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1951–1959

ジョアン・ミッチェル

身振り、記憶、風景

ジョアン・ミッチェル(Joan Mitchell, 1925–1992)は、しばしば「第二世代の抽象表現主義」と呼ばれます。この名称は、ポロック、デ・クーニング、ロスコらの少し後にニューヨークの美術界へ登場した世代を整理するには便利ですが、ミッチェルの制作をそれだけで理解すると重要な部分が抜け落ちます。彼女はニューヨーク・スクールの身振り的な絵画に深く関わりながら、作品を自己表現の直接的な記録としてだけ考えていませんでした。風景、都市、天候、植物、詩、音楽、人との関係など、実際に経験した世界が記憶の中で変形し、その残像や感覚を絵画へ組み直すことが制作の中心にありました。


Robert Freson – Original publication: Joan Mitchell Foundation Immediate source: Joan Mitchell Foundation

1950年代のミッチェルは、ニューヨークの画家たちと交流し、1951年のNinth Street Showへ参加し、1952年には最初のニューヨーク個展を開きました。わずか数年で新しい世代の重要な画家として評価されます。しかし、彼女はニューヨークの抽象絵画へ同化するだけではありませんでした。1955年以降はパリとニューヨークを頻繁に往復し、1959年にはフランスへ移住します。二つの都市と、その間にある距離や移動の経験そのものが、作品の構造へ入り込んでいきました。

この時期を見るうえで重要なのは、「風景を描く」と「風景画を描く」を区別することです。ミッチェルの画面には木、川、橋、街路を写実的に描いた像はほとんどありません。それでも《City Landscape》《Hemlock》《The Bridge》といった題名が示すように、具体的な場所や自然との関係を作品から切り離すこともできません。ミッチェル自身が後に語ったように、彼女が描こうとしたのは自然そのものの外見ではなく、自然が自分の中に残したもの、そしてそれに伴う感情でした。

CONTENTS

  1. 1951年以前 — シカゴからニューヨークへ
  2. 1948–49年、最初のフランス滞在
  3. 具象から抽象へ
  4. 1950年、ニューヨークへ戻る
  5. Artists’ ClubとCedar Tavern
  6. 1951年 Ninth Street Show
  7. 「第二世代」という呼び方
  8. 《Lyric》— 初期の画面に現れる運動
  9. 1952年、最初のニューヨーク個展
  10. 即興的に見えて、制作は遅い
  11. ミッチェルにとってジェスチャーとは何か
  12. 画面中央へ集まる筆触
  13. 白は空白ではない
  14. 風景を「記憶」から描く
  15. 《City Landscape》— 都市も自然として見る
  16. 都市と自然を分けない
  17. 色は感情の記号ではなく、関係として働く
  18. 1955年 — ニューヨークとパリの往復が始まる
  19. パリでニューヨークから距離を取る
  20. 《Hemlock》— 木を描かずに木の感覚を残す
  21. 題名は後から付けられる
  22. 詩と絵画の距離
  23. 《The Bridge》— 二つの場所をまたぐ絵画
  24. 二枚組という形式
  25. 画面に時間と移動を入れる
  26. 1956年パリのスタジオ
  27. 1957年 — 「Second Generation」として展示される
  28. 《To the Harbormaster》— 詩、距離、往復
  29. 前景と背景を固定しない
  30. デ・クーニングとの違い
  31. ポロックとの違い
  32. フランケンサーラーとの違い
  33. 女性作家としての位置づけ
  34. 1958年 — 美術館コレクションへ入る
  35. 1959年 — パリへ移住
  36. 1951–1959年に何が変わったのか
  37. ミッチェル以後 — 身振り的抽象は終わらない
  38. 次の時代へ — フランケンサーラー、染み込みと色面
  39. 参考資料・出典

1951年以前 — シカゴからニューヨークへ

ミッチェルは1925年にシカゴで生まれ、幼い頃から詩、音楽、美術に触れる環境で育ちました。Joan Mitchell Foundationによれば、11歳頃から本格的に絵画を学び、後にSchool of the Art Institute of Chicagoへ進学しました。シカゴでは同館のコレクションを通してセザンヌ、ゴッホ、マティス、カンディンスキーなどの作品を見ることができ、後の制作へつながる色彩と構成への関心を深めていきます。

1947年に学校を卒業した後、旅行奨学金を得てフランスへ渡ります。ここで重要なのは、ミッチェルの制作が最初からニューヨーク抽象表現主義だけを起点にしていたわけではないことです。ヨーロッパ近代絵画、とりわけセザンヌやゴッホの風景、色と構造への関心は、その後ニューヨークで身振り的な抽象と出会ってからも消えませんでした。

1948–49年、最初のフランス滞在

Joan Mitchell Foundationの年譜によれば、ミッチェルは卒業後の奨学金でフランスへ渡り、約一年間ヨーロッパで制作しました。この滞在中に作品は徐々に抽象化していきます。彼女にとってフランスは、後年移住する場所というだけでなく、若い時期から絵画の歴史を実作品を通して考える場所でした。

この時点では、後の《Hemlock》のような激しい抽象に到達していたわけではありません。しかし、見た風景をそのまま再現することより、画面の色と形を独立した関係として組み立てる方向へ移っていきました。風景への関心を捨てて抽象になったのではなく、風景を絵画へ変換する方法が変化していったと考える方が適切です。

具象から抽象へ

ミッチェルの抽象化は、現実世界への関心を切断することではありませんでした。後年彼女は、自然を鏡のように写すことはできず、「それが自分の中に残したもの」を描きたいという趣旨の発言をしています。SFMOMAも、彼女の抽象絵画を風景、人、詩、音楽、日常経験の記憶と強く結びついたものとして位置づけています。

つまり、画面から木や建物の輪郭が消えても、対象との関係が消えるわけではありません。見たものが記憶に残り、時間の中で変化し、その後に色や筆触として画面へ現れる。その意味でミッチェルの抽象は、対象を排除するより、対象を記憶の内部で再構成する方法でした。

1950年、ニューヨークへ戻る

1949年末から1950年頃、ミッチェルはニューヨークへ定着し、急速にダウンタウンの前衛美術のネットワークへ入っていきます。Joan Mitchell Foundationによれば、一年ほどで「New York School」の画家や詩人たちと活発に交流するようになりました。デ・クーニング、フランツ・クライン、フィリップ・ガストンなど、すでに抽象表現主義の中心で制作していた画家とも接触します。

しかし、ミッチェルは単に先行世代の形式を学んだ若手ではありませんでした。1950年代初頭にはすでに、自分の作品をニューヨークの身振り的な抽象から区別できる特徴を形成し始めています。特に、筆触を画面全面へ均等に撒くより、一部へ集中させながら周囲に空白を残す構成は、後の成熟した作品へ長く続きます。

Artists’ ClubとCedar Tavern

1950年代初頭のニューヨークでは、The Clubと呼ばれるArtists’ Clubが、画家、批評家、詩人が議論する重要な場所になっていました。Joan Mitchell Foundationの資料では、ミッチェルもこのコミュニティへ参加し、Cedar Tavernなどで同世代や上の世代の画家たちと交流したことが記録されています。

こうした場は、正式な学校や運動の事務局ではありません。作品を見せ、議論し、批評し合う緩やかなネットワークでした。そのため「ニューヨーク・スクール」という名称も、全員が同じ美学へ従った組織を指しているわけではありません。ミッチェルもそのネットワークに入りながら、風景と記憶を重視する独自の方向へ進みました。

1951年 Ninth Street Show

1951年、ミッチェルは「9th Street Exhibition of Paintings and Sculpture」に参加しました。Joan Mitchell Foundationの年譜によれば、この展覧会はLeo CastelliとArtists’ Clubの周辺によって組織され、当時ニューヨークで形成されつつあった新しい絵画・彫刻の世代をまとめて紹介する重要な機会になりました。

Ninth Street Showは後にニューヨーク・スクールの歴史を象徴する展覧会として繰り返し語られますが、そこで展示された作品が一つの様式だったわけではありません。ミッチェルにとっても、特定の運動へ正式加入するというより、自分の作品が同時代の新しい絵画と同じ場で見られる最初期の重要な機会でした。

「第二世代」という呼び方

ミッチェルは美術史上しばしば「Second Generation Abstract Expressionist」と呼ばれます。実際、1957年にはJewish Museumの「Artists of the New York School: Second Generation」へ出品し、この世代区分は当時から使用されていました。Joan Mitchell Foundationの年譜にも、この展覧会への参加が記録されています。

ただし、「第二世代」という言葉には注意が必要です。ポロックやデ・クーニングの発明した様式を、次の世代が受け継いだという一方向の関係に見えやすいからです。ミッチェルは先行するニューヨークの抽象から多くを学びながら、セザンヌ、ゴッホ、詩、風景、個人的な記憶など別の参照を持ち込みました。第二世代という分類は年代を示すには有効でも、作品の独自性そのものを説明する言葉ではありません。

《Lyric》— 初期の画面に現れる運動

1951年頃の《Lyric》では、明るい色の形と角張った線が画面全体で動き、中心から外側へ広がるような構成が見られます。SFMOMAの回顧展資料は、この作品をミッチェル初期の特に大胆な作品の一つとして紹介し、都市生活、詩、音楽への関心が題名と画面のリズムに重なっていると説明しています。

ここでの「lyric」は、作品を言葉の内容へ翻訳するための題名ではありません。音楽や詩のように、時間の中で部分が連続し、互いの間隔から全体の感覚が生まれることを示唆します。ミッチェルの筆触は一つの像を作るためではなく、複数の速度と方向を持つリズムとして画面へ配置されます。

1952年、最初のニューヨーク個展

1952年、ミッチェルはNew Galleryで最初のニューヨーク個展を開きました。Joan Mitchell FoundationとSFMOMAの資料によれば、この展覧会には《Lyric》を含む初期の抽象作品が展示され、彼女はニューヨークの若い抽象画家として急速に評価を確立します。

この時点でミッチェルはまだ20代後半でした。ポロックやデ・クーニングが1940年代末に評価を高めたのと比べれば若い世代ですが、作品を単なる模倣と見ることはできません。色彩の明るさ、筆触の集中と余白、画面中央に複雑な運動を作る方法は、同時代の他の身振り的抽象とは異なる特徴を持っていました。

即興的に見えて、制作は遅い

ミッチェルの画面は、筆が素早く動き、絵具が飛び、線が絡み合っているため、一気に描かれた即興作品のように見えることがあります。しかしSFMOMAの解説は、彼女が実際には慎重で時間をかけて制作する画家だったことを強調しています。後年の証言でも、画面を長く見ながら次の筆触を決め、描いては離れ、再び戻る制作を行っていました。

この点は、抽象表現主義を「感情を瞬間的に吐き出す絵画」と理解する見方を修正します。筆触が激しいからといって、判断まで瞬間的とは限りません。画面に残る一つ一つの筆触は、長い観察と修正の中で置かれた可能性があります。完成作に見える速度と、実際の制作時間は同じではありません。

ミッチェルにとってジェスチャーとは何か

ミッチェルの筆触は、作者の身体運動を強く感じさせます。しかしポロックのように、線が身体移動の直接的な軌跡として画面全面へ広がるわけではありません。幅広い筆触、短い切断された線、擦れ、滴、薄い色面が異なる方向へ重なり、それぞれが別の速度を持っています。

ジェスチャーは一回の動作を記録するより、複数の動作を時間をかけて編集した結果になります。ある筆触が次の筆触に覆われ、別の場所では白い空間によって止められる。ミッチェルの画面では、身体性と構成が対立せず、身体的な筆触を何度も調整することで全体のリズムを作っています。

画面中央へ集まる筆触

ポロックの成熟したドリップ作品では、視覚的な密度が画面の端まで広がり、中心と周辺の差が弱くなります。ミッチェルの1950年代の作品では、筆触が比較的中央へ集中し、その周囲に白や薄い色の領域が残る場合が多くあります。SFMOMAが《City Landscape》について説明するように、密集した色の塊と、それを囲う比較的静かな領域の対比が画面の動きを作ります。

この構造によって、筆触は無限に続くパターンではなく、一つのエネルギーが画面内部で凝縮しているように見えます。同時に、周囲の余白がその塊を完全に閉じ込めないため、中心から外へ伸びる可能性も残ります。集中と拡散の両方が同じ画面に存在します。

白は空白ではない

ミッチェルの作品では、白い領域がしばしば大きく残されます。しかしそれを「まだ描かれていない空白」と見ると画面の構造を誤解します。《Hemlock》についてWhitney Museumは、白い絵具が色の背後だけでなく上にも置かれ、前景と背景の関係を曖昧にしていると説明しています。

つまり白は受動的な背景ではなく、色の筆触へ入り込み、それを分断し、ときには覆う能動的な色です。白の面積があることで、緑や黒の筆触が呼吸するように離れたり集まったりします。色を増やすだけではなく、色の間にどの程度の白を残すかが、ミッチェルの画面の速度と空間を大きく左右します。

風景を「記憶」から描く

ミッチェルは1958年、自分が「remembered landscapes」と、それに結びつく「remembered feelings」を描くという趣旨の言葉を残しています。SFMOMAはこの発言を、彼女の長い制作を理解する重要な言葉として紹介しています。風景を目の前に置いてその形を写すのではなく、見た後に身体や記憶へ残ったものを制作の出発点にしました。

記憶は写真のような正確な保存ではありません。色、光、気温、音、人との出来事などが混ざり、時間が経つにつれて変形します。そのため、風景を記憶から描くことは、実際の場所から自由になる一方、現実との関係を完全に失うことでもありません。ミッチェルの抽象は、見た世界と、後から思い出された世界の間にあります。

《City Landscape》— 都市も自然として見る

1955年の《City Landscape》では、赤、ピンク、黄土、青、緑、黒などの筆触が中央付近に密集し、その周囲を灰色や白が囲います。Art Institute of Chicagoは、この作品を都市の活気や動きを記憶から呼び起こすものとして説明し、明るい色の線と塊が都市の神経のように絡み合うとしています。

しかし《City Landscape》は街路、建物、車を具体的に描いた都市風景ではありません。都市で経験した速度、混雑、光、音のような感覚が、画面上の筆触と色へ変換されています。題名によって現実の場所との接点を保ちながら、像そのものは抽象のまま残ります。

都市と自然を分けない

SFMOMAが紹介するミッチェルの言葉に、「人間が都市を作り、自然は成長する。私はそれをすべて自然として見る」という趣旨の発言があります。彼女にとって都市と自然は完全に対立するものではありませんでした。建物や交通も、人間が生きる環境として経験され、その動きや光は絵画の源になります。

この考えによって、「風景画家」という言葉の意味も広がります。山や木だけが風景ではなく、都市の密度や移動も同じように身体へ残る環境です。《City Landscape》と後の植物的な作品を別ジャンルとして分けるより、経験した環境を記憶から再構成する一つの制作として見ることができます。

色は感情の記号ではなく、関係として働く

ミッチェルの色彩は非常に感情的に見えるため、赤は怒り、青は悲しみというように心理的な意味へ対応させたくなります。しかし作品では、一つの色より複数の色の関係が重要です。明るい黄色が黒の隣に置かれると強く前へ出て、白を挟むと軽く見え、青と混ざると別の空間を作ります。

色は一つの感情を表すコードではなく、画面上で他の色と出会うことで作用します。筆触の大きさ、透明度、周囲の白、下層の色まで含めて見え方が変わるため、同じ青でも作品ごとに異なる役割を持ちます。ミッチェルの色を「感情的」と呼ぶ場合も、その感情は単色の象徴ではなく、複数の関係から発生するものとして見る必要があります。

1955年 — ニューヨークとパリの往復が始まる

Joan Mitchell FoundationとSFMOMAによれば、1955年頃からミッチェルはニューヨークとパリを頻繁に往復するようになります。パリではフランスの画家Jean Paul Riopelleとの関係が始まり、ニューヨークではそれまでの画家や詩人との交流を維持しました。

この二重生活は、単なる旅行歴ではありません。二つの都市を行き来することで、どちらか一方の美術界へ完全に同化しない距離が生まれます。SFMOMAは、パリにいることでニューヨークの支配的なスタイルへ従わなければならない圧力から距離を取れたことを指摘しています。移動そのものが、制作上の自由を作る条件になりました。

パリでニューヨークから距離を取る

1950年代半ばのパリには、アメリカの抽象表現主義とは異なる戦後抽象の流れがあり、ミッチェルはヨーロッパの画家や作家とも接触しました。しかし彼女はフランスの一つの運動へ参加したわけでもありません。ニューヨークとパリの両方に関係を持ちながら、その中間に自分の制作を置きます。

この位置は作品の見方にも関係します。ニューヨークでは「Abstract Expressionism」の次世代として分類され、1957年には実際に「Second Generation」の展覧会へ参加します。一方で、フランスへの移動によってセザンヌ、モネ、ゴッホなど、彼女が以前から関心を持っていたヨーロッパの絵画史との関係も継続しました。ミッチェルは一つの国の戦後美術だけでは説明しにくい作家になっていきます。

《Hemlock》— 木を描かずに木の感覚を残す

1956年の《Hemlock》は、Whitney Museum of American Art所蔵の代表作です。高さ約231センチの画面に、緑、青、黒、白の長短さまざまな筆触が重なり、中央には暗い色が集まっています。Whitneyは、この筆触の変化と白い領域の交錯が、光、音、運動を含む風景の身体的感覚を呼び起こすと説明しています。

横方向へ伸びる緑の線から針葉樹を連想することはできますが、木の幹や枝が写実的に描かれているわけではありません。さらに白い絵具が背景として退くのではなく、緑や黒の上へ入り込むため、前景と背景も固定されません。木を見るのではなく、木や風景が記憶の中でどのような運動や色として残るかを経験する作品に近づいています。

題名は後から付けられる

Whitneyによれば、《Hemlock》という題名は作品完成後に付けられました。ミッチェルが最初から「ヘムロックの木を描こう」と考えて構図を作ったわけではありません。題名は、完成した画面を見た後にWallace Stevensの詩「Domination of Black」の一節を思い起こしたことから付けられました。

この順序は重要です。題名が制作の指示書ではなく、完成した作品と後から出会った言葉との関係になっているからです。画面が先に存在し、その作品が何を思い出させるかによって題名が付く。抽象画と現実世界の関係が、描写ではなく連想によって後から結ばれています。

詩と絵画の距離

ミッチェルの周囲には詩人が多く、Frank O’Hara、John Ashberyらとの交流も重要でした。しかし、絵画を詩の挿絵として考える必要はありません。詩と絵画は同じ内容を別の媒体で表すのではなく、言葉のリズム、記憶、題名、時間感覚などを介して互いに刺激し合っていました。

《Hemlock》の題名がStevensの詩から、《To the Harbormaster》がO’Haraの詩から取られたように、詩は作品を一つの意味へ固定する説明ではなく、別の連想を開く入口になります。絵を見る経験と言葉を読む経験が完全に一致しないからこそ、両者の間に距離が残り、その距離が作品を広げています。

《The Bridge》— 二つの場所をまたぐ絵画

1956年の《The Bridge》は、SFMOMAの研究によればミッチェルの最初期に確認されているディプティックの一つです。パリで制作されながらニューヨークで最初に展示され、二つの都市を往復していた当時の生活と重なる作品です。画面には横方向へ走る線と斜めの筆触が比較的疎らに配置され、左右のパネルを視線が行き来します。

題名の「橋」を具体的な橋の描写として探す必要はありません。二枚の画面の間に物理的な境界がありながら、筆触や視線はその境界を越えて続きます。離れているものを結びつけるという橋の構造が、二枚組という作品形式そのものに重なっています。

二枚組という形式

一枚の巨大キャンバスと二枚のキャンバスを横に並べることは、同じ横幅でも経験が違います。ディプティックには中央に切れ目があるため、画面が一度中断されます。その切れ目をまたいで視線を移動することで、左右が独立しているのか、一つの作品なのかという問題が生まれます。

ミッチェルは後年、ディプティック、トリプティック、四枚組など複数パネルの大作を繰り返し制作します。《The Bridge》は、その長い展開の初期に位置する作品です。画面をただ大型化するのではなく、複数の支持体を接続することで、一つの視野の内部に切断と連続を同時に作る方法が始まっています。

画面に時間と移動を入れる

SFMOMAの《The Bridge》研究は、この作品をミッチェル自身の大西洋をまたぐ移動と記憶の問題に結びつけています。もちろん作品を彼女の旅の地図として読むことはできません。しかし、左右のパネルを視線が渡り、筆触が中断と再開を繰り返す構造は、一つの場所に固定されない時間感覚を持っています。

ここでは風景が一瞬の視界ではなく、複数の場所と時点が重なった記憶になります。ニューヨークで見たもの、パリで見たもの、移動中に感じた距離が、一つの具体的な場面へ統一されず、異なる筆触として同じ画面に共存します。

1956年パリのスタジオ

Joan Mitchell Foundationの年譜には、1956年のパリのスタジオで、ミッチェルが大きな未張りキャンバスや複数の作品に囲まれて制作する写真が残されています。ニューヨークだけを拠点としていた初期と比べ、制作環境そのものが国際的に分散し始めた時期です。

この時期の作品では、筆触の密度、キャンバスの大きさ、複数パネルの使用などが急速に広がります。移動が多かったことは制作を不安定にした一方、同じスタジオ、同じ仲間、同じ美術市場の中で一つのスタイルを固定することから離れる条件にもなりました。

1957年 — 「Second Generation」として展示される

1957年、Jewish Museumで「Artists of the New York School: Second Generation」が開催され、ミッチェルは《Color in Space》《Hudson River Day Line》を出品しました。Joan Mitchell Foundationは、この展覧会を彼女が新しい世代のニューヨーク・スクールを代表する画家として制度的に認識されていく重要な出来事として記録しています。

同じ年にはARTnewsにIrving Sandlerによる「Mitchell Paints a Picture」が掲載され、制作過程そのものも紹介されました。つまり1950年代後半には、完成作品だけでなく「どのように描く画家なのか」というイメージも批評や写真を通して形成されていきます。ポロックのナムート写真と同様、制作する身体が作品理解の一部として流通する時代になっていました。

《To the Harbormaster》— 詩、距離、往復

1957年の《To the Harbormaster》は、親交のあった詩人Frank O’Haraの同名詩から題名を取っています。SFMOMAはこの作品を、1955年から1959年にニューヨークとパリを往復していたミッチェルの生活と関連づけ、画面の二つの領域が接近と離脱を繰り返すような構造を持つと説明しています。

ここでも、詩を絵画へ翻訳しているわけではありません。O’Haraの詩にある出発、係留、到達できない距離の感覚と、ミッチェルの画面にある分断と接続が緩やかに共鳴します。絵画は詩の内容を説明せず、題名によって別の時間や言葉を画面へ重ねています。

前景と背景を固定しない

《Hemlock》でWhitneyが指摘するように、ミッチェルの画面では白が色の後ろにも前にも存在し、前景と背景の関係が安定しません。濃い緑が一度手前へ見えても、その上から白い筆触が横切ると後退し、別の色が前に出ます。

これは奥行きを完全に消すこととは違います。むしろ浅い奥行きが絶えず入れ替わります。見る人はどこが背景なのかを一度決めても、別の筆触によってその判断を修正させられます。ミッチェルの空間は、色と線が何層にも重なった時間によって作られています。

デ・クーニングとの違い

ミッチェルはデ・クーニングを高く評価し、1950年代のニューヨークで直接交流もありました。両者の作品には、色面を断片的な筆触で作り、前景と背景を不安定にする共通点があります。しかしデ・クーニングの画面では人物や都市の形がしばしば断片として現れ、描く・消す・削ることによって形が作られます。

ミッチェルでは、身体そのものを画面から探す必要はありません。出発点となるのは風景や都市、記憶された環境であり、それらが具体的な像として残るより、色、光、速度として変換されます。二人とも抽象と現実世界の関係を切りませんでしたが、その現実への接続方法は異なっています。

ポロックとの違い

ミッチェルとポロックは、ともに大きな画面と身体的な筆触によって語られます。しかしミッチェルの画面は、ポロックの成熟したオールオーバー作品のように均等な線の網で覆われることは少なく、筆触が特定の領域へ集中し、周囲に空間を残します。

また、ポロックの線は支持体へ直接触れずに絵具を落とすことで生まれる場合が多いのに対し、ミッチェルは筆をキャンバスへ接触させ、押し、引き、擦り、跳ねさせます。絵具と支持体の接触そのものが筆触の表情を作るため、線は一つ一つ異なる幅、重さ、端部を持ちます。同じ「ジェスチャー」の内部にも複数の制作方法があります。

フランケンサーラーとの違い

同じ1950年代、ヘレン・フランケンサーラーは薄くした絵具を下地処理していないキャンバスへ染み込ませ、支持体と色を一体化する方法を展開していました。ミッチェルの絵画にも滴や薄い領域はありますが、基本的には筆触の厚み、重なり、擦れが重要で、色がキャンバスの繊維へ完全に吸収される方向とは異なります。

この違いは、1950年代の抽象絵画が一つの方向へ進んでいなかったことを示します。ミッチェルは筆触と記憶された風景を深め、フランケンサーラーは色と支持体の物質関係を別の方法で変えていきます。次の記事ではこの分岐をより詳しく扱います。

女性作家としての位置づけ

SFMOMAやJoan Mitchell Foundationは、ミッチェルが1950年代の男性中心的なニューヨーク抽象表現主義の環境で、数少ない女性の主要画家として早い段階から批評的評価を得たことを指摘しています。しかし「女性でありながら成功した」という例外的な物語だけで扱うと、作品そのものが再び周辺化されてしまいます。

彼女がNinth Street Showへ参加し、20代で個展を開き、美術館に作品が収蔵されたのは、作品が同時代の新しい絵画として実際に見られていたからです。一方で、当時の制度や批評が男性作家を中心に歴史化してきたことも事実です。現在の回顧展や研究は、その二つを分けず、当時の評価とその後の美術史的な偏りを同時に検討しています。

1958年 — 美術館コレクションへ入る

1958年、Whitney Museum of American Artは1956年の《Hemlock》を購入しました。Joan Mitchell Foundationの年譜によれば、同じ年には《City Landscape》もArt Institute of Chicagoの永久コレクションへ入り、《Ladybug》《October Island》がヴェネツィア・ビエンナーレのInternational Young Artists部門へ出品されています。

1950年代末には、ミッチェルは単にニューヨークの若手画家ではなく、美術館コレクションと国際展に入る作家になっていました。それでも、作品の方向を市場に合わせて固定することはせず、ニューヨークとパリの往復を続けながら、画面の規模や構造を変化させていきます。

1959年 — パリへ移住

1959年、ミッチェルはパリへ恒久的に移住し、Jean Paul Riopelleとともにrue Frémicourtにスタジオを構えました。Joan Mitchell Foundationの年譜には、同年《August, rue Daguerre》がカッセルのdocumenta IIへ出品されたことも記録されています。アメリカのニューヨーク・スクールとして評価を確立しながら、その中心都市を離れる選択をしたことになります。

これはニューヨーク・スクールからの離脱を意味するわけではありません。友人やギャラリーとの関係は続き、作品もアメリカで展示されます。しかし生活と制作の拠点をフランスへ移すことで、ミッチェルの作品は「アメリカ戦後美術」という一つの文脈だけではさらに説明しにくくなっていきます。1960年代以降、複数パネルの大画面、色彩、植物や場所の記憶がさらに重要になります。

1951–1959年に何が変わったのか

この8年間で、ミッチェルはニューヨークの若い抽象画家から国際的に活動する独立した画家へ変化しました。1951年のNinth Street Show、1952年の最初の個展を経て、1955年頃には《City Landscape》のように、都市や風景の記憶を密集した色と筆触へ変換する方法を確立します。1956年の《Hemlock》では、前景と背景を入れ替える白と色の関係が深まり、《The Bridge》では複数パネルによって空間と時間を分断しながら接続する方法が現れました。

重要なのは、身振り的な抽象が「作者の内面をそのまま放出する方法」だけではなくなっていることです。ミッチェルは実際に見た場所、時間の経過、思い出された感情を、何度も判断しながら色と筆触へ変換しました。画面に残る身体的な痕跡と、画面の外にある記憶された世界を切り離さないことで、抽象絵画を風景と自己表現のどちらにも固定しない独自の位置を作りました。

ミッチェル以後 — 身振り的抽象は終わらない

ミッチェルの長いキャリアは、身振り的な抽象が1950年代の抽象表現主義とともに終了したわけではないことを示す重要な例です。彼女は1992年まで制作を続け、その間、複数パネル、色彩、筆触、風景の記憶を何度も組み替えました。後の抽象絵画を考えるとき、「ジェスチャーはポロックによって完成し、その後は引用されるだけになった」という単純な歴史では説明できません。

身振りは、作者の直接性を示す場合もあれば、記憶を構成する方法にもなり、後には複製、編集、デジタル処理の対象にもなります。ミッチェルはその長い中間に位置し、身体的な筆触を維持しながら、それを場所、記憶、時間、色の関係へ開き続けました。Christopher Wool、Jacqueline Humphries、Amy Sillmanなど後の画家を考える際にも、「ジェスチャーがその後どう変化したか」という問いの重要な参照点になります。

次の時代へ — フランケンサーラー、染み込みと色面

ミッチェルが筆と油絵具の重なりによって風景の記憶を作っていた同じ1950年代、ヘレン・フランケンサーラーは別の方法で抽象絵画を変えていました。1952年の《Mountains and Sea》では、薄くした絵具を下地処理していないキャンバスへ直接浸透させ、絵具を支持体の上に置くのではなく、布そのものへ染み込ませます。

次の記事では、1952–1960|ヘレン・フランケンサーラー — 染み込みから色面へとして、《Mountains and Sea》、モーリス・ルイスとケネス・ノーランドとの関係、クレメント・グリーンバーグの関与、後に「Color Field」や「Post-Painterly Abstraction」と呼ばれる方向がどのように形成されていったのかを詳しく見ます。同じ時代にはラウシェンバーグやジャスパー・ジョーンズも別方向へ動き始めているため、ここからART HISTORYの時間軸はさらに複数の流れが並行する形になります。

参考資料・出典

本ページは、美術館、作家財団、研究機関が公開する作品、展覧会、年譜、研究資料を参照してART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。原文の全文翻訳ではありません。

資料確認日:2026年10月1日 / ART LIBRARY