1947–1951
ジャクソン・ポロック
オールオーバーと絵画の出来事
ジャクソン・ポロックの名前は、現在では「ドリップ・ペインティング」とほとんど同義のように語られます。しかし、1947年から1951年の作品を順番に見ると、彼が一つの技法を発明して同じ方法を繰り返していたのではないことが分かります。初期の作品では厚い下層の上に線が重なり、釘や鍵、煙草の吸い殻まで画面へ埋め込まれています。1950年の大画面では、線の密度と空白、絵具の速度や粘度が慎重に調整され、1951年になると突然色を減らし、黒い線と生のキャンバスによって人物や動物を思わせる形を再び露出させました。
この短い期間に起きた最も大きな変化は、絵画が「何かを描いた像」から「描く行為が起きた場所」へ近づいたことです。キャンバスを床へ置くことで、画家は正面から画面を見るだけではなく、その周囲を歩き、四方向から入り、身体全体を使って線を作ることができるようになりました。同時に、絵具は筆先で輪郭を描く材料ではなく、重力、速度、粘度、距離によって形を変える物質として扱われます。ポロックの重要性は、単に絵具を垂らしたことではなく、絵を作るための身体、材料、支持体、構図の関係を再編したところにあります。
後にハロルド・ローゼンバーグは1952年に「アクション・ペインティング」という言葉を提示し、キャンバスを行為が起こる場として説明します。しかし、1947年から1951年のポロック自身がその言葉に従って制作していたわけではありません。ここでは後から付けられたカテゴリーをいったん外し、作品と制作方法が実際にどのように変わったのかを細かく追っていきます。
CONTENTS
- 1947年以前 — ドリップは突然始まったのではない
- 《Mural》— 大画面と身体の準備
- 1947年 — イーゼルから床へ
- 《Full Fathom Five》— 古い方法と新しい方法が同居する
- 絵具を「描写の道具」から物質へ戻す
- 線は何かの輪郭ではなくなる
- オールオーバー — 中心をなくす
- 画面の端で終わらない構図
- 1948年 — 新しい方法が公開される
- 《Number 1A, 1948》— 手の痕跡まで画面へ入る
- なぜ作品名を数字にしたのか
- 偶然か、コントロールか
- 重力が共同制作者になる
- 身体はどこまで作品に残るのか
- 1949年 — ポロックが「スター」になる
- 写真が作った「ポロック像」
- 1950年 — 大画面が一つの空間になる
- 《Autumn Rhythm》— 密度と余白を組み立てる
- 《One: Number 31, 1950》— 混沌ではなく層として見る
- 《Lavender Mist》— 線、物質、痕跡
- ハンス・ナムートの写真と映画
- 制作行為はパフォーマンスだったのか
- 「アクション・ペインティング」は後から来る
- 1951年 — 成功した方法を自分で壊す
- ブラック・ポーリング — 色を捨て、像を戻す
- 《Echo: Number 25, 1951》— 抽象と具象の境界
- ドリップ期とブラック・ポーリングは断絶しているのか
- 1947–1951年に何が変わったのか
- ポロック以後 — ジェスチャーという問題は残り続ける
- 次の時代へ — デ・クーニングは別の答えを出す
- 参考資料・出典
1947年以前 — ドリップは突然始まったのではない
ポロックが1947年に突然、床へキャンバスを置いて「ドリップ・ペインティング」を発明したと考えると、それ以前の試行錯誤が見えなくなります。1940年代前半の作品では、人物、動物、神話的な形、ピカソやシュルレアリスムを思わせる断片が複雑に重なり、画面全体を高い密度で埋める傾向がすでにありました。また、メキシコ壁画の巨大なスケールや公共性、シュルレアリスムの自動性、流動的な線への関心など、後の制作へつながる複数の要素が早くから存在していました。
さらに重要なのは、絵具を飛ばす、流す、垂らすといった操作自体も1947年にゼロから始まったわけではないことです。Getty Conservation Instituteによる《Mural》の技術調査では、1943年の時点ですでに薄めた絵具を飛散させた痕跡が確認されています。ただし《Mural》の大部分は、後のドリップ作品のように床へ置いて制作されたのではなく、垂直に近い状態で描かれた可能性が高いとされています。後年の方法の「予兆」はありますが、制作システム全体はまだ変わっていませんでした。
《Mural》— 大画面と身体の準備
《Mural》は1943年、ペギー・グッゲンハイムの依頼によって制作された巨大な作品です。横幅は6メートル近くあり、当時のポロックにとって、それまで経験したことのない規模でした。Gettyの調査が否定したように、この作品を「一晩で一気に描いた」という有名な逸話をそのまま史実として受け取ることはできません。層の乾燥状態や材料分析からは、複数段階で制作されたことが示されています。
それでも《Mural》が重要なのは、大きな画面に対して腕だけではなく身体全体を使わざるを得なかったことです。画面を端から端まで移動し、大きな曲線と反復する形を連続させる経験は、後に床へ置いた支持体の周囲を移動する制作へつながります。ポロックの変化は「ドリップという技法」の発見より前に、絵画のスケールと身体の関係を変えるところから始まっていました。
1947年 — イーゼルから床へ
MoMAは1947年を、ポロックが後に代表的となる新しい制作方法へ到達した年として位置づけています。支持体を木枠へ張ってイーゼルに立てるのではなく、張っていないキャンバスを床へ置き、流動性の高い絵具を棒や硬くなった筆、缶などから落とす。この変更によって、制作の条件が一度に複数変わりました。
キャンバスが床にあると、上下左右という固定した方向が弱くなります。画家は一方向から作品に向かう必要がなくなり、四辺から接近できます。さらに、絵具が画面へ到達するまでの距離が生まれるため、線は筆先で直接引くものではなくなります。腕を動かす速度、棒と支持体の距離、絵具の粘度、重力が線の形に影響するようになりました。
《Full Fathom Five》— 古い方法と新しい方法が同居する
1947年の《Full Fathom Five》は、この転換を理解するのに非常に適しています。MoMAによれば、ポロックは最初から床だけで制作したのではなく、イーゼル上で筆とパレットナイフを使って厚い下層を作り、その後キャンバスを床へ移して黒や銀の絵具を滴らせました。つまりこの作品には、従来の「塗る」方法と新しい「落とす・流す」方法が同じ表面に共存しています。
さらに、絵具の中には釘、画鋲、ボタン、硬貨、鍵、煙草やマッチなどの異物まで埋め込まれています。表面は一枚の平面というより、厚みを持った地層のようになっています。ポロックの成熟したドリップ作品を「線だけの絵」と考えると見落としますが、その出発点では、絵具、物体、厚み、重さといった非常に物質的な問題が強く存在していました。
絵具を「描写の道具」から物質へ戻す
伝統的な絵画では、絵具は人物、風景、物体、光などを描写するための材料として使われることが多く、鑑賞者は最終的に「何が描かれているか」を見ます。ポロックの制作では、絵具そのものの粘度、光沢、乾燥、重なり方が前面へ出てきます。MoMAの保存研究では、1947年頃の作品にはアーティスト用油絵具も多く使われており、その後1950年の大画面では流動性の高いエナメル塗料などがさらに重要になったことが確認されています。
これは単に安価な住宅用塗料を使ったという話ではありません。流れやすい材料を選ぶことで、筆で一筆ずつ面を塗るのとは異なる線を作ることができます。絵具が道具から離れて空中を移動し、支持体へ着地する。その途中で重力や速度が作用するため、画家がすべてを直接描き込まなくても線が発生します。絵具の物理的性質そのものが、構図を作る条件へ変わりました。
線は何かの輪郭ではなくなる
絵画における線は、長い間、人物や物体の輪郭を示したり、形の内部を分けたりする役割を担ってきました。ポロックのドリップ作品では、線が必ずしも何かを囲みません。一本の線が画面の途中から始まり、別の線を横切り、複数の方向へ曲がりながら消えていきます。線は物を説明する記号ではなく、運動そのものの軌跡になります。
この変化は、抽象化によって単に対象が消えたこととは少し違います。線が何かを表す必要から解放され、線そのものが速度、重さ、距離、身体の動きを示すようになったからです。後のジェスチャー絵画を考える際に重要になる「筆触や線が作者の行為をどこまで示すのか」という問題は、ここから非常に強く意識されるようになります。
オールオーバー — 中心をなくす
ポロックの1947年以降の作品を説明する際、「オールオーバー」という言葉が頻繁に使われます。これは単にキャンバス全体を絵具で埋めるという意味ではありません。画面中央に主要人物を置き、周囲を背景として従属させるような階層を弱め、どの部分にも比較的均等に視覚的な出来事を分布させる構成を指します。
《Full Fathom Five》やその後の大画面では、視線を最終的に集める一つの中心が見つかりません。ある線を追い始めても、別の線と交差し、その先でさらに別の層へ移ります。鑑賞者の視線は画面の内部を動き続け、構図を一瞬で把握しにくくなります。ここでは「中心を見る」という伝統的な鑑賞方法も同時に揺さぶられています。
画面の端で終わらない構図
Metropolitan Museum of Artは《Number 28, 1950》について、線が画面の端まで拡張し、構図がその外にも続いているかのような感覚を作ることを説明しています。キャンバスの端は物語や風景を囲う窓枠のように機能するのではなく、大きな連続体の一部を一時的に切り取った境界のように見えます。
この感覚は、後のアメリカ絵画に大きな影響を与えました。画面内部へ奥行きを作るのではなく、鑑賞者と平行な平面上で、線や色が境界を越えて連続する可能性を示すからです。ただしポロック自身の画面は単純な平坦さだけではなく、線が何層にも交差し、重なりの順序によって浅い奥行きも生み出しています。平面と空間が同時に感じられるところに複雑さがあります。
1948年 — 新しい方法が公開される
1948年1月、Betty Parsons Galleryでポロックの個展が開かれ、《Alchemy》《Cathedral》《Full Fathom Five》《Lucifer》など新しいオールオーバーの作品がまとまって公開されました。MoMAの年譜によれば、ここで初めて新しいドリップ作品群が一つのまとまった制作として観客や批評家の前に現れます。
反応は一様ではありませんでした。流動的な線を評価する批評家がいる一方で、秩序のない爆発や壁紙のようだと批判する声もありました。後から美術史の「革新」として見ると成功が必然だったように見えますが、当時の観客にとっては、中心も明確な対象もない画面をどのように見ればよいのか自体が新しい問題でした。
《Number 1A, 1948》— 手の痕跡まで画面へ入る
《Number 1A, 1948》では、黒、白、灰色、茶色などの線が複雑に重なり、その間にポロック自身の手形が残されています。MoMAはこの手形を、作品への直接的な「署名」にも似た痕跡として説明しています。身体が画面の外から絵具を操作するだけでなく、身体そのものが一瞬キャンバスへ接触しています。
ただし、手形があるからといって、この作品を単純な自己表現と考える必要はありません。画面には作者の身体の痕跡と同時に、流れた絵具、跳ねた滴、塗料の物性など、作者が完全には支配しきれない痕跡も残ります。ポロックの画面は「本人の直接性」を強く感じさせながら、同時に本人だけでは決められない物理現象も含んでいます。
なぜ作品名を数字にしたのか
1940年代後半、ポロックは《The She-Wolf》や《Full Fathom Five》のような連想的な題名から離れ、作品を番号で呼ぶようになります。MoMAが紹介するリー・クラスナーの説明では、数字は中立的であり、鑑賞者に題名から物語を想像させるのではなく、作品そのものを見てもらうための方法でした。
番号は、作品から意味を完全に消すものではありません。むしろ「題名によって先に意味を限定しない」ための装置と考えた方がよいでしょう。抽象絵画を見るとき、鑑賞者は形の中に人物や風景を探したくなります。数字による題名は、その読みを一つに固定せず、まず線、色、密度、スケール、材料を見るよう促します。
偶然か、コントロールか
ポロックの制作はしばしば「偶然に絵具を撒き散らした」と説明されますが、これは実際の制作を単純化しすぎています。MoMAは、ポロックが混沌と制御の両方を維持していたことを強調しています。絵具が空中を移動する以上、細部まで完全に支配することはできませんが、どの材料を使うか、どの程度薄めるか、どの高さから落とすか、どこで動きを止めるかは作者が判断しています。
《One: Number 31, 1950》を担当したMoMAのキュレーター、アン・テムキンも、線の太さや速度、軽さと重さの違いを見ると、単純な「ドリップ」という言葉では不十分であり、高いコントロールが存在することが分かると説明しています。ポロックの新しさは、偶然を排除したことでも、偶然に全面的に任せたことでもありません。制御できる範囲と制御できない範囲を同じ制作工程へ組み込んだことにあります。
重力が共同制作者になる
筆先をキャンバスへ直接接触させて線を引く場合、線は手の移動とほぼ同時に生まれます。ポロックが絵具を空中から落とすと、手とキャンバスの間に距離が生まれます。その距離の中で、絵具は重力によって加速し、粘度によって伸び方を変え、腕の速度によって曲線や滴の間隔が変わります。
つまり、線の形を作っているのは作者の意思だけではありません。重力、液体の粘性、支持体の吸収、乾燥した層との衝突などが結果へ参加します。この「材料に一部を委ねる」という考えは、後のプロセス・アートや物質を重視する制作にもつながりますが、ポロックの画面では依然として作者の判断と身体運動が強く共存しています。
身体はどこまで作品に残るのか
床に置いた大画面の周囲を歩くという方法によって、ポロックの制作は身体的なものになりました。しかし、完成した作品が身体運動をそのまま記録した「地図」だと考えるのも単純です。同じ腕の運動でも、絵具の粘度や道具が変われば全く違う線になりますし、一つの作品は複数回の作業、乾燥、修正、重ね塗りによって作られています。
作品に残るのは、身体そのものではなく、身体と材料が接触した結果です。この違いは重要です。後の美術では「ジェスチャー」が作者の個性の証拠として扱われたり、逆にその信頼性が疑われたりします。ポロックの作品は、その議論の非常に重要な出発点の一つになります。
1949年 — ポロックが「スター」になる
1949年8月、雑誌『Life』は「Is he the greatest living painter in the United States?」という挑発的な見出しでポロックを大きく取り上げました。MoMAの資料によれば、この特集はそれまで前衛美術の小さな世界で知られていた画家を、一般大衆にも知られる存在へ変える大きな契機になりました。
記事の意味は単なる称賛ではありませんでした。見出しには半ば挑発的で皮肉な響きもあり、ポロックの作品を理解できない読者の反応も想定されていました。それでも、黒い服を着て煙草をくわえた画家が巨大な抽象画の前に立つ写真は、新しいアメリカの芸術家像を強く印象づけました。作品だけでなく、画家の人物像そのものがメディアによって流通し始めます。
写真が作った「ポロック像」
ポロックが大量メディアによって広く知られたことは、その後の作品理解にも影響しました。画面を見る前に「荒々しく絵具を撒く男性画家」というイメージを知ってしまうと、作品の細かな層、速度の違い、修正、空白などが見えにくくなります。MoMAの保存研究が示すように、実際の画面には非常に複雑な重なりがあり、制作は単一の爆発的行為ではありません。
この問題はポロック以後も残ります。写真や映画が制作過程を見せることで、鑑賞者は完成した絵画と同時に「どう作ったか」を見るようになります。作家の身体、制作風景、アトリエのイメージが、作品そのものと切り離せない情報として流通するようになるのです。
1950年 — 大画面が一つの空間になる
1950年は、ポロックのドリップ・ペインティングが最も大きなスケールと複雑さへ達した年です。《Autumn Rhythm: Number 30》《One: Number 31, 1950》《Number 1, 1950 (Lavender Mist)》など、横幅が数メートルに及ぶ作品が相次いで制作されました。これらは1947年の作品の単純な拡大ではありません。支持体が大きくなることで、線の速度、身体の移動、密度と空白の配置まで変化します。
大画面になると、作品全体を一度に見ることと、近づいて細部を見ることの差が大きくなります。離れると巨大な一つの場として感じられ、近づくと一本一本の線、滴、絵具の光沢、地のキャンバスが見えてきます。絵画を見る行為そのものに、距離と身体の移動が必要になります。
《Autumn Rhythm》— 密度と余白を組み立てる
《Autumn Rhythm: Number 30, 1950》は、約2.7メートル×5.2メートルの巨大なキャンバスです。Metによれば、ポロックは下塗りも木枠への張り込みもしていないキャンバスを床へ置き、棒や枝、撹拌棒などを使いながら、黒、白、茶系の住宅用エナメル塗料を滴らせました。
遠目には無数の線が均一に広がっているように見えますが、実際には密度の高い場所と、地のキャンバスが大きく残る場所があります。線の方向もすべて同じではなく、長い弧、短い滴、太い流れ、細い線が複数の速度で重なっています。オールオーバーとは、機械的に均一なパターンを作ることではなく、中心を作らないまま画面全体に緊張を維持する構成でもありました。
《One: Number 31, 1950》— 混沌ではなく層として見る
《One: Number 31, 1950》はポロックの最大級の作品の一つで、MoMAの保存修復プロジェクトによって材料と制作順序が詳細に調査されています。表面をよく見ると、白い厚い筆触の下層、黒やアルミニウム色の流し込み、複数の色の線などが異なる層として存在し、すべてが同時に一度で作られたわけではないことが分かります。
MoMAの研究では、絵具のキャップのような物体が表面へ入り込んでいる箇所も確認されています。巨大な画面は「無秩序な線の集合」ではなく、異なる材料と行為が時間的に積み重なったものです。この見方をすると、作品は一回的な爆発というより、判断、停止、追加、重なりから成立した制作の履歴として見えてきます。
《Lavender Mist》— 線、物質、痕跡
National Gallery of Art所蔵の《Number 1, 1950 (Lavender Mist)》では、油絵具、エナメル、アルミニウム塗料が使われ、複数の質感が同じ画面へ共存しています。光沢のある線、鈍い色、金属的な反射など、色だけでなく表面の光り方にも差があります。また、画面にはポロックの手形だけでなく、煙草の吸い殻や虫まで物理的な痕跡として残っています。
こうした偶発物は、作品をロマンティックな「瞬間の記録」にするために意図的に配置されたとは限りません。しかし、完成画面から制作環境を完全に消し去るのではなく、制作中に起きた出来事の一部がそのまま保存されています。絵画が完成した像であると同時に、制作時間の物質的な記録でもあるという特徴がここでは非常に強く現れます。
ハンス・ナムートの写真と映画
1950年、写真家ハンス・ナムートはスプリングスのアトリエでポロックの制作を撮影しました。National Gallery of Artによれば、ナムートの静止画と短編映画によって、ポロックが床に置かれたキャンバスの周囲を移動し、容器や棒を持ちながら全身を使って制作していたことが広く可視化されました。現在まで残る「ポロックが絵を描いている姿」の多くは、この撮影によって形成されています。
この映像資料は非常に重要ですが、同時に注意も必要です。映像に写っている制作を、そのまますべての作品の制作過程だと考えることはできません。《Full Fathom Five》のようにイーゼルと床の両方を使った作品もあり、1951年のブラック・ポーリングでは動きや線の性質も変化します。ナムートの映像は一つの重要な制作段階を記録したものですが、ポロックの制作全体を一つの方法へ固定する資料ではありません。
制作行為はパフォーマンスだったのか
ナムートの写真を見ると、ポロックの制作はパフォーマンスのようにも見えます。身体が大きく動き、キャンバスの周囲を歩き、絵具が空中を横切るからです。しかし、ポロックが観客の前で行為そのものを作品として上演していたわけではありません。完成作品として残されるキャンバスが依然として制作の中心でした。
それでも、制作行為が写真や映画によって可視化されたことは、後の美術に大きな意味を持ちます。鑑賞者が完成作品だけでなく「作る行為」にも注目するようになり、絵画とパフォーマンスの距離が縮まるからです。1950年代後半以降、アラン・カプローや日本の具体美術協会などが、材料と身体の行為そのものをさらに前面へ出していく際、ポロックは重要な先行例として繰り返し参照されます。
「アクション・ペインティング」は後から来る
ポロックを説明するとき「アクション・ペインティング」という言葉が当然のように使われますが、ハロルド・ローゼンバーグがこの言葉を提示したのは1952年です。MoMAは、ローゼンバーグが大胆なジェスチャーによって身体全体を制作へ関与させる絵画を説明するためにこの名称を使ったとしています。したがって、1947年や1950年のポロックが「アクション・ペインティングという運動」を実践していたと考えると時系列が逆になります。
むしろ、ポロックやデ・クーニングらの実際の制作を見た批評家が、その現象を言語化するために後から「action」という概念を強く打ち出したと考える方が正確です。これはART HISTORY全体でも重要な点です。作品が先に存在し、批評や展覧会が後からそれをカテゴリーへまとめることがあります。歴史的な名称と、作家が制作時に考えていたことは必ずしも一致しません。
1951年 — 成功した方法を自分で壊す
1950年の巨大なドリップ作品によってポロックは高い評価を得ましたが、1951年にはその成功した方法をそのまま繰り返しませんでした。色をほぼ黒一色へ限定し、下塗りしていないキャンバスへ流動的な線を描く「Black and White」あるいは「Black Pouring」と呼ばれる作品群へ進みます。
この変化は、当時の観客や支持者を困惑させました。国立西洋美術館によれば、1951年11月にBetty Parsons Galleryで発表された黒と白の作品群は、それまでの色彩豊かなオールオーバー抽象から大きく変わり、さらに人物や動物を思わせる形まで戻ってきたため、驚きと落胆をもって受け取られました。ポロックは自分自身が作った「ポロックらしさ」に早くも抵抗していたことになります。
ブラック・ポーリング — 色を捨て、像を戻す
ブラック・ポーリングでは、黒いエナメルが生のコットン・キャンバスへ直接置かれます。地塗りがないため、流動的な塗料の一部は繊維へ吸収され、線の端ににじみが生じます。MoMAやWhitneyの作品解説が示すように、1950年の多色の密集したドリップ作品と比べると、線の本数は減り、画面の空白が大きくなります。
その結果、一本一本の線がより「描画」に近く見えるようになります。線の間から顔、眼、身体、動物のような像が現れることもあり、抽象と具象を明確に分けることが難しくなります。ポロックは純粋抽象へ一直線に進んだのではなく、一度覆い隠した形象を別の方法で再び表面へ出しました。
《Echo: Number 25, 1951》— 抽象と具象の境界
MoMA所蔵の《Echo: Number 25, 1951》では、黒い線が大きな余白を残しながら画面を横切ります。1950年の《One》に見られた密集した色の層はなく、線は書やドローイングのように明快です。左上には眼や顔のように見える形もあり、作品は抽象でありながら形象へ接近しています。
ポロック自身も、この時期には以前のイメージが再び現れてきたことを認識していました。MoMAが紹介する手紙では、黒による「drawing on canvas」を行い、初期のイメージが表面へ戻ってきていることを述べています。この作品は、ドリップ・ペインティングの完成後に起きた後退ではなく、線がどこまで抽象でいられるのか、像がどの時点で立ち上がるのかを改めて試す制作として見ることができます。
ドリップ期とブラック・ポーリングは断絶しているのか
1951年の作品は、それ以前のドリップ作品から急に具象へ戻ったように見えます。しかしWhitneyが紹介するリー・クラスナーの証言では、ポロックの最も抽象的な作品も、制作途中には頭部、身体、幻想的な生物など認識できる像から始まることがあり、ポロックはそれらを最終的に「覆い隠す」ことを選んでいたとされています。
この証言を踏まえると、ブラック・ポーリングは全く別の方向へ転向したというより、それまで内部に埋め込まれていた像を表面へ残す選択をしたと考えることもできます。抽象と具象はポロックの中で完全に分離された二段階ではなく、制作を通して常に出入りしていた可能性があります。この点は、次に扱うデ・クーニングの制作とも重要な対照になります。
1947–1951年に何が変わったのか
この4年間にポロックが変えたのは、単なる「絵具の付け方」ではありません。キャンバスを壁から床へ移し、木枠から一時的に解放し、筆以外の道具を使い、流動性の高い材料を導入することで、画家、支持体、材料の関係を作り直しました。線は物体の輪郭から運動の痕跡へ変わり、構図は中心を失って画面全体へ広がり、作品は完成像であると同時に制作時間の記録になりました。
一方で、ポロックが作者のコントロールを完全に捨てたわけでも、具象を完全に捨てたわけでもありません。偶然と判断、身体と材料、抽象と像、画面の平面性と重なりによる空間が同時に存在しています。だからこそ、ポロックを一つの「ドリップ技法」に還元すると、彼が開いた問題の多くを見失います。
ポロック以後 — ジェスチャーという問題は残り続ける
ポロック以後、絵画に残された線や筆触を「作者の身体の直接的な痕跡」と見る考えは、何度も受け継がれ、同時に何度も疑われます。1950年代にはジョアン・ミッチェルやフランツ・クラインらが異なる方法で身振り的な絵画を展開し、さらに後の世代では、そのジェスチャーを反復したり、引用したり、印刷や写真を介して複製したりすること自体が問題になります。
したがって、ポロックの歴史的な位置を「抽象表現主義を完成させた画家」として閉じる必要はありません。彼が残したのは、身体的な線の様式というより、「画面に残った痕跡は何を証明するのか」「作者の行為はどこまで作品なのか」「偶然と制御をどう共存させるのか」という問いでした。この問いは、その後の絵画、パフォーマンス、プロセス・アート、そしてジェスチャーを複製・編集する現代絵画へ形を変えながら続いていきます。
次の時代へ — デ・クーニングは別の答えを出す
同じ時期、ウィレム・デ・クーニングはポロックとは全く異なる方法で新しい絵画を作っていました。キャンバスを床へ置いて図像を消していくのではなく、描く、削る、消す、描き直すという操作を繰り返しながら、抽象的な画面の中から身体や人物の形を出現させます。ポロックが1951年に形象を再び露出させたのと同じ頃、デ・クーニングは《Woman》シリーズへ進み始めていました。
次の記事では、1948–1953|ウィレム・デ・クーニング — 抽象と人物のあいだとして、黒と白の抽象作品、《Excavation》《Woman I》を中心に、「抽象か具象か」という二者択一そのものを拒んだデ・クーニングの制作を詳しく扱います。
参考資料・出典
本ページは、美術館・研究機関が公開する作品、保存修復、展覧会、アーカイブ資料を参照してART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。原文の全文翻訳ではありません。
- Getty Conservation Institute — Jackson Pollock’s Mural
- Getty — Exploring & Conserving Jackson Pollock’s Mural
- The Museum of Modern Art — Jackson Pollock, Full Fathom Five, 1947
- The Museum of Modern Art — Jackson Pollock, Number 1A, 1948
- The Museum of Modern Art — Jackson Pollock, One: Number 31, 1950
- The Museum of Modern Art — Jackson Pollock Conservation Project: Insight into the Artist’s Process
- The Metropolitan Museum of Art — Jackson Pollock, Autumn Rhythm: Number 30, 1950
- The Metropolitan Museum of Art — Jackson Pollock, Number 28, 1950
- National Gallery of Art — The Energy and Motion of Jackson Pollock’s Number 1, 1950 (Lavender Mist)
- National Gallery of Art — Number 1, 1950 (Lavender Mist)
- The Museum of Modern Art — Jackson Pollock: Media Attention
- The Museum of Modern Art — Jackson Pollock: Chronology
- The Museum of Modern Art — The Processes and Materials of Abstract Expressionist Painting
- The Museum of Modern Art — Art Terms: Action Painting
- The Museum of Modern Art — Jackson Pollock, Echo: Number 25, 1951
- 国立西洋美術館 — ジャクソン・ポロック《ナンバー8, 1951、黒い流れ》
- Whitney Museum of American Art — Jackson Pollock, Number 18, 1951
資料確認日:2026年10月1日 / ART LIBRARY