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Art History

1948–1956

リー・クラスナー

反復、切断、再構成

リー・クラスナー(Lee Krasner, 1908–1984)の1940年代後半から1950年代半ばの制作を見ると、「一つのスタイルを見つけ、それを成熟させていく」という作家像とは異なる動きが見えてきます。1940年代後半には小さな画面を反復する筆触と記号で埋める「Little Images」を制作し、1951年にはより幾何学的で明るい抽象作品によって最初の個展を開きました。しかし、その形式をそのまま続けることはありませんでした。1953年になると、それまでに描いたドローイングを自ら破り、その断片を新しい画面へ貼り直すコラージュへ進み、さらに以前の絵画そのものまで切断して再利用します。

この変化を「スタイルが定まらなかった」と見ることもできますが、別の見方をすれば、クラスナーは成功した形式を固定することそのものを避けていたとも言えます。ある作品群が行き詰まると、その作品を捨てるだけではなく、物理的に壊し、断片を別の作品の材料に変える。制作の失敗や過去を画面の外へ排除するのではなく、それを次の制作工程へ組み込む方法を作りました。

また、クラスナーをジャクソン・ポロックの妻としてだけ見ると、この時期の重要性を大きく見失います。彼女はポロックと出会う以前からニューヨークで美術教育を受け、WPA Federal Art Projectで働き、Hans Hofmannに学び、American Abstract Artistsの展覧会にも参加していました。ポロックとの生活と制作環境はもちろん重要ですが、Little Imagesからコラージュへの変化は、クラスナー自身が長く続けてきた「既存の形を壊して別の構造へ作り直す」という問題の中で見る必要があります。

CONTENTS

  1. ポロック以前から抽象画家だった
  2. ハンス・ホフマンから学んだもの
  3. 1945年、スプリングスへ移る
  4. 1946–50年「Little Images」
  5. なぜ小さな画面だったのか
  6. イーゼルではなく、机の上で描く
  7. 反復する筆触で画面を埋める
  8. 読めない文字のような記号
  9. クラスナーの「オールオーバー」
  10. ポロックとの違い — 同じ家で別の抽象を作る
  11. 1949年《Untitled》— 反復と私的な記号
  12. 1950年 — Little Imagesの先へ
  13. 1951年、最初の個展
  14. 幾何学的な抽象へ一度進む
  15. 評価されても売れなかった
  16. 黒と白のドローイング
  17. 1953年 — 自分の作品を破る
  18. 破壊と否定は同じではない
  19. 床に散った断片からコラージュへ
  20. 以前の絵画を支持体として使い直す
  21. ポロックの捨てたドローイングも材料になる
  22. 描くことから「編集すること」へ
  23. 破ることで生まれる輪郭
  24. 1955年 Stable Gallery「Lee Krasner Collages」
  25. 《Bald Eagle》— 異なる制作時間を一枚に重ねる
  26. 《Blue Level》— コラージュが大画面になる
  27. 《Milkweed》— 自然を描くのではなく、自然に似た秩序を作る
  28. グリーンバーグが後に高く評価した理由
  29. 「ポロックの妻」という位置づけを越えて見る
  30. 1956年 — 一つの制作期の終わり
  31. クラスナーにとって作品は固定された完成品ではない
  32. 自作を再利用することの意味
  33. 1948–1956年に何が変わったのか
  34. クラスナー以後 — 壊すことも制作になる
  35. 次の時代へ — ジョアン・ミッチェル、身振りと風景
  36. 参考資料・出典

ポロック以前から抽象画家だった

リー・クラスナーの経歴をポロックとの結婚から始めると、彼女の制作史のかなりの部分が消えてしまいます。MoMAの年譜によれば、クラスナーは1920年代にCooper Union、Art Students League、National Academy of Designで学び、1930年代にはWPA Federal Art Projectに参加しました。1937年から1940年頃にはハンス・ホフマンのもとで学び、1940年にはAmerican Abstract Artistsの展覧会へ出品しています。

つまり、1941年末から1942年頃にポロックと知り合った時点で、クラスナーはすでに長い教育と制作経験を持つ画家でした。1942年のJohn Graham企画「American and French Paintings」では、クラスナーとポロックが同じ展覧会へ参加したことが二人の関係の契機になります。この事実を確認しておくことは、後の制作を「ポロックから抽象を学んだ」という単純な影響関係へ縮めないために重要です。

ハンス・ホフマンから学んだもの

クラスナーは1930年代後半、ハンス・ホフマンの学校で集中的に学びました。ホフマンの教育では、自然をそのまま再現することより、形、色、空間の相互作用を画面上で組み立てることが重視されました。クラスナーの初期作品にはキュビスム的な分解や幾何学的な構造が見られ、後のLittle Imagesやコラージュにも、画面全体を複数の部分の関係として考える姿勢が残っています。

ただし、クラスナーをホフマンの形式理論の継承者として固定することもできません。彼女はその後、幾何学的な構造を壊し、反復する小さな記号へ進み、さらに作品そのものを破って再構成します。学んだ構成原理をそのまま維持するより、それを何度も壊しながら自分の制作へ変えていったと考えた方が、長いキャリアの変化を理解しやすくなります。

1945年、スプリングスへ移る

1945年10月にポロックと結婚したクラスナーは、同年末にロングアイランド東部のSpringsへ移りました。Barbicanの回顧展資料では、マンハッタンを離れたことで周囲の環境が大きく変わり、クラスナー自身も都市の灰色から開かれた環境への変化をLittle Imagesと結びつけて振り返っています。

二人は同じ敷地で制作しましたが、制作空間は同じではありませんでした。ポロックは後に納屋を大きなスタジオとして使用し、クラスナーは家の二階にある比較的小さな部屋で制作します。この空間条件の違いは、1940年代後半に二人が作った作品のサイズと方法にも関係しました。

1946–50年「Little Images」

MoMAの年譜では、クラスナーが1946年から1949年にかけて「Little Image」作品群を制作したとされています。回顧展や研究では1950年頃までを含めて語られることもあり、いずれにしてもスプリングスへ移った直後の数年間に集中的に作られた作品群です。画面は後の巨大作品と比べると小さく、表面には短い筆触や記号のような形が繰り返され、全体を密に覆っています。

「Little」という名称から小品や習作を想像するかもしれませんが、作品の密度は非常に高く、画面全体を一つの構造として組み立てています。大きな人物や中心的なモチーフはなく、細かな形が反復されることで、視線が画面の一箇所に停止しない構成が作られました。

なぜ小さな画面だったのか

Little Imagesの小ささには、制作環境が直接関係しています。MoMAは、クラスナーが家の二階の寝室を使い、卓上でこれらの作品を制作したと説明しています。ポロックが納屋の広い床を使って大型キャンバスへ進んだのに対し、クラスナーの空間では同じ規模の身体運動は現実的ではありませんでした。

しかし、この制約は単純な不利ではなく、別の制作方法を生みました。大きく腕を振って線を作る代わりに、画面の近くで短い筆触を繰り返し、密度を高めていく。身体の動きが小さくなることで、作品は筆記や編み物のような反復的なリズムを持つようになります。スケールの違いが、そのまま異なる抽象表現を生んでいました。

イーゼルではなく、机の上で描く

MoMA所蔵の1949年《Untitled》は、Little Imagesの制作方法をよく示しています。作品はイーゼルに立てた大きなキャンバスではなく、卓上で制作され、クラスナーは厚い油絵具を短い反復するストロークとして置きました。絵具をチューブから直接絞り出すこともあり、細かな盛り上がりが画面の表面に残っています。

ここでは「描く」ことと「置く」ことの境界が曖昧です。一本の筆触が何かの輪郭を説明するのではなく、同じような単位を何度も置くことで画面全体が形成されます。完成像を先に決め、それを再現するのではなく、反復が進むにつれて構造が生まれていく制作です。

反復する筆触で画面を埋める

Little Imagesでは、短い線、点、矩形、曲線などが画面いっぱいに反復されます。遠くから見ると一つの表面としてまとまり、近づくと一つ一つの筆触が別々の形として現れます。大きな中心を作らず、局所的な反復から全体を成立させるという意味では、同時期のオールオーバー絵画と共通する問題を持っています。

ただしクラスナーの反復には、ポロックの流れる線とは異なる時間があります。ポロックの線は腕の運動によって長く連続しますが、クラスナーの画面では短い単位が一つずつ積み重なります。一回の大きな運動ではなく、小さな判断を何百回も繰り返すことによって全体が形成されます。

読めない文字のような記号

MoMAの《Untitled》(1949)の解説によれば、クラスナーはLittle Imagesに現れる記号を、幼少期に学んだヘブライ文字との関係で語っています。彼女は子どもの頃にヘブライ語を学びましたが、後には読み書きできなくなっていました。その記憶を持ちながら、特定の意味を伝えない「private symbols」の言語を作ることに関心を持っていたと説明しています。

そのため画面は文章のようにも見えますが、読むことはできません。左から右へ意味が進む通常の文字列とは違い、記号が上下左右へ増殖し、意味の代わりに視覚的なリズムを作ります。書くことと描くことの中間にあるような状態が、Little Imagesの特徴の一つです。

クラスナーの「オールオーバー」

Little Imagesでは、画面の中央に主役を置かず、反復する形をほぼ全面へ広げています。この意味で、ポロックのドリップ作品と同様に「オールオーバー」と呼べる構造があります。しかし同じ言葉を使っても、二人の画面の生成方法は異なります。

クラスナーでは、短い単位が格子に近い秩序の中で反復されることが多く、線の一回的な軌跡より、蓄積と密度が重要です。全体を一度に作るのではなく、部分を作りながら全体を調整する。そのため画面には即興性と同時に、編成された構造の感覚も残っています。

ポロックとの違い — 同じ家で別の抽象を作る

クラスナーとポロックは同じ時期に同じ敷地で制作し、互いの仕事を見ていました。しかし、作品を夫婦の共同スタイルとして扱うべきではありません。Pollock-Krasner Foundationも、二人を20世紀の抽象表現主義を革新した独立した作家として位置づけています。クラスナー自身も、ポロックが彼女を一人の画家として扱っていたことを後年繰り返し語っています。

1940年代後半の違いは特に明確です。ポロックは支持体を床へ置き、身体の大きな移動と流動する絵具によって線を作りました。クラスナーは小さな制作室で、卓上の画面に短い筆触を反復します。どちらも中心を持たない抽象へ進みながら、身体のスケール、絵具の置き方、画面のリズムは大きく異なっていました。

1949年《Untitled》— 反復と私的な記号

MoMA所蔵の1949年《Untitled》では、格子状の構造に細かな白、黒、赤などの記号が密集しています。表面には絵具の厚みがあり、記号は印刷された文字のように均一ではなく、一つ一つの形が微妙に変化しています。反復によって秩序を作りながら、その反復が完全な規則にならないところに画面の動きがあります。

この作品では、一つの記号を読み解くより、記号が連続する状態そのものを見る方が重要です。形は文字のようでありながら言語ではなく、装飾的なパターンに見えながら同一形の機械的な反復でもありません。私的な記憶と身体的な反復が、具体的な意味へ固定されない抽象として残っています。

1950年 — Little Imagesの先へ

1950年頃になると、クラスナーはLittle Imagesの密集した記号から離れ始めます。Guggenheim Bilbaoの資料によれば、翌1951年の最初の個展へ向けて、より幾何学的で、柔らかな明るい色を使った14点の抽象作品を制作しました。ここでも、成功したLittle Imagesを反復して市場へ広げるのではなく、別の構造を試しています。

クラスナーのキャリアでは、このような方向転換が何度も起こります。ある方法を徹底した後、その方法が自分にとって使い切られたと感じると、別の制作へ移る。作品間の視覚的一貫性より、制作を継続するために変化することの方を優先しました。

1951年、最初の個展

1951年10月、クラスナーはBetty Parsons Galleryで最初の個展「Paintings 1951, Lee Krasner」を開きました。MoMAの年譜にもこの個展が記録されており、Guggenheim Bilbaoによれば、展覧会には14点の幾何学的な抽象作品が出品されました。クラスナーはすでに長くニューヨークで活動していましたが、個展という形でまとまった制作を発表したのはこの時が初めてでした。

Betty Parsons Galleryは、ポロック、ニューマン、スティル、ロスコら戦後ニューヨークの作家を扱った重要な場所です。クラスナーも同じネットワークの中で作品を発表したことになります。ただし、同じ画廊に所属したからといって作品が同じ方向を向いていたわけではありません。

幾何学的な抽象へ一度進む

1951年展の作品群では、Little Imagesの細かな記号よりも、大きく整理された幾何学的な形と明るい色彩が目立ちました。Guggenheim Bilbaoはこれらを「geometric abstractions washed in soft, luminous color」と説明しています。画面の構造をより大きな単位で整理し、Little Imagesとは異なる視覚言語を試した時期です。

しかし、この方向も長くは続きませんでした。クラスナーにとって、一つのスタイルを確立することそのものが目的ではなかったからです。個展のためにまとまった作品群を作った後、その画面を後にコラージュの支持体として切り直すことさえ行います。発表済みの「完成作品」も、彼女にとって永久に固定されたものではありませんでした。

評価されても売れなかった

Guggenheim Bilbaoの解説によれば、1951年の作品群は批評的には好意的に受け取られましたが、作品は売れませんでした。これは、当時のクラスナーの位置を考えるうえで重要です。現在では抽象表現主義の主要作家として美術館で大規模な回顧展が行われていますが、1950年代初頭に市場で安定した評価を得ていたわけではありません。

ただし、その後の変化を「売れなかったからスタイルを変えた」と一つの原因で説明することもできません。クラスナー自身の証言では、次の黒と白のドローイング群にも満足できず、最終的にそれを破壊する行為から新しい制作が始まっています。市場の反応と、作家自身が画面へ感じる行き詰まりは区別して考える必要があります。

黒と白のドローイング

1951年展の後、クラスナーは黒と白を中心としたドローイングを集中的に制作しました。Guggenheim Bilbaoによれば、彼女はそれらをスタジオの壁へ貼り、新しい方向へ進むための手がかりにしようとしました。色を減らし、線と形だけで制作を考え直そうとした時期と見ることができます。

しかし、制作を続けるうちに、それらのドローイングそのものに強い不満を感じるようになります。そこで起きたことが、クラスナーの制作史の中でも特に重要な転換です。新しい作品を別の紙に描き始めるのではなく、すでに作ったドローイングを破るという行為へ進みました。

1953年 — 自分の作品を破る

Smithsonian Archives of American Artに残る1960年代のオーラル・ヒストリーで、クラスナーは1953年頃に始まったコラージュについて詳しく振り返っています。スタジオの壁いっぱいに貼っていたドローイングをある日すべて外し、破って床へ捨てた。しばらくスタジオへ戻れなかったものの、再び入った時、床に散らばった断片が突然興味深く見えたと語っています。

このエピソードの重要な点は、破壊がそこで終わらなかったことです。描いた作品を否定し、廃棄するだけなら、断片はゴミとして処分されます。しかしクラスナーは、一度価値を失わせた断片をもう一度見直し、別の関係へ配置することで新しい作品の材料へ変えました。制作と破壊の間に明確な境界がなくなります。

破壊と否定は同じではない

作品を破る行為は、過去の制作を否定したようにも見えます。しかし、その断片を次の作品に使った時点で、完全な否定ではなくなります。以前の線、筆触、紙の色は物理的に残り、形だけが切断されます。元の作品としての意味は失われても、材料としての時間は保持されます。

この方法によって、一枚の完成作品は最終地点ではなくなりました。後から切断され、別の支持体へ移され、別の作品の一部になる可能性があります。クラスナーは作品を保存するだけでなく、自分自身の過去の制作を再編集できるアーカイブのように扱い始めたとも考えられます。

床に散った断片からコラージュへ

クラスナーは床に散ったドローイングの断片を拾い上げ、紙の上で位置を変えながら組み合わせました。National Gallery of Australiaの資料では、1953年の《Untitled》に、黒い油彩の描線と、再利用された紙片が組み合わされていることが説明されています。切断された紙の鋭い境界と、引きずるような黒い筆触が同じ画面に共存します。

ここでは、画面上で形を一から「描く」必要がありません。すでに存在する線を含んだ紙片を持ち上げ、回転し、別の場所へ置くだけで構図を変えられます。制作の中心が筆の運動だけでなく、選択、移動、重ね合わせへ広がりました。

以前の絵画を支持体として使い直す

クラスナーは次第に、ドローイングだけでなく以前に制作した絵画までコラージュの材料として使用します。Guggenheim Bilbaoによれば、1951年のBetty Parsons Gallery展に出品したキャンバスの一部も後のコラージュの下地や断片として再利用されました。つまり、公に発表された完成作品でさえ、後に別の作品へ組み替えられたことになります。

これは作家の「作品一覧」を安定したものとして考える美術史とは相性の悪い行為です。一つの作品が消える代わりに、その一部が複数の新しい作品へ残る可能性があるからです。クラスナーの制作では、過去の作品は固定された成果ではなく、現在の制作に再び投入できる物質になりました。

ポロックの捨てたドローイングも材料になる

1950年代のコラージュには、クラスナー自身の作品だけでなく、ポロックが廃棄したドローイングの断片も使用されました。Guggenheim Bilbaoは、紙、麻布、新聞紙、写真用紙などとともに、ポロックの捨てたドローイングを取り込んだことを記録しています。

この事実にはさまざまな解釈が可能ですが、心理的な意味を断定する必要はありません。物質的に確認できるのは、別の作者が作った痕跡であっても、捨てられた後には切断、回転、重ね合わせの対象として扱われ、クラスナーの新しい構成へ組み込まれたことです。作者の固有のジェスチャーが、別の作者によって編集可能な素材へ変わっています。

描くことから「編集すること」へ

コラージュによって、制作は「新しい線を生み出すこと」だけではなくなります。すでに存在する線や色を選び、それを切り、移動し、別の断片と接続する。画家は線を作る人であると同時に、自分や他者が以前に作ったイメージを編集する人になります。

この変化は、後の現代絵画を考えるうえでも重要です。既存の画像を引用し、複製し、加工し、再配置する制作は20世紀後半に急速に広がります。クラスナーの1950年代のコラージュはデジタル編集とはもちろん異なりますが、「すでにある自分のイメージを再び材料として扱う」という点で、オリジナルな一回の筆触だけとは異なる制作モデルを提示しました。

破ることで生まれる輪郭

クラスナーのコラージュでは、紙片をきれいな幾何学形に切りそろえるだけでなく、手で破いた断片が多く使われます。そのため輪郭には繊維の不規則な裂けが残り、筆で描いた曲線とは別の種類の線が生まれます。作者が一本ずつ輪郭を描かなくても、紙を破る行為そのものが形を作ります。

さらに、断片の内部には以前の筆触が残っているため、一つの紙片の中に二種類の時間が存在します。最初に描いた時の線と、後から破って再配置した時の輪郭です。コラージュは単なる異素材の組み合わせではなく、異なる制作時点を同じ画面へ重ねる方法にもなりました。

1955年 Stable Gallery「Lee Krasner Collages」

1955年9月、Eleanor WardのStable Galleryで「Lee Krasner Collages」が開催されました。Smithsonian Archives of American Artにはこの展覧会の資料が残され、Guggenheim Bilbaoも、1953年頃から約3年間に展開されたコラージュ群がこの個展でまとまって公開されたと説明しています。

展示された作品は、小さな紙上コラージュだけではありません。《Bald Eagle》《Blue Level》《Desert Moon》《Milkweed》など、大きな支持体に油絵具、紙、キャンバス、麻布などを組み合わせた作品へ発展していました。破壊から始まった方法が、短期間で大画面の絵画そのものを再構成する方法へ拡張したことが分かります。

《Bald Eagle》— 異なる制作時間を一枚に重ねる

1955年の《Bald Eagle》は、油絵具、紙、キャンバスを麻の支持体へ貼り合わせた大規模なコラージュです。Guggenheim Bilbaoの展示資料では、クラスナーの1955年Stable Gallery展を代表する作品の一つとして紹介されています。画面には、異なる色、異なる筆触、異なる方向を持つ断片が大きく組み合わされています。

一つの連続した筆致で画面を作るのではなく、以前は別々だった断片を接合して全体を作るため、構図には切れ目が明確に残ります。しかしその断絶が弱点ではなく、画面を動かす力になります。ある部分の線が紙の端で突然切れ、別の断片では別方向の線が始まるため、視線は連続と中断を何度も経験します。

《Blue Level》— コラージュが大画面になる

1955年の《Blue Level》は、油絵具、紙、麻布などを組み合わせた、高さ2メートルを超える作品として知られます。Kasmin Galleryの資料では、同年のStable Gallery展に出品された大型コラージュ群の一つとして位置づけられています。Little Imagesの小さな卓上作品から約10年で、クラスナーのコラージュは鑑賞者の身体を越えるスケールへ拡大しました。

ただし、大型化してもポロックのように一つの身体運動で全面を作る方法へ向かったわけではありません。大きな支持体の内部を、多数の異なる断片で構成します。近づけば一片ごとの素材と過去の筆触が見え、離れればそれらが一つの大きなリズムとしてまとまります。部分と全体の往復が、作品を見る時間を作ります。

《Milkweed》— 自然を描くのではなく、自然に似た秩序を作る

1955年の《Milkweed》という題名は植物を直接連想させますが、作品は植物の写生ではありません。Smithsonianのオーラル・ヒストリーで、インタビュアーがコラージュに森のような感覚があると述べた際、クラスナーは特定の自然形態を意識していたわけではないと答えつつ、自然を認識し愛していること自体は否定していません。

この距離感は重要です。自然を直接描写しなくても、成長、分岐、密集、反復といった秩序が画面から生まれることがあります。1955年の展覧会についてFairfield Porterも、クラスナーの作品を自然の壮大な設計の再現というより、より複雑で微妙な秩序と無秩序を感じさせるものとして論じました。自然と抽象を単純に二分しないところに、コラージュ期の特徴があります。

グリーンバーグが後に高く評価した理由

クラスナーの1955年のコラージュ展は、後にクレメント・グリーンバーグから高く評価されました。National Gallery of Australiaの資料では、グリーンバーグがこのコラージュの試みを当時の抽象表現主義への重要な貢献として振り返ったことが紹介されています。Kasmin Galleryも、Stable Gallery展を1950年代の重要な展示として彼が評価したことを記録しています。

この評価は興味深いものです。グリーンバーグは後に媒体の自己批判や絵画の平面性を重視する批評家として強い影響力を持ちますが、クラスナーのコラージュは異なる紙、キャンバス、麻布を重ね、過去の作品そのものを切断して使っています。これを彼がどう評価したのかは、今後予定しているグリーンバーグの記事でも、彼の批評を単純な「純粋絵画」論だけにしないための重要な材料になります。

「ポロックの妻」という位置づけを越えて見る

Barbicanが2019年の大規模回顧展で明確にしたように、クラスナーの評価は長くポロックとの結婚によって影が薄くなってきました。しかし彼女の制作年譜を実際に追うと、ポロック以前の教育と抽象制作、Little Images、1951年の個展、1953年以降のコラージュなど、独立した問題意識と変化がはっきり存在します。

同時に、二人の関係を完全に切り離す必要もありません。同じ家で作品を見せ合い、制作環境を共有し、クラスナーのコラージュにはポロックの廃棄した紙片も入っています。重要なのは「影響があったか、なかったか」という二択ではなく、二人が実際に近い環境で制作しながら、異なる方法を作ったことを確認することです。

1956年 — 一つの制作期の終わり

1956年、クラスナーはヨーロッパへ旅行しました。Barbicanの資料によれば、この時期ポロックとの関係は悪化しており、クラスナーがヨーロッパ滞在中の8月11日、ポロックは自動車事故で亡くなりました。この出来事は当然その後のクラスナーの人生と制作に大きな影響を与えますが、その影響を単純な心理説明へ還元することは避ける必要があります。

ここでは1956年を、Little Imagesから1955年のコラージュまで続いた一つの制作期の終点として区切ります。ポロックの死後、クラスナーは納屋の大きなスタジオを使うようになり、1950年代末には「Umber」シリーズなど、さらに大きなスケールと異なる色調の作品へ進みます。それは別の記事として扱う方が、この時期の変化を明確に見ることができます。

クラスナーにとって作品は固定された完成品ではない

Little Imagesからコラージュまでを通して見ると、クラスナーの特徴の一つは、作品を固定された最終成果として扱わないことにあります。1951年の個展に出した作品でさえ、その後切断され、別の画面の材料になります。一度「完成」として外部へ出た作品も、作者の手元へ戻れば再び制作途中の状態へ変えられました。

この態度は、作品の価値を保存するという通常の考え方と緊張します。気に入らない作品を保管して過去の記録にするのではなく、破壊して現在の制作に使う。過去の自分を守ることより、現在の制作を前へ進める材料として利用することが優先されています。

自作を再利用することの意味

クラスナーのコラージュを、現在一般的な意味での「リサイクル」とだけ呼ぶと重要な部分が薄くなります。再利用しているのは単なる紙やキャンバスではなく、自分自身が以前に判断し、完成させ、時には展覧会へ出した作品です。つまり、材料を再利用すると同時に、自分の過去の判断を再編集しています。

一つの作品を切ると、元の構図は失われます。しかし筆触そのものは残ります。クラスナーは、自分がかつて作ったジェスチャーを「その時の自分の表現」として不可侵に保存するのではなく、切断可能な視覚素材へ変えました。この点は、後の時代にジェスチャーや既存イメージが引用、複製、再加工されていく絵画史を考える際にも興味深い先行例になります。

1948–1956年に何が変わったのか

この時期のクラスナーは、小さな反復から大きな断片の再構成へ進みました。Little Imagesでは、短い筆触を何度も置くことで全体を作り、1951年には幾何学的で明るい抽象へ方向を変えます。そしてその形式にも留まらず、1953年には過去のドローイングや絵画を物理的に破り、コラージュによって新しい画面を作りました。

一見すると作品のスタイルは大きく変わりますが、共通しているのは「部分と全体」の関係です。Little Imagesでは小さな記号から全体を作り、コラージュでは切断された断片から全体を再構成する。反復と再配置という方法を通して、一枚の絵を最初から最後まで一つの統一されたイメージとして作ることから距離を取っています。

クラスナー以後 — 壊すことも制作になる

クラスナーの1950年代のコラージュが残した重要な問題の一つは、「破壊」と「制作」が必ずしも反対ではないことです。完成作品を切れば元の作品は失われますが、その断片から別の作品が生まれます。消去、切断、再配置は、完成へ向かう途中の修正ではなく、それ自体が新しいイメージを作る方法になります。

この問題は20世紀後半以降の絵画で何度も別の形で現れます。過去の作品を引用する、写真へ変換する、印刷する、デジタル化する、上から消す、自分の作品を別の作品へ再利用する。クラスナーの方法をそのまま後代へ直線的につなぐ必要はありませんが、「自分がすでに作ったものも次の作品の材料になり得る」という考えは、絵画における作者性やオリジナリティを考える重要な手がかりになります。

次の時代へ — ジョアン・ミッチェル、身振りと風景

クラスナーが1950年代前半に自作を切断し、コラージュによって別の画面へ組み直していた頃、より若い世代のジョアン・ミッチェルはニューヨークで抽象画家として活動を始めていました。1951年のNinth Street Showにも参加し、1950年代には大きなキャンバスへ激しい筆触を重ねながら、風景や記憶との関係を持つ独自の抽象へ進みます。

次の記事では、1951–1959|ジョアン・ミッチェル — 身振り、記憶、風景として、彼女を「第二世代の抽象表現主義」という名称だけで処理せず、ニューヨークでの形成、《Hemlock》などの作品、自然を直接描写せず記憶から再構成する方法、そして1950年代末のフランスへの移動までを詳しく扱います。

参考資料・出典

本ページは、美術館、作家財団、アーカイブ、研究機関が公開する作品、展覧会、オーラル・ヒストリー資料を参照してART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。原文の全文翻訳ではありません。

資料確認日:2026年10月1日 / ART LIBRARY