません。反対に「カラー・フィールド=色彩による瞑想」とだけ考えると、ニューマンが絵画の空間構造を極端に単純化した問題が見えなくなります。この時期を理解するには、共通点を探すことと同時に、作家ごとの違いを残しておく必要があります。
ポロック — 神話的イメージから抽象へ
ポロックの1940年代前半の作品には、人物、動物、神話的な存在を思わせる形がまだ残っています。Guggenheim Foundationは《Two》(1943–45)などの初期成熟作について、ピカソ、シュルレアリスム、メキシコ壁画、アメリカ先住民の砂絵など複数の参照を吸収しながら、独自の象徴的なイメージを作っていたと説明しています。
重要なのは、ポロックが最初から「何も描かない抽象画家」ではなかったことです。対象が消える前に、画面には多くの象徴的な像が密集していました。その像が次第に線、筆触、絵具の動きへ吸収され、1940年代半ばに「何が描かれているか」と「どう描かれているか」の区別が崩れていきます。
1945年、スプリングスへ移る
1945年、ポロックはリー・クラスナーと結婚し、ロングアイランドのスプリングスへ移りました。Guggenheim Foundationによれば、翌年の《Eyes in the Heat》では、すでに筆だけに頼らず、チューブから直接絵具を押し出し、鈍い道具で押し広げるなど、絵具の物質と身体的な操作を強く前面へ出しています。画面の中にはまだ眼や生物を思わせる形が潜んでいますが、具象的な像は厚い絵具の運動へほとんど埋没しています。
スプリングスへの移住を、都市を離れたことで突然スタイルが変わったという単純な原因にすることはできません。ただ、広い制作環境を得たことは、後に大型のキャンバスを床へ広げて作業する方法を可能にした条件の一つでした。ポロックの変化は、長年の形態研究、材料実験、環境の変化が重なった結果として見る必要があります。
1947年 — キャンバスを床へ
1947年頃、ポロックはキャンバスを床へ置き、棒、こて、ナイフなどを使って薄めた塗料を滴らせ、流し、投げる方法を本格的に発展させました。MoMAとGuggenheim Foundationは、この方法が伝統的なイーゼル、刷毛、下塗りされたキャンバスといった絵画制作の条件を大きく変えたことを説明しています。
ここで重要なのは、単に「絵具を垂らした」という新奇な技法ではありません。画家は画面の正面に立つだけでなく、床に置かれたキャンバスの周囲を移動し、必要に応じてその上へ身体を乗り出します。線は手首だけでなく腕や身体の移動によって生まれ、重力、塗料の粘度、速度も結果へ影響します。絵画は、あらかじめ決めた像を写す場所から、制作中に出来事が発生する場所へ変わっていきました。
《Number 1A, 1948》— 全面が出来事になる
1948年の《Number 1A, 1948》では、黒、白、茶、銀などの線と滴が画面全体へ広がり、伝統的な「中心」と「背景」の関係がほとんど見えません。MoMAは、ポロックが1947年に成立させた滴下・流し込みの方法を、この時期の代表的な制作として位置づけています。画面の一部だけを主役にするのではなく、端から端まで同じ密度で出来事が続く「オールオーバー」の構成が成立します。
この方法は、完全な偶然ではありません。絵具をどこへ落とすか、いつ止めるか、どの色を重ねるかをポロックは制作中に判断しています。一方で、線の細部まで筆で制御することもできません。意図と偶然、身体と材料の反応が同時に画面へ記録されるところに、シュルレアリスムの自動性から一歩進んだポロック独自の方法がありました。
リー・クラスナー — 「Little Images」という別の回答
リー・クラスナー(Lee Krasner, 1908–1984)も同じスプリングスで制作していましたが、ポロックと同じ方法へ向かったわけではありません。1940年代後半の「Little Images」では、比較的小さな支持体を卓上に置き、短い反復する筆触や、チューブから直接絞り出した厚い絵具によって画面を埋めています。
MoMA所蔵の1949年《Untitled》では、格子状の構造の中に判読できない記号のような筆触が反復されています。クラスナーは、それらを幼少期に学んだものの後には読めなくなったヘブライ文字に似たものとして語りつつ、特定の意味を伝えない私的な記号体系を作ることに関心があったと説明しています。ポロックの大きな身体運動とは異なる、密度、反復、書くことと描くことの間を探る抽象でした。
デ・クーニング — 抽象と具象を分けない
ウィレム・デ・クーニング(Willem de Kooning, 1904–1997)は、抽象表現主義を「非具象絵画の運動」と考えると理解しにくい作家です。彼は1940年代後半に高度な抽象作品へ進みながら、人物や身体を思わせる形を完全には捨てませんでした。抽象と具象を二つの排他的な選択肢として扱わず、絵具を動かす中で形が現れたり消えたりする状態を維持します。
この態度は、後の《Woman》シリーズへもつながります。画面から対象を除去して「純粋な抽象」を達成するのではなく、対象が判読できる直前と直後を往復する。デ・クーニングにとって、新しい絵画は現実の形を禁止することではなく、形を固定しないことにありました。
《Painting》— 黒と白から形が現れる
1948年の《Painting》は、同年に開かれたデ・クーニング最初の個展の時期に制作された黒と白の抽象作品です。MoMAによれば、デ・クーニングは人物素描の一部をトレーシングペーパーで画面へ移し、その上から油絵具と看板用エナメルを重ねました。そのため完成作は一見抽象的でありながら、黒い形の中に身体、文字、物体を思わせる像が断片的に残っています。
絵具は垂れ、にじみ、固まり、薄い線へ溶けます。抽象的な形を幾何学的に整えるのではなく、描くことと消すことを繰り返しながら画面を作る。この作品は、ポロックの「床で線を生成する」方法とはまったく違いますが、完成像を最初から固定しないという点では同じ時代の問題を共有しています。
ロスコ — 神話から色面へ
マーク・ロスコ(Mark Rothko, 1903–1970)は1945年にArt of This Centuryで個展を開きました。この時点の作品には、シュルレアリスムや神話に関係する人物、鳥、植物のような形がまだ存在しています。しかしNational Gallery of Artによれば、1947年頃までにロスコは神話的・シュルレアリスム的な具象要素をほぼ取り除き、境界の曖昧な非具象の色面へ進んでいきました。
ロスコは単に「主題を捨てて色だけにした」と考えるべきではありません。1943年にゴットリーブとともに発表した文章でも、彼らは絵画にとって「主題」が重要だと主張していました。対象が消えても、絵画を何かについての経験として成立させたいという考えは残ります。色は装飾ではなく、感情や存在についての主題を担うものへ変わっていきました。
1949年 — 色の矩形が浮かび始める
National Gallery of Artによれば、1949年までにロスコは、その後の作品を特徴づける構成形式へ到達していました。画面には二つまたは三つの横長の矩形が上下に並び、輪郭は硬く閉じられず、周囲の色へにじむように浮かびます。後のロスコを知っていると当然に見える形式ですが、それは長い具象と半抽象の試行錯誤を経た結果でした。
ポロックが線を画面全面へ広げたのと同じ時期に、ロスコは逆に画面の要素を減らしています。動きの激しさではなく、色と色の距離、矩形の大きさ、画面に近づいた鑑賞者を包むスケールによって強い経験を作る。抽象表現主義の形成期には、すでに正反対に見える二つの方法が並行して成立していました。
ニューマン — 絵画を最小限から始め直す
バーネット・ニューマン(Barnett Newman, 1905–1970)は、1940年代前半までの自作の多くを破棄し、1944年頃から自分の成熟した制作が始まったと考えていました。MoMAによれば、彼は過去の絵画様式を継承するより「絵画が存在しなかったかのように始める」ことを目指し、1948年の《Onement I》で自分の方法を発見します。
ニューマンの画面には、ポロックのような大量の筆触も、デ・クーニングのような複雑な形もありません。むしろ色面と一本または数本の垂直帯へ要素を極端に減らすことで、絵画がどこから始まり、空間がどのように分かれ、鑑賞者がその前で何を感じるかを直接問題にしました。
《Onement I》— 一本の「zip」
《Onement I》は小さな赤褐色のキャンバスで、中央に明るい垂直の帯があります。MoMAの解説によれば、ニューマンはもともとマスキングテープを取り除くつもりで、その上へオレンジ色の絵具を塗っていました。しかし完成途中でテープを残したままの垂直帯に可能性を見出し、後に「zip」と呼ばれる要素へ発展させました。
この帯は画面を左右に分ける一方で、上下をつなぎ、画面全体を一つの場として成立させます。一本の線を「何かを描いた形」として読む必要がありません。ニューマンはそこから、色面と垂直帯だけで大きなスケールの絵画を作る方向へ進みます。1948年という同じ年に、デ・クーニングが形を増殖させる《Painting》を制作し、ニューマンは形をほとんど消していました。
クリフォード・スティル — ニューヨークの外から
クリフォード・スティル(Clyfford Still, 1904–1980)を「ニューヨーク・スクール」の一員として簡単に括ることには注意が必要です。SFMOMAによれば、スティルは1946年から1950年までCalifornia School of Fine Artsで教え、若い世代を社会的リアリズムから身振り的な抽象へ導く影響を持ちました。彼自身は後に、ニューヨーク・スクールとの結びつきを積極的に受け入れませんでした。
それでも、1940年代半ばから彼の作品に現れる、厚い絵具による不規則な色面や巨大なスケールは、同時代の画家たちに重要な刺激を与えました。Metの研究も、1947年から1950年頃にスティル、ロスコ、ニューマンが、非常に単純化された大きな色面によって精神的・形而上的な問題を追究したことを指摘しています。「ニューヨーク・スクール」という名称は、地理的にニューヨークに常住する人だけを機械的に指す言葉ではありませんでした。
マザウェル — 自動性と歴史的記憶
ロバート・マザウェル(Robert Motherwell, 1915–1991)は、シュルレアリストとの交流を通して自動性を学びながら、それを政治的・歴史的な記憶へ結びつけました。MoMA所蔵の《The Little Spanish Prison》では、薄い絵具を流す自由な操作から制作を始めつつ、垂直の帯や矩形によって「監禁」の感覚を作り、スペイン内戦を長く重要な主題として扱いました。
1948年には、後の長大なシリーズへ発展する《Elegy to the Spanish Republic》の最初期作品を制作します。黒い縦長の形と楕円が反復する構成は抽象ですが、作品は「何も意味しない形」ではありません。マザウェルにとって自動性は、作者の意識を消すためではなく、歴史的な記憶や感情へ直接近づくための入口でした。
1948年「Subjects of the Artist」
1948年、マザウェル、ロスコ、ウィリアム・バジオティス、彫刻家デイヴィッド・ヘアは、ニューヨークの東8丁目に「The Subjects of the Artist」という学校を設立しました。MoMA Archivesに残る1948–49年の案内によれば、ここでは通常の固定された授業ではなく、現代の芸術家が「何を主題とするのか」「どのように着想へ到達するのか」「制作の可能性は何か」を、学生と作家が共同で調べることが目的とされていました。
学校は短期間で閉じましたが、その考えは形成期のニューヨーク・スクールをよく表しています。技法を教えるだけではなく、現代に絵画を作るとは何をすることなのかを議論する。ポロック、ロスコ、ニューマン、マザウェルらの作品が見た目に異なっていても、「主題」「制作方法」「新しい絵画の必要性」を言葉で考える場が同時に形成されていました。
ノーマン・ルイス — 都市の気配を抽象へ
ノーマン・ルイス(Norman Lewis, 1909–1979)も、1940年代後半に具象的な社会主題から抽象へ大きく方向を移したニューヨークの画家です。1949年の《City Night》では、暗い画面を細い線が交差し、夜の都市、洗濯物の紐、電線などを思わせる気配が残っていますが、具体的な風景として固定されません。
MoMAは、この作品を抽象と具象の境界にある作品として説明し、ルイスが同年、絵画の諸要素それ自体が一つの言語を構成すると考えていたことを紹介しています。彼の作品は、抽象表現主義が白人男性だけの閉じた集団ではなかったこと、また抽象へ進んでも都市生活や社会経験との関係が完全に消えるわけではないことを示します。
彼らは何を共有していたのか
ポロック、デ・クーニング、ロスコ、ニューマン、クラスナー、ルイスの作品を並べても、共通の「抽象表現主義スタイル」は見つかりません。それでも彼らが同じ時代として語られる理由はいくつかあります。第一に、作品の内容を既存の物語や写実的な対象へ依存せず、線、色、形、スケール、材料そのものに大きな役割を与えたこと。第二に、制作過程を完成作品から切り離さず、絵具を置く行為や、偶然、修正、反復を画面へ残したことです。
さらに、多くの作家が「抽象=何も意味しない」とは考えていませんでした。Metが指摘するように、彼らは神話、古代文化、心理学、歴史、個人的経験などから「重要な内容」を探しながら、それを説明的な具象画へ戻さずに表現しようとしました。形を消したことより、形を使って何を経験させられるかを考えたことの方が重要です。
1950年 — 一つの世代として見え始める
1950年になると、個別に活動してきた作家たちは、外部から一つの世代として認識され始めます。同年、Metropolitan Museum of Artが企画した「American Painting Today」の方針に抗議し、ニューマン、ロスコ、ポロック、デ・クーニング、スティルらを含む作家たちが美術館へ公開書簡を送りました。Metは、この抗議者たちが後に「The Irascibles(怒れる人々)」と呼ばれ、翌年『Life』誌の集合写真によって広く知られるようになったことを記録しています。
ここで重要なのは、彼らが一つの様式に合意したから集まったのではないことです。むしろ、当時の美術制度が新しい絵画を十分に扱っていないという認識を共有したことで、一つの世代として公に見えるようになりました。1945年にはばらばらだった制作が、1950年頃には展覧会、批評、抗議、写真などを通じて「新しいアメリカ美術」の存在として社会的に認識され始めます。
次の時代へ — 抽象表現主義が国際的な存在になる
1950年以降、ポロックの大規模なオールオーバー絵画、デ・クーニングの《Woman》シリーズ、ロスコの巨大な色面、ニューマンの大画面、フランツ・クラインの黒と白の身振り的な抽象などが相次いで公に発表されます。形成期に別々の方向へ進んでいた作家たちが、批評と展覧会によって「抽象表現主義」という一つの歴史的現象として定着していく段階です。
同時に、アメリカの美術が国際的にどのように見られるかという問題も大きくなります。1950年代には作品がヨーロッパへ巡回し、ニューヨークは近代美術の重要な中心の一つとして認識されるようになります。次の記事では、1950–1955|抽象表現主義 — ポロック、デ・クーニング、ロスコ、ニューマンとして、形成期を抜けた各作家の成熟した作品と、「アクション・ペインティング」「カラー・フィールド」という後の分類がどのように成立したのかを詳しく見ていきます。
参考資料・出典
本ページは、美術館・研究機関が公開する作品、作家、展覧会、アーカイブ資料を参照してART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。原文の全文翻訳ではありません。
- The Metropolitan Museum of Art — Abstract Expressionism
- The Metropolitan Museum of Art — Epic Abstraction: Pollock to Herrera
- The Museum of Modern Art — Abstract Expressionism
- The Museum of Modern Art — A New Art for a New World
- The Museum of Modern Art — Mythical Creatures and Radical Abstractions
- Solomon R. Guggenheim Foundation — Jackson Pollock
- Solomon R. Guggenheim Foundation — Jackson Pollock, Eyes in the Heat, 1946
- The Museum of Modern Art — Jackson Pollock, Number 1A, 1948
- The Museum of Modern Art — Lee Krasner, Untitled, 1949
- The Museum of Modern Art — Willem de Kooning, Painting, 1948
- National Gallery of Art — Mark Rothko
- The Museum of Modern Art — Barnett Newman, Onement I, 1948
- San Francisco Museum of Modern Art — Clyfford Still
- The Museum of Modern Art — Robert Motherwell, Elegy to the Spanish Republic No. 1, 1948
- The Museum of Modern Art — Robert Motherwell / The Subjects of the Artist, 1948–49
- The Museum of Modern Art — Norman Lewis, City Night, 1949
- The Metropolitan Museum of Art — The Irascibles and American Painting Today, 1950
資料確認日:2026年10月1日 / ART LIBRARY