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Art History

1946–1955

クリフォード・スティル

裂ける色面とニューヨークからの距離

クリフォード・スティル(Clyfford Still, 1904–1980)は、ジャクソン・ポロック、マーク・ロスコ、バーネット・ニューマン、ウィレム・デ・クーニングらと並んで、第一世代の抽象表現主義を代表する画家として美術史に位置づけられています。しかし、その説明だけではスティルという作家の特異さが見えません。彼の成熟した抽象は、ニューヨークで抽象表現主義という名称が定着する以前から形成されており、1946年から1950年にかけてはニューヨークではなくサンフランシスコで重要な制作と教育を行っていました。さらに1951年には、自ら作品を扱っていたBetty Parsons Galleryから撤退し、商業画廊や美術制度との距離を急速に広げていきます。

作品も、ロスコやニューマンと一括りに「カラー・フィールド」と呼ぶだけでは十分ではありません。スティルの大画面では、色面は静かな長方形でも均質な単色面でもなく、不規則な輪郭を持ちながら上下へ伸び、別の色面と噛み合い、裂け、侵入します。パレットナイフで厚く塗られた表面にはざらつきがあり、色は光の中に漂うというより、物質としてキャンバス上に張り付いているように見えます。

さらに、スティル自身は作品を風景の抽象化として説明されることにも抵抗しました。アメリカ西部で過ごした経験から、彼の鋭い形を山岳や大地の裂け目と結びつける解釈は繰り返し現れましたが、本人は「自然を描いている」のではないと主張しています。一方で、1947年の作品については「figure stands behind it all」とも語っており、彼の抽象化の根には人間の身体が残っていました。自然でも純粋形式でもないところに、スティルの絵画の複雑さがあります。

CONTENTS

  1. 1946年以前 — スティルはすでに抽象へ到達していた
  2. 《1944-N No. 1》— ニューヨーク以前の巨大な抽象
  3. 「抽象表現主義=ニューヨーク」では説明できない
  4. ロスコとの出会い
  5. 1946年、Art of This Centuryでのニューヨーク初個展
  6. 1946年 — サンフランシスコへ戻る
  7. California School of Fine Artsというもう一つの拠点
  8. 技法ではなく、画家として考えることを教える
  9. 西海岸の抽象表現主義
  10. 「figure stands behind it all」— 抽象の背後に身体がある
  11. 《1947-H No. 1》— 色面が互いに侵入する
  12. なぜ輪郭が裂けているのか
  13. 垂直性 — 人物でも風景でもない直立する形
  14. パレットナイフと厚い表面
  15. 絵具そのものを自分で作る
  16. 色は背景ではなく、互いに押し合う面になる
  17. 風景に見えるが、風景ではない
  18. 《1947–48-W No. 1》— 白と黒の巨大な対立
  19. 奥行きを消しながら、空間を失わない
  20. 形は画面の外まで続く
  21. 巨大な画面と身体の関係
  22. 1950年 — サンフランシスコを離れる
  23. 《1950-E》— 暗い色面の圧力
  24. ニューヨークへ戻っても「ニューヨーク・スクール」にならない
  25. Betty Parsons Galleryとの関係
  26. 1951年 — 商業画廊から撤退する
  27. 市場から距離を取ることも制作の一部になる
  28. 《PH-571 (1951-N)》— 色面はさらに巨大になる
  29. 1952年「15 Americans」— 美術館には条件付きで参加する
  30. 孤立した画家という神話
  31. ロスコ、ニューマンとの違い
  32. グリーンバーグによる分類との緊張
  33. 1955年頃 — 成功の中心から自ら外れる
  34. 1946–1955年に何が変わったのか
  35. スティル以後 — 色面を一つの様式にできない
  36. 次の時代へ — リー・クラスナー、反復と再構成
  37. 参考資料・出典

1946年以前 — スティルはすでに抽象へ到達していた

スティルの1946年以降を理解するには、その時点ですでに成熟した抽象絵画へかなり近づいていたことを確認する必要があります。1930年代の作品では農民や労働する人物を描いていましたが、身体は次第に引き伸ばされ、細部が削られ、人物と周囲の空間が一体化していきました。Clyfford Still Museumの資料では、この具象から抽象への移行が長期間にわたるものであり、後の抽象作品にも初期の人物や機械的な形の痕跡が残る場合があると説明されています。

したがって、スティルは戦後ニューヨークで抽象表現主義に出会って抽象画家になったわけではありません。1943年にはすでに完全な非具象に近い作品を制作し、1944年には巨大な黒い画面を色の裂け目が横切る《1944-N No. 1》へ到達しています。この早さは、ニューヨーク中心の美術史を考え直すうえでも重要です。

《1944-N No. 1》— ニューヨーク以前の巨大な抽象

《1944-N No. 1 (PH-235)》は、高さ約267センチ、幅約235センチという大画面で、黒い色面を赤、黄、白、青緑の鋭い形が縦方向へ切り裂いています。Clyfford Still Museumは、この作品をスティルが「pure abstraction」へ到達した重要な突破口の一つとして位置づけており、現在一般に想像される抽象表現主義の成熟した形式を非常に早い時期に示した作品として紹介しています。

しかも、この作品はニューヨークではなく、スティルがVirginia Commonwealth Universityの前身にあたるRichmond Professional Instituteで教えていた時期のヴァージニアで制作されました。後に抽象表現主義がニューヨークを中心に語られるようになるため、この地理的な事実は見落とされがちです。しかしスティルの成熟した抽象は、ニューヨークのグループ形成と並行して、別の場所ですでに進んでいました。

「抽象表現主義=ニューヨーク」では説明できない

抽象表現主義は「New York School」という別名を持ち、戦後ニューヨークの文化的台頭と強く結びついています。しかしスティルの経歴を見ると、この図式だけでは説明できません。彼はワシントン州、カリフォルニア、ヴァージニア、ニューヨークを移動しながら制作し、成熟した抽象の重要な段階を西海岸とヴァージニアで形成しました。

SFMOMAも、スティルの形成期が西海岸にあり、1946年から1950年までCalifornia School of Fine Artsで教えたことを重要視しています。したがって彼を「ニューヨーク・スクールの一員」と呼ぶこと自体が完全な誤りではありませんが、その名称が制作の地理や思想まで正確に表しているわけではありません。後にスティル本人がこの集団への帰属を強く拒む理由の一つも、こうした自己理解とのずれにありました。

ロスコとの出会い

Clyfford Still Museumによれば、スティルは1943年にサンフランシスコでマーク・ロスコと出会いました。二人の関係は一時期かなり親密で、ロスコはスティルの作品を高く評価し、ニューヨークの美術界へ紹介する重要な役割を果たします。1946年のスティル初のニューヨーク個展では、ロスコが展覧会カタログの序文を書きました。

後年、スティルとロスコの関係は悪化しますが、1940年代半ばには互いの制作を真剣に見ていたことが重要です。後から両者を「カラー・フィールド」の代表作家として並べるだけでなく、実際に同時代の画家として会話し、作品を見せ合い、評価し合う関係が存在していました。美術史上のカテゴリーができる前に、作家同士の具体的なネットワークがあったのです。

1946年、Art of This Centuryでのニューヨーク初個展

1946年、ペギー・グッゲンハイムはArt of This Century Galleryでスティルのニューヨーク初個展を開催しました。Clyfford Still Museumのアーカイブによれば、展覧会には12点の絵画と紙に描かれた油彩作品のポートフォリオが含まれていました。シュルレアリスムのアンドレ・ブルトンも展示作の一つに関心を示し、グッゲンハイムへ購入を勧めています。

この展覧会によってスティルはニューヨークの前衛美術界へ明確に接続します。しかし、その後ニューヨークへ定着するのではなく、同年サンフランシスコへ戻りました。ポロックがグッゲンハイムの支援を受けながらニューヨーク周辺で制作を続けたのとは違い、スティルは西海岸へ戻り、そこで次の重要な段階を作ることになります。

1946年 — サンフランシスコへ戻る

1946年、スティルはCalifornia School of Fine Artsの大学院絵画部門を率いるためサンフランシスコへ戻ります。Clyfford Still Museumによれば、彼は1950年まで4年間この学校で教え、この時期が長年続けてきた「space and figure」を一つの心理的全体へ統合する探究の頂点になりました。

これは単なる教職期間ではありません。スティル自身の成熟した作品が急速に展開すると同時に、学校そのものが戦後アメリカ美術の重要な拠点の一つになります。ニューヨークで何が起きていたかだけを追うと、同じ時期のサンフランシスコで形成された抽象絵画の環境が見えなくなります。

California School of Fine Artsというもう一つの拠点

California School of Fine Artsでは、Douglas MacAgyの改革によって、戦後の新しい芸術教育が試みられていました。Clyfford Still Museumの資料によれば、スティルのほか、David Park、Elmer Bischoff、Hassel Smith、Clay Spohn、Richard Diebenkornらが関わり、Mark RothkoやAd Reinhardtも夏期講師として招かれました。SFMOMAも、この時期の学校がアメリカの先端的な絵画をめぐる議論の重要な場所だったと位置づけています。

したがって、戦後アメリカの抽象絵画は、ニューヨークだけで独占的に形成されたわけではありません。サンフランシスコでは、ニューヨークの作家と西海岸の若い作家が教育現場で直接交差し、その後Richard DiebenkornやDavid Parkらが別の方向へ進んでいきます。この地域的な分岐は、後のBay Area Figurative Movementを考える際にも重要になります。

技法ではなく、画家として考えることを教える

Clyfford Still Museumは、当時のCalifornia School of Fine Artsの教育理念を「vision over craft, and spirit over method」と紹介しています。技法の正しさを教えるより、作家自身が何を必要としているかを見つけることを重視する教育でした。スティル自身も、学生に一つのスタイルをコピーさせることより、既成の美術観から離れることを求めました。

その影響は強く、SFMOMAはスティルが若い世代を社会的リアリズムから身振り的な抽象へ向かわせる重要な役割を果たしたと説明しています。しかしその強いカリスマ性には反発もありました。David Parkのように、一度抽象へ進んだ後でそれを捨て、人物画へ戻る作家も現れます。スティルの影響は、単なる追随だけでなく、その影響から離れる動きまで生みました。

西海岸の抽象表現主義

1940年代後半のサンフランシスコでは、SFMOMAがPollock、Motherwell、Rothkoなどの展覧会を開催し、California School of Fine ArtsではStillやRothkoが教えるなど、抽象絵画を直接見る機会が増えていました。SFMOMAはこの時期を、サンフランシスコが抽象表現主義の重要な西海岸拠点になった時期として記録しています。

しかし、それを「ニューヨークの抽象表現主義が西海岸へ輸入された」と考えるだけでは不十分です。スティル自身の成熟した抽象はニューヨーク以前から存在し、教育現場での議論も地域独自の発展を生みました。戦後アメリカ絵画を複数都市のネットワークとして見ると、ニューヨーク・スクールという言葉の便利さと限界の両方が見えてきます。

「figure stands behind it all」— 抽象の背後に身体がある

スティルの成熟作品は完全な非具象に見えますが、Metropolitan Museum of Artは1947年の《1947-H No. 1》について、スティル自身の「the figure stands behind it all」という発言を紹介しています。彼は人物の眼、腕、頭といった細部を極端に削り、「その考えだけ」を残そうとした結果、最終的に言葉で名づけられない新しい世界へ到達したと説明しています。

これはスティルの抽象を「自然の風景を抽象化したもの」と見る解釈とは異なる出発点です。初期作品で引き伸ばされた人体が、やがて巨大な垂直形へ変化したと考えることができます。人物が消えた後も、直立する身体の感覚や、生存をめぐる緊張が作品の構造へ残っている可能性があります。

《1947-H No. 1》— 色面が互いに侵入する

1947年の《1947-H No. 1 (PH-265)》は、Metがスティルの成熟した視覚言語を明確に示す作品として位置づけています。巨大な色面は幾何学的に整えられず、鋭い凹凸を持ちながら隣の色へ食い込みます。形の輪郭は「何かを囲う線」というより、二つの色が衝突した境界のように見えます。

この構造では、背景と図を簡単に分けられません。ある色が別の色の上に乗っているように見える部分もあれば、下の色が裂け目から現れているように見える部分もあります。画面は平面でありながら、色面同士の圧力によって奥行きや緊張が発生します。スティルの色面は静かに浮遊するのではなく、互いに押し合う物質的な存在です。

なぜ輪郭が裂けているのか

スティルの作品を特徴づけるのが、ギザギザした不規則な輪郭です。ロスコの色面は縁が溶けるようにぼかされ、ニューマンのzipは直線として画面を貫きます。それに対してスティルでは、色面の境界が鋭い突起と凹みを繰り返し、岩が割れた断面や引き裂かれた布のようにも見えます。

しかし、その形を自然物の描写だと決める必要はありません。SFMOMAが説明するように、スティル自身は作品を具体的な風景と結びつける解釈を強く否定しました。重要なのは、輪郭が規則的な形を作らず、色面を安定した図形として固定しないことです。境界が不規則であるため、色面は静止せず、互いに膨張し、侵入し、後退しているように感じられます。

垂直性 — 人物でも風景でもない直立する形

スティルの大画面には、しばしば強い垂直性があります。色面や細い裂け目が上から下へ走り、画面自体も縦長であることが多く、鑑賞者の身体と同じ方向へ伸びています。この垂直性は、初期の細長く引き伸ばされた人物像との連続としても読むことができます。

同時に、大地から空へ伸びる崖や亀裂のようにも見えるため、西部の風景との関連が繰り返し指摘されてきました。どちらか一つに確定できないことが重要です。スティルは人物や風景を描写することなく、直立、伸長、圧力、断裂といった身体的・空間的な感覚だけを残しています。

パレットナイフと厚い表面

SFMOMAによれば、スティルは筆だけでなくパレットナイフを多用し、絵具を厚く塗り重ねて粗くざらついた表面を作りました。この物質感は、ロスコの薄い透明層とは対照的です。ロスコでは色面の境界が光の中へ溶けるように感じられますが、スティルでは絵具の厚みそのものが色面の存在感を支えています。

パレットナイフで絵具を引き延ばすと、表面には刃の跡が残り、絵具の盛り上がりと薄い部分が同じ面の中にできます。そのため、単色に見える大きな領域でも光の当たり方によって微妙に変化します。スティルにとって「色面」は均質に塗りつぶされた面ではなく、制作行為によって削られ、押し広げられた物質的な表面でした。

絵具そのものを自分で作る

SFMOMAは、スティルが当時の多くの画家とは異なり、自分で顔料を調合し、絵具を準備していたことを記録しています。これは単なる職人的なこだわりではありません。色の濃度、粘度、艶、乾燥状態を自分で調整できるため、パレットナイフによる独特の表面と密接に関係します。

後の抽象表現主義を「身体のジェスチャー」として見ると、材料準備のような時間のかかる作業は見落とされやすくなります。しかしスティルでは、制作はキャンバス上の一瞬の筆触だけではありません。絵具を作るところから、どの程度厚く伸ばすかまで含めて、物質を自分の統制下へ置こうとする姿勢がありました。

色は背景ではなく、互いに押し合う面になる

スティルの作品では、黒、赤、黄、白などの色は何かを塗るための属性ではなく、それぞれが大きな面としてキャンバスを占有します。色面同士が重なり、互いの縁を削り取るように接触することで、色そのものが力を持った存在になります。

ただし、それを色彩の美しさだけで見るのも不十分です。Metは《1950-E》について、暗い色面が鑑賞者に畏怖や不安を生む可能性を指摘しています。スティル自身も作品を「life and death」が恐ろしい結合をするものとして語りました。色彩は調和を作るためだけではなく、緊張や圧力を生むために使われています。

風景に見えるが、風景ではない

スティルの鋭い垂直形や広い色面は、山岳、平原、峡谷、炎などアメリカ西部の自然を連想させることがあります。Metも《1947–48-W No. 1》について、そのような風景的解釈が存在することを紹介しています。一方、SFMOMAはスティル自身がこうした直接的な自然との結びつきを否定し、「I paint only myself, not nature」と主張したことを記録しています。

ここでは、作家の否定と鑑賞者の連想の両方を残しておく必要があります。作品が風景に見えることは事実でも、それを「西部の自然を抽象化した絵」と断定すると、スティル自身が追究した心理的・身体的な問題を狭めます。色面が風景を想起させながら、それを特定の場所へ固定できないこと自体が作品の特徴でもあります。

《1947–48-W No. 1》— 白と黒の巨大な対立

Met所蔵の《1947–48-W No. 1》では、巨大な白と黒の領域を、赤、黄、青の鋭い色が部分的に切り裂いています。画面全体は非常に大きく、白と黒が背景と図として安定せず、互いに押し込んだり後退したりするように見えます。鮮やかな色は面積としては小さいものの、その強さによって画面全体の均衡を変えています。

この作品を見ると、スティルの色面絵画が「広い一色の場」を作るだけではないことが明確です。むしろ大きな面積とごく小さな色の断片を衝突させ、面積と視覚的な強度が一致しない状態を作ります。少量の黄色や赤が、広大な黒や白と同じほど強く見える。その不均衡が画面の緊張を維持しています。

奥行きを消しながら、空間を失わない

スティルの成熟作では、遠近法による奥行きや、物体を置くための背景空間はほとんどありません。色面はキャンバスの表面に沿って広がり、画面の平面性が強く意識されます。しかし、完全に平坦に見えるわけでもありません。ある色が別の色の下から覗き、重なりや輪郭の違いによって浅い前後関係が生まれます。

つまりスティルは、奥行きを描写しないことと、空間をなくすことを同じにしませんでした。色面が互いに押し合い、裂け目から別の色が現れることで、キャンバスの数ミリの厚みの中に圧縮されたような空間が生まれます。この浅い空間は、ロスコのぼやけた色面やニューマンのzipが作る空間とも異なります。

形は画面の外まで続く

スティルの色面は、しばしばキャンバスの端で唐突に切れます。不規則な形の全体が画面内に収まるのではなく、一部分だけが見えているように感じられます。そのため、画面の外側にも同じ色面が続いているかのような感覚が生まれます。

これはポロックのオールオーバー構成と共通する面がありますが、方法は全く違います。ポロックでは線のネットワークが四辺を越えて連続するように見えるのに対し、スティルでは巨大な色の塊そのものが画面によって切り取られています。キャンバスは世界を囲う窓ではなく、より大きな場の一部を切断する境界のようになります。

巨大な画面と身体の関係

スティルは1940年代半ばから非常に大きなキャンバスを使用していました。《1944-N No. 1》の時点ですでに高さ2.6メートルを超えており、ポロックの代表的なドリップ作品やニューマンの巨大色面より早く、鑑賞者の身体を越えるスケールに取り組んでいます。

大画面では、色面を小さな図形として一目で把握することが難しくなります。近づけば黒や赤の領域が視界を占め、輪郭の一部分しか見えません。スティルの荒れた表面と巨大なスケールが組み合わさることで、絵画は遠くから眺める構成ではなく、身体の前に立ちはだかる物理的な存在になります。

1950年 — サンフランシスコを離れる

1950年、スティルはCalifornia School of Fine Artsを辞職し、ニューヨークへ戻りました。1946年から4年間にわたる教育期間は終わりますが、その時点で彼の成熟した視覚言語はほぼ成立していました。SFMOMAは、このサンフランシスコ時代をスティルが若い作家に強い影響を与えた時期であると同時に、自身の絵画を決定的に発展させた時期として位置づけています。

この移動を「地方から美術の中心ニューヨークへ進出した」と見るのは適切ではありません。スティルはすでにニューヨークで個展を経験しており、むしろ西海岸で制作を深めた後に戻ったことになります。そしてニューヨークへ戻った直後から、彼はその都市の商業的・制度的な美術界との関係に強い不満を持つようになります。

《1950-E》— 暗い色面の圧力

Met所蔵の《1950-E》は、高さ約232センチの縦長の作品です。暗い黒や茶系の領域が大部分を占め、色面は互いに重なりながら上方へ伸びています。Metはこの作品について、黒い広がりが光を遮断する雲のような圧力を持ち、鑑賞者に畏怖や不安を生じさせる可能性を説明しています。

スティル自身は、こうした作品を通常の意味での「絵」として扱うことさえ拒むような言葉を残しました。形を説明し、構図を整え、心地よい色彩関係を作るのではなく、生と死の緊張のような大きな存在的問題を直接画面へ置こうとしていました。この壮大な自己理解は、後に彼が美術市場や批評家と衝突する背景にもなります。

ニューヨークへ戻っても「ニューヨーク・スクール」にならない

スティルは1950年代の多くをニューヨークで過ごしました。しかしSFMOMAが明記するように、彼は自分が「New York School of Abstract Expressionism」に属すると考えることを拒みました。作品の独自性だけでなく、集団名そのものが個々の画家の違いを消し、批評や市場が扱いやすいブランドへ変えてしまうことを警戒していました。

もちろん実際には、ロスコ、ニューマン、ポロックらと交流し、同じギャラリーで作品を扱われ、同じ展覧会や抗議活動にも参加しています。したがって「完全に孤立した画家」だったわけでもありません。重要なのは、共同体の中にいながら、その共同体を一つの様式や市場カテゴリーとして固定することを強く拒んだ点です。

Betty Parsons Galleryとの関係

1947年にPeggy GuggenheimがArt of This Centuryを閉じた後、Betty Parsons Galleryはポロック、ロスコ、ニューマン、スティルらの重要な展示場所になりました。Clyfford Still Museumは、この画廊を抽象表現主義を世に出す主要な拠点の一つとして位置づけています。スティルもParsonsのもとで作品を発表し、同世代の画家と同じ市場・批評ネットワークに入りました。

しかし、スティルにとってギャラリーは単純な支援者ではありませんでした。作品が作家の意図から切り離され、価格、評判、流行によって扱われることへの不信が次第に強くなります。1951年、この緊張は決定的になります。

1951年 — 商業画廊から撤退する

Clyfford Still Museumによれば、スティルは1951年にBetty Parsons Galleryから自作を引き上げました。理由として、美術市場が作品そのものより作家の名声と価格を優先するようになったことへの拒否が挙げられています。この決断以後、彼は商業画廊との関係を大幅に縮小し、自作の販売や展示を強く管理するようになります。

これは単なる性格上の衝突として片づけるべきではありません。スティルにとって、自分の作品がどのような文脈で見られるかは作品そのものと切り離せない問題でした。別の作家と比較され、市場価値によって序列化されることを拒み、作品を自分が望む条件で提示しようとします。制作の独立性を守るために、流通そのものを制限したのです。

市場から距離を取ることも制作の一部になる

画家がギャラリーから離れると、通常は作品を見てもらう機会も販売する機会も減ります。スティルはその不利益を受け入れてでも、自分の作品の扱いを制御しようとしました。後年には美術館へ作品を寄贈する際にも厳しい条件を設け、自分の作品群がまとまった形で見られることを重視します。

ここには「作品を作れば、あとは市場と美術館へ任せる」という役割分担への拒否があります。何を制作するかだけでなく、誰が所有し、どこで展示し、何と並べて見るかまで作家の問題だと考えました。この姿勢はニューマンやロスコの展示空間への関心とは別の形で、作品の意味をキャンバスの外へ拡張しています。

《PH-571 (1951-N)》— 色面はさらに巨大になる

National Gallery of Art所蔵の《PH-571 (1951-N)》は、高さ約235センチ、幅約176センチの作品です。赤褐色とブロンズ色の厚い層が画面の大部分を占め、その中を鮮やかな赤い形が縦方向へ伸び、上部には黄色の細い閃光のような色が現れます。ごく小さな青も画面の端に存在し、少ない面積の色が巨大な暗色面に強く対抗しています。

この作品でも、一つの形を中心に構図を読むことは難しくなっています。赤い形は画面内部で完結せず、上下へ続く力を感じさせます。暗い色は背景として後退せず、表面の厚みとともに前へ迫ります。ロスコの色面が浮遊するように見えるのに対し、スティルでは色そのものが物質的な壁として鑑賞者へ押し出されます。

1952年「15 Americans」— 美術館には条件付きで参加する

1951年に商業画廊から撤退した翌年、スティルはMoMAのDorothy C. Millerが企画した「15 Americans」に参加しました。一見すると、美術界から距離を取る姿勢と矛盾しているように見えます。しかしClyfford Still Museumによれば、スティルが参加を受け入れたのは、自作を他の作家と混在させず、一つの独立したギャラリーでまとまって展示するという条件をMillerが受け入れたためでした。

この出来事は、スティルが美術館そのものを全面的に拒絶していたわけではないことを示します。彼が拒んだのは、自分の作品が文脈を失い、別の作品との比較や市場的な序列の中へ組み込まれることでした。自作が自分の条件に近い形で提示されるなら、公共的な展覧会への参加は可能だったのです。

孤立した画家という神話

スティルは後年、自分を他の抽象表現主義者から切り離すような発言を多く残したため、完全に孤立した孤高の画家として語られることがあります。しかしClyfford Still Museumの近年の展覧会「Dialogue and Defiance」は、その単純なイメージを修正しています。1940年代後半から1950年代初頭のスティルは、ロスコ、ニューマン、Parsons、Millerらと継続的に交流し、同時代の美術について議論していました。

つまり、彼は共同体そのものを拒んだのではなく、自分の作品が共同体の名称によって説明されることを拒んだと考えた方がよいでしょう。「抽象表現主義」という歴史的カテゴリーの内部に実際に参加しながら、それを一つの運動として固定することには抵抗する。この矛盾した位置がスティルを非常に興味深い存在にしています。

ロスコ、ニューマンとの違い

ロスコ、ニューマン、スティルは後にColor Field Paintingの中心作家としてまとめられます。しかし三人の画面を並べると、その違いは大きいことが分かります。ロスコは矩形の縁をぼかし、色が背景から浮いたり溶けたりする空間を作ります。ニューマンは広い色面を直線的なzipによって切り分けながら接続します。スティルでは、不規則な色面が互いに噛み合い、裂け、侵入します。

表面も異なります。ロスコは薄い層を重ねて発光するような色を作り、ニューマンは比較的均質な面と明確な垂直帯を使います。スティルはパレットナイフで厚くざらついた表面を作り、色の物質性を強く残します。「広い色面」という共通点だけでは、この三者が絵画で何をしていたかを説明できません。

グリーンバーグによる分類との緊張

クレメント・グリーンバーグを中心とする戦後アメリカの批評では、絵画の平面性、色面、媒体固有性が重要な価値として語られるようになります。スティルの巨大な非具象画は、その歴史の中で非常に重要な作品として位置づけられました。しかし、スティル自身の言葉は、作品を形式的な平面性だけへ還元することに抵抗します。

彼は絵画を自身の心理的な状態や、生と死、存在の問題と結びつけ、単なる形式的発展として扱いませんでした。また批評家が作家を一つの歴史的序列へ整理する権威そのものにも強い不信を持っていました。後に独立して扱うクレメント・グリーンバーグの記事では、この「作品を歴史化する批評」と「歴史化されることを拒む作家」の緊張も重要な問題になります。

1955年頃 — 成功の中心から自ら外れる

1950年代半ばまでに、抽象表現主義はアメリカの新しい美術として広く認識され始めます。ポロックやデ・クーニングは雑誌や展覧会で注目され、ロスコやニューマンも徐々に評価を高めていました。しかしスティルは、まさにその成功の時期に商業画廊から離れ、自分の作品へのアクセスを制限していきます。

これは、成功できなかったため美術界から退出したという単純な物語ではありません。1946年にはすでにニューヨークで個展を開き、Parsons Galleryでも作品を扱われ、1952年にはMoMAの重要展へ参加していました。その立場から自ら距離を取ったことに、スティルの特殊性があります。1950年代後半以降、その選択は作品の流通と評価のあり方そのものへ長期的な影響を与えます。

1946–1955年に何が変わったのか

この時期のスティルを追うと、二つの変化が同時に見えてきます。一つは絵画そのものです。初期の人物像から抽象化された垂直形は、巨大なギザギザの色面へ発展し、背景と図、平面と奥行き、人物と風景の区別を不安定にしました。パレットナイフによる厚い表面と巨大なスケールによって、色は視覚的な効果だけでなく物理的な存在になります。

もう一つは、美術界との関係です。1946年にはArt of This Centuryで個展を開き、Parsons Galleryへ入り、同世代の画家と密接に交流しながら、1951年には商業画廊から撤退します。作品を一つの「運動」や市場価値へ回収されることを拒み、自分の作品をどの条件で見せるかまで制御しようとしました。絵画の自律性と作家自身の自律性が、スティルにとってほとんど同じ問題になっていきます。

スティル以後 — 色面を一つの様式にできない

スティル、ロスコ、ニューマンを個別に見てきたことで、「Color Field」という名称の内部に大きな差があることが分かります。色面は、ロスコでは浮遊し、ニューマンではzipによって分割・接続され、スティルでは不規則に裂けて互いへ侵入します。共通するのは大きな色の領域を使うことですが、その色面が担う空間、身体、物質、意味はそれぞれ異なります。

この違いを残したまま次の時代へ進むことが重要です。1950年代になると、色を支持体へ染み込ませるフランケンサーラー、さらにモーリス・ルイスやケネス・ノーランドが別の方法を展開します。一方、リー・クラスナーやジョアン・ミッチェルは身体的な筆触を別の方向へ継続します。同じ抽象絵画の内部でも、すでに複数の歴史が並行して動き始めています。

次の時代へ — リー・クラスナー、反復と再構成

ここまでポロック、デ・クーニング、ロスコ、ニューマン、スティルと、後に抽象表現主義の中心とされた作家を一人ずつ見てきました。しかし、この歴史を男性画家だけで構成すると、同時代の制作環境そのものを誤って捉えることになります。リー・クラスナーは1930年代からニューヨークで活動し、1940年代後半には「Little Images」を制作し、その後、自作のドローイングや絵画を切断して新しい画面へ再構成する方法へ進みました。

次の記事では、1948–1956|リー・クラスナー — 反復、切断、再構成として、ポロックとの関係だけに還元せず、クラスナー自身がどのように自作を壊し、過去の制作を材料として次の絵画へ進んだのかを詳しく扱います。その後、ジョアン・ミッチェル、フランケンサーラーへ進みながら、同じ1950年代にラウシェンバーグやジョーンズという別方向の絵画が同時に始まっていたことも時系列の中へ入れていきます。

参考資料・出典

本ページは、美術館、作家美術館、研究機関が公開する作品、展覧会、アーカイブ資料を参照してART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。原文の全文翻訳ではありません。

資料確認日:2026年10月1日 / ART LIBRARY